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東方に座す  作者: 延珠
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東の環姫に、東の蟲を

「な……、なにを申す」


 東の国主が咄嗟とっさに立ち上がったのも無理はない。


 先ほど、愛し子の名を誇らしげに告げたその口で、女は同じような弾んだ声で信じられないことばを紡いだのだ。


「せっかくですから、ご自分でいかがですか。胸を突かれたときの美しい畜生の顔は、それはそれは趣き深いものと聞き及んでおります」


 郁金香いくきんこうが、扉まで下がっているふたりを一瞥すると、白い肌の男が恭しく飾り太刀を捧げ持つ。


 ひやり。国主の指先が震える。


「な、なぜ殺さねばならぬ。持ち帰り、ほ、他の……誰ぞ他の者にやっては……」


 在世百年といっても、まだまだ若々しい青年王である。うっかり己が漏らした発言の矛盾に気づかない。


 延珠亭、妖怪とも噂される女店主はぺろりと赤い舌で唇を舐めた。


「あら笑止! 陛下ご自身がそれを禁じていらっしゃるのではなくて?」


 東の国における環姫の実情を知りながら、しゃあしゃあと笑う。しかしすぐに真面目な顔になって、その変化に国主もはっと体を強張らせた。


「陛下は環姫のことをなにもご存じないようですから、しかたがないのかも知れませんが……」


 そう言って、小さく嘆息する。


「環姫とは、たった一人の主人のために存在する者でございます。陛下は『環姫の売買』を禁じられておりますが、あくまでも私どもの専売。一度お買い上げになった環姫を他の御仁に売り渡すことなどできませんのよ」


 そんなことをされたら、環姫は己の命を絶つことでしょう。ですから、と女は東の国主に宝石を散りばめた太刀を差し出した。


「そ、そなたは……」


 狼狽し、国主は刀の先に静かに座る環姫を見やった。


 艶やかな黒髪に、同じく黒曜石の瞳、肌は白絹よりもさらに白く、ふっくらとした唇は紅を差したかのようで、あまりに現実離れした生き物がちょこんと小さく座っている。


 国主と目が合うと、無邪気に歯を見せた。


 ……まだ、子どもではないか。


「我の認識の浅さはわかった。しかし、ならばなぜ環姫を売りに来る? 我は注文なぞしておらぬ。ならばそれは我の環姫ではないはずだ」


 忌々しそうに太刀を見やり、さり気なく女と環姫の間に立つと、思いがけなく深々と礼をされた。


「さすがは陛下。お話が早うございます。お察しのとおり、この環姫は他の御方が所望された者。ですが、納品ができなくなってしまったのですわ」


「なぜだ」


「その方が、お亡くなりになってしまったからです。陛下、陛下が先の事件で成敗された十四市子息、疾風はやてさまがお受け取りになるはずだったのです」


「……」


 その名を聞いて国主の目が暗く沈む。


 東の国に市あり、その数十四。まさか市長の息子が国主の座を廃すため動くとは思いもよらなかった。動揺も伴って、処置に少し度が過ぎたという自覚はある。惨劇がまだ瞼の奥に張りついているかのようだ。


「幸い、まだ顔合わせが成る前でした。しかしながら、元々、他の方のためにつくられた環姫をおいそれと譲るわけにはいきません。ご責任を取って、お引取りくださいますわね!」


 ぴしゃり、と女は言い結ぶ。


 国主はなにか口にしようかと開きかけ、結局無言のまま太刀を手にとり、


「……」


 部屋の隅に投げ捨てた。


 と、そこに上衣を引っ張る者がいる。


 国主が視線を追うと、いつの間に立ち上がったのか、環姫が小さな手を伸ばしていた。


「は、はじめ、ま、して」


 はにかむ顔は、存外に可愛らしい。東の国主は思わず天を仰いでいた。




 本日はもう会議どころではないと悟ったのか、一旦散会させたのちに国主は中庭に場を移していた。


 春の草花が咲き、涼やかな風が舞う美しい庭園、その中央にある屋根が反り返る東屋の下に腰を落ち着ける。


「まあ、なんて強情な国主さまでしょう! と、あら失礼。ほほほ」


 珍しいのか、ぎこちない足取りで花のにおいを嗅いだり蝶を追いかけたりしている環姫を横目で見やりながら、国主はまだ納得していなかった。


「まだ、子どもではないか」


「では、あのいたいけな子がどこぞの変態爺にもらわれてもよろしいとおっしゃるのですか」


「へ、へんた……」


 絶句し、女を凝視したまま時が止まったところへお決まりのように環姫が転ぶ。


 慌てて目を向けると、


「う……あ……ん」


 見る見るうちに涙が大きな瞳に溜まっていくものの、我慢しているのか泣き出しはしない。およそ保護欲を掻きたてられる存在であることは否めない。


「た、助けぬのか」


 ちらりとも視線を動かさない女に聞くと、あっさりと「あの子はもう陛下のものですから」と言い切られる。


 はあ、とため息をついて、どうもうまいようにあしらわれている感が拭えないが国主は倒れたままの子どもを抱き起こしに腰を上げた。


「おい」


 声をかけると、ぱちぱちと瞼を上下させて嬉しそうに見上げてくる。


 ぞんざいに呼び捨てた己が恥ずかしくなるくらいの澄んだ笑顔が眩しい。名を呼んでやるべきだろうか。確か、そう、名は……、


山茱萸さんしゅゆ。サンシュユ……」


「はい」


 両脇に手を入れて持ち上げた体は、思ったよりもずっと軽かった。


 白い手でぎゅっと腕を掴まれるのは嫌じゃない。いや、むしろ心地よい。


 だが、そのことはわざと忘れることにする。


「わざわざ足労だったが、やはり連れ帰ってはくれまいか。我より良い主はいるはずだ。東で探すのは、遠慮願うが」


 優雅に茶を啜っていた女が、国主のことばを聞いた瞬間に豹変した。


 ゆっくりと湯飲みを置いたまではよかったが、喉の奥から鳴るような音がだんだんと大きくなっていくのに気づく。


 女が、気が触れたように笑い出したのだ。無意識に足が一歩下がる。


「ほーほっほほほ……ふ、ふふふ。へ、陛下……まあ、なんて、ほんとうに強情と申しますか……このうつけ」


「な……?」


 ここに来て、彼は今度こそことばを失った。まさか一国の主にそんな口を叩く者がいると思うだろうか。


「冗談ではありません! いくら東の国主さまといえども許し難き暴言! この子は、春の、東の、わたくしの元で育てた環姫にございます。東の風俗、東の気候に合うように品種改良を重ねた最上級のむしを入れた環姫を、ほ、他の国の方に渡すなどわたくしの矜持が許しませぬ! ならば殺す方がよっぽど、ええ、ましですとも! 殺せばよいのでしょう!」


「わ、わかっ……た」


 ぎらぎらと目を血走らせた女の迫力に、国主はついに屈した。


「すまぬ」


 一陣の風が吹き、乾いた砂がさっと足元を舞う。


 ある春の午後、東の国主の腕の中に、環姫がひとり眠っている。

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