鹿さんの部屋と小さな虎
鹿の部屋は、光の塔の中階ほどにあった。
小さな扉に反して、部屋の中はめっぽう広い。梨太の感覚で、ちょうど学校の教室ほどだろうか。
私室というより、やたらと巨大なワンルーム住居である。
鏡台とデスク、クローゼットに並んでやたらと立派なキッチン、一通りの電化製品、ダイニングセットがある。隅の方には巨大なベッド。その向こうにはアコーディオンカーテンが見えた。おそらくはトイレと風呂場だろう。
この部屋だけで、ヒトが暮らせるだけのものが揃っている。
だが、それだけだった。
(……人形部屋みたいだ)
梨太は思い切り眉をしかめた。
「あまり空気が良くないでしょう? ごめんなさいね」
鹿はそう言って、キッチンの換気扇を回した。壁には巨大な窓があるらしいが、分厚いカーテンでふさがれたままである。日中だというのに、天井の電灯で部屋を照らしていた。
「ここの窓は開かないものだから。でも窒息するようなことはないからご安心ください」
「鹿さんは、館のほうへいくことはないんですか」
梨太の問いに、鹿は頷いた。
塔の入り口には内線電話があり、鹿はそこで、我が子を連れてきてくれるよう連絡を入れていた。館はすぐそこにある扉一枚向こうなのに、だ。
「わたしの暮らしはこの塔と、あの箱庭までで完結しています。もう五年も……あの白い扉を抜けたことは、一度もありません」
「それは、鹿さんが望んで出なかったということですか。それとも、出られないということですか」
後者です、と、鹿は簡単に肯定した。
「わたしは、ここから出ることが出来ません。これから天皇の母になる者だから」
「……これから母に? でも、皇太子はもうすでに――うんっ?」
と、足元に違和感を覚える。
ダイニングテーブルの下、梨太のズボンを、くいくいと引かれていた。見下ろすとそこに、橙色の頭頂部があった。
「うわあ!」
思わず、歓声を上げる。
「と、虎ちゃんだっ!」
言われて、少女は小首を傾げた。
あらあら、と鹿が身をかがめ、少女を手招きする。
「コトラったらいつのまに。それにどうしてこんなところにいるの?」
「あっ、あのね。ヒグラシさまが。行けって。ちょうど扉があいてたから!」
なにか一生懸命、特に意味のないことを主張する。その所作はまるきり子供だ。
鹿の子供――次期天皇は、思いのほか簡単に客前へと現れた。
年はまだ6つか7つ頃、鮮やかな橙色の髪をした女児である。
猫を思わせる大きな金色の目、子供らしくふくよかな頬をしているが、ちんまりした鼻は細く尖っており、唇は薄く、尖った八重歯がのぞいている。まさに「小さな虎ちゃん」。それがお嬢様らしいワンピースにおさげ髪をしているのだから破顔せざるをえない。
鮫島も吹き出した。
「くっ。か、かわいい。けど、ちょっと気持ち悪い」
「そんなこと言っちゃだめだよ鮫さん。でもおれも同意。いやホント、意外とちゃんとかわいいのがまた面白い」
「ほんと、虎ちゃんそっくりでしょ?」
と――鹿が笑った。
これまでにない、明るい声で。鈴を転がしたような音をたて、朗らかに笑う。娘の肩に手をやり、二人に挨拶をするよう促した。
少女は少しだけ緊張した面もちで、それでもしっかりと大人に向き直る。
きちんと手をそろえ、まっすぐに背筋を伸ばした。
「はじめまして、ようこそ、ひかりのとーへ。あたしはコトラともうします。この場に、呼んでいただき、ありがとうございます。おきゃくさま、今日はごゆるりとおくつろぎくださいませ」
梨太は再び吹き出し、少女のしっかりした挨拶を褒めた。身をかがめて視線を合わせ、きちんと礼をして見せる。
「はじめましてコトラさん。おじゃましています。おれはリタ、こっちはおれの奥さんです」
鮫島は、どうしていいかわからないようだった。子供の扱いになれていないのだろう、なんだかそわそわしながら、同じように身を屈める。
切れ長の瞳にいつもの無表情、柔らかな低音でささやく。
「私はラトキア騎士団の現団長、鮫。鹿は君が生まれる前まで私のもとで働いていた。よろしく」
少女は目をぱちくりとさせた。眉をしかめながら、恐る恐る確認する。
「おかあちゃんの友達?」
「友達かと言われたら、そうでもない。正直ここに至るまでろくに会話をしたこともなかった」
「…………敵?」
「敵ではない。味方になるかどうかは、リタの扱い次第ということになるが……しかしお前を傷つけるということはないだろう。そこは信用してほしい」
実に力強い騎士団長のお言葉に、少女は眉を寄せてウウと唸った。まず母親を見上げ、そして梨太の方へ駆け寄ってくる。どうやらこの数分で、梨太の方がなつきやすいと見抜いたようである。鮫島が後ろ頭を掻く。
「……なぜだろう。私は子供になつかれない」
「まあ、無理しなくていいんじゃない?」
梨太と、鹿が笑った。
デザートのカナッペは、この部屋の冷蔵庫に支度してあった。堅いビスケットにクリームやカットフルーツ、はちみつがかけられたもの。
「ビスケットはわたしが焼いたんです。お口に合うといいですが」
「へえ。うわあすごい、美味しそう」
鹿は微笑み、飲み物も用意しますねと冷蔵庫へ。しかし持ってきたのは、コーヒーでも紅茶でもなくボトルワインだった。
「朝食のデザートに、お酒ですか」
「あら、地球では珍しいことです?」
問い返されて、鮫島に意見をあおぐが彼女も首を傾げた。ラトキアでは当たり前ということはないらしい。それを見て、鹿は初めて塔の非常識を知ったらしい。それでもすぐに、栓を抜いた。
「そんなに強いものではありませんから」
「はあ……じゃ、じゃあ、いただきます……」
梨太は全くの下戸ではないが、朝から飲酒というのは初体験。すこし悩んだが、まあこれも経験だと割り切ってグイと飲む。思っていたよりは飲みやすい。色も梨太の知る赤より淡く見える。
鮫島も、手前のグラスに遠慮なく手酌した。
「鹿さんは、お酒は?」
梨太が聞くと、首を振る。
「ちかごろはご無沙汰でした。もとは好きでしたが、今飲んでいる薬と相性が悪いので」
「……薬?」
鮫島がぴくりと眉を動かす。鹿はゴブレットを取りだすと、なみなみ注いで、一気にあおる。
「だけども今日は、薬を飲んでいませんので。久しぶりに酔っぱらっちゃおうかなと」
「おおっ、いい飲みっぷりで」
空になったゴブレットにお代わりをそそぐ梨太。鹿は素直にそれを受け、また半分ほど一気にあけた。どうやらラトキアでは、ワインは大衆的なものらしい。居酒屋のビールのように気持ちよくあおっていく鹿に、梨太はなんだか嬉しくなった。
「思ってたよりは飲みやすいです。カナッペも美味しい」
「うふふ、ありがとう。じゃあリタさんにもご返杯」
梨太のゴブレットにも注ぎながら、鹿は上機嫌。無許可で鮫島にも注ぎながら、独り言のように言った。
「八年、になるのですか。もう、あれから。あの少年と、こうしてラトキアの我が家でお酒を飲む日が来るとは思いもよりませんでした」
「おれもですよ」
もしゃもしゃとカナッペを咀嚼していたコトラが、ワインボトルを奪い取った。二人の仲間に入りたかったらしい。気を利かせた鮫島が自分のゴブレットを差し出すが、どうも嫌われたようで、
「リタに入れるの!」
と拒絶され肩を落とす。リタは仕方なく、まだなみなみと入っていた二杯目のワインを飲み干した。
ワインは甘く、爽やかで飲みやすい。だが奥底から突き抜けるようなアルコール臭が鼻を刺す。これってけっこう度数強いんじゃないだろうかと思ったが、二人のラトキア人はぱかぱかと飲み進めていた。
鹿は、痩せた体から想像していたよりもはるかによく食べた。朝食は完食していたし、カナッペもどんどん口に運んでいく。
ワインの量が増えるごとに、機嫌もよくなる。
コトラは、しばらくは上品に啄んでいたが、やがて緊張がほぐれたらしい。クリームでべとべとになった手を振り回し、オーバーアクションでしゃべりまくった。聞き役はやはり梨太が選ばれた。
話題は母親のことばかりであった。
「あのね、前髪をおかあちゃんに切ってもらったの。このシュシュはおかあちゃんがコトラに編んでくれたの」
「いいねえ、よかったねえ」
「そう、おかあちゃんはすごいんだよ。夜ご飯はいつもおかあちゃんが作ったの。でも今日は朝から会えたし、すごくたくさん食べるし、楽しそうだし、リタが来たから? だからコトラはお友達がいてくれてうれしいの!」
少々文法が狂ってはいるが、快活でしっかりした主張をする。やはりこの子は虎によく似ている。
梨太は嬉しくなって、彼女に餌付けのフルーツを食べさせる。
そんな平和な空間で、ひとり仏頂面の鮫島が、鹿を見据えていた。
「鹿、子供とは一緒に暮らしていないのか」
鮫島が尋ねる。鹿は苦笑して頷いた。
「館のほうにコトラの部屋があります。衣食の世話をする乳母は、あちらで暮らしていますので」
「なぜ? 母子なのだから、ともに寝起きすればいいではないか」
鮫島の質問に、鹿は押し黙る。自分の話題から母親が責められ始めたのを理解して、コトラは泣きそうになっていた。こういうことをするから子供に嫌われるのだよ鮫さん、と思いつつ、梨太はコトラに耳打ちする。
「コトラさんは、おかあさんが大好きなんだね」
少女は大きく頷いた。
「うん。だけどおとうさんは嫌い」
「……そ――それは、ええと。虎というひと?」
コトラは先ほどと同じ大きさで、首を振る。
「ううん、とらちゃんは大好き! あのねリタ、知ってる? とらちゃんってかっこいいんだよ。知ってる?」
梨太は身を乗り出した。鮫島は表情を険しくし、鹿は無言で酒をあおっている。
「知らないなあ。教えてコトラさん」
「うん。とらちゃんはね、すごく強いの。それですごく優しいの。おかあちゃんが昔、悪い奴にいじめられたとき、そいつらみんなやっつけておかあちゃんを助けてくれたの」
「へえ、それはほんとに知らなかったな」
「だからとらちゃんはコトラのおとうちゃんなの!」
胸を張り、宝物を自慢する子供。鮫島はコトラの一言一句を注意深く聞いて、ふたたび鹿を睨んだ。
「……『おとうさん』というのは、さっきの男か」
「いえ、ひと月前に夫だった者のことですね。コトラを殴る男でした」
ナプキンを丁寧に畳みながら、鹿。そして虚空を見て、小首を傾げる。
「もうこの町にはおりません。さすがに、暴漢を拒絶し追い出すくらいはできますのよ。……じきに次の夫がくるのを、拒む権利はありませんけども」
その瞬間、梨太は産毛が逆立った。コトラも「ひっ」と肩をすくませる。
騎士団長の全身から、獣の殺気が迸っていた。




