天皇陥落~エピローグ~
涙で濡れた視界に浮かぶ、懐かしい姿。
宙に浮かぶ乗物から、ヒョイと飛び込んできた青年は、鹿の記憶よりも少し背が伸びていた。体も一回り大きい。それは真実彼が成長をしたのか、それとも鹿の記憶違いだったのかはわからない。何度も見た夢とはちがう、それこそが幻影でないことの証だった。
「と――虎ちゃん、ほんとうに。えっ?……」
叫びそうになるのを、シーッと指で制される。鹿は慌てて、両手で自分の口元を押さえた。
その手首が捕まえられる。
虎は黙ったまま、せっかく押さえた鹿の手を開かせた。むき出しになった唇に、己の唇をあわせる。
七年ぶりの口づけはかつてと同じく唐突で、強引で、無言で短く、深いものだった。
幻のように啄んでから、虎はすぐに身を離した。
「あ、やべ。つい」
呟き、再び窓枠に飛び乗る。そうして距離を取ってから、彼は改めてじろじろと、鹿の全身を眺め回した。鹿は己の体を隠した。性的な視線に嫌悪したのではない。かつてより老け、衰え、穢れた身体を隠したかった。
だが虎は容赦なかった。十歳年下の、野性的な男の目で、鹿の全身をあからさまに審査した。そして笑った。
「うん。何一つ変わってねえな。きれいだ」
「――と、虎ちゃん……わたし。わたしあなたに……話さなくてはいけないことが、たくさんあるの。謝らなくてはいけないことが」
そう呻いたものの、それで許されるわけがない。七年間、いや出会った時からずっと、鹿は虎を裏切り続けてきた。嘘に嘘を重ね、彼の優しさにつけこみ、甘え、頼り、巻き込んで、彼の人生を酷く狂わせてしまった。
話さなくてはならない。どこから?
詫びなくてはならない。どうやって?
それだけ謙虚になってみても、彼に求めるものは果てしない。口を開けばゴメンナサイよりも先に、抱きしめてくれと求めてしまう。鹿は何度も口を開き、閉じ、喉を締め上げた。話せない鹿の代わりに、虎が言う。
「俺も、聞かなくちゃいけないことがあるんだ」
口をふさいだまま、鹿は何度もうなずいた。何でも聞いてくれ、何でも応える。彼にはその権利がある。
青年は問う。とても短い言葉で。
「おまえ、俺のこと好きか」
「…………?」
「俺のことが好きか?」
「…………ぁ……っわた、し、わたしはこの塔で……」
「好きか」
「…………大好き」
「よっしゃっ」
虎はうなずいた。土足でずかずか部屋を進み、ポカンと呆ける少女の前に跪く。少女をじっと見つめて吹き出した。
「うはっなんだこりゃ俺そのまんまじゃねえか。えーと名前なんだっけ?」
「……コトラ。とらちゃん? おとうちゃん?」
「そうそれだ。よろしくな」
赤い髪をぐしゃぐしゃ撫でた。
そして彼は、進入してきた窓辺に戻る。そのすぐそばに停車する、車のようなものに片足を載せて振り向いた。
「じゃ、二、三日後に迎えに来るから。またカーテン開けてランタン振ってくれ。それだけあれば闇夜でも直行できるからよ」
「えっ? ていうか、虎ちゃんどうやって来たの!?」
「どうって、見ての通り浮遊車で来たんだよ。いや助かったぜ、ずっとコイツを買うために貯金してたんだけど、たまたま縁が出来た男が、雇用の祝い金代わりに貸してくれるって」
「エアカー? 貯金? 雇用!?」
「ああ、それで浮いた金で家を買った。お前だけならどうにでもするけど、子供にはやっぱ安全な家がいいだろ。お前の子だから、ちゃんと学校いかしてやらなきゃもったいねえだろうし」
「家!? 学校!?」
「バルフレアはいいとこだぜ、案外文化的でな。ラトキア国籍がないから隠れ住んでてもバレない。王都への交易便も頻繁だし、もしもお前が塔に帰りたくなったときには、まあまあ近場だし」
「……ど、どういう。なに? どういうことっ!? ちゃんと説明をして虎ちゃん!」
「説明しただろ今まさに、もう言うことねえよ。館の方から潜入したら撃たれる、部屋はわからねえ、手持ちのエアバイクは一人乗り、仮に連れ出せたとしてどこでどうやって暮らすんじゃいって考えて、その全部どうにかしようとガンバった。宇宙外出向よりも、惑星ラトキア内を駆けずり回って住処探し、名誉よりも現金。準備が出来たから迎えに来た――俺の七年間はそれだけだ」
「……と、虎ちゃんっ――」
「そっちはそっちで色々あったんだろうけど、あとにしよう。長居は危険だ。三日間で、身の回りの準備をしておいてくれ。今度こそ二人とも連れ帰るから――」
「虎ちゃんっ!!」
鹿は大きな声を出した。それはずいぶん久しぶりのような気がした。
驚いた顔をする虎に、鹿は立ち上がり、宣言する。
「ちょっとだけ待ってて」
鹿はコトラを振り向いた。すると彼女は這いつくばり、ベッドの下から、なにやら巨大なバッグを引きずり出した。頑丈そうな防寒着と、歩きやすそうなブーツにマフラー。鹿はぽかんと口をあけたが、追及することはなく、自身も寝間着の上からコートを羽織り、シューズで足下を固める。その間、コトラは空いたバッグに書籍を適当に詰め込んでいた。
サクサクと動き始めた女衆に、虎は半笑いで面食らう。
「お、おい、まじかよ」
「まじだよー」
コトラが元気よく言った。
「コトラ、リタに言われたの! もしもおとうちゃんが来たらコレを使えって」
「いきましょう!」
鹿は長い髪をきつく結びあげた。
と、そのとき、扉が激しくノックされ、一瞬の間もなくいきなり開かれた。
青い髪の青年が押し入ってくる。誰だお前はと虎を睨みつけ、撫で肩をいからせて駆けてくる。
虎は眉をひそめ、優男を指さした。
「なにあれ、殴っちゃっていい?」
と、いう言葉が終わるより早く。
鹿はスカートをたくしあげ、床と水平になるほどまっすぐに左足を突き出した。みぞおちを蹴られうずくまった男の頭頂に、今度はまっすぐ垂直の踵落とし。
気持ちよく失神していく。
「コトラ、縛るわよ!」
「よしきたおかあちゃんっ」
母と娘で以心伝心、ベッドシーツを引っぺがし、細長く撚って紐にして、男の手足を縛り倒した。口に粘着テープを張り、とどめにマジックペンの蓋を取る。二人がかりで顔に跨り、よってたかって落書きした。
「あほ」「ぼけ」「ばか」「だいきらい」「すけべ」
虎はぽかんと、女二人の作業を傍観してしまった。
鹿はインクを優男のスカーフで拭うと、コトラを抱き上げ、振り返る。
「さあ行こ! わたしどんな場所でも大丈夫、この塔のものが何一つ持ち出せなくたって、どうにだって生きていけるわ!」
「……いや、苦労させないようにって、こちとら七年がかりで準備万端にしてきたんだけど?」
「舐めないで、わたしだって元ラトキアの騎士よ。あの団長に鍛えられたんだから」
胸を張る。
「そんなことよりもっと早く迎えに来なさいよバカ虎。ほんとあなたって肝心なとこは気が利かないの、昔っからずーっと変わらず一緒!」
「あー? お前こそその可愛くねぇ減らず口、マジで出会った時から変わってねえなっ」
「お互いそんなとこに惚れ合ったんだからいいでしょ!」
怒鳴り返すと、虎は目を丸くして、一瞬だけ赤面した。照れ隠しのつもりか、黙ってエア・カーに乗り込んでいく。鹿とコトラも素早く続き、三人は夜空へ飛び出した。
遠ざかれば、灯りのない『光の塔』は闇のかなたに沈んでいく。とっくに見えなくなってから、鹿はふと思い出す――栗林梨太の推薦状に、サインを入れるのを忘れていた。部屋に置いてけぼりにしてしまったと。
「別に大丈夫じゃね? リタ、鹿がもし推薦を拒否っても、なんか別のオバサンが書いてくれるはずだって言ってたぜ」
「……ヒグラシ叔母様が? ……そうなのかしら……」
「さあな。まあアイツなら、何が無くても他のものでどうにかするだろ。俺たちが心配する必要も、そんな余裕もねえよ」
鹿は素直にうなずいた。
そうだ――鹿は、あの地球人ほどに賢くない。虎もまた、あの軍団長殿ほどには強くない。
少年だったころ、虎は日本のコミックの、『勇者さま』に憧れていた。いつか自分も魔王を倒し、世界を救うようなドデカイことをやりたいと、金色の目をキラキラさせて笑っていた。
だがそれは叶わなかった。虎にとって巨悪の権化、光の塔は崩壊せず、魔王とは相まみえることもせず、姫を攫い出すだけで精いっぱいだった。鹿もまたヒロインのように、祈りひとつで世界を浄化などできなかった。
――あの、彼らなら出来るのかもしれない。
だがこんなに弱くて情けない、自分たちのことだけで精いっぱいの英雄譚でも、ハッピーエンドは描けるだろう。
虎ちゃん、虎ちゃんと、鹿は二度、我が子の父の名を呼んだ。おうと彼は頷きかえす。
それだけで十分だった。
これで、鹿と虎の物語は完了となります。
梨太たちの物語はもう少しだけ。




