変わってしまうということは
言葉を失った梨太を、鮫島は穏やかに抱き寄せた。背中をとんとん、赤子をあやすように慰める。
「正直、俺にはリタの葛藤がわからない。環境の変化への不安ならわかる。だがリタは、自分自身が新天地に飛び込むことを恐れない。それなのに自分以外の人間がそうすることには、これほどのショックを受ける。……俺には、それがなぜなのかわからない」
「…………そんな……」
ことはない。と、いう言葉を飲み込む。
「それを寂しいというのは、わかる。俺も、成長したリタを見て少しそう思った。……そしてこの星で再会し、女でなくなった俺に落胆したというなら、それもわかる。きっとそうだろうと思っていたから」
梨太は大きく首を振った。それは違う、と主張する。
たしかに喜ばしいことではなかったが、それは鮫島がつらい思いをしていたからだ。再会の喜びは、鮫島が男であろうが女であろうが変わりない。そこへの落胆はなかった。
それはこの旅、ある種の新婚旅行ともいえる共同生活でも同じだ。彼との旅は楽しかった。
早く雌体化してほしいと願ったことはない。むしろずっとこのままで、男三人の旅が続けばいいと感じていた。王都に帰ってからもだ。色気のない、そんな賑やかな生活が、ずっと――
(……ああ、そうか)
三女神の協会で、婚姻届を受け取ったことを思い出す。帰宅してすぐ、彼らは嬉々として書類に名を書いた。翌早朝、梨太がまだ眠っているあいだに、郵便に出したという鮫島を、一緒に行きたかったと責めたりもした。
そして笑って、少しのお酒で乾杯した。
(そうか。僕は――女になったら、じゃなくて、あのときにもう)
「……だって、仕方ないじゃないか」
梨太は言った。鮫島をなじるように。
「結婚しようって、言ったのは牢屋のなかで……教会で式場を見たのも、婚姻届に名前を書いたのもそうで。仕事のことや将来の話し合いも、僕たちは夫婦ですって他人に言うときも――鮫島くんは、鮫島くんだった。だから、仕方ないじゃないか」
「……そうだな」
鮫島は、首をかしげながら肯定した。それは内容をきちんと理解はせず、ただ慰めるためにうなずいただけだとすぐ知れた。梨太は続けた。
「五年前、一緒に過ごした時は――すっかり女の子になって、不意打ちでひょこっと出てきてさ。次に会ったときはまた……。鮫島くんはいつも、出会ったときの姿のままで去って、再会したときにはもう変わっていたから」
「そうだな」
「――それぞれ、別のひとだって……二人の鮫島くんが、それぞれ居るように感じてた。仕方ないじゃないか」
「……? どうしてそうなる? 俺はただ」
「ただ、じゃないよ!!」
頭を振り、懊悩する梨太を、鮫島はさらに強く抱きしめる。梨太自身がまだ把握できていない、複雑怪奇で、激しく狂ったこの感情をわかっているのかいないのか。だが鮫島は、ただ梨太を包んでいた。
雌体化が進み、小柄になったとはいえそれでも彼は大きかった。冷え切って震える梨太を、大きな手で撫でさする。父親のように大きな抱擁で、母親のように優しく、暖める。
身を縮め、小さな子供みたいになった梨太を抱きながら、鮫島は穏やかにささやいた。
「何を悲しむ? 俺は俺だ。性別が変わっても、ただそれだけで……同じ一人の人間だ」
「それは嘘だよ」
梨太は確信をもって、明言した。
「全身が変わる。アタマの作りが変わって、考え方が変わる。性格も変わる。好むものも得意なものも、できる仕事も、生き方も、僕への気持ちも変わる。……それを、僕たち地球人は『別人』っていうんだよ」
「…………そうかもしれない。けれども――少なくとも、いなくなりはしない。ずっとリタのそばにいる」
ちがう、と――もう何度目になるか、梨太は大きく首を振る。
自問自答していたときと違い、鮫島との対話は、梨太の煩悶を急速に晴らしてくれた。自分が何を悩んでいたのか、苦しんでいたのか、恐れていたのか、梨太はようやく明確に自覚した。
顔を上げる。そこに、鮫島がいた。
梨太のことを心配そうに見つめている――その面差しは精悍で雄々しく、力強い男性の姿をしている。出会ってから八年、だが彼と過ごした年月はごくわずか――それはこの星に来てからが大半である。五年前はたったの数日。この旅は、もう一か月。
たくさんの時間を過ごした。衣食住を共有し、おしゃべり以外にすることのない車内で、彼の言葉をたくさん聞いた。彼の故郷、家族、半生に触れてきた。
梨太はずっと、鮫島を鮫とは呼んでいない。
梨太にとっての彼は、地球で出会ったあの男――鮫島しんのすけと名乗った、あの人間だったのだ。
一度目を閉じる。三秒数えて、開く。
そこにいたのは、儚い美貌をたたえた美女であった。
五年ぶりに再会した美女――愛した女に向けて、梨太は言った。
「……鮫、さん。あなたが好きです」
再び目を閉じる。
開いたとき、そこには彼がいた。梨太は言った。
「鮫島くんのことも好きだ…………」
三度、目を閉じる。
そしてもう開くことができなくなった。次に視界に入る『鮫』はどちらなのか。そのどちらが映っても、梨太は喪失感を覚えるに違いない。
「居なくなったら嫌だよ」
親友と恋人。
ふたりの人間。
そのどちらを家族にしようとしていたのか。その答えを出すことはできそうになかった。
鮫島も、梨太の疑問を晴らしてはくれなかった。
そもそも彼は理解すらしていなかった。
彼にとって性別を変えることは、生まれてからずっと当たり前にあった己の生態だ。
地球人が食べれば肥り、鍛えれば引き締まるのと同じ、恋をすれば性別が代わる、ただそれだけのものである。鮫と、鮫島くん、その両者を分ける意味も分からないし、そういう概念もない。
鮫島は理解していなかった。
ゆえに、彼は多くを語り掛けはせず、ただ行動をもって、梨太に選択を差し出した。
トントン、と肩を叩かれる。恐る恐る、開いた視界に、白い紙きれがあった。なんとなく見覚えのある封筒だった。そこから、鮫島は一枚の紙を出して見せる。
――婚約届。梨太と鮫島、ふたりの名前が、それぞれの筆致で書き込まれていた。
「……こ、これって……あれっ? 王都の郵便局に出してきたんじゃなかったの? なんでここに!?」
「まだ出していなかった。ずっと俺が持っていた」
紙の向こうで鮫島が言う。
「……なんで?」
問いかける声は不穏なものになる。返答の声は、あっけらかんとしたものだった。
「リタがそうなったときのため」
「そう、って……僕が、婚約解消したいとか、言い出したらって……?」
「うん、そう。こういう形だとは思わなかったけど」
可笑しいくらいに冷静な声で、鮫島は答える。
掲げた紙を下ろし、見えた面差しもやはり怜悧ないつもの無表情。
いつも通りの顔をして、いつも通りの穏やかな声で、彼は静かに、話していた。
「この国では、婚姻と言うことに関しては圧倒的に妻が有利になっている。子供が出来ればDNAを解析し全国民を洗ってでも父親が特定され、かならず婚姻し子の養育費を請求される。その後の離婚、養育権は女側に絶対の権限がある」
「へ? ああ、それは、一応調べて、知ってるけど」
「男の一存では離婚できない。妻が離婚を拒否をすれば、一生涯、夫婦関係を解消はできないんだ」
「知ってるって。別にそれ僕は」
「俺はおまえを逃がさない。絶対に」
口調を変えないまま、彼はそう言い切った。
言葉を失う梨太――そこで初めて、鮫島はふと、笑みを浮かべた。
「だから今のうち。……俺が男で、お前のことを友人と見れている間なら、この手を放してやれる。梨太は初めて地球を出て、こんな遠い所へやってきたばかりだろう。俺とも、出会ってからの年月は長いが、一緒に居た時間はとても短い。……イヤになるかもしれないって思ったんだ」
梨太の膝に、鮫島は紙を置いた。
「破いてもいいぞ」
「そ……んな」
「星帝のことなら大丈夫。あれはもともと、俺の実姉の悲願だ。やはり俺が継ぐ。しかし助けが欲しい。……リタ、星帝の側近として、俺に仕えてくれないか」
梨太は目を見開いた。凍えていた手を、そっと鮫島が持ち上げる。大きくてたくましい、大人の男の手で、彼は梨太を温めてくれた。
「俺は、男に戻る。そして鯨と、お前が望む通りの政治をする。任期を終えたらまた騎士団長に戻るか、将軍となるか……」
「……そんな……」
バカなことを言うな――と、たしなめようとした。だが口から出てきた言葉は、梨太の思いに反し、想い通りのものだった。
「それでいいの?」
彼は頷いた。何の気譚もない笑顔を浮かべ、梨太の頭をヨシヨシ撫でる。
「お前がそばにいてくれるならなんだっていい」
「でも鮫島くん――それじゃあ僕が来る前と何も変わらない」
「全然違う」
「でも、危険な仕事を続けることになる。一緒に暮らすこともできない」
「本来、騎士団長も将軍も戦場に出る仕事ではない。時間はかかるが、『惑星最強』の後継となる戦士を育てようと思う。猪もきっと騎士団に戻るだろうし」
「……でも、遠征は避けられないよね」
「お前を連れて行く。ラトキアの騎士リタを、俺は護りながら、ずっとそばにいる。地球に寄ることもあるだろう。その時は懐かしい場所をともに訪ねよう」
「だけど――」
拒絶する言葉が続かない。梨太の脳裏にはもう、『鮫島くん』との生活が思い描かれていた。あまり似合わない軍服を着て、麻酔刀を持った自分。その隣には凛々しい横顔、騎士団長の鮫島――
「本当は、もっと前にこの話をしようと思っていたんだ。そのほうがきっと贅沢もさせてやれるし」
そんなことはどうでもいい。だが鮫島の提案は、どうしようもなく甘美であった。
冷え切って痺れた梨太の脳に、とろりと蜜のように落ちて染み込む。
彼はさらにいくつもの甘言を並べ、その条件としての報酬を、たったひとつだけ要求した。
「俺はこのまま、男として生きていく。夫婦にはならない――けれども、家族にはなれる。それで共に生きよう。リタ」
「…………うん」
梨太はこくりと頭を垂れた。鮫島は笑っていた。
精悍な男性の顔で、とても嬉しそうにしている彼――その姿は真実なのだろうか。それともまた、梨太は幻を見ているのだろうか。
それもわからない。だが彼の言葉だけは幻聴でなく、確かなものだった。頭の上に置かれた手、膝に置かれた未提出の婚約届。そのふたつの重みも、間違いなくそこに実在していた。




