梨太君のおうち
九月某日、晴天。
進学校である私立霞ヶ丘高校の、授業時間はとても静かだった。
梨太の通う二年六組は、数学科。
数学専門の学科というわけではなく、すべてにおいて偏差値が高い、特別進学級のことを差別化してそう名付けたものだ。
とはいえ、勉強が少し得意であるほか、普通の男子高校生と何が違うわけではない。
昼下がりの教室。右隣の少年が居眠りをしているのに、梨太は気付いていた。
授業には、有意義なものとそうでないものがある。この授業は後者だった。
みなが校外の塾に通っており、とっく終えた内容である。同じく梨太もすっかり退屈して、生あくびを噛みしめる。
――また追って連絡をよこす――
そう鯨に言われ、解散してから四日が経つ。体育祭代休をはさんで、登校三日目。いまだ、彼らからの接触はなかった。校内で鮫島とすれ違ったこともない。
どうしてるかなあ、と、ぼんやり考える。
いよいよ眠気がこらえられず、大きなあくびが出てしまった。
と。教室の扉が開かれる音。軽い足音、人間の気配。そして、
「リタ」
呼びかけられて、梨太は寝ぼけ眼で視線をあげた。鮫島の姿を認識し、ブッと吹き出す。
「さっ、鮫島くん!?」
どちらかというと梨太の声で、教室中がどよめいた。
クラスの全員が注目し、教師は絶句。誰もが事態を理解していないなか、鮫島だけが無表情でそこにたたずんでいた。
「な、な、なにっ――いま思い切り授業中だけどっ!」
「うん、だから放課後、この間の商店街の入り口で待ち合わせで。それを言いに来た」
「え? あ、はい――いや鮫島くんも授業」
「これから行く。それじゃあ」
口元だけでほほえんで、鮫島は背を向けた。
そこでようやく、教師は正気に返ったらしい。あわてて彼の方へ駆け寄って、
「おい! お前、三年の鮫島だな。二年生の教室に何の用で来たっ」
「別に教室に用はない。リタに、用はもう済んだ」
「なにぃ? ほ、放課後とか言ってたな。鮫島、この学校で生徒同士、暴力行為があったら、加害者は即座に退学だ。許されると思うなよ!」
「何の話だ。お前にはなにも関係がないのだから、あっちへ戻って授業を再開すればいい。俺はもう出ると言っているんだ」
「きさま、ひとの授業の邪魔をしておいて!」
「俺が入る前から誰も聞いていなかっただろう」
教師は口をぱくぱくさせて硬直した。そのまま出ていってしまう鮫島を、クラス中が見送る。
ゆっくりと広がるざわめきを、我に返った教師が怒鳴り、それを機に授業が再開される。
表面上は静かになったものの、もちろん生徒たちの記憶がなくなったわけではない。
十五分後に訪れる休み時間の惨事を想像し、梨太は頭を抱えた。
◆◆◆◆◆◆
「鮫島くんは非常識です」
梨太の言葉に、三者は三様の反応をして見せた。
鯨女史は大笑い。犬居は、むっとしつつも反論はしかねるようでそっぽをむく。鮫島は、眉一つ動かすことなく、無表情のままだった。もちろん一番おかしいのは鮫島だ。
「浮いてるとか演技力がないとかの問題じゃないよ、もう」
放課後、呼び出された例の商店街入り口、その場所である。
夕方四時の商店街は、寂れがちとはいえどもそれなりの通行人があった。ちらちらと視線を感じる。見られているのは、やはり鮫島である。
服装におかしな点はない。白い長袖カッターシャツとズボンという、ごく普通の男子高校制服だ。梨太が半袖にネクタイをつけている以外は同じだが、なにせ当人が美形すぎる。いや――
「……なんかオーラがあって、妙に目立つんだよなぁ」
「おーら?」
日本語の意味がわからないらしい、ラトキア星人全員がきょとんとした。
そのうちの一人、犬居もまた普通ではない。ひどく目立つ髪や目を隠しているのは賢明だが、季節外れのニット帽にサングラスで、はっきり言って怪しい。
二人の男と一線を画すのが鯨。クジラ型のオモチャが宙に浮き、そこから女の声がする。異常である。
梨太は嘆息した。
「どのみち、こんなところで立ち話もしてられないでしょ。移動しませんか」
「どこへ」
「じゃあ、僕ん家にどーぞ。ここから歩いて十分くらいだよ」
「それはいいな。よしお邪魔するとしよう」
鯨がやけに楽しそうな声を出す。犬居、鮫島はともに無言でついてきた。文句を言いそうな犬居が黙っているということは、やはり目立っている自覚があったのだろう。
諜報役であるという犬居は、さすがに地球をよく知っている。
歩きながら、梨太は不機嫌な声音を押さえずに話す。
「あれから僕がどれだけ質問責めにあったと思う? 生徒指導室にまで呼ばれたんだから」
「素行が悪いのか、リタ」
とぼけまくったことを言う鮫島に、梨太はその場でずっこけそうになった。
「あ、あのね。……鮫島くん」
「なんだ」
素直な返事が返ってくる。梨太は振り返り、鮫島を見上げた。
精悍な面差しに、まっすぐな目。
(……頭わるそーには見えないんだよなあ)
梨太は結局、なにも言わずに歩みを再開した。
鮫島は、おそらく頭は悪くない。戦場の状況分析には鋭く、話す言葉も理路整然。愚者が軍人の長になれるとも思えない。
天然ボケかと思うほどのズレっぷりは、鮫島個人の資質ではなく、ラトキアとの文化の違いではないだろうか。常識がないのではなく、違う常識で生きている人たち。
思ってたより、僕の仕事は多いかもしれない。そんなことを考えながら道を行く。
栗林家は、商店街を突っ切って抜けたすぐ先にあった。大通りの一本裏、閑静な住宅地になっている。
比較的築の浅い、豪邸ではないがこぎれいな家屋が並ぶ。そのなかほど、明るい茶色の外壁に黄色い屋根を持つ、かわいらしい一軒家。
表札には「栗林正広、美由紀、梨太」とある。
「はいどうぞ。わかってると思いたいけど靴は脱いでね」
「おじゃましまーす」
犬居が見本でも見せるように率先してあがり、あとに鮫島が黙って続いた。
せまい玄関、廊下の右側に、トイレや風呂の水回り。左側がLDKになっており、一階のすべてを貫いて広い空間になっていた。個人の部屋や生活は二階に集中させ、リビングに家族のくつろぎと、客をもてなす用意をそろえてある。
全面バリアフリーのフローリング、キッチンのほうに寄せた四人掛けのダイニングテーブル。対面には前庭がみえる掃きだし窓。そこから差し込む日差しが、リビングセットに注いでいる。温もりを感じる空間。
クリーム色のカーテンにモスグリーン色のラグマット、同色のソファ。全体的に柔らかな色合いの部屋は、きちんと整頓されていた。あまり高級感のないリビングボードには、家族三人が並んだ写真。それ以外にはあまり物の無い家でもある。
「ほうほうこれが地球人の一般住宅か。初めて見たぞ。なるほどなるほど。とくに日本はウサギの小屋のようだと聞いたが、なかなかどうして、広々と居心地よさげではないか」
入って早々リビングを飛び回る鯨。梨太は冷蔵庫から飲み物を出しながら、
「星帝皇后さまが言う? 小さい家ですよ。上も二部屋だけだし。一階は部屋数減らしてそのぶん空間を取ってるってわけ」
「家族は留守か?」
「ふたりそろって長期出張。一人暮らしなんだ、僕」
「ほう。そのわりにはこぎれいにしてあるな」
「僕はきれい好きなの。つかそろそろ落ち着いてくださいよ鯨さん、うちのどこ覗いたって面白いものはないんだから。犬居さんちじゃあるまいし」
「お前が俺の部屋のなにを知ってるってんだよ!」
「いやあほら、男子の部屋につきものなモノはどの辺に隠してるのかなーっと」
「閣下っ」
「それならテレビ台の横、スモークガラスの棚です」
「相手をするんじゃねえ!」
「お前もだ犬居」
鮫島が言い捨てた。
そして、彼は勝手にダイニングテーブルに腰掛けた。そこにあったペンギン型の砂時計を見つけ、指先で触れてクスリと笑う。どうやら気に入ったらしい。
本当は、ソファのほうへ通すつもりだったのだが……彼の前に、梨太はアイスティーのグラスを置いた。
犬居も隣にすわり、空いた席にクジラくんがついた。ちょうど人の顔の位置あたりの高さでふよふよ浮遊する。
「いいなーお茶。わたしも咽喉が渇いたぞ」
鯨の軽口は無視。
梨太も席についた。