星帝皇后 鯨
「やーんもう、つまんない! なんだその反応。一回くらい、まっまさかさめじまくんっ、と言ってくれるかなーと思ったのにっ!」
「間違えませんよ。全然似てないじゃないですか」
きっぱりと、梨太。そうかなあ、とぼやく鯨に指を突きつけて、
「たとえ天地がひっくり返っても、鮫島くんが、そんなにおっぱいが大きくなることはあり得ないっ!」
「おおうっ、言い切ったっ!?」
コミカルな仕草で、大仰に反応する鯨女史。見た目より何より、こういう言動が弟と決定的に違うのだと、女将軍は自覚に欠けるようだった。
鯨。惑星ラトキア、最高権力者の一人である。
軍隊の将あり、星帝皇后である彼女の外見は梨太と十ほども変わらない。せいぜい三十に届いたあたりか。しかしそれは見た目の話。十五歳頃を機に、地球人の半分ほどしか加齢していかないというのがラトキア人である。実年齢は梨太の親ほどになるはずだ。
そんな彼女は、イタズラをあっさり見破られ、子供のように拗ねていた。
「せっかく軍服着込んできたのに、つまらんな。まあいいけど」
「重ね重ねなにをやってるんですか。ていうか何、どこから入ってきたの? どうやって?」
「窓の鍵が開いていたんだよ。ほんとだよ。嘘じゃないよ」
「嘘くせえー」
「嘘じゃないって! いや昨日にな、『エア・ライド』に乗ってこの家を訪ねてきたんだけど、リタ君留守でさ。どーしよっかなーと思ってたらヒトが来て、家中の窓あけて掃除しはじめたのだよ。そこで隙を見てクロゼットに」
「うん不法侵入です。……寒かったでしょ」
「芯から冷えた。今もまだ寒い。リタ君、なんかあったかいもの飲ませて……あとトイレ」
自らの肩を抱いて、小刻みに震える鯨女史。梨太は大きく嘆息すると、頬をゆるめ、凍えるラトキア人を一階へと導いた。
間もなく旅立つ予定の家に、食材は何もなかった。梨太はとりあえず荷物を解き、自分用のカップラーメンを出してやる。
百六十円のシーフードヌードルにお湯を入れ、ふたをして三分。
「うはっ。ありがとう。あはは」
両手でカップを抱えた鯨は、頬を上気させなぜか笑い出す。
「ふは。なにこれおいしい。なんて名前これ。おもしろっ。あち。すっごいあつい。ははは」
(……姉弟そろって、食べ方の可愛いひとたちだ)
梨太はこれまで、鯨が皇后となったのは、家柄と美貌、そして将軍としての能力を見いだされたからだと考えていた。しかし考えを少し改める。ラトキア星帝は、案外ふつうに、彼女に恋をしたのかもしれない。
彼女の正面に腰かけて、自分もインスタントコーヒーを飲むと、さっさと追及を開始する。
「……お久しぶりです。それとも、初めましてですかね」
鯨は視線だけ上げた。
モニターを隔てない彼女の瞳は、想像していた以上に澄んで美しい。だがドギマギするほどのものではない。
梨太は続けた。
「ずいぶん急な来訪で、驚きましたよ。鯨さん、今まで本国から通信していたのを、直接出向いてくるなんて。いったい何の用で地球へ?」
カップで口元を隠したまま、上目遣いになる鯨。答えを待たず、梨太は矢継ぎ早に質問を重ねる。
「来る前に、くじらくんを鳴らしてくれたらよかったのに。今日はホントたまたま帰ってたけど、普段滅多に居ないんですよ。じきに売りに出して引っ越すし。僕がずっと帰ってこなかったらどうするつもりだったんですか?」
「別に。それならそれで、あきらめる」
鯨の回答は、最後の質問にだけ行われた。一番どうでもいい問いだ。梨太は少なからず機嫌を損ねた。
「僕に、仕事があるってわけじゃないんですね。……騎士団は?」
その言葉にも無反応。
「あれ、そういえば、鯨さんは騎士上がりじゃないから、自動言語変換機は脳に入ってないですよね。日本語勉強してきたんですか?」
ふと気になったことを聞くと、彼女は髪を摘んでサイドにかけ、耳を見せてくれた。ピアス――というにはあまりに大きすぎるものがそこにあった。片耳全体を覆うように、円盤のようなものが張り付いている。
「宇宙の科学は日々進歩しているぞ。烏が設計した、外科手術により脳に埋め込む自動言語変換機はもう二十年近く前の製品だ。今はこんなものができた。便利だろう?」
ラトキアの権力者は、惑星の科学力を自慢する。誇らしげに微笑んで髪をおろした。
「もしリタ君も、ピアス穴を開けているならそのまま使えるぞ。五つほど追加する必要はあるだろうが。どうだ、試しに、ラトキア語で会話をしてみるか?」
「要りませんよ、鯨さん」
梨太の返事に、鯨は一度首を傾げた。そして、理解する。
「……リタ君。君、ラトキア語を……!」
目を見開いてのけぞる。梨太は指先でリビングボードを指した。片手でコーヒーをすすりながら、
「八年前、オーリオウルの病院に入院したとき、ナースからちょっとだけ教わってたんですよ。……入院中の暇つぶしとして」
「なんと……」
「そのときは文字の発音と文法を理解したくらいでしたけど、五年前には虎ちゃんから辞書をもらって。トドメにもう一回、バルゴにやられて入院してたでしょ? それで修得。院内での会話は全部ラトキア語でやってましたよ」
鯨のしばらく絶句してから、耳元の機械を外しにかかった。金属の塊をテーブルに置いて、彼女は髪をかき上げる。
「……驚いた。でも正直助かるわ。これ重くって肩が凝るのよね」
ラトキアの言葉で、そう話す。
艶やかな唇をにっこりと持ち上げて、鯨は目を細めた。
「そうね。あれから八年もたつのだもの。……ごめんなさい。わたし、いつまでも男の子っていう目でしか、あなたを見ていなかったわ」
梨太は無言で、剥き出しになった星帝皇后の素顔をじっと見据えていた。
この女と、初めて出会ったのは八年前になる。しかし実物と対面するのは初めてのことだった。
鯨は想像よりもずっと、小柄な女であった。日本人女性平均よりは長身に違いないが、いかにも女性的なたおやかさがある。梨太の記憶する彼女はもっとずっと大きく、傲然としていた。
それは、自分が大人の男になったからだろうか。それとも、彼女が小さくなったのだろうか。
彼女は箸を置き、緩慢な動作で立ち上がった。
「本当に、大きくなった。わたしは男を見る目がなかったわね」
凛々しい軍服に包まれて、女将軍は梨太を見下ろす。その瞳は、弟よりも明るい青である。天空色の瞳をもつ女はそうしてしばらく梨太を見つめていたが、やがて静かに身を屈め、ささやいた。甘い声音で、穏やかに。
「リタ君。わたしと、結婚しない?」
梨太は無言で見返す。彼女はテーブルに手を突き、梨太の方へ体を寄せてくる。鼻先が触れるほどに近づいて、初めて梨太は、彼女がやはり鮫島に似ていることに気がついた。
「……星帝は?」
尋ねた唇を指先でふさがれる。鯨は笑っていた。
「星帝は死んだ」
冷たく、小さな手が梨太の手をつかむ。そうして、自分の胸元へ当てた。
「いまのわたしは、ただの『女』よ」
柔らかな肉に、手のひら全体が飲み込まれていく。梨太はそこにあらがうことはないまま、彼女のやるように体を任せた。鯨の膝が、梨太の腿にふれる。視界すべてを鯨で埋め尽くし、その視線を受け止めながら、梨太は低い声で言葉を発した。
「……鮫島くんは、いまどこにいるの」
鯨の手が、前方からするりと首に巻き付いてきた。
「答えを聞かせて」
中指でうなじをすりあげて、甘い声で言う彼女。梨太は言葉を繰り返す。
「鮫島くんはどこにいるの。今、彼は何をしている」
「わたしにキスをしてくれたら教えてあげよう」
絡むような笑い声。
「そうすれば、今度はあなたがラトキアの王よ」
梨太は彼女の腰を掴み、床へ押し倒した。空色の瞳が震える。その揺れは一瞬だった。すぐに妖艶な笑みを見せたが、梨太はもう取り合わない。両手首を捕まえ、馬乗りになり、鯨の顔面に怒鳴った。
「鮫島くんはどこだ!!」
身をよじる鯨。梨太は腕力だけで抑え込む。持ち上がったのはほんの一瞬だけ、姿勢をさらに前屈みにすれば、鯨はもう、己の肩すらも動かすことができなかった。
彼女は目を閉じ、唇を結んで、横を向いた。梨太の視線から逃れるようにして、か細い声で吐き出す。
「……冗談、だ。重いぞ、少年。……誰の上に乗っかっている。王室侮辱罪で死刑になりたくなければ、さっさとどけ」
言葉だけが気丈である。梨太は構うことなく、そのまま詰問した。
「冗談? どこからどこまで。星帝は本当に死んだの」
「……ハルフィンは死んだ。もう四ヶ月も前のことだ」
梨太は脳内のラトキア語辞典を引いたが、ハルフィン、と発音される動物の名前は思い出せなかった。それでも文脈で理解する。
「それが、あなたの夫の名前?」
「そうだ。夫は、生まれつき病を持っていた。それが子にも遺伝した……の、だろう。突然の発病だった。亀は、それまではずっと元気だったから、発見が遅れてしまった」
亀、それが星帝の子供の名であるらしい。鯨は目を細め、彼女の、すでに亡き家族の名を呼んだ。
「亀が長生きできないのはすぐにわかった。だがハルフィンの意志を継ぎ、次期星帝として着任できるまでは――二代にわたって施行された法は、撤回のできない憲法として確立することができる。それまでは、生きてもらわねばならなかった。だが死んだ。ひどく冷えた嵐の日に、ふたりとも一緒に」
「……それで? 僕に、王子様の影武者でもさせようっての」
「まさか。星帝は世襲制ではない。貴族の肩書きと、星帝や将軍であるわたしを始め、有力者から推薦されて承認される。ただ嫡子であれば権力を継げるというわけではないのだ」
そこまで言って、鯨は不意に笑った。
「それに、亀は生きていてもまだ十六歳。君じゃ年格好が合わないよ」
「……じゃあ、僕に何をさせたいの」
「言っただろう、冗談だと。すべて冗談だよ」
鯨はそう言うと、膝で梨太の腹を打った。鋭い痛みに、思わず両手を放す。鯨はもう一度梨太を蹴り飛ばすと、すぐさま身を起こした。
腰に両手をあて、胸を張る。そうすると彼女は梨太よりずっと大きな女に見えた。そうして美女はにっこり笑い、天空色の双眸で、地球の青年を傲然と見下したのだった。
せき込みながら、梨太はポケットから携帯電話を取り出した。ストラップと一緒にぶらさがった、クジラ型の金属板を突きつけてやる。
「ひと月ほど前、これを鳴らしたのは鮫島くんだよね。彼は今どこ? それだけ答えてくれたらもう何も聞かない」
鯨は答えた。
「……牢獄」
梨太は息をのんだ。




