うらなり(500文字)
私の昔の知り合いに夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する“うらなり”のご子息夫人がおりました。
うらなりこと中堀貞五郎は、正岡子規の妹、律と結婚したのですが、律が兄の看病のためたびたび帰るので離縁となり、その後他の女性と再婚。長生し、神戸の病院で「あんきぞな」という言葉を遺して世を去りました。90年の生涯でした。
ご子息も長命で、島津製作所で長らく重役を務めておられました。
もうかれこれ20年ほど前、劇団民藝の公演「根岸庵律女」が奈良岡朋子の主演で京都府立文化芸術会館ホールで催されたときに、劇のなかで、貞五郎が実家に出戻った律を訪ね「何で別れ話になったのかわからない」と訴える場面がありまして、いくら勝気な律が相手とはいえ、貞五郎が嫁にもらった女性をすげなく袖にしてしまうような人でないことがわかります。
終演後、貞五郎のご子息夫人に「貞五郎さん、大活躍でしたね」と声を掛けると嬉しそうにされていたのを思い出します。当時彼女は80歳過ぎでした。
『坊ちゃん』を読んでいただければわかるのですが、面白おかしく揶揄される教員たちのなかにあって、うらなりだけは漱石の筆ぼうも緩み、懐かしみを込めて描かれているのです。