梨太君の発揮
コトラが目を覚ました時。
窓際には、大きな背中があった。
――母親ではない。背丈はそれほど変わらないが、もっと逞しく、大きな背中だ。赤茶色の髪は短くて、男の人だとすぐにわかった。叫ぶ。
「おとうちゃん!?」
「……んっ?」
しかし、彼は父ではなかった。父の顔をちゃんとはしらないが、自分によく似ているといわれて想像していたものはある。それと比べ、この青年はなんというか、丸い。
「……あ……リタだ……」
「おはようコトラさん。えっと、一時間くらい寝てたかな」
柔らかく微笑んでくれるリタ。
「お母ちゃんは?」
「まだ帰ってないよ、うちの奥さんも。まあもうじき帰ってくるよ、たぶん。それまで一緒に待ってようね」
「うん!」
即答すると、リタは心から嬉しそうに笑う。
今朝あったばかりの青年は、この館の誰よりも親しげだった。いつもコトラと視線を合わせ、まっすぐ目を見つめてくれる。乳母のいつも同じ形の笑みと違い、コロコロと変化する表情。幼く拙い自分の話をちゃんと聞いて、全部反応してくれている。それがすごくホッとするのだ。
(……本で見た、『トモダチ』って、こういうかんじなのかな?)
しかし、リタはまた窓のほうへ向き直り、黙ってしまった。遊んではくれないのかな、と思いつつ、ソファを降りて歩み寄る。
リタは大量の紙切れを持っていた。
荷物はなかったはずなので、あちこちのポケットに分けてしまっていたのだろう。覗き込むとなにかのメモらしい短文だ。
さらに数冊、分厚い本が床にある。母親の本棚にあったものだ。光の塔の歴史という題だけ読める。
大量の紙に囲まれて、青年は窓に向かって立っていた。
「……なにしてるの、リタ?」
コトラの問いに、リタの返事はおかしなものだった。
「んー。やあ……――あんまりこういうのに干渉したくないんだけどなあ。たぶんこれ、おれの仕事じゃないしさあ」
ピポピベパプペ。変な音がする。背伸びをしながら見上げると、リタはなにか、窓にくっついた機械を触っていた。ボタンを押すたび、色んな音がするらしい。
「……それ、なあに?」
「ああ、見るの初めてなのか。鍵だよ。数字がなぞなぞになっていて、これを解けば窓を開けられるんだ」
メモを見ながら、リタはもう一度操作した。ポバププペピツ。小さいが不愉快な音がした。ダメだったらしい。
リタはショックもなく舌打ちもせず、一度だけ瞬きをして、またメモを見る。
「ハズレ。次いこう」
「じゃあ、リタはこれから、この鍵のために全部のボタンを押していくの?」
「まさか。七桁の、オール・ゼロから始まり九ゾロで終わる数列のパターンは一千万通りだ。時間もかかるし、指が潰れちゃう」
「んんっ?」
「環境と解析ソフトがあればブルートフォース攻撃で一秒もかからず割出ちゃうんだけども。荷物を取り上げられてそれが無い今、地道に押すしかない。というわけで辞書攻撃でいってます」
「うん? んん?」
さっぱりわからなくて首をかしげるが、リタは相手にしてくれなかった。ついさっきまでは優しく親切な大人だったのに、こうなると違う生き物になるらしい。意外と太い眉を中心に寄せ、細めた目でじっと数字を見つめる。その横顔は出会った時と別人のようだった。
三度目の入力をしながら、リタは突然、コトラに尋ねる。
「コトラさんの誕生日と、あと生まれたときの身長や体重はわかる?」
「え。ええと、ラトキア歴216年の、3の月、26日目。45センチ、2580,2グラム」
「オッケーありがとう」
そういって、リタはメモ用紙に「2160326」「4525802」と書き起こした。さらにそれを、逆にしたり組み替えたりしたものを並べ、横に×を書く。
「……それってなあに」
「うん、こういうパスワードを考えるときは、普通、開ける人が覚えやすいものを設定するんだけどね。特に開けられたくない人がいるときは、その人が真っ先に試しそうなものは避けるだろうからさ」
「……お母ちゃんのこと?」
「そう、だから鹿さんの誕生日やら当主就任記念日とかも外して、およそ鹿さんが知る由のないもので、かつ、この光の塔の関係者が広く知っているものの関係で、7桁の数字になるもの……それで絞ってはみたけど正解があるかはまだ博打、全部試すのは時間との勝負だね。うまくいけばおなぐさみだ」
そう言いながら、リタの手は止まらない。リストを片手にキーを押していく。
7800020。小さな電子音と、モニター画面にはNGのメッセージが表示された。
「今の数字はなに?」
「光の塔の設備に何かトラブルがあったときにかける業者の電話番号」
7726335。再びエラー。コトラが聞くまでもなくリタがいう。
「……ヒグラシさんが大好きで取り寄せるクリーム菓子の商品番号」
7400022。
「神話で、三女神が作り上げたという山の標高」
6910098。
「この光の塔から星帝の宮殿までの距離」
「……どうして、大きな数字から入れていくの?」
「片っ端からいくぞってなったとき、普通みんな小さい数字から試すから」
6398966。
「今持ってるメモのが全部ハズレたら、また情報収集にいくよ」
「……そしたら、コトラと遊べない?」
「そうだねえ、ごめんよ。うーんでもイケると思うんだよなあ。館への入り口と、中庭に続く扉はそのパターンで開いたもん。ココのも同じ人間が設定しただろうから、パターンは同じのはず――」
6244587。
――ポンッ。
何か、明るい音がした。続いてガチンと胸のすくような音が響き、リタはニヤリと笑った。
鍵が開いたのだ。口をあんぐり開けて、コトラは目を見開いた。
「……う、そ。……ほんと!? 開いたの!? こんなすぐに!」
「すぐっても君が寝てる間にずっとやってたし、事前の情報収集で徹夜してるけどね。ちなみにコレ、鹿さんが子供の頃吐くほど大嫌いだったお稽古の電話番号でした。塔のひとは本当に意地悪だなあ」
リタは首を回し、自分の肩を揉みながら大あくびをした。
「ふああ。……コトラさん、これでこの鍵は開いたけど、お母さんにはまだ内緒。絶対に内緒にしててね。カーテンで隠しておくから開けちゃダメだよ」
「う、うん。鮫さんには?」
「鮫さんにもダメ。本当にダメだから、頼んだよ。おれとコトラさんだけの内緒の約束だ」
ずいぶん眠そうな声で、それでも言葉はとても強い。
コトラが頷くと、安心したらしい。ソファに腰を下ろした。
「……窓を開けられることを知ったら、鹿さんが無茶をして、飛び出そうとするかもしれない。それはとても危ないことだから」
「じゃあ、リタはなんのためにがんばったの?」
リタのそばに座り、尋ねてみる。彼は振り向いた。丸く大きな目にふっくらと子供みたいな頬で、明るい顔に戻っている。
「コトラさん。ラトキアでは、家事や育児は母親の仕事でしょ。じゃあ父親は、何をしていると思う?」
「……わかんない」
コトラは素直に言った。見たことが無いからわからない。
リタは笑った。
「妻と子供、その家を全部まるごと抱き上げて、助け上げようとしているんだよ」
そう言い切ってから、「ぶっちゃけおれには無理だけどねえ」などと笑いつつ、リタはコトラをヨシヨシ撫でた。




