鮫島くんが遊んでいる図①
そして。
そのまま、二人は三十分ほどそうして立っていた。
ずっと冷房にあたり続けて、さすがに体が冷えてくる。梨太が横を見やると、鮫島もまた頬の赤らみをおさめていた。
気が付けばちょうど昼時である。空腹を覚えた梨太は鮫島にも確認し、買い出しに出かけた。何の抵抗もなく彼に留守番をさせ、夜用の食材と、昼食に弁当を買って戻る。
鮫島から差し出された、半額相応の現金はそのままいただいておく。
鮫島と二人、ともに惣菜弁当を食べた。
丁寧な作法で完食した鮫島は、ゴミを片づけ、携帯歯磨きで口を濯ぐと、リビングに戻ってきた。
そして、テレビ前のソファのほうへ移動。体を沈めて本格的にくつろぐ。
三年前と同じしぐさで、彼は、のんびりと体を伸ばした。
――彼は、寡黙な青年だった。
梨太はそこに、不便や不満を感じていない。
彼と過ごす静寂は、不思議と心地がいい。沈黙していても気まずさがない。
なんの目的もなくいくあてもなく、穏やかな海に身をゆだね、波間を漂っているような心地であった。
(リビングが、海の底になったみたいだ……)
梨太は瞼を閉ざした。深海への潜水。脳髄をしびれさせる甘い錯覚の中、やわらかなソファに身を沈めていく。
(……きもちいいなあ……)
そして、そのまま、二人はじっと座っていた。
なにもせず。
ただただ、じっと、そこにいる。
夏の日は、長い。
それでも午後6時を回れば、明るい光の中に日暮れの気配が混じり出す。カアカア、遠くカラスのなく声。梨太は何となく、それを聴覚で追いかけて――
未だ、じっとしている隣の麗人のほうを向いた。
「鮫島くん。あのさ。……さすがにしゃべろうよ!」
ん? と、彼はやはり声もなくこちらを向いた。
ソファの上で体をはねさせ、梨太は地団太を踏む。まったくなにを言われたのかわからないと言う顔をしている青年に指先をつきつけて、早口でまくしたてた。
「鮫島くん、6時間! 三年ぶりに会って、うちに入ってからもう6時間っ! 鮫島くんしゃべったの『やったー』以降、いただきますとごちそうさまの二つだけだから!」
「……うん」
「いやホント嫌じゃないんだけどね、心地いいんだけどね、さすがにね!? もーちょっとなんか話そうよ! 雑談苦手なのは知ってるけど女の子になってマシになったかと思ったら拍車かかってんじゃないか! 前のほうがもうちょっと話したでしょー」
と、いいながら、自分の記憶を確認してみる。そういえば、鮫島が饒舌になるのは仕事関連のみ、雑談は数えるほどしかやり取りをしていない。
そしてあのときは、仕事について話があるときだけ梨太の家を訪れてきた。話すネタと必要があったのだ。
もとより、休日の彼は、これほどまでに無口だったのである。
鮫島も思うところはあるらしい。虚空を見やり思考すると、やがて梨太の方に向けて身を乗り出してきた。
「リタ……」
名を呼ばれて、どきりとする。
「リタ。リタぁ。りーた」
「な、なに?」
彼は話題を続けることはなく、己の前髪を耳にかける。白い横顔と、柔らかそうな耳。その耳のうしろに手を当てて、聴覚を澄ますような仕草をしてみせた。
意味が分からない。
「……なに? 舐めていいの?」
じゃあお言葉に甘えて、と肩を掴もうとした直後、梨太は気がつく。
「あっ! ピアス!」
声を上げると、鮫島はにっこりと笑って見せた。
彼の耳たぶに、ピアスは付いていなかった。言語変換装置――外科手術を受けた騎士の、脳そのものに作用して異国語をナチュラルに認識できるようになるという機械、その端末だ。色によって言語が違い、日本語のものは、翡翠のような美しい色味だったのを記憶している。
いま、鮫島の耳たぶには小さなへこみがあるだけだった。
「ってことは、鮫島くん、いまそのまんま日本語で会話してた? 僕のいうこと、わかるの?」
少し複雑な表情で、一応うなずく鮫島。
「わかる。けど、難しいことは……言っていること、はよくわからない。でも、なにが言いたいのかは、聞こえる」
考えながら少しずつ話す鮫島。自信のなさからくる小声で、今度は早口で並べた。
「自分が話すのは難しいと思います。どうすればいいのかわかりません」
教科書をそのまま覚えたようなことを言う。
おせじにも流暢とはいえない、自分が小学生で出来た英語ほどにも満たない言語力ではある。だが、それでも。
「……鮫島くん、勉強したんだ……」
梨太は迂闊にも感涙しかけた。
かつて三ヶ月間、高校に通いながら、「日替わり定食」の張り紙すら読めないまま放置していた鮫島が。
素直に驚く梨太に、鮫島は子供みたいな顔をする。
隠したいような自慢したいような、照れくささを押し隠す笑顔で、こちらを向きまた口をパクパクさせた。
「り・たっ」
「ん、はい。なあに?」
彼は破顔した。ふふっ、とひどく楽しそうに笑い声をあげると、そのまま笑顔で繰り返す。何度も何度も、梨太の名を呼んだ。
発音があっているか指摘してほしいのだろうか。
「梨太。栗林、梨太」
梨太が言うと、鮫島は素直に倣った。梨太の言葉をよく聞いて、言葉を紡いで返してくる。
「……りた、くりばやしりったぁ」
「タ、が難しい? 舌をはじくようにして、あ、の口。り、た。た、たー」
たあー、と、鮫島。梨太の目の前で、小さな唇が縦に開かれる。
幼児がおかあさんに歯を磨いてもらうときのように、惜しげもなく晒された口の中。梨太は、生まれて初めて成人の奥歯を見た。
一つ一つが真っ白で、粒のそろった真珠玉のような歯と、あまり長くはない赤い舌。ピンク色の内頬は意外なくらい肉付きがよく、ふっくらと柔らかそうにそこにある。
「………………」
突然黙り込んだ男の顔を、鮫島はとても不思議そうに首を傾げて見上げた。
発音の悪さに呆れたとでも思ったのだろうか、彼はちいさく嘆息し、腰帯をずらした。小さなポーチがベルトで巻かれている。そこからピアスを取り出し、梨太が止めるまもなく装着してしまった。改めてホゥと息を吐く。
「やっぱり難しいな。俺は教材を聞いていたばかりだったから、自分で話すのは初めてだったんだ。ぶっつけ本番ではそうそう上手くいかないものだ」
ようやく、長い文章をしゃべった。三年前に聞き覚えのある口調である。話し始めると、やはり彼女は鮫島くんなのだと実感しやすかった。
「日本語は難しい」
ぼやく鮫島。
そして――
そのまま、夏の空が暗くなるまでそうしていた。
「……って、結局しゃべらんのかい!」
梨太にしかられてびっくりする鮫島。
「苦手なんだ、雑談……」
変わってない、三年間でなんにも変わってない、と梨太は頭を抱えて突っ伏した。




