暴走鹿と戸惑いの鮫
女が二人、呼吸を荒らして座り込む。
辺りに散らばるガラスのカケラ、テラスの椅子もテーブルも横倒しになり、絶対に風では飛ばない――人がぶん投げでもしない限り――というあたりの場所に転がっていた。
膝をつき、鹿は呻いていた。
腫れあがった頬が痺れている。そのため少し舌が回らないが、酒はすっかり醒めていた。
「くだら、ない、ことを。……こんな。わたしは……あなたにこんな風にされる、義務はなにもないわ」
鮫島は無表情。ほとんどケガはなく、人形じみた顔のままである。だがノーダメージでもないようだった。頬骨のあたりを撫でながら、散らかったテーブルセットを回収に行った。椅子まで置いて、腰かける。
「そうだな。だが虎は、リタの友人だ」
鹿もまた、自分で椅子を戻して座った。血の混じった唾を吐き、口元を拭って咳き込む。
そして、笑った。
「意外。あなたのほうがリタさんに惚れこんでるんだ」
「…………また殴り合うつもりか」
「どうして? 別に馬鹿にしてないわ。驚いただけですよ。八年前は真逆に見えたんですもの」
ふうーっと、長い息が出た。足を組み、頬杖をつく。腫れた頬に、自分の冷たい手が心地いい。
「……わたしもね。最初に出会ったときは、彼は本当に、ただの子供で。あんなので騎士をやっていけるわけがないと、思ってました」
鹿の言葉に、鮫島は苦笑いを浮かべた。
おおむね、似たような第一印象ではある。
虎はただ粗暴なだけではなかったが、騎士団では浮いた雰囲気をもつ少年だった。
十五歳で入団。幼さゆえの柔軟性と強靭な鋼のような筋肉が共存し、自分とは違う独特の戦闘勘を持っている。トリッキーな攻防に、組手ではヒヤリとさせられた。成長が楽しみな新人だったと思い出す。
そしてその期待通り成長し、ともに地球へと出立した。
「……馬鹿でうるさくて、下品で。大嫌いでした。だけどあのひとは、積極的に現場に出て実戦で成果を出し、評価をあげていった。誰にでも話しかけて仲良くなったし、陰口やイヤガラセなんて気にもしなかった。十七の時には、もうイッパシの騎士になって。わたしに先輩面をして――初めて地球に行ったあの時も――後続の、わたしに仕事が回らないようにって、無茶をして――」
「あのころはまだ、虎の片想い?」
鹿は鼻で笑った。
「当たり前ですよ。あんな、自分より十も年下の子供、わたしが相手するわけないじゃないですか。……まあたまには多少、凛々しいって言うか、頼もしさみたいなのをカッコイイように錯覚するひともいるんじゃないかなあという気はしますけども」
「……ん?」
鮫島は困惑した。いまいち意味が分からなかった。
「ええと……つまり、結局――二人は付き合っていなかった?」
「付き合ってませんよっ!」
テーブルを叩き、鹿は金切り声をあげた。
「あいつが勝手にそう振る舞ってただけです! わたしはただ、その――最初はただ可哀想だと思って。いつも強気なあいつが、わたしの胸元でメソメソとっ……こんなことになる前に、もっと早く抱いとけば良かった、なんて、すがりついて泣き声だすもんだからっ」
「……うん? うん」
どうしよう、また意味が分からない――そう思いながらも追及するタイミングがつかめなかった。
鮫島は、元来ひととの会話が苦手だ。平常、無言でじっと相手をみつめるだけで話を促すクセがある。だが、それだとふつうの人は話しにくいのだとリタに教わった。以来、なにかしら声を出すことにしている。タイミングが良くわからないが、がんばっている。
だがそんな渾身の相槌を聞きもせず、鹿は一方的にまくしたてていた。酒のせいもあるだろうが、もともとこういう、聞く者の理解力をはからないタイプなのかもしれない。
「部屋に入れたのもそんなつもりじゃ。だって虎ちゃん、あんなにたくさんバラを抱えてきて。ち、ちょうどお菓子があってたから、タバコもただ相部屋じゃ吸いにくいだろうから、その一本だけはココで吸っていけばいいわってただそう親切で――」
「……うん、うん」
「そしたら、俺もう一生吸わないって、うちに箱を置いちゃうし。それから毎日くるし。おかげでいつまでたっても雌体化が終わらなくて出歩けないし、それでまた家にくるからまた雌体化するしの無限ループだし!!」
「うん」
鹿は雌体化すると女そのものになり、騎士団で働くのは難しかった。それにしても長く休んでいたなと今更ながら思い出す。
ついで、当時の虎がフワフワニヤニヤしていたのも。
「ヒマつぶしにお喋りくらいしますよ。それは別に彼の話が楽しかったとかそういうことでは。旺盛な好奇心と知識欲で、わたしは科学者として――下民の暮らしとか家族とか、面白可笑しくて――明るい気持ちに――」
「…………」
鮫島は、彼女のことをこれまで生きてきた中で一番、話がしにくい人間だと思った。
ひたすらに意味が分からない。頭からもう一度講釈を頼もうか、それともいっそもう一発殴って黙らせようか――しかし、彼女もさすがに大人だった。落ち着いてくると、色々と自覚してきたらしい。たっぷり深くまで掘り進んだ墓穴の底で、赤い顔を両手で覆った。
「だってあいつ……馬鹿なのに、子供のくせに、出会ってからずっとすごく優しいんだもんっ――」
鮫島は嘆息すると、もうなにもかもどうでもよくなって、椅子の背もたれに体をゆだねた。
鹿は、目を伏せた。
この世の光を遮断した、真っ暗闇の世界では、古い夢がよく見える。
「楽しいだけで、終わるつもりだったんです」
瞼の裏の映像は、いつでも鮮明だ。
「どうせあっちが先に飽きるって。若い彼の、この先長い人生をほんの一時、つまみ食いしているようなもので、なんの支障もなく終わると思ってたんです。
……いつかは終わる。だからそれまでは、めいっぱい楽しもうと。
それが、我が身を女の体にし、ますます女の業を背負うようになり……いつまでもこうしていたいと、願ってしまいました。できることならこのまま、女になってしまいたい。現人神と呼ばれても、どこにでもいる女と同じように出来ている。ならば、どこにでもいる女と同じように生きていけるんじゃないかと――」
「……できるんじゃないのか?おまえさえ、そのつもりになれば」
鮫島の言葉に、鹿は目を伏せた。
「できるだけのことはしました。でも無理だった」
鹿は中庭の向こう、パスワードキーロックに目をやった。あの扉を開こうと、0000001から始めた突進は、001000を打ち込んで以来もう触っていない。
「……チャンスだと思ったのは、真実です」
鹿は、閉ざされた窓から視界だけを遠くへ飛ばす。
「死んだ兄に代わり、わたしは塔の跡継ぎを生まなくてはいけない。そして生んだ子を渡せば、わたしはまた自由になれる――虎ちゃんと暮らせるのではないかと、己の欲だけでそう考えました」
鮫島は責めなかった。黙って続きを聞く。
「だからわたしは、虎ちゃんに何も言わないで彼の子を宿し、塔へと戻りました。塔のチカラがあれば、赤子は死んだと偽装するのは可能。何食わぬ顔で騎士団へ帰るつもりでいたんです。
……だけどわたしは、ごくふつうの女であると同時に、ごくふつうの母でもありました。おなかが大きくなっていくにつれ己の愚かさに気づいたのです。この子を売るなんて出来ない。産み捨てて、自分と同じ運命になど堕とせない。こんな気持ちになるなどまったく計算外でした。それはもう臨月……陣痛を感じた瞬間のことでした」
「……馬鹿だな、おまえ」
鹿は笑った。不思議と、これまでにないほど明るく突き抜けた笑顔であった。
「ええ、まったくその通りです。分娩室で意味もなく抵抗し、四日も陣痛をこらえて、産後の肥立ちまで悪くしてしまって」
鹿はどこか自慢げに、己の愚行を語って見せた。自嘲しながらも、何かそれは彼女にとって勲章であるようだった。母親とはそういうものなのかもしれないと思いながら、未知の世界に、鮫島は口を挟まなかった。
「コトラは完全な雌体である以前に、赤毛の血が色濃く出ています。叔母は、できればわたしに産ませたいと言いました。できれば……と」
「……できなければ――コトラは人質か」
「そういうことでしょうね。そう言われたわけではありませんが。……年明けには青い髪の『夫』を呼び入れる、無事に次の子が生まれたら二人ともこの塔を出してやると。
冗談じゃない。コトラも次の子も、わたしの子供です。塔には渡しません。そもそも生まれることはありませんけれども。
……わたしはそれを承諾し、表向き、従っています。
コトラだけはなんとか出してやれるよう、少しずつ下男を懐柔しています。コトラが外に出さえすれば――」
強い風が吹く。
秋の終わりの冷たい風は、脂肪のない女を弄り、自分勝手に過ぎていった。鹿の髪はひどく乱れたが、その視線だけは揺るがない。
枯れ木のような足で、それでも一人で立っていた。
「――わたし、虎ちゃん以外の子供を生むなんて、死んでも嫌。絶対に。絶対に――死んでも嫌だから……」
光を含んだ青い瞳がきらきらと輝き、そして一筋の涙をこぼした。
鮫島は、それを黙って見つめるしかなかった。




