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東方に座す  作者: 延珠
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東に名を持たぬ王あり

Yahoo!ジオシティーズからのお引っ越しです。

「国主におかれましては、たいへん御運が強くていらっしゃいます。これほど素晴らしい環姫わきは他を探してもございませんことよ」


「なんだと?」


 東の国主こくしゅは耳を疑った。


 午後の会議中に無作法にも乗り込んできた中立市の女。王族といえども、中立市の紋章を刻んだ黄牌こうはいを掲げた者を蔑ろにはできない。


 しかし、彼がこの世で最も憎むべき商人は、厚顔を隠さず堂々と言い放ったものだ。


 すうっと目の奥から冷たい血が流れていく心地を感じながら、


「環姫、と言ったか」


 硬質な声でつぶやいた。


「ええ」


 女は延珠亭えんじゅていの者と名乗った。環姫を商品として扱う彼女らに、元より用はない。ならば何の用かと部屋に通したのが間違いだった。


「あいにく、注文はしていない」


 そんなことは、物心つかない子どもでもない限り、皆知っているはずだ。そうして国主に向かって環姫の二字を口にする愚か者は東の国にはおらぬ。


 話は終わり、とでも言い放つかのように主は手元の資料に手を伸ばして二度と女を見ようとはしなかった。


「もちろんです」


 しかし、女はやけに楽しそうに笑う。


 いらいらして、震える手のひらから紙を落とす。拍子に、湯呑みが倒れて香ばしい緑茶が机いっぱいに広がってしまった。


 重要な書類が茶にまみれていくのを眺め、とうとう国主は息をついた。


 顎を上げて、作られたような絶世の美貌に目を向ける。


「ならば、何用か」


「買い取ってほしい環姫がおりますの」


「はっ」


 さすがに、驚いた。いや、呆れた。


 まさか店主自らが訴えに来るとは思わなかったのだ。




 彼が国主の座に就いてからそろそろ百年をも数えようというこの間、東の国では環姫の売買を禁じている。


 前国主は環姫に執心することで有名で、死の間際まで后を顧みなかった。


 いったい、后が狂っているから国主は環姫を求めたのか、国主が環姫を求めたから后が狂ったのか、真相は闇の中、今となっては誰も知り得ることはできない。


 すべての歪みは子どもの身に降りかかった。


 精神を病んだ母后から虐待を受けぬ日はなかったが、国主は母を恨んでなどいない。血で視界を半分ぼやけさせながらも、可哀想な女だ、と冷静に母親を分析していた。


 母は女としても、母としても、一国の后としても、短い生涯で正気を保ったことは少なく、幸せを感じたことがあったかどうかも疑問だった。


 かと言って、環姫を恨んでいるかと言えば、それも否。


 痣だらけで中庭に転がっている彼に水桃を差し出して頬を冷やしてくれた、優しい環姫。そう、福寿ふくじゅと言った。彼女は若かった。あんなに早く逝くはずではなかった。しかし、父が死んで、彼女も追うように息を引き取った。


 環姫だからだ。環姫は主とともに生き、主とともに滅ぶ。


 そんな存在は、果たして世に適しているか? 必要か?


 父が屍になっても、母が壊れて動かなくなっても、彼は泣かなかった。


 福寿がうっすらと微笑みすら浮かべて永遠の眠りについても、涙は流れない。




 名を授からずに育った国主に、失うものなどなにもなかったのだ。




「そなたたちの商売を妨害しているのは悪く思う。しかし、これを機に環姫を扱うのはいっそめにしてはどうか」


 東の民に対しては、中立市延珠亭への出入りを禁じていた。思えば今回の訴えはむしろ遅すぎるほどだった。


 国主がそう言うと、女はおかしそうに笑った。


「ほっほほほ……。ご心配ありがとうございます、陛下。ご期待に添えず申し訳ございませんが、私どもの商売は至極好調。以前よりもずっと盛況にございますわ」


「な、なんと?」


「随分、身勝手な令をお出しになられたようでございますけれど、名実ともに独りよがり、と申しましょうか。あら、これは失礼。失言でしたわ」


「……」


 国主は絶句した。


 環姫を禁じたつもりが、皮肉にもそれはまったく効果がないばかりか逆に需要が上がったというのだから。


 ぎりり、と奥歯を噛み締めながら、部屋に座る重鎮たちを見やる。ある者は気の毒そうに、ある者はわざとらしく咳き込む。……どうやら知らぬは己のみ、ということらしかった。


「……」


 悔しさに、目の前が真っ赤に染まる思いがする。


「……だが、我は環姫など要らぬ」


 地の底から這い上がるかのごとき声に一同は震え上がったが、延珠亭、東の店主は身じろぎもしない。


 凍りついた場が崩れたのは、女が手を揺らしたからだ。


 手を胸の位置まで上げると、絹の袖がするすると肘まで滑っていく。白い手首に巻きついた鈴の音が涼やかに響いた。ずっと装着していたはずなのだが、不思議と鳴ったのはそのときだけだった。


 白い肌と黒い肌の男が、ふたりがかりで漆の大盤を抱えてくる。驚くほど繊細な刺繍の施された薄布が惜しげもなく何重とかけられており、ちらりとも見えないが、しかし中央に人間が座っているのは疑うべくもない。


 止める間もなかった。


 ことばを喉で詰まらせる国主に向かってきっちりと礼をとると、男たちはゆっくり退き、今度は彼らのあるじに頭を下げた。


 女の笑みは更に深くなり、視線が絡まったとき、神の化身でもある主は不覚にも背に汗をかいていた。


山茱萸さんしゅゆと申します」


 声も高らかに、この厳しい部屋にまったく似合わない存在が布の幕から姿を現した。


 国主は暫時、瞬きを忘れる。


「環姫とは、これほど見目麗しいものなのか」


 福寿も美しい女だった。


 しかし、これは別物だ。


「なべて美しくはございますが、この子は特別ですわ」


 郁金香いくきんこうと名乗った女は、環姫をいとおしげに見つめながら、声質も変えずに言い捨てた。


「では、さっそく殺しましょうか」

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