天皇陥落③
栗林梨太の声明を、鹿は二度、再生して聴いた。
推薦状へのサインなどは忘れていた。ただその夢物語に聞き惚れ、夢想する。
確かに、ラトキアでの女性の立場は弱い。だがラトキア人は、ある程度自分の意志で性別を変えることが出来る。男性はもちろん、女性自身も自分で選んだ道だからという理屈で諦めていることだった。それをただ甘やかし保護するだけではますます差別を助長するし、賛同され女性が増えすぎるのも問題だ。
だが梨太の政治方針は、ただの弱者救済、ラトキアの差別問題に取り組むものではなかった。彼の政治によって救われるのは、女性でも赤髪でもない、「仕事の無い者」全員である。
しかもそれは自分の特技、趣味嗜好を活かすものだという。男とか女とか、国にとってのメリットだけではない、自分自身を肯定されるものだ。
ワクワクして、トキメク。
こんな気持ちはどれくらいぶりだろう。梨太の言葉を聴いているのは幸福だった。
(ああ本当に、もしもわたしがそうなれたら……)
(この塔から出ることができたなら……)
――ドンドンドンッ!――
扉を激しくノックされ、鹿は飛び上がった。
すっかり呆けていたが、今は食事時間だ。乳母がコトラを迎えに来たのだろう。
慌てて扉を開き、無言のままで即座に閉めた。
ドンドンドンドン、また激しいノックが追ってくる。
「姫様! 姫様、どうなさったのです、なぜ扉をお閉めに? ワタクシです、ヒズイミルの山羊でございます!」
わかっている、だから閉めたのだ。
この部屋に内鍵はない。鹿は自分のカラダで扉を抑えながら、つとめて平静に、怒鳴りつけた。
「なんですか不躾な! 何か御用なら叔母様を通してお伝えくださいませ!」
「おおなんと寂しいことをおっしゃいますか。この山羊はあなたの夫、ただ妻を訪ねに来ただけではありませんか。もう三日、ワタクシがこの塔に来てから、一度もあなたに触れていないのですよ」
「し、仕方ないでしょう、ちょうどお客様が来て、昨夜はわたしも徹夜でっ――えっていうか待って、あなたどどうやって『塔』に入ったの!?」
「はい! 中庭に繋がる門が、開いておりましたので!」
(えっ?)
鹿は驚愕し、混乱した。
館から中庭に繋がる門が、開いていた? さきほど出ていった叔母が閉め忘れ……いや、ありえない。あの門は自動的にロックされ、開くときにパスワードが要るというものだ。
重大な故障か、ロック機能そのものを停止し、意図的に開放していたかのどちらかしかありえない。
(故障? あの軍仕様のシステムに、強化金属製の鍵が……)
その可能性は、考えたことが無かった。だが絶対ありえないことではないだろう。万物は有限である。
(壊れる。壊せる。壊すことが出来るものだった――)
――姫様、開けてくださいませ姫様ドンドンドンドンッ――
(ここから出れる……)
いや、不可能だ。たとえ門が開いていても、その先の館と街の守備、そして森と山道を突破できる力は自分には無い。
この七年間、出してもらいたいという気持ちはあった。出れたらいいなと願った。出たいと思い続けてきた。だが叶わなかったのだ。何をいまさら幻想を見る?
ほんの一瞬浮かんだ希望は、冷たい汗になり、霧のように儚く消えた。
鹿は目を伏せ、嘆息した。
「……分かりました。今、お部屋にお迎えします」
「姫様っ」
「でも少しだけ時間をください。まだ夕食の途中で、子供がいますからね。大丈夫、わたしはどこにも逃げられはしませんから――」
夫はハイと素直に応じ、催促のノックが止まった。ホウと息を吐き、テーブルへと戻る。
コトラに、早く食べおわるよう促そうとしたが無意味だった。自分が夢想しているうちに、幼子はすっかり食事を終えている。
鹿はもう一度嘆息した。
(――もう七歳。わたしが思っているよりも、シッカリしているわ)
鹿は、コトラを抱きしめた。
「おかあちゃん?」
「ごめんね、コトラ」
(ごめんなさい。あなたに、健やかに愛し合う両親を見せてあげられなくて……)
まだ素直でいたいけで、母を慕ってくれているコトラ。だがもう少し成長すれば、母の所業を軽蔑するだろう。
穢らわしいと、罵られることは覚悟している。だが娘の心が歪むのはなんとしても避けたい。
一年ごとに代わる夫。娘のためにならと、愛の有る夫婦を演じたこともあった。だがそんな母の歪んだ微笑みなど、幼子はすぐに見抜いた。義父に激しい嫌悪感を示し、おかあちゃんに近づくなと吠えた。激昂した男に拳で殴られても、決してその牙をおさめなかった。
弱い母。強い娘。何もできない母。何もさせてもらえない娘。
「ごめんね……」
固く閉じた目に、幼子の手が触れてくる。
「おかあちゃん? 泣いてるの?」
「ううん、なんでもないの。ごめんね……ごめんね」
ぽんぽん、背中が叩かれた。母に抱きしめられながら、娘が母を慰める。その手は小さく柔らかく、お世辞にも頼りがいがあるものではない。
だが暖かい。優しい。
(ああ……縋ってしまいそう)
(この手の感触は、まるで……)
「――おかあちゃん泣かないで。あたしが護るから」
とたん、涙があふれ出た。
もう何年も忘れていた感情だった。なくしていた願望。押さえつけて踏み潰して、とっくに砕けたと思っていた内なる思いが、水を吸ったように膨張する。巨大化したその黒い思いは肚からあふれ出し、喉の手前まで押しあがり始めた。吐き出しそうになるのを、手で押さえてうずくまる。
忘れていたのに。
なくしたと思っていたのに。
耐えきれなくなり、鹿は、結んでいた唇を開いた。漏れ出した言葉は、嘆きの呪詛ではなかった。
「虎ちゃん……」
口に出すと、なお止まらなくなった。
「虎ちゃん。虎ちゃん」
会いたい。話がしたい。あの大きな、骨ばって傷だらけの暖かな手で、体中を撫でてほしい。
彼の体温を思い出し、鹿は身震いした。幼子を抱きすくめ、赤い髪に鼻を埋めて、女は泣いた。
「虎ちゃん……」
名を呼びたい。ひとりきり呟くことはできるが、聞こえるところにその人がいなければ呼んだことになんかならない。孤独には慣れても、呼んだ声がどこにも届かず消えゆくのには耐えられず、その名を呼ぶのはやめていた。
彼の名を呼びたかった。
彼に名を呼ばれたかった。己の頭のなかだけで鳴る幻聴などではなく、耳朶がふるえるほどそばで声を聴かせてほしい。同じ部屋で暮らしたい。大きくても小さくてもいい。同じところにいたい。
手を伸ばし、触れたい。触れられたい。骨がきしむほど強く、激痛に悲鳴をあげたっていい。
抱きしめられたい。
「虎ちゃぁん……」
こぼれた涙は拭うたび暈を増して、拭っても拭ってもあふれてくる。
泣き続ける母を、慰め続ける娘。
恥ずかしすぎることを恥もせず、鹿は泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けて――
鹿は、目が覚めた。
顔を上げる。
水びたしの視界を、ぐるりと巡らせる。右には木製の扉、その向こうには夫と呼ばれる三流助平男が待機している。
石の壁、家具家電、コトラ、そして分厚いカーテン。
鹿はまっすぐ、それを見つめた。
知っている。あのカーテンは布の壁などではない。その向こうには窓、その向こうには空があることを。
幻想ではなく、希望がそこにある。
七年間。
出してもらいたいという気持ちはあった。出れたらいいなと願った。出たいと思い続けてきた。
出よう、と思ったことは、これが初めてだった。
「――そうだわたし、どうして諦めたのだろう。たった千回きりの失敗で」
口に出してみれば、いかにもちっぽけな挫折だった。
暗中模索の錠破りは、1000の数字でやめてしまった。
なぜやめたのだろう。七桁の、オール・ゼロから始まり九ゾロで終わる数列のパターンは一千万通りだ。時間もかかるし、指が潰れてしまうだろう。
だから何だ? 一千万回、時間をかけて、指が潰れても押し続ければいいだけじゃないか!
鹿は歩き出した。
「わたしは馬鹿で、力もない。だけどひたすら単純作業を続けるのは得意だった。わたしにはそれしかない。それしかないなら――それで戦えばよかった!」
分厚いカーテンを毟るようにめくる。頑健な窓には、威圧的な金属錠が貼りついていた。
いままでずっと、これが怖かった。だからカーテンで隠してきた。視界にも入れないように生きていた。
だがどうだ、ブチ壊してやるぞと見下ろしてみれば、自分の頭蓋ほどしかないちっぽけなものだ。
何年かかるかわからない、だが自分の寿命が尽きる前には開くだろう。必ず勝てる勝負じゃないか。
(たとえ塔から出られたところで、どうやって生きていくんだと考えて手が止まってた。でももう大丈夫。あの星帝が国を変えてくれる。わたしが働いて、コトラを育てることができる)
(不可能じゃないならやってやるわ)
(この窓が開いたあと、地上に降りる手段はあとから考えるっ!)
鹿は不敵な笑みを浮かべ、パスワード入力のボタンを押そうと――指を伸ばし、止めた。
「……えっ?」
開錠のランプがついている。
「……え?」
なんだこれは。と、考えもしなかった。
ぼんやり、首を傾げながら、窓の掛け金を回してみる。金属錠はその回転を邪魔しなかった。すんなり回って、窓枠が揺れる。
「え……?」
窓を手で推してみる。
重い手応え、風の抵抗はほんの一瞬だった。ばくん、と空気を抉る音と共に、窓は開いてしまった。
目の前に広がる夜空。
すこし身を乗り出し、見下ろせば、地上二十メートの景色。
「……ええっ……?」
『光の塔』は、孤独な施設だった。ひどく辺鄙な場所にあり、周りには何もない。街には電灯もなく、日が暮れれば誰もが活動をやめる死の町だ。
親族が暮らす館は、この塔よりもずっと背が低い。
真っ暗闇の景色。
夜風だけが部屋に吹き込み、鹿の青い髪を激しくなぶった。
ぼんやり外を見渡す鹿を、後ろからツンツン、コトラが突いた。振り向くと、いったいどこから出したというのか、ランタンを持っている。
騎士団の備品で見たことがある、遠征で使うものだった。こんなもの一体どうして、どこで、誰からもらったのだ。
それは大いなる疑問だったが今はそれどころじゃない。鹿は黙ってランタンを受け取り、窓から腕ごと突き出して、夜闇を照らした。
何を探そうとしたわけではない。
だが、見つけた。見つけられた。
ランタンめがけて、遠くから、何かが飛んでくる。灯りに惹かれた虫――いや鳥――違う、あまりにも大きい。
音もなく、窓辺に寄せられたのは、車の形をした飛行物体だった。
窓枠に足をかけたのは、金色の目をした青年だった。
闇に紛れるためだろう、黒いフードつきマントを頭からかぶっている。そして鹿の顔を見て、細い眉を不機嫌に寄せた。
「なんだ、また泣いてんのか。七年ぶりだっていうのに、なんにも変わってねえなぁ」
「……と。……虎ちゃん……?」
呼びかけると、ニヤリと笑う。魅力的な八重歯を覗かせながら、彼は応えた。
「おう。俺だ」




