序章
「鮫島くん、おっぱいがあるってよ」
梨太はぴたりと絵筆を止めた。
放課後の教室。二週間後に迫る、体育祭の準備をしていたところである。
謎の発言をしたクラスメイトを胡乱げに見つめ、聞き返した。
「はあ? なんだそれ」
「噂だよ、噂。三年の鮫島くん、うちの部長が同じクラスなんだ。ほら、今度の体育祭。リレーの選抜で測定したら、鮫島くんムチャクチャ速かったんだって。帰宅部なのにさ」
「ふうん?」
鮫島くん――今年の六月に転校してきた三年生。
転校初日、校内テレビ放送で紹介された記憶はあった。しかし顔は思い出せない。
「前の学校でやってたのかもね。弱小陸上部としてはほっとけないんじゃない」
「弱小で悪かったなっ! そう、だから先輩もスカウトしようとして、追いかけまわしてたんだと。コワいのこらえて朝から晩までストーキングしてさ」
「で?」
「完全スルーで取りつく島なし」
「じゃなくて最初の。その、鮫島くんに……」
梨太は一応、言葉を濁す。
ここは男子校、飢えた獣たちの巣窟だ。こういった単語は聞かれたが最後、羽虫のごとく集ってくる。友人も声を潜めた。
「部長が見たんだって。着替えのとき、鮫島くんの胸が膨らんでんの」
「んなわけないでしょ、漫画じゃあるまいし。何年も隠し通せるわけないし、転入するのに書類も要るし。つか嘘つく理由もないだろうし」
「でも、なんかスポーツブラみたいなのつけてたって」
「タンクトップかなんかの見間違いじゃない? もしくはただの変態か」
「でも――」
「おまえ飢えすぎなんだよ。あいにくここは男子校、青春は大学進学後に期待しような」
「できませんもう待てません。ああ、青春したい、彼女がほしい、おっぱい揉みたぁーいっ!」
絵の具をばらまき、わめく友人。
振り向けばほかの生徒らも作業を放棄していた。掃除道具で野球まで始まっている。
十六歳、男子の日常である。
梨太は黙々と作業を続けた。
秋の五時、空はすでに赤く染まっていた。