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 シンプルだ。

 サトルは怪物へと向かい、ブリュンヒルデは窓へと向かう。これ以上に簡潔には説明できない。


 先に動いたのはブリュンヒルデ。怪物を迂回して、窓へとひた走る。


 もちろん、怪物がそれを許すはずがない。関節のない両の腕が鎌首をもたげた。その姿は、断頭のために用意された不出来な処刑具めいていた。不出来な分、簡単に命を刈り取ってはくれない。錆び付いた死に神の鎌は、囚人へは十分な苦しみを与えてくれるだろう。いっそのこと拷問器具と言っていいかもしれない。


「しつこいッ!!」


 しかし、そこに押し通る罪人は大人しく首を差し出す玉じゃない。弾丸のような苛烈さで、断罪の一撃を弾き飛ばす。

 彼女は即席で《(エイワズ)》のルーンを布に刻み、手に巻き付けていた。防御を司る《櫟》の加護が、鉄をものともしない怪物の一撃を弾く。しかし、ルーンは即席も即席。おまけに刻む対象も布である。そう何発も同じようにはいかない。


 ルーンは本来書くというより『刻みつける』ものである。何かを傷つけることでより効果を発揮する。紙や布、あるいは空気にだって軌跡さえ残せば発動するのだが、やはりそれは安定性に欠くもので、望むほどの効果は得られない。


 それでも、ブリュンヒルデは今の攻防でうまい具合に怪物と距離をとった。弾いた勢いそのまま、確実に距離をとって窓へと向かう。

 が、それで大人しく引き下がる執行者ではない。底なしの粘質さで、逃亡者に追いすがる。


「そこまでにしておいた方がいいぞ。あれは下手に手を出すと火傷というかかぶれるぞ。貧乳菌が移るぞ。女が廃るぞ」


 サトルはブリュンヒルデとは反対から怪物へと肉薄する。注目させるために、牽制も交える。右手左手と持ちかえながら、手斧で攻撃を加えていく。


 当然のことのように、ブリュンヒルデを追いかけるのとは逆の腕がサトルの攻撃を弾いた。


 思った以上に堅い。打ったはず手が痺れるほどだった。それでも、サトルは攻撃の手を緩めず、さらに二三撃と斧を振るう。


「好き勝手言ってんじゃないわよTorskedum(アンポンタン)!」

 走りながらも怒号を飛ばすことは忘れないブリュンヒルデ。


 サトルもこれ聞けよかしには言ったものの、たいがいまだまだお互い余裕がある。


 サトルは笑いとも呼気ともとれる息を、ハッと吐き出した。

 さらに二三撃と打ち続ける。倒せるなんて微塵も思っていない。逆に攻撃をやめれば倒されるのはサトルの方だ。彼は今、逃げるために戦っている。

 守りに徹している怪物の腕が攻勢に入れば、一秒もたたずに殺されるだろう。


 そんなサトルの決死の攻防の中、ブリュンヒルデは最速を以って窓へ到達した。その勢いで飛び降りを敢行しようとした。建物三階分、十五メートルの高さを怖がる様子もなく、彼女は迷わず窓枠に手をかける。


 が、執行者はなおもしつこかった。


 怪物は突然、サトルの攻撃なんて全く無視して、途端反転する。斧によって攻撃されている背中――もはやどちらが腹でどちらが腹なのかも不明――など気にする様子もなく、異形の反応速度でブリュンヒルデに手を伸ばす。伸ばす。伸びた。手が届いたのだ。


「きゃっ!」


 怪物の腕は文字通り伸びていた。首もありない方向に捻ていて、完全にターゲットは変わっていた。


 どういう理由かは知らないが、怪物はブリュンヒルデにこそご執心らしい。

 このままでは作戦は失敗に終わる。怪物はブリュンヒルデに追いついて、逃走経路は確保されることなく、あえなく怪物の餌食だろう。


 絶望的な状況だ。しかし、これはサトルにとっては好機だった。むしろ、この瞬間を待っていた。怪物とブリュンヒルデが、離れてくれるこの瞬間を。


「悪いな金髪。流れが変わった」

「え?」


 サトルは今まで怪物に向けていた斧を床めがけて振り下ろす。壁に対しても、怪物に対しても全く刃が立たなかった武器が、深々と廃教室の床に突き刺さる。

 予想通りだった。ブリュンヒルデは、床には何の細工もしていない。

 サトルは続けて渾身の力で打ち続ける。長い年月で劣化していた床は、いとも容易く大穴を開けた。


「裏切ったな!」


 怪物に掴まれたブリュンヒルデは凄まじい形相で叫ぶ。こういう不義理をなによりも許せない性分だった。約束を違えるという言葉は彼女の中に存在しないものだ。

 しかし、相手が悪い。この坂上サトルという人間は、口八丁は当たり前。約束すら方便だ。


「それじゃあ味方同士みたいな言い種だな! 一応義理は果たしただろ。結局は二者択一だ。俺は生きるぜ金髪。会うことがあれば、一発殴らせてやるよ。会うことがあればな!」

Torskedum(アンポンタン)!!!」


 穴の下はあつらえ向きに机が重ねてあった。まさに天佑神助である。サトルは信じてもいないくせに神に感謝した。

 事態が転がらない内に下へと降りる。


 その瞬間に中指を突き立てるブリュンヒルデの姿を見て、サトルは高らかに笑った。



****




 己のバカさ加減というものを知る機会が、彼女にはよくあった。それはたいていの場合、なんでこんなピンチの時にという最悪のタイミングで、それでもブリュンヒルデは人を信じるということをやめるということはなかった。


 今回もそのパターンである。


「それじゃあ味方同士みたいな言い種だな! 一応義理は果たしただろ。結局は二者択一だ。俺は生きるぜ金髪。会うことがあれば、一発殴らせてやるよ。会うことがあればな!」

Torskedum(アンポンタン)!!!」


 サトルはこれ見よがしな一瞥と、心底不快な笑みを浮かべて下へと降りていった。

 自身が当事者――というより被害者――でなければ、思わず感嘆していたであろう機転だった。


 仕掛けを張った当の本人が、床が無防備であることを忘れているなんて―――そんな間抜けがブリュンヒルデをさらに苛立たせた。


 日本に来て、良いことなんて一つもなかった。

 埃まみれで薄汚れた建物で一夜を過ごすことになったと思えば、校庭に頭から埋められもした。おまけに、当初の目的が水泡に帰そうとしている。

 ブリュンヒルデの人生中でも、一二を争う最低ヒストリーである。


「■■■■■■■■!!!!」

「クッ」


 そんな最低は今も継続中である。

 時間はブリュンヒルデを待ってくれない。怪物は声にならない絶叫をあげて、ブリュンヒルデの腕をさらにきつく握りしめる。サトルはあっさりと見送ったくせに、彼女を逃がす気はないらしい。


 ブリュンヒルデは大きく息を吐いた。

 これからどうするか。

 逃げるにしてもこの怪物をどうにかする必要があると考えていた。こんなものを世に解き放つわけにはいかない――彼女はそういう正義感の持ち主だった。


「……二者択一。判断を迷うな。一秒迷えば、必ずその代償を払わされる」

 自然と口に出ていた。最低な男と罵ったばかりのサトルの言葉だった。


 ブリュンヒルデは手に巻き付けた布を強く握りしめた。目の前の異形の怪物を睨みつける。

 奇怪音がまるで機械が駆動しているように鳴り響く。怪物は伸ばした腕を手繰り寄せているようだ。


「とりあえず、まあ」


 ブリュンヒルデは完全に向き直った。窓からの脱出を捨てる。やはり、最初から彼女には正面突破しかなかった。


「アイツをぶん殴りに行かないと」

 言って、猛然と突進する。


 感情のない怪物も、ブリュンヒルデのとった行動に処理が遅れる。想定外の突撃行為。自殺行為と思われても仕方ない。

 しかし、無茶はしても無理はしないのが、彼女の流儀。勝ち目のない戦いに挑むほど彼女は愚かではない。『負けない自信がある』というのは真実だ。それは単なる過信ではなく、彼女にとってはいつでも確信である。


 反応が一秒遅れた怪物の隙を、ブリュンヒルデは逃さない。金色の髪を踊らせて、一歩二歩と詰め寄っていく。力強い走りだ。腕が掴まれていることなど意にも介していない。むしろ怪物の腕を掴み返して、意地でも逃さないようにしている。


 怪物はまだ止まっている。如何に高い戦闘能力を誇っても、所詮は中途半端な出来損ない。

 ブリュンヒルデは拳を振りあげて、怪物の腕めがけて振り下ろす。許容を越える魔力を流したために、巻き付けられた布地は青白く燃え上がる。


「エイワズ」

 《エイワズ》は守りのルーンだが、その大元の(いちい)には死のイメージが付随する。イチイはヨーロッパで最も古い歴史を持つ樹木の一つに数えられており、その強い弾力性は武器を作るのに最適だった。故に、彼女の刻む《エイワズ》は防御である以上に、最大の攻撃として使われる。


 ルーンは単に刻めばよいという魔術ではない。文字に対する術者の深い理解、そして豊かなイメージによって、魔術は最大の効果を発揮する。


 彼女の刻むエイワズは、ボロボロの教室を堅牢な城壁に変えるし、己を最強の剣に作り変えるのだ。


 見た目こそ変わりはないが、彼女の手に巻かれた布は鋼鉄よりなお硬い。瞬間、硬化した手刀によって、サトルが何度斧を振り下ろしても傷一つつかなかった怪物の腕が両断される。


 怪物の顔が歪んだ。いや、もとから歪んでいる。腕が切断されるなどものともせず、怪物はもう片方の腕を振りかぶる。


 ところが敵は北欧の狩人。ただ一撃で、攻撃の手を緩めるほど彼女は甘くない。この好機を逃さんとばかりにもう一撃を怪物にたたき込む。


 怪物は為す術もなくその全力の刺突じみた正拳を受けて、後退した。痛みを覚えないはずの目が、憎悪で満たされていく。

 壁際まで圧されて、怪物はようやく気づく。目の前にいる人間が強敵であることに。


「■■■■■■■■■■■■■!!」


 獣の雄叫びを以て、怪物はブリュンヒルデへと突撃していった。四足なのか二足なのか判別つかない移動。人間に恐怖を与える奇怪。生命の(ことわり)から外れたキリングドール。


 それでもブリュンヒルデは全く臆していなかった。冷然としたまなざしで、怪物を見据える。


 二人の距離はおおよそ二歩半。まだ攻撃の間合いではない。しかし、その距離をゼロにする術を怪物は心得ている。

 怪物は両腕を後方に反らせたかと思うと、すぐさま腕を突き出した。瞬く間に腕は伸び、その間合いをゼロにする。両断されたはずの腕もあり得ざる神秘を以てブリュンヒルデに向かう。


 しかし、それはもちろん技術も戦略も知性もない怪物の一撃。ブリュンヒルデは身を翻してかわし、隙だらけの本体の方へと潜り込む。


「しつこい!!」


 低くした体勢から足下を掬う。案の定、不安定な怪物の体は体勢を崩した。それを逃さず、彼女は渾身の力で回し蹴りを決める。鞭のように放たれた右足は、ちょうど怪物の頭らしき部分にクリーンヒットする。


「チィッ!!!」


 特に魔術で保護しているわけではない右足に激痛が走った。それでも、彼女は手抜きをしない。しっかりと押し込んで、力を最大限に伝え切る。

 常人なら痛みを予測して反射的に力を抜くだろう。しかし、ここにいるのは常人どころか希なる世界からの来訪者。そんな常識、真っ向からねじ伏せる無双の者。


 ブリュンヒルデはしっかり足を振り抜いて、怪物を蹴り飛ばした。


 怪物は勢いを殺せず、蹴られた勢いのまま壁に激突した。


 もうもうと辺りに砂埃が立ちこめる。その街灯に照らされて、煙のように漂っている。


 怪物は糸が切れた人形のようにだらりと倒れ込んでいた。今度こそ機能が完全に停止したように見えた。


 ブリュンヒルデは油断することなく、勝利の余韻に浸ることなく怪物を睨み続ける。


「ザマ見なさい、出来損ない」

 彼女は敵を睨み続けたまま、罵言を口にする。


 どこからか、皮手袋を取り出して手にはめた。その姿は弾丸を装填する所作に似ている。

 ブリュンヒルデは怪物が動かないことをもう一度確認して、開けた場所まで二三歩下がった。


「待ってろあのJapansk。絶対ブチノメス」


 サトルが聞いたら戦慄するであろう言葉を発して、そのまま右足を腐りかけの床に振り下ろした。

 



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