鍵
高校最後の夏休みに入って5日目。
朝9時前、僕は駅からの緩やかな坂道を急ぎ足で歩いていた。
今日はどうしても席を確保しなければ・・・。
夏休みの図書館の学習室はクーラーの効いた快適な環境だ。
朝9時半の開館から席は直ぐに埋まってしまう。
家にクーラーが無い訳でもないが
気分転換にネットを開けばあっという間に小1時間。
傍らの小説でも読み始めれば
気づけばベットに寝転がっていてもう夕方。
・・・なんてことも。
要するに意思薄弱なのだ。
一応受験生だしこんな事じゃいかんと
図書館に向かっているところだ。(←イマココ)
それにしても暑い。
9時前なのに優に30℃は超えているだろう。
みんな自転車などで行ってるのだろうか?
僕の他に歩いている人もいない。
図書館内は飲食禁止だ。
途中で飲み物でも買って学習室に入る前に水分補給が必要だ。
タイミングよく前方に自販機発見!
出費は痛いが喉の渇きには代えられない。
僕は参考書など入ったリュックの中の財布を探りながら
道路脇の自販機に近づいた。
自販機前で僕は何を買うか30秒程迷った。
優柔不断な僕はこういう場面にも時間がかかる。
コーヒーは苦手だし
これから受験勉強というところで炭酸飲料もちょっと変かな。
結局、消去法で普通の冷たいお茶になった。
学習室に入る前に飲もうと思って買ったのに
買ったら余計に喉が渇いた気がした。
僕は自販機横のアパートの駐車場のスペースで
ペットボトルの蓋を開けて一口飲んだ。
やっぱり意志薄弱だ(笑)
3分くらい寄り道してしまった。
さあ、図書室に向かおうと一歩踏み出した時にそれが目に入った。
僕の足元に黄色いモノ。
よく見ると黄色いアヒルのキーホルダーだった。
その先に鍵がついている。
部屋の鍵だろうか?
あたりを見廻したが人はいない。
落とし物か・・・。
ここはアパート前の駐車スペース。
アパートの住民のモノなのか?
目の前のアパートは鉄骨二階建て。
1階に二部屋、2階に二部屋ってところか。
古くもないがクリーム色の外壁は少しくすんでいて
新築という訳でもない。
アパートに近づくとこの鍵の持ち主の見当が直ぐについた。
1階左の部屋のドアに101号と言う木製風プレートがぶら下がっていた。
部屋番号の横にアヒルのシールが貼ってある。
たぶんここだ!
僕は暫く迷ったがチャイムを鳴らしてみることにした。
二度、三度と鳴らしたが反応はない。
当たり前と言えば当たり前だ。
この部屋の鍵は今ここにあるのだから
住民が中にいる可能性は限りなく低い。
困ったな・・・。
隣の部屋のチャイムを鳴らしてみようか?
管理会社に連絡してもらえるかも。
102号室のチャイムも鳴らしてみた。
やはり、こちらも不在みたいだ。
もう郵便受けに投げ込んでおこうか?
いや、そうしたら住民が帰ってきて鍵がないと気づいても
郵便受けの中を覗き込まない限り鍵の存在に気づかないだろう。
じゃあ、鍵は郵便受けの中に入ってますって張り紙したら・・・。
いや、そもそも郵便受けの下に落ちた鍵に手が届かないだろう。
困ったな。本当にどうしたら・・・。
10分程悩んで、結局駅前の交番に戻って届けることにした。
悩んだというより、上の階の誰かでもいいから
アパートから出てこないかなと僅かな希望にかけていたと言うか・・・。
まあ他力本願はそう叶うハズもなく・・・。
交番に届けたことを101号の住民に知らせたほうが良いだろうか?
帰った時に鍵がないのに気づいたら動揺するだろう。
僕はリュックの中のバインダーからルーズリーフを1枚取り出すと
『鍵を拾いました。駅前の交番に届けておきます』と書いた。
そして二つ折にして
郵便受けの中に落ちないよう半分程はみ出すように慎重に挟んだ。
そこまでしてから、ん?と気づいた。
本当にこの部屋の鍵なのだろうか? と・・・。
間違っていたら意味不明な手紙が郵便受けに入っていたことになる。
ここで僕の悪い癖がでた。
いつもは石橋を叩いて渡る性格なのに、時々大胆不敵になる。
僕は鍵穴に鍵を差し込んで、鍵がこの部屋のモノか確かめることにした。
鍵は鍵穴にすんなりと入った。
鍵を右に回す。
「カチャっ」と音がした。
やっぱりこの部屋の鍵だ!
僕は鍵を逆に回して施錠しようとした。
だがドアの立て付けが悪いのか
あるいは緊張して僕がレバーを押し下げてしまったのか
すぅーっとドアが3センチくらい開いてしまった!
慌てて押し戻して鍵をかけた。
ドアを閉めた時
部屋の中からちょっといい香りの空気が押し出されたような気がした・・・。
やばい。
もう少しで住居不法侵入になるところだった・・・。
いや、玄関内には1ミリも入ってないから不法侵入ではないかな?
まあ落とし物を届ける目的で訪ねた訳で・・・
など一人で言い訳しながら、少し不安になった。
少し考えてから、僕は郵便受けに差し込んだルーズリーフの紙を引き抜くと
『鍵を拾いました。駅前の交番に届けておきます』と前に書いた文章の後に
『上弦東彦 haruhiko_jougen@×××××.co.jp』と書き足した。
ドアを開けたことは知られないと思いながらも
自分は悪いことはしていません、堂々と名前名乗りますという自分なりの防御だ。
今度も二つ折にして
郵便受けの中に落ちないように半分程はみ出すように慎重に挟んだ。
交番に行ったら色々聞かれた。
拾った場所とか拾った経緯とか。
一応アパートの該当すると思われる住民にメモを残しておいたことも伝えた。
受け付けた警察官は特に感心した様子もなく
僕に『落とし物記入表』という書類を見せると説明しながら記入を促した。
僕の住所、氏名、電話番号を書く欄があった。
アパートに残したメモに名前も書く必要もなかったのだとここで気づいた。
さらには
『①警察署長が遺失者(落としものの持ち主)に対してあなたの氏名
又は名称及び住所又は所在を告知することについて』
『□同意します □同意しません』
などの項目があった。
僕は 同意しませんにチェックをつけた。
(氏名やメアドはもう教えてしまったけど)
『※同意されない場合は、落とした方に費用を請求したり
報労金を受け取る事ができなくなります』
とあった。
続けて
『②落とし物に関する権利について』
とあり
『一切の権利を放棄します』にチェックした。
『持ち主の方へ落とし物を返還する場合
「持ち主に返す」ことについて警察からの連絡が必
□連絡が必要です □連絡は不要です』
は迷わず『連絡は不要です』にチェック。
なんかやたらとややこしい。
すべての手続きが終わると今度は
『拾得物件預り書』という『上記の物件預りました』という
警察署長のハンコがある重々しい控えを渡されてやっと解放された。
交番に行ってからなんやかんやで30分以上経過。
10時半もとっくに過ぎていて
今から図書館に向かってもどうせ席は空いていないだろう。
どっと疲れも出た。
さっきのアパートまで坂道を上る気力もなく僕は駅に戻ることにした。
鍵を拾ったアパートの前の自販機で買ったお茶はもう生ぬるくなっていた。