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「質問に答えてもらうわ」
ブリュンヒルデは問う。
「身長は百七一センチ体重はヒミツ。好きなスリーサイズは上から九六、六二、九三ですぅ。初体験はヒ・ミ・ツ」
アホは答える。
「さっさと死にたいみたいね」
「ヤダナージャパニーズジョークデスッテー」
ブリュンヒルデの目は険しさを増し、刃はサトルの首に触れていた。あとはすっと引くだけで、首から上とはサラバという塩梅である。
加えて、ブリュンヒルデの口振りからすると、情状酌量の余地など微塵もなく死ぬのが遅いか早いかしかないらしい。
「まずはアンタの魔術系統から。降霊術あたりと踏んでるけれど、こんな魔法陣見たことないし……それにアンタその一回切りで後は全く魔術を使おうとしないじゃない。いったいどういう魔術を修めてるのよ」
「そこがそもそもの勘違いだ」
「は?」
「アイム ノット マジュツシ。ドゥーユーアンダースタン? アーハン?」
空気が止まる。
ブリュンヒルデは口も目も開いて呆然とした。
「うそ……」
「だいたいこの文明社会において魔術師ってなんだよ。そういうのはね、日本じゃブーム終わってるの。最近はポッターさん家の息子さんも、九尾の妖狐マザーさんの息子さんも、小人と魔法と指輪のファンタジーも流行ってないの。
今は社会派がウケてんの。陰謀渦巻く社会で、大企業とか公権力とか、そういう巨悪と戦う主人公がキャーキャー言われる時代なの。大人の色気が重要なの。
よしんばファンタジーにしたって、血生臭い話じゃなくてもっとヴァーチャルでエムでオーなチート&ハーレムで、心の弱い現代人に優しい世界しか喜ばれないの。それ以外は難しいしめんどいからノーセンキューって言われる時代なの。おわかり?」
「じゃ、じゃあこの魔法陣は!? アンタが魔術を発動しようとしたのは間違いないわけじゃない!!?」
「これ? これは、若気の至りというかチャレンジャーの夢の跡というか……つまり、メイク・ア・ガールフレンド・イリュージョン? 愛と肉欲が織りなす奇跡のショータイム? 人生一発逆転ゲーム? 溺れる者は藁をもすがる?」
「ということは……」
「はい、全くの素人でございます! 正解!」
がくっとうなだれるブリュンヒルデ。
一方サトルは実に楽しげで、しゃべることを許可されてからは水を得た魚である。舌先三寸は、彼のもっとも得意とするところで、かつてこの特技を以て彼は生徒会選挙を勝ち抜いたのだ。
「……この学校にはこの土地を治めている有力者の息子が通ってるって聞いたんだけど」
うなだれながらもブリュンヒルデは続ける。心底頭が痛いわという顔だった。そこには先ほどまでの余裕はどこにもない。
「マジかよそれ超初耳。しょみみってやつ」
「サカガミってアンタのことじゃないの?」
「サカガミ、聞いた覚えがありませんね……いったいどこの超絶イケメン絶倫エキセントリックプレイボーイなんでしょうか、そのサカガミさんは……」
「こっち見て話せコラ」
どすんと床に斧が突き立てられる。床の板目に深々と斧が突き刺さる。あと五センチずれていたら、間違いなくサトルの股を裂いていた。
当たり前だが、北欧の貴族様にはサトルの低俗なジョークは通じないらしい。
サトルはため息を漏らした。本人、あまり触れたい話題ではないようだった。
「……まあ、そのサカガミってのはたぶん俺のことだよ。だいぶ情報が古いけど」
情報が古い、とブリュンヒルデは小さく反芻する。
サトルは気にもとめずに続ける。
「土地の権力者だったのは昔の話。今じゃ先代と先々代が遺産喰い潰して没落待ったなしよ。土地もお金もなんもかんも手放しちゃって、もう家と蔵しか残ってない。現実は非情だ」
サトルがそう言いきると、ブリュンヒルデはがーんと再び落ち込んだ。斧を拾うこともせず、がっくりと肩を落としている。
「で、なんで俺がそうだって思ったんだよ。あといったい全体坂上さん家のサトルさんにどんな用ですか?」
サトルがそう言うと、ブリュンヒルデはブレザーのポケットから古ぼけた手帳を取り出した。
「それって……」
「アンタのでしょ。今朝ここに戻って来たときに拾ったのよ。封がしてあって私には開けられなかったんだけど、表紙にサカガミって書いてあったから」
「落としてたんだな」
あのとき、サトルは正直手帳どころじゃなかった。なくしたのに全く気づいていなかったくらいだった。
ブリュンヒルデは、サトルの方へと無造作にその手帳を放り投げた。再びがっくり肩を落とし、恨めしげに睨みを効かせた。
「これじゃあ、私がバカみたいじゃない……」
「バカそのものだろ」
「なんだとぉ!?」
ブリュンヒルデはぐいっとサトルに詰め寄った。
サトルは近づいてきたブリュンヒルデから顔を逸らして、追い打ちをかける。
「事実だろ」
「バカって言う方がバカですぅー!!」
「子供か」
「あーこれじゃあ私の計画が……コイツを追いつめるために使った労力が……全部、無駄……」
ブリュンヒルデは両手で頭をガシガシと掻いた。うきーと奇声を発する。だんだん可哀想に見えてくる豹変ぶりである。
「もしもーし」
「Hold kaeft!!」
「せめて英語で話せ」
「Shut up Japanesk!!」
「へいへーい」
ブリュンヒルデの動揺は甚だしいもので、数十秒先にちらついていたサトルの死は、アディオスと言わんばかりに去っていった。
思わぬ好機の巡り合わせ。やるなら今だろうと、サトルは気づかれないように制服のポケットに手を伸ばす。
「おばあさまの言っていたこととだいぶ違うことになってるんですけど……いったいこれからどうすれば……」
ブリュンヒルデの詰めの甘さだった。周りがまったく見えていない。
彼女は狩人であり戦士であったが、それでも本物とまではいかなかった。おそらく実戦経験が少ないのだろう。追いつめられた獲物が、どんな行動に出るか知らないのだ。時に猫すらかみ殺す猫がいることを知らないのだ。
「そもそも無能一族が一等の霊地を抱えてるって言うから、わざわざ極東くんだりまで来たって言うのに……」
「……もしもし」
「今度はなによ!?」
「くらえ死ね! 神の雷に焼かれろ!」
「は?」
ライターと制汗スプレーが織りなす簡易火炎放射器。科学が再現するソドムとゴモラ。
「ヒャッハー!! 貧乳は焼却処分だー!!」
「きゃあああああああ!!!」
たらたらったらー! サトルはかえんほうしゃをおぼえた! かしこさが四さがった みりょくが八さがった だんどうが一あがった! センス×をしゅとくした!(良い子も悪い子も真似しちゃだめだぞ!)
まともに炎を受けたブリュンヒルデが燃え上がる。完璧な不意打ち。これ以上ないタイミング。
過剰すぎる正当防衛も、目の前の女相手に限っては不足なくらいだとサトルは思っていた。水をかけても消えることがないという、ギリシアの火くらい用意したいとすら考えていた。
ブリュンヒルデは火だるまだった。いくら彼女といえど、ただでは済まないだろう。
「よっしゃずらかるぜ! あばよ貧乳! 次会うときまでその貧相な胸で洗濯物でも洗って待ってるんだな!」
サトルには捨てぜりふを吐く余裕すらあった。不意打ちによって作られた隙によって、逃走は確かなものになる。
「ついでにこの斧も借りてくぜー」
武装解除も念入りに、床に刺さった斧を引き抜きながら立ち上がって、一目散に扉まで駆ける。
「ふはは、無様に転がったように見せかけてドアの方に近づいていたのだよ! ザマァねえな!」
最後にこれでもかともう一言投げつけて、サトルは扉に手をかける。あとは出来るだけ全力で逃げる、それだけだ。三十六計逃げるに如かず。逃げるが勝ち。明日の勝ちのための敗走行為。
しかし、その目論見は儚くも破られる。
サトルを拒むように、扉はぴくりとも動いてくれなかった。
「ドアが開かねえ。やべーな立て付けが悪くなったか?」
それにしてはおかしい。全く動かないのだ。まるで外からコンクリートか何かで固められてしまったみたいに。
「しょうがねえな。いちのさんで!」
奪った斧をふりかぶって、渾身の力で扉にたたき込む。
「おいおいどうなってる」
刃すらたてることが出来ていなかった。それどころか斧が扉に触れてすらいない。一ミリ上に、何か見えない隔たりが存在するかのようだった。
「ちくしょう悠長にしてる場合じゃ」
「……ふふ、逃げるんじゃないの?」
こんにちは、忘れ物しちゃったのとでも言いたげに、 アディオスして行ったはずの死が戻ってきた。
サトルの動揺は推してはかるべし。
火で炙った。武器は奪った。敵は動揺しているはずだ。なのになぜ、追い詰められているのは自分なのか。なぜ一目散に逃げなければならなかったのか。
「逃げたいなら自由にしてどうぞ。逃げられるならね」
落ち着いていて冷めた声。先ほどまでとは別人だ。
サトルはゆっくりと振り向いて対峙する。
ブリュンヒルデは堂々としたものだ。炎に焦げた様子もなく、凛とした姿そのままだった。腕を組むその姿は、万人見下す威圧を持っている。
底知れなさを覗いてしまった。坂上サトルはこの女に関わるべきではなかった。
「……いったい何をしたんだ」
「私が何の準備もせずにこの部屋で待ちかまえていたと思うの? 魔術師は常に決められた手札で戦っている。万全に万全を尽くすものだし、切り札は最後の最後までとっておくものよ。
この部屋の四方の壁には《守》《刺》《氷》のルーンをこれでもかと刻んであるから。一度魔術が発動した以上、入ること出ることも叶わない。たとえその斧を使ったとしてもね」
「誘い込まれていたってわけか」
手札というならば、サトルはすでに万策つきている。残ったものは手に持つ斧だけだ。しかし、慣れない武器でどこまで出来るかはわからない。
一方ブリュンヒルデは底知らずだ。ここに来て、未知の"魔術"がサトルに重くのしかかる。
「ハハ、やってくれるじゃねえか。悪いがこちとら追い詰められれば追い詰められるほど燃えてくるタイプでな。言っておくけど、今の俺はさっきの百倍強いぜ」
サトルは不敵に笑った。笑うように努めた。
不利になればなるほど、虚勢を張りたくなってしまうのがこの男の悪癖だった。
「足、震えてるわよ?」
ブリュンヒルデはクスリと笑った。
虚勢を見透かすような指摘。いじめっ子スマイルが性格の悪そうな顔によく似合う。
「うるせーアナル開発用のバイブだよ。ついさっき強に設定したんだよ」
「本当にアンタってあれねえ!!!」
「ハッ! ウブなこったな!!」
グルル、と赤面で唸るブリュンヒルデ。坂上サトルという男をつかみあぐねて、表情は目まぐるしい。
ははは、と笑うサトル。口はよく回っているが、そろそろ首が回らないところまできている。
サトルは手に持つ斧の感触を確かめた。ずっしりと重いけれど、短いリーチと重心のためか取り回しは悪くない。十分使えると判断する。
一方ブリュンヒルデは徒手空拳。傍目から見れば、どっちが有利か一目瞭然だろう。しかし、その判断にサトルの直感が待ったをかける。
ブリュンヒルデは言った。
魔術師は限られた手札で勝負をする、と。
こいつの手札はあと何枚ある? いったいどんな手札だ?
仕組みはわからないが、四方の壁を封じた力。魔術というのは、おそらくたいていのことができるのだろう。とはいっても、それはたとえば突然火柱が起こしたり、稲妻を閃かしたりするものではないはずだ。そんなものが使えるなら、この女はとっくに使っている。
だから、使わないのではなく使えない。おそらく残りの手札もさっき見せたように補助的なもの、あるいはトラップ的なものだろう。つまり―――
「ふふ、かかってこないの?」
―――攻め急いだら負ける。
据え膳食わぬはなんとやらだけれども、がっつく男はモテないのだ。童貞臭いのだ。MEN'S NON-NOにもそう書いてある。
何度でも、サトルは自分の中で確認する。
相手は素手だ。いくらへんてこな力を持っているとはいえ、先ほどのようには振る舞えない。挑発の言葉も後手必勝のための布石だろう。容易く釣り上げられるわけにはいかない。
先ほどまでオレンジだった窓の外も、いい加減帳が降りてきていて、もう半刻もせずに夜になる。光線じみた太陽光が、不気味にブリュンヒルデの金糸を照らす。
心底不愉快げな視線をサトルにくれて、それでも伸びた背筋が印象的だった。
きっと、こいつは自分が大好きで、誰よりも自分のことを、信じきれるのだろう。
――だからこそ、坂上サトルはこういう奴の鼻っ面が折りたくなる。
「分の悪い賭けだ。いいぜ、乗ってやる」
丁半勝負。生きるか死ぬか。命を乗せた両天秤。傾いた瞬間、受け皿ごと真っ逆さまに地獄へ落ちていく。
「早くしなさいチェリーボーイ。ブルってママの元に帰るなら今の内だけど、生きては帰さない。借りを返すまでは、生きてあなたを帰さない」
「ブッコロス――――」
サトルの思いは呪詛のようだ。相手に恨み言をぶち撒ける。その憎しみが、なにより彼を強くする。
死ね。死ね。死ね。百回死ね。俺はおまえの屍を乗り越えていく。俺は死ねない。死なない。百万回だろうと、自分の死を乗り越えていく。永遠に間延びした一秒先の死を、俺は今ここで乗り越える!!!!!
坂上サトルは譲れない。びた一文たりとも、ここで譲る訳にはいかない。
「――――こちとら童貞捨てるまで死ねないんだよおおおおおおおおおお!!!!!」
運命にあらがう咆哮。
地面を蹴った。捨て鉢のような一撃。戦略も戦術も置き去りにして、軽くなった体は跳躍する。
世界は延びきったフィルムのようで、ブリュンヒルデが不適に笑うのがコマ送りに見えた。
だからこそ早く、早く、速く、速く。最高速で到達して、あのうるさい口を塞いでやる。
振りあげる斧。
嘲う声。
踏みしめる足。
勝利を確信する魔女。
最速の結末を幻視して、
『私のことが、好き? 私の愛しき――――――――――』
サトルは昔どこかで聞いた声を幻聴した。
チチチ。
鳥の鳴くような音。
青白い光。
チチチチ。
徐々に回転数は上がって。
チチチチチチ。
床に敷かれた魔法陣が唸りをあげる。
瞬間、世界は光に包まれた。閃光が視界を奪う。
その光の先に、金色の影を見た気がした。