鮫VS鹿
ガタンッと乱暴な音を立て、鮫島が立ち上がった。コトラも肩をすくませる。梨太はとっさにドレスを掴んだが、手首をひねられ引きはがされる。それでも抱きついて縋りつく。
「鮫さん乱暴はダメだってっ!」
「別に何もしない。ただ立っただけだ」
「……質問なら、どうぞ?」
鹿は微笑み、また手酌でワインを注ぐ。
ちょうどボトルが空になり、鹿は冷蔵庫から二本目を持ってきた。
鮫島が勝手に同じことをして、二人の手元にそれぞれボトルが鎮座。
にらみ合ったままコルクを開けると、手酌で黙々と飲み始めた。
「あ、あのぅ。ふたりとも……?」
梨太の気遣いを無視して、鮫島は胡乱な目で鹿を睨みあげた。元部下にむけドスの利いた声を出す。
「どういうことか、ちゃんと説明をしろ」
鹿は視線だけグラスから上げた。
「……。と、申しますと」
「お前の立場は理解している。スラム育ちの虎との結婚は許されない。無理やり引き裂かれたのか、自ら去ったのかも問う気はない」
「そうですか。では何についてお尋ねでしょう」
「再婚も理解を示す。だがこれはどういうことだ。今日会ったあの優男は何人目の夫だと?」
鹿は答える。こともなげに、
「八人目……いや九人? どうだったでしょうか。まあそのプラスマイナス1です。コトラが生まれた翌年から、最低でも一年に一度のペースで入れ替わりがありますから」
「なんなんだそれは! 婿選びにしても不自然だ。おまえは、この家はいったいなにをしようとしている!」
鹿は笑った。
「七つの子の前で話せとおっしゃるの?」
鮫島はグッと喉を鳴らし、梨太のほうを見た。梨太は一瞬だけ迷ったが、首を振る。
「鮫さんが聞いて。おれのほうが部外者だから」
鮫島は頷くと、再び立ち上がり、鹿に向かって顎をしゃくった。鹿も素直に席を立つ。
そうして、二人は部屋を出ていった。
二人ともワインボトルを持ったままなのがものすごく気になるが、仮にもこの国の姫と軍団長、そうそうおかしなことにはならないだろう――ならないはずだ――たぶん。そう、信じたい。
「……やれやれだなもう」
へたりこんだ梨太を、コトラが覗き込んできた。
緊迫した空気に、子供は怯え切っていた。頭を撫でてやると、肩に抱き着いてくる。ひとなつっこい子供だ。
「ごめんね。お母さんと過ごせる時間は短いっていってたのに、雰囲気悪くしちゃって」
コトラは首を振る。
「でも、いつもよりずっとお喋りできたよ。いつもはまだ食べ終わってないのにお迎えが来てしまうもん」
「この部屋で遊ぶこともないんだね」
「おかあちゃんとおとうさんの部屋だもの。コトラは、ご飯をたべるだけしか入ってはいけないの」
「……そっか」
コトラの背中をポンポン叩く。
少女は気持ちよさそうに、梨太に体をもたれさせていた。
「リタの身体、おっきいねえ」
「……そうだね」
眉をしかめつつ、精一杯、穏やかに応じる。
梨太は大きな男ではない。あの痩せた女よりかはいくぶんマシな程度である。
(……この子は『父親』に抱かれたことが一度もないんだ……)
鮮やかな朱金の髪に、猫のような瞳。見れば見るほど虎に似ている。実の父親と同じ姿をして、その父の姿を知らない。
梨太は目を閉じた。
「虎ちゃんが君をみたら、一日中ダッコして、離さないんだろうな……」
「本当!?」
思いのほかコトラは食いついた。身を乗り出し、梨太の顔をのぞき込む。
「とらちゃん、コトラを好きになるかな?」
「……うん、きっと、絶対に」
「じゃあリタは? リタもコトラを好きになってくれる?」
奇妙な言動だった。早熟な少女の無垢な問いかけとは違う。なにか必死で訴えかけている。
梨太は無理矢理に優しい笑みで答えた。
「もちろん、今、もうすでに大好きだよ」
「でも――あのひとは、コトラが嫌いだよね」
「鮫さん? どうして? ちょっと子供と仲良くなるのがヘタで、顔と声が怖いだけだって」
「……あのひとは、きれいだから」
少女のつぶやく声は固かった。
目を閉じ、俯く。小さな方が、わずかに震えていた。
「みんな、コトラが汚いから嫌いなの。嫌なことを言ったり殴ったりする」
「……それは、『おとうさん』のこと? その人はもういないから大丈夫だ」
「ううん。おかあちゃん以外はみんな。コトラが赤いから。赤い髪は、光のとーにふさわしくない、汚い血だから――」
そこでふと、コトラは梨太の髪を掴んだ。くるりと指に巻き付けて、
「リタの髪は、あたしのと似てるの」
「ああ、赤色ではないけど暖色だよね」
コトラの瞳が虚空をにらみ上げる。その先にはなにもない、ただ無機質な壁に囲まれているだけだ。
この少女にとっての世界のすべて。
それすらも、コトラの敵なのだと理解して、梨太は息をのんだ。
「――だから、鮫ってひとは嫌い……」
少女がつぶやく。だが乱暴されたわけではないことも思い出したのだろう、自分の感情がよくわからなくなっているようだった。背中を叩いて慰めてやる。
「鮫さんは、たしかにきれいだし青い目をしているけど、この館にいるひとたちとは違うよ。本当に優しい人だから」
「……それに、おかあちゃんを怒ってた」
「うん。鹿さんやコトラさんを、可哀想だと思ったから」
コトラが面をあげる。
「……だから、彼女はきっと……なんとかしようとしてるんだ」
「なんとかって……?」
「……なんとか。どうにか、少しでもよくなるようにさ」
明言することは何も出来なくて、梨太は黙り込み、ただコトラを抱きしめた。
「二人は、とらちゃんと友達なの?」
「そうだよ。おれは同じ年なんだ」
「とらちゃんてどんなひと?」
「いいやつだよ。強くておもしろくて、ものすごく優しい。それに、おれよりずっと大きなひとだよ」
「……おかあちゃんが言ってたとおりなんだね……」
コトラは幸せそうに目を閉じた。
それでもう、何も聞いてこない。目を閉じて梨太の腕の中にいた。
生活感のない広い部屋。人形部屋という第一印象はもう無くなり、「座敷牢」という言葉が頭に浮かぶ。
親に会えぬ子。子に会えぬ親。
より哀しいのは、どっちだ?
「ふぁ……ぅ」
不意に生あくびが出た。真面目な考え事をしたいのに、妙に思考がぼんやりしてきている。ワイン三杯で想定以上に梨太は酔ってしまったようだ。そういえば昨夜はほとんど徹夜、睡眠不足に満腹に飲酒、さらに子供の体温で、頭も体も活動停止しかかっている。
胸元を見下ろすと、コトラが完全に寝落ちしていた。あれま、と呟き、そうっと抱き上げる。
「おれが部屋を出たほうが良かったかな……」
とりあえずコトラをベッドに――はなんとなく憚られて、ソファに寝かせ、ジャケットをかけてから窓辺へ向かった。
この部屋の窓は開かないと鹿は言った。地上数十メートルの高さだ、填め殺しになっているのだろう。
だがガラス越しに朝日を浴びることはできるはず。それでなんとか目を覚まそうと思った。子供はともかく、自分まで他人の部屋で昼寝とはいかない。
分厚いカーテンを開く。
そして目を見開いた。
窓は、想像していたような填め殺しではなった。
巨大な引き戸式の鋼鉄製である。そこに鍵が付いていた。
光の塔の鉄の門、塔へと続く中庭、そして軍の牢にもついていた――このラトキアで最も堅固といわれる、パスワードキーロックである。
(――窓を開くことはできない)
鹿の言葉を、噛みしめる。
(――ここから出ることが出来ない)
(死ぬことすらも)
梨太はじっと、その鍵を睨みつけていた。
強い風が長髪を弄る。青い髪を押さえながら、鹿は声を上げた。
「風がうっとうしいですね。さっさと話しを終えて部屋に戻りましょう」
鮫島は髪留めをほどき、鹿に投げた。孔雀のように黒髪が広がったが気に留めない。
「邪魔なら縛るか、切ってしまえばいいだろう」
「……そういえば、髪を伸ばしたんですね。それにその衣装……ずいぶん女性らしい格好で」
「服はそっちが用意したものだ。これでも一度突き返して、マシなものをおろしてもらった」
「あら、そうだったのですか。それは失礼しました」
鹿は髪留めを使わなかった。結局、長い髪もそのままで、ワインボトルを片手であおる。
立ったままでゴクリと呑み込み、また手をおろして、鹿は不敵に笑っていた。
「こちらも、失礼……。正直ね、団長。わたし、酔っ払いでもしないとあなたと目を合わせられないの。あなたって怖い顔してるから」
「ラッパ飲みしながらより、その言い草のほうがよほど失礼だ」
半ば呆れて嘆息してから、自分も一口、手前のワインを飲み下す。
実は自分もそれほど飲めるわけではない。気分が悪くなったことなどはまだないが、しっかり酔ったという感覚がある。
それでも気にせず、鮫島はさらに飲んだ。
「それより質問に答えろ」
「なんでしたかしら? ――ああ、そうだ。わたしがなぜそんなに何人も、男をくわえこんでいるのかって話ですよね」
「……なぜ短期間に、再婚を繰り返すのか、だ」
辛抱強く言いなおす。鹿は特に表情を変えなかった。
「別に、騎士団長殿が気にかけるようなたくらみではありませんよ。叔母様は、わたしに子供を産んでほしいんです」
「……次期天皇なら、コトラがもういるじゃないか」
「あの子は生まれつき完全な雌体です。雌雄同体じゃない。女は、天皇にはなれない」
そうだったのか――と、素直に驚く。だがそれでも、何度も夫を変える理由がわからない。率直に尋ねてみると、鹿も酷くシンプルに、答えをくれた。
「飽きるでしょ。せいぜい一年で、同じ女と愛のないセックスなんて」
「……お前たちは、どうやって出会ったんだ?」
「うふふ。社交界でお互いに見初めたとでもお思いで? 団長殿は純情ですのね――そんなわけないでしょう。親族が、ラトキアで名だたる貴族や金持ち連中、由緒のある家に通達を出したのですよ。姫の夫となる者を募集。子供をつくるようつとめ、見事懐妊が認められたら塔の住人となれる。ただし期限は一年間。一年で成果が出なければ生殖機能不全と見なし『夫』を解雇、翌日には次の応募者がわたしの寝室へやってくる――」
「…………」
「選出するのは叔母です。最初の夫がカエルのようで、わたしが身投げしようとしたせいでしょうか、以後はなんだか優男を優先しているみたいです。もしかしたら年下好みと思われてるのかもしれません。……愉快ですね。どうせわたしは目を閉じて仰臥しているだけで、相手の顔など見もしませんのに」
鮫島は、鹿と長話をしたのはこれが初めてだった。コトラに言ったとおり仲のいい同僚ではない。記憶にあるのは伏目がちで、言わなくてはいけないことも言えない内気な人間である。――それが、こんなにあけすけに、勝手にしゃべり倒すような女だったとはひどく意外だった。
いや、酒のせいか?
柱にもたれ、またワインをあおる鹿。
鮫島もボトルを傾ける。
「――ふう。フフッ。わからないものですね。天皇といってもこんなカビ臭い塔の管理人、それに子持ちの年増に百も二百もの男が順番待ちをしているだなんて――ねえ?」
「……この、光の塔は、古くからそんなことを続けていたのか」
「さあ? 男子の相続は有史以前で、まあ政略結婚や、一夫多妻の重婚は当たり前にあったのでしょうけど……内親王の婿取りは初めてのことだと思います。兄が亡くなり、塔にはもう直系男子はいなくなってしまいましたから」
「逃げられないのか」
鹿は腕を伸ばし、中庭の向こう、館のほうを指さした。
「あの暗号式施錠の番号を、わたしは知りません」
「おまえはそれで嫌じゃないのか。代行とはいえ、おまえはここの当主、実質は天皇――」
「天皇だからって、思い通りになるならばとっくにそうしている!!」
バリンッ――! 鹿は、ワインボトルを石柱に叩きつけた。
表情が一変していた。眉をしかめ、唇をかみしめて。瑠璃色の瞳が潤んでいる――かと思ったとたん、顔面が痙攣すると、高らかな笑い声を上げた。腹を抱えて、一人、笑い続ける鹿。
「逃げられないわよ――そうでなければ! 誰が小便器にも劣る暮らしを続けるものか――ははははは。考えればわかるでしょう。団長はおかしなことをいう。可笑しい。可笑しくってたまらない。いっそ娼婦や奴隷とでも呼んでくれればいいものを、当主? 姫さま? 妻だの夫だの、なおみじめだ!!」
あははははは――全身を縦に震わせて、笑う顔を骨の浮いた手で覆い隠す。
「嫌じゃないのかって、団長ったら馬鹿なの? 嫌に決まってるでしょ。頭悪いんじゃない。馬鹿ね、バーカ。あはははは――嫌ですよ。嫌。いやだ。いや、嫌だァ――」
砕けたガラスと、赤ワインで汚れた地面に膝をつく。ドレスが赤く染まるのを、鹿は一切気にかけなかった。腹を押さえ、これ以上なく可笑しげに、げらげらと下品に笑いながら、
「嫌だァァ――もう嫌……いや……」
そういって笑う元騎士に――騎士団長は、呆然とした。
頭に鹿の言葉が入ってこない。どこか非現実的なものに見える。魂が理解を拒絶していた。
ただ気が抜けた声でつぶやく。
「……薬と言ってたのは……避妊薬か」
うなずく鹿。鮫島は反射的に不要な言葉をはく。
「違法だ。薬物による避妊は正規では存在しない」
彼女はまた笑った。今度こそ馬鹿にするように、鼻を鳴らす。
「わたしを誰だと思ってる。あの烏のもとにいた科学者ですよ。オーリオウルの避妊薬が違法とされたのは雌雄同体のラトキア人に合わなかったから。わたしが精製したものは確実かつ無害。それに『違法』と認定されていません。新薬として届け出てませんからね、『非合法』なだけです」
「……いまのおまえが健康そうには見えない」
「薬を飲んだ日は、一日ずっと腹痛が続くので、食事が難しくて」
「無害といわなかったか?」
「死にはしないわ。一族がみな老いて朽ちるまでは」
そう言い切った、鹿の口調は強かった。
泥酔で呂律が怪しく、なにもかもが不安定になった女。折れそうに細い体で、それでもしっかりと胸を張る。
「光の塔は、わたしの代で終わり。彼らはコトラを当主にはできない。次期天皇の誕生を夢見ながら、老人たちは一生を終え、塔は崩れ落ちるのです」
「……それで……おまえは、もう納得しているというのか」
「……仕方のない、妥協点、といったところでしょうか。もちろん本望ではありませんが、この家に生まれたもののさだめ……逃れることのできない、わたしの宿命――」
「ならばなぜ虎に抱かれた」
その言葉に、鹿は声を詰まらせた。
青い瞳を大きく見開き、奥歯を噛む。
ラトキアの現人神の末裔は、武成王の子にとらえられた。
「わかっていたはずだ。決して幸福な結末はないことを。
おまえ――初めからわかっていて虎と――自分の身代わりに、この塔に売り捨てるつもりで産んだんじゃないだろうな……?」
鹿は無言のままだった。その顎先が、かすかに縦に振られる。
鮫島は、鹿の頬を打った。パァンと高い音を立て、衝撃に女の顔が横を向く。
打たれた鹿はみるみる赤らむ頬に触れ。わななきながら睨みつけてくる。
「……痛い。本気で叩きましたね」
「冗談を言うな、撫でただけだ。私が本気を出したら、そんな痩せこけた頬など骨が砕けている」
鹿は目を見開くと、握ったこぶしをまっすぐに打ち付けた。華奢な拳が鮫島を横殴りにした。それでもなにごともなかったかのような顔に、鹿はもう一度強くこぶしを握り、腰を据え、体重を乗せて打ち込んだ。ゴツッ、と重い音。今度こそ鮫島の顔にこぶしがめり込む。
「……いじめられて、泣いていただけのわたしに殴り方を教えてくれたのは、あなたでしたね」
鮫島は目を細めた。口の端が切れ垂れた血をぬぐい、こぶしを握る。
二人の元騎士は、無言のまま対峙した。
光の塔、楽園のような箱庭に、打撃の応酬音が鳴り続けていた。




