郷愁
刻は、少しだけ遡る。
『――あっ、もしもし鯨さん? ――った、やっと繋がった! 聞こえます? 電波――ダイ――ウブですか?』
通信機から聴こえる雑音交じりの声に、鯨は頷いた。
「ああ、聴こえるよ。リタ君」
微笑みを浮かべる。もちろん映像はない。それどころか音声さえも不安定だ。こちらの通信機は高性能でも、バルフレア村では電力も電波もひどく弱い。
それでも、なんとかやり取りくらいは出来そうだ。鯨は微笑みを浮かべたまま、穏やかに語り掛けた。
「先ほど、鰐から連絡があった。馬車の用意が出来たから、そっちに向かうと……おそらく昼前には到着するだろう」
『了解です。じゃあ、おれたちはそれでもう、今日中には出発すると思います。光の塔へ』
鯨は思わず、甲高い声で叫んでしまいそうになる――すんでで止めて、胸を張る。そうしていつもの傲慢な、星帝皇后の声を作った。
「……気を付けていきなさい。あそこは治外法権で、我ら星帝や騎士の威光はほとんど届かない。礼儀を尽くせば、むやみなことはされないだろうが……獣や山賊などより、よほど怖い連中だ」
『脅さないでくだ――よ。そういうわけだから、しばらくはもう――せないと、思います。なにか聞いとくべきことは?』
「ああ、大事なニュースがあるよ」
鯨は用意していた原稿を読み上げた。
まず、梨太を正式に騎士に就任させたという報告。あくまで書類上なので爵位も公務もまだないが、立候補するための条件はクリアした。
そして何人かの星帝立候補者が辞退で減り追加が出たことと、それぞれの推定戦力。
「今のところ、星帝代行であるこのわたし、騎士団長、三女神協会の教主というスリーカードを持つ君はトップと言っていいだろう。しかし最終決定は枢機院が行う。それぞれに推しというものがあって、昔からの付き合い、人脈というのはあなどれない。それを問答無用で黙らせるには、光の塔の当主、天皇の推薦状はぜひ欲しい」
『確認なんですけども、逆に嫌われたら――』
「推薦状がもらえないというだけで済めばいいが、最悪、他の候補者を推薦するかもしれない」
『やっぱそうなる? まあいいや、がんばります』
心配性の割に、意外とあっさり開き直る。鯨は一度肩をコケさせ、クックと笑った。
このしたたかさを、鯨は高く評価していた。唇が自然と笑みの形に持ち上がる。
(――本当に政治家に向いている……ハルフィンもそうだった)
(わたしにはないチカラ。わたしにはできなかったことを、彼ならばきっと――)
鯨は大きく息をつく。最近、そうして息を吐くことが多くなった。かつてはそれすらも呑み込んで、疲れも知らぬ女帝を気取っていたのに。
『――ひゃっぁっ』
……電話の向こうで、妙な声がした。
「ん?」
『ちょっと鮫さ――あっ、なんでもないです。えっとですね、天皇さまに会うのに、せめて何か手土産がいるんじゃないかって今更ながら気づいたんですけども、どうしましょう』
「それは気にしなくていい。ラトキアにはそういった文化はないし、賄賂は選挙法で違反だ」
『そーゆーのって建前で、実は心づけが暗黙の――、っう。――ふやっ!?』
「……リタ君?」
『す、すいませんちょっと待ってください。――鮫さん! 今電話中なんだから邪魔しないでよもう!』
「…………」
思わず半眼になる。
梨太は最後、電話口に戻ったが、またすぐ悲鳴を上げた。
『痛いっ! 噛むな!』
『だってさっき、舐めたら怒った』
『どこにも何にもするな、真面目な話中だから、これ宮殿につながってんだから――ひゃっ、うっ――だめだってばおれ、体の裏側弱い――怒るよ、本気で怒るよ!』
「……リタ君」
ずきずき傷む眉間を抑え、鯨はどうにか、低い声を漏らした。
彼らに授けるつもりだったねぎらいやアドバイスの予定が吹っ飛んでいた。それよりなにより、言わなくてはいけないことが出来てしまった。
「……仲が良いのは結構だが……まだ、ダメだぞ」
『なにがぁっ』
「子作り」
ぶはっ、と梨太が吹き出す音。すぐそばにいるはずの、鮫の声はなにもしない。
『――なんですか藪から棒にっ』
「わたしだって、言わなんでいいなら言いたくないわ! まったく、塔に着く前から声まで変わって。鮫、よくもそれだけ雌体化が進んだな? お前いったい何を考えながら旅をしとったんだ」
『私は薬で無理やり男になっていただけだから、効果が切れたら戻るだろう』
「それにしたって早いわこの色ボケ騎士団長!」
臆面も無く言う弟に怒鳴りつけ、鯨は再び、梨太に代わるよう申し付けた。
実弟より、こちらを説得した方が効くだろうと判断して。
「真面目な話、鮫の体もおそらく完成はしていないだろう。無理をすれば体に傷がつき、旅に支障が出る。まして妊娠でもしたら今後の予定がなにもかも狂うんだ。愛し合う夫婦なら、お互いを大事にしなさい」
『それはもちろん、おれは承知で――ぅにゃっ!?』
「やめんか鮫っ!」
二人がかりで怒られて、さすがの弟も静かになった。どこかへ出かけたのかと尋ねたら、梨太の膝枕でスネているのだという。もう、それでいい。
コホン、と咳ばらいを一つ。
「すでに枢機院は協議に入っている。これだけの推薦をされる人物とはいかなる男かと、君のことは話題になっている」
『ありがたいことです』
「だが、決め手となるには足りないものがある。君自身の、政策表明だ」
そうですねという、梨太の返事まで、数秒の間があった。
『電気椅子でしゃべったのは、方向性程度のものですからね。ハルフィンの政治をそのまま模倣しまーすって言うわけにもいかないし。今よりも良くなるように、具体的にどんな法律を新設し、この国の何のために何を為して、何を成すか――数字まで打ち出す必要がある』
鯨は歓声を上げそうになった。本当にこの子は、出会った時からこうした話が早い。その通りだと膝を打ち、内容に沿わないほど上機嫌な声が出る。
「おそらく光の塔で推薦状をもらうため自己アピールにも必要だ。君なら、道中でなんとなく固めてきているだろう。塔まで馬車で一泊二日、それを綺麗に言語化しておきなさい」
『わかりました』
「塔には高性能の通信機がある。うまくそれを借りられたなら帝都につなげ。政策表明を読み上げたものをこちらで録音し、お前たちが旅から帰るまでに出来るだけのことをしておく」
『了解です。色々お世話になります』
「とんでもない、それはこちらの――本当に、こちらのセリフだよリタ君。……あと、もう少しだ。がんばって……」
そうして通信機を置き、鯨はまた嘆息した。何故か少しだけ滲んでいた、涙を拭う。
「……少し、休憩しよ……」
帝都の中央、星帝の宮殿――そこは、軍国の施設であり、なによりも星帝個人の住処だった。
たまに賓客を招く以外には、誰もいない。警備は建物回りにびっしり配置され、電子ロックは堅牢そのもの。
家政婦などはいない。掃除も、花も、三度の食事さえも、皇后が作るのがしきたりだ。そうして星帝を労い、ごくあたりまえの家庭の夫として心を休めさせる――それが、本来の星帝皇后の仕事であった。
いま、この王宮には週に一度、二十一食ぶんの弁当が氷漬けになって届けられている。自室に持ち込んだ加熱器で温めて、鯨は一人、食事をとった。
もぐもぐと噛みながら、旨味を探す。
プロが作った料理である。そしてラトキアの冷凍、解凍技術は極めて高い。メニューは星帝の宮殿にふさわしいものであり、出来立てと何も変わらないクオリティがそこにある。
(だけど……どうしてだろう。ハルフィンがまだ元気だったころ、どたばたしながら二人で作ったごはんより、ちっとも美味しい気がしないの……)
焼きすぎて脂が抜けてパサパサのチキンステーキ、舌が痺れるほどしょっぱいサラダ。逆に全然味がしない煮物が、食べたい。
(ハルフィンのスープが飲みたい)
彼の故郷の、国民食なのだと言っていた。ラトキアにも出汁の文化があってよかったと喜んで、直後に「しまった、ミソがない!」と喚いていた。
とりあえず彼の言う通り、豆を発酵させた調味料を取り寄せてみた。しかし彼は唸った。
「ううむ、美味しいけども、全然違う……でもなんとなくそれっぽい雰囲気は感じられる気はする。はるか遠く水平線のかなたくらいに気配がある……」
あまり深刻ではない声で、ハルフィンはそう言い、苦笑した。
「もしも僕があの時もうちょっとオトナだったら、料理も教わっていたかもしれないけどね」
――五十年前。
初めて、地球人とコンタクトが取れたその日。
文化や地方言語の『資料』とするべく拉致されてきた少年は、この星で生きた月日のほうがはるかに長い。幼すぎたせいだろう、ほとんど郷愁を覚えなかったというが、このごろ急に故郷を懐かしむようになったのだと。
「君が黒髪だからかな。この星では僕たち以外には数えるほどしかいないものな」
――慈しむように、ゆっくりと、髪を撫でて弄ぶ。
「綺麗だよ、鯨」
柔らかくてあったかい、彼の手が好きだった。
ふと――鯨は自分の年齢が、当時の夫と同じであることに気が付いた。
今なら彼の気持ちがわかる。年を取ると、昔が懐かしい。過去の素敵な思い出に夢想して、際限なく浸ってしまう。それが幻だとわかって溺れる。本当はもう、忘れかけているのに、わざわざ記憶を掘り返してまで。
「……ハルフィン……あなたの、本当の名前は……なんだったかしら……」
鯨は、語学が堪能ではない。自動翻訳機や、優秀な騎士を通じて異星人とコミュニケーションをとってきた。ちゃんと習っておけばよかったと、今になって思う。
いや、まだ手遅れではない。
(何もかも終わったら、教えてもらお。ハルフィンが言った、あたしの知らないコトバの意味を)
(本当のミソシルの味も、ミソの作り方も……あの子だったら、きっと)
また涙がにじんでいた。しかし悲しくて泣いているのではない、自覚がある。
このところ、ため息と一緒にぽろぽろ零れる、鯨の体にあったもの――ずっと深い所に沈んでいたものが――
今、少しずつ溶け、流れ出していた。
かぽかぽ、かぽかぽと小気味良く、蹄鉄が土を鳴らしている。
穏やかなリズムに、梨太の上半身が一瞬、崩れた。あわてて背を伸ばす。
「やば、順調すぎて寝そうだった」
「あはは」
隣の馬上で、鮫島が声を出して笑った。
「実は私も」
「まじで? あんまりだったら一回止めて、幌で二人とも昼寝する?」
「明るいうちに山を越えておきたい。光の塔までの道は、まず森に入り、そこから山になって、越えると平原、そこに町の入り口がある。町で宿をというのは間に合わないだろうが、野宿するのでも平地がいい」
「そっかー。うー、がんばろ」
手綱を握って気を入れる梨太。そこにふと、心地よいメロディが聞こえてきた。
鮫島が鼻歌を歌っている。
少々歌詞があやふやであったが、メロディは間違いなく、梨太の知るJ-POPだ。彼女はいたずらっぽいほほえみを浮かべた。
「地球にいたとき、よく町で流れていた」
「そういえばそのころに流行ってたね」
鮫島はまた歌い始めた。
今度は音楽の授業で習ったのだろう、有名な合唱曲だった。大声ではないが透き通った声質で、梨太の耳朶を甘くくすぐった。
コーラス部分で何となく、重ねてみた。とたんに鮫島が身をすくめ、馬ごと止まる。
大きく揺れた馬上で、それ以上に深海色の瞳を揺れさせて、梨太の顔をまじまじと凝視する。
「リタ。……すごい下手」
「うわダイレクトっ! いくら何でももうちょっとオブラートに包もうよ!?」
「だって、下手。おどろくほど下手でおどろいた」
「悪かったね音痴でっ! ――ていうか、鮫さんほんと歌うまいね」
鮫島はふふふと明るい笑い声をあげた。こういったことで謙遜をしない彼女は、上機嫌になる。
『騎士』というだけあってか、乗馬が非常にサマになる。地上三メートルの視界もなんのそのだ。どうやら生来、高いところに上るのは好きらしい。
「絵と、カードと、歌。私がリタに勝てること、これで三つ目だな」
「……朗読もヘタだよ。その場のハッタリならともかく、台本のある演技ってひどい大根だと大評判。芸術系は全部ダメなんだ」
「演技だったら私もできない」
大笑いする彼女。鼻歌を再開し、ふと止めて、違う曲を歌い始めた。
梨太もよく知る曲だ。
「ソレ反則。一緒に歌いたいの、我慢できないやつじゃん」
「どうぞ」
促され、梨太は開き直って声を張り上げた。数回聴いただけの異星人も、素っ頓狂な音感の持ち主でも、うろ覚えでも歌うことが出来る――当然だ、そのように作られている曲なのだから。
富士の高みを仰ぎ見て
輝く希望 胸に抱き
この学舎に集いし我ら
厳しい道も自ら拓き
歩けよ若人 高みへ登れ
ああ この志我ら霞ヶ丘高校生
「……懐かしいな」
という言葉は、二人同時に口にした。それを笑って、二番に続ける。
梨太と鮫島、二人が共有する知識は決して多くない。ほんの一瞬、すれ違っただけのような高校生活――それ自体には、特にイベントがあったわけではない。
それでもきっと、何年たってもこうしてともに思い出すのだろう。
馬の歩みのリズムに乗せて、本来よりは少しアップテンポになる。
並んで進みながら、二人は同じ曲を歌った。
鮫島の旋律は美しく、梨太は少々外しながら、それでも同じ、音の速さで。
駿河の海原 見渡して
心穏やかに 夢ひろく
この学舎に集いし我ら
明るい未来をこの手で叶え
進めよ若人 果てしなく
ああこの志 我ら霞ヶ丘高校生
天竜のめぐみ 水あまく
湖の魚は竜となる
この学舎を巣立ちし我ら
限りない高みを目指すため
昇れよ若人 健やかに
ああこの志 我ら霞ヶ丘高校生
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