鳥籠の壊し方
昼をずいぶん回って、それでも帰ってこない二人の女にさすがに心配になり、梨太は中庭へ降りてみた。その情景にあきれ果てる。床にはガラスが散らばり、それを鹿が、半壊した椅子の補修を鮫島が分担して行っている。仲良く作業をしているように見えて、まったく視線を合わさない。
「……なにやってんのさ」
二人とも、特に鹿の顔が腫れている。つまり、ワインボトルが割れ椅子が半壊するような乱闘をしたということである。姫君と騎士団長が。
梨太に気付き、鹿は「どうも」とだけ、鮫島はバツが悪そうに無言。格好悪いことをした自覚はあるらしい。
大変なことになったと慌てるよりも先に呆れ果てて、梨太は脱力してしまった。
うなだれたリタに、鹿が歩み寄る。
「すみません、お待たせしてしまって。娘は?」
「上の部屋で待たせてます。なんか嫌な予感がしたので」
「大丈夫、もう終わった」
「何が大丈夫なのさそれ。もう、なんでこういうことになるかなあ」
「もし真っ最中にコトラが来ていたら、さすがにやめましたよ。でも置いてきてくれてありがとう、ガラスが散らばって危ないので、コトラが来る前に掃いてしまわないと」
母親らしい言い方だった。再会以来、鹿は何度か「姫様らしい」セリフを吐いたが、そのどれよりも自然な口調だ。
それはそうとして、掃除も椅子の修繕も、ここにある材料だけでは足りないだろう。屋敷から持ってこようかというと、鹿は首を振る。
「もう大丈夫です。こちらでひとを呼びます。リタさんたちは客室のほうへお戻りください」
「えっ。いや、それよりキズの手当てを――っていうかお詫びをっ」
しかし、姫を殴打した当人は、鼻で笑った。
「平気だ。殴り合ったのだから詫びる必要はない。それにこいつに私を訴えるチカラなどない。権力も、精神も」
鹿は、否定をしなかった。どちらとも取れない曖昧な笑みを浮かべて、ただ淡々と掃除を続けながら。
「……リタさんの、星帝推薦状の件ですが。お断りをしようと思います」
「……そ、そうですか。わかりました」
仕方ない――いや、それだけで済むのが異常だ。
もちろん本音を言うと、もっと話さなくてはいけないことがあった。だが皇室侮辱罪、そうでなくても暴行罪、ものすごく多めに見ても町を追い出すくらいはされるべきである。だが鮫島はやはりふんぞり返っていた。
この状況、あの鮫島が攻撃的すぎるのも不可思議だが、やはり鹿はおとなしすぎる。
さらに鹿は、悪く取らないでください、と弁解した。
「天皇代行の業務は、ほとんどヒグラシ叔母様が行い、枢機院にも書類を通しています。そちら頼んだ方が有効かと思うので……」
「……それは、予想はしてました。それでもおれは、鹿さんに推薦してほしかったんです。天皇代行としてじゃなくて」
「わたし、個人の?」
鹿は両眉を垂らし、目を真ん丸にした。
「わたしに参政権はありませんよ? ラトキアの法では、当人と嫡男以外は貴族の称号すらありません。わたしは『狐の妹』……ただの女、ですから」
「それはわかっています、それでも――っと、ちょっと待ってくださいねっ」
肩掛け鞄をゴソゴソやっている間に、また鮫島が嘆息した。今度は明確に、悪意を込めて。
「ただの女でも、やれることはたくさんある。おまえがただ弱虫なだけだ」
また、空気がきしむ。梨太は頭を抱え、さすがに鹿も黙ってはいなかった。静かな怒りと悲しみを声に孕ませて呟く。
「いまさら何が出来るというの。助けを呼んでも、誰の耳にも届かないあの檻で」
「……私だったら自力で脱出する。あの鍵は少々厄介だが、警備兵は雑魚だ。いや、そもそも捕まらない」
言い切られて、今度こそ鹿は反論した。激怒したのではなく目を細めて鮫島を睥睨する。そして嘲笑した。
「うそつき」
「なにがだ?」
鮫島は問い返したが、彼女はもう相手にしなかった。
梨太が取り出した、ハヤブサの「すいせんちょ」をじっと見つめて、クスリと笑う。
「……なあにこれ。単純に、わたしの応援が嬉しいということですか。ふふっ」
「おれが立候補したのは、鯨さんへの同情もあるけど、なによりハルフィンの政治に共感したからです。それは――まだ志半ばでわかりにくいけども――あらゆる身分差別を解消するためのものだったから」
鹿はわずかな時間、沈黙した。なにか記憶を探り、しっかりと頷く。
「そうですね……そうだったんでしょう。生活費支給制度を切り詰め、労働義務を課したのも、本質はそういうことでしょう。学のない被差別者、女性、心身の障害者が、すこしでも社会に貢献し、侮蔑されることなく存在できるようにと」
梨太は心底ホッとした。それがわかっているなら、話は早い。
彼女に伝えるべき内容は精査済みだった。状況が、中庭で立ち話になるとは思っても見なかったが、おそらくもうまたとない機会。
一気にまくしたて、熱弁する。
「ハルフィンが病に倒れた今、改革は頓挫してしまっています。灯ったばかりの小さな火は、長い年月をかけて育てていかなくちゃいけない。おれが育てる。
鹿さんは、その象徴になれるひとです。高貴な生まれ、たぐいまれなる才で騎士の科学者にまでなりながら女性だからってだけで、こんなところに閉じ込められている。結婚相手を選ぶことも出来なかった。これは全くの不遇、まさしく差別だ」
「……たぐいまれなる才、というのは少々眉唾ですが。それで?」
「あなたとおなじ不満を持った人間が、被差別種だけでなく貴族階級にもたくさんいるということです。鹿さんがその代表者、象徴になってくれれば、漠然とした不満は明確な欲求に変わってくれる。たとえ無効票でも、あなたの意志は枢機院を揺さぶるはずなんだ」
――と、口上してから一度、深呼吸。そして梨太は破願した。
「枢機院への心象ってのは関係なく……おれは、あなたの同意が欲しいです」
「……同意。何についてでしょう」
「あなたをここから出そうとしていることについて」
鹿の目が真ん丸になった。震えるほど驚き、上から下まで梨太を見る。
「…………リタさんが……わたしを」
「はい。ただし政治の力で。ここから抱えて攫うのは、おれの仕事ではないから」
梨太は明言したが、では誰の仕事かまでは言わないでおいた。それを考えるのは鹿自身でないといけない。その代わりに、もう一度同じことを言う。
「おれは、貴方たちをここから出そうとしてる。鹿さんの生まれた家である、この塔をぶち壊して。外の世界に引きずり出して、冒険をさせようとしています。……あなたの意志を、教えてください」
彼女は、長い間沈黙していた。
やっと口にしたのは「考えさせてください」という言葉だけ。現状打破の糸口が見えても、それを掴む勇気が、鹿には無かった。
梨太は歯噛みした。
ただ推薦状を書かせるだけなら、いくらでも手段はあった。
鹿の御し方は見当がついている。まず彼女を全肯定し、ひたすら甘い言葉を並べ、おれに任せろとだけ言って、鳥かごに閉じ込めておくのが最適解。考えさせない、選ばせない、ただ優しく強引に押し倒す――それがこの女の落とし方だった。
しかし、そうしたくはなかった。それでは意味がないのだ。
(……だめかな)
たっぷり五分――完全に沈黙し、停止してしまった鹿。もっと時間を与えたほうがいいらしい。
梨太は白紙の推薦状を手渡し、離脱することにした。これ以上、自分に出来ることはない。
踵を返したところで、鮫島がつぶやいた。誰に聞かせるわけでもなく。
「――助けてと言うことすらできないのか」
鹿の双眸が揺れた。
また殴り合いになっては敵わない、と、梨太は鮫島を捕まえて慌てて屋敷のほうへと逃げだした。
客室に戻ると、昼食らしきものがテーブルに置かれていた。なぜかまたフリフリドレスの着替えがあったがそれは無視して、靴を脱ぎ、ベッドサイドに腰掛ける。
すぐに、鮫島が隣に座った。
押し黙ったまま、二人は並んで時を過ごす。それはいつもの心地よい静寂ではなく、ただ言葉が見つからず気まずいだけの沈黙であった。
塔からここまでの道中で、鮫島から殴り合いの顛末は聞いていた。
見聞きしたものだけを淡々と語った鮫島は、報告完了したとたんに黙り込み、ふさいでいる。
「珍しいね、君がそんなふうになるの」
梨太が言うと、彼女は表情を消した。まったいらの無表情のままいきなり梨太を押し倒し、もとい抱きついてきた。
いっしょにベッドに転がって、いっしょにため息をつく。
――梨太はぽつりと言った。
「……鹿さん、すごい痩せたんだよね」
鮫島は黙って頷いた。梨太は彼女の「以前」を知らないが、鮫島の様子から、ショックの大きさを感じ取る。人が変わるということは、失くなってしまうということではない――けれども、悲しい。
黒髪をぐりぐり撫でながら、梨太は言った。
「それでも、おっぱいはおっきかった」
「……」
「そこだけは聞いてた通り……いや予想以上だった。おれもあのサイズは未体験ゾーン。痩せたらソコからへこむっていうけどあれきっともともとGとかHとかあったのが身体だけ細くなってさらにその上――いや冗談ですごめんなさい、ちょっとおれもまともに受け付けられてなくて」
梨太が素直に謝ると、妻は猛獣の殺気を消した。そして梨太の手を掴み、己の胸に当てる。布越しに、かすかな膨らみを誇示して、
「……まだもうちょっと大きくはなるからな。もうちょっとだけだけど」
「あっはい。いや……ほんと冗談です。鮫さん愛してる」
梨太が困惑すると、鮫島は静かに手を解放する。そしてまた嘆息して寝転がった。その背中を抱きしめる。
意味もなくゴロゴロ転がり、くっつきあって、二人はお互いと自分を慰めていた。
「……やー、さすがのおれもちょっと。……作りものの物語としても酷いのに、友達の奥さんだし……」
「……私も。トラウマになりそうだ」
鮫島も嘆息する。
「幸福に過ごしているとは思ってなかった。虎との離婚も再婚も、きっと本望でないだろうとは。けど……これはない。ありえない」
「うん、ないな。これはひどい。ひどすぎる」
梨太もうんうんうなずく。鮫島は不意に形相を崩した。眉を垂らし目まで潤ませ、泣きそうな顔で、梨太をギュウギュウ抱きしめる。意味のない声をあげた。
「あー。リタぁー……いやだ。私、こんなの嫌だ。無理。うあー……」
髪をなで、背中をぽんぽんとたたいて慰める。果てしなく甘やかして感情を受け止めてやると、鮫島は額をぐいぐい押しつけて、梨太の胸に執拗に甘えてきた。
子犬のように可愛らしいが、
「ああ。爆破したい」
言葉と体格は狼であった。
「ちくしょう。ああもう、くそう。なんて卑劣なんだ。赤ん坊を人質に、産婦をあんなところに閉じこめて、窓に鍵までつけやがって」
珍しく言葉が荒れている。
梨太は鍵の外観を思い出した。
7桁に及ぶ数字のパスコードロック――それをわりとあっさり解いてしまったが、そうでなければ、これ以上なく堅固な金属製である。ただの女一人を閉じ込めるために要るわけがない。軍仕様の冷たい金属で、光の塔は視覚的に鹿を洗脳しようとしていたのだ。
おまえはもう逃げられないのだと。
「あれが解ければ……窓から壁を降りて脱出できるのに……」
「いや無意味でしょ。塔を降りても中庭に着くだけなんだから。それ以前に普通のひとは降りるのも無理だし。塀の向こうは、馬車なしじゃ歩くことも出来ない危険な森だし」
梨太があっさり言うと、鮫島はうめいた。
「うっダメだ、気持ち悪い」
それは飲み過ぎたせいじゃないかと思ったが、酒に呑まれるということ自体、精神の受け皿が限界を越えていることをしめす。
背中を撫で、慰め、抱きしめる。そうして妻を愛でながら、梨太は静かに呟いた。
「おれは、鹿さんが嫌いだ」
驚いて顔を上げる鮫島。そちらのほうには目をやらず、彼はひたすら淡々と吐き出す。
「あのひとは自業自得なんだ、全部。ああなる前にもっと前にやりようがあった。逃げるすべがあった。だけどそうしなかった。思いつかなかったわけじゃなく、その決断と努力を怠ったんだ……あのひとが選んだ道だよ、あの鳥籠はさ」
「……で、でも……」
「それなのに、それを他人のせいにしてる。きっとずっとそうして生きてきたんだよ。虎ちゃんとのこともそうだし、仕事とか、友達とか。卑怯な人だ。弱い。おれは……ああいう生き方をしている人が嫌いだ」
「……で、でも。リタはあいつのことも助けたいって……」
「助けようとしてるよ。でも助けたいって気持ちで動いてるわけじゃない」
鮫島が縋る。当人と殴り合いをした人間が庇い、助けたいと言った男が批判した。梨太は譲らなかった。
「そういう人を救うための政治だもの。これはおれの仕事。だから鮫さんがなにか気負うことはないんだ。法を犯して彼女を助け出そうなんてするなよ。おれたちは今、それどころじゃない。自分たちのことをまずやらないといけないんだから」
「……うん」
鮫島は目を閉じ、嘆息を飲みこんだ。
「そうだな……その通りだ。だけど……」
だけど、のあとを彼女は続けなかった。
続く言葉を、梨太はなんとなく察していた。
――だけども、彼女の境遇は、かつての自分によく似ている。
鹿と鮫島、かたちが違うが、この二人は表裏一体だ。生まれた家、能力、容姿をも人並外れたちからをもちながらも、苦痛の檻に囚われていた。鹿は塔、鮫島は騎士団寮の団長室という違いだけ。
それでも、鮫島はいま旅路に在り、鹿はまだ籠の中にいる。
「でも実際、君はもう旅に出てる。軍を辞めて星帝の妻になろうとしてるだろ。あの人とは違うよ」
「……それは……そこに、リタがいるから」
「ん?」
成立しているような、とっ散らかったような会話。それきり黙りこみ、やがて鮫島は寝息をたてはじめた。まったく、飲み過ぎだ。
しかし徹夜明けで、鮫島らほどでないにせよ飲酒した梨太もヒトゴトではない。妻の体温に引き込まれるようにして、心地いい眠りに落ちていった。
――扉がノックされたのは、深夜になってからだった。




