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サトルは上の様子など全く気にもとめずに階下に急いだ。
敷き詰められた机の上に軟着陸、上々のランディングに足取りは軽い。上では金髪の何語かわからない罵倒が響いているけれども、彼にとっては意中の外だ。
サトルの目論見は難なく当たった。
しかし、無事下に降りられたとはいえ、まだまだ安全とは言い難い。この短時間で、ブリュンヒルデのしつこさは嫌というほど身に染みている。一秒でも早く、一メートルでも遠く、逃げなければならない。
教室の構造は上のものと全く同じだった。上の階よりも机が多いだけで別段変わった様子はない。
サトルは急いで扉へと向かう。先ほどの扉はびくともしなかったが、今度はいとも簡単に開いた。一応、下の階にまでブリュンヒルデの魔術が及んでいた場合も想定していたが、杞憂に終わったようである。
廊下は夕日の残滓もそこそこで、もうこちらは夜の闇だった。埃っぽさと湿気っぽさが混然としていて、訪れたときよりも異界めいていた。行きはよいよい、帰りは恐いなんて、うまいことを言ったものだ。異形の怪物を思い出して、サトルは少し身震いした。
それでも先ほどの状況よりは、今の方がよっぽど現実だった。ここには自分に牙剥く蛮族も、底冷えの不安を与える怪物もいない。落ち着いて一呼吸をつくことができる。
が、そこで一呼吸なんてついている場合ではなかった。坂上サトルは呼吸も忘れて走り続けるべきだったのだ。
安堵を許さない轟音。それは明らかに床を突き破る音だった。
振り返るまでもない。何が起こったかなんてはっきりわかる。こんな派手な登場をしたがるなんて、思い当たるだけでも一人しかいない。
「チッ。ターミネーターかっつーの!!」
サトルは悪態ついて走り出す。もう一目散だ。今度こそなりふり構わず走らなければ、先ほどのツケを払わされることになる。
薄暗い廊下を全力で疾駆する。幸い階段を下りれば出口は直ぐだ。転がるゴミに気をつけつつ、最短ルートでゴールを目指す。そんな全力疾走の中、意外な走りにくさに気づく。
「なんで、俺はまだ、斧を持ってるんだ!」
走るのには完全に荷物だった。しかし、彼は武器を手放すことができないでいた。それは偏に、彼の恐怖心の現れだった。
武器の味を知る者は、一生武器を手放せない。なによりも、サトルの直感が最悪の結末を訴え続けているのだ。
覚悟を決めて走り続ける。立ち止まる余裕も、斧をわざわざ捨てていく余裕もない。
階段を飛び降りるように駆ける。足を踏み外すようなバカはしない。そんなことになれば、サトルは諦めて大人しく足を止めるだろう。
踊り場も抜けて、あっという間に駆け降りた。追いつかれることなく、この一本廊下を走り切れば無事ゴールだ。
足音はつかず離れず聞こえてくる。もしかしたら自分の心臓の音かもしれない。今のサトルにはそれすらも判断できない。不規則に荒れて、呼吸が乱れる。
遠くに光が見えた。三階の窓からも見えた外灯の明かりだろう。昇降口はすぐそこだ。あとはこのまま駆け抜ければ、異界の外に逃げ出せる。
ああ、やっと―――。
「God aften。佳い夜ね」
すさまじい轟音と共に、金色の彗星が落ちてきた。もちろん比喩だ。現実は、あのサイボーグゴリラめいたブリュンヒルデが、廊下の床をぶち抜いて二階から降りてきたのだ。追ってきてなどいなかった。彼女は、文字通り最短ルートで獲物の前に舞い降りた。
結果、サトルの走りも虚しく、出口までの道は塞がれてしまい、最悪の想像は現実になった。
降りてきたブリュンヒルデは舞い上がる塵や埃を物ともせず、堂々と胸を張って仁王立ちしていた。
先ほどの乱戦に関わらず、身につけている制服は一糸の乱れもない。やれ蛮族だ、やれゴリラだと評しているが、こういうところは貴族的で、軍人的だった。カツカツとブーツで床を鳴らし、規則的に足を揃える姿はワルキューレを思わせた。
「むちゃくちゃだぞオマエ!」
サトルは自分のことを棚上げして糾弾する。
「あら、これくらいなら私の故郷では五歳の女の子でもできるけど? こんな田舎のボンクラには理解できないでしょうけどね」
「……できないじゃなくて、したくないだよ」
五歳(♀)のゴリラが彷徨くブリュンヒルデの郷里を想像して、サトルは吹き出しかけた。
脳裏によぎったのは、やだーエレメンタリースクールに遅刻しちゃうわ!! どうして起こしてくれなかったのマム!? と、朝の食卓に二階から降り注ぐ、ランドセルとネグリジェ装備のローランドゴリラの画だった。
サトルの脳内再生は、いくら何でも緊張感がなさすぎる。
「で、会うことがあればどうしていいんだっけ?」
ブリュンヒルデは皮手袋をきつくはめなおした。ぎゅっと擦れる音が、弾丸の装填を想像させた。
この夜は何度となくこんな光景を見てきた。追いつかれて追いつめられて、それでも何度だって乗り越えて。サトルは覚悟を決めた。今度こそ、決着をつける覚悟を決めた。
「……しょうがないにゃあ」
サトルは唐突にはらりとワイシャツを脱いだ。
「な、な、な!!」
ブリュンヒルデは赤面して指さす。
「な?」
サトルは瞳を潤ませて、上目遣いする。
「なんで脱ぐ必要がある!?」
「女の子に言わせる気~?」
つっこみ所満載だった。
「バッカじゃないの!!」
残念ながらその通りだった。
本来こんな余裕もないのだ。この原因となった、あの怪物が、そこまで迫っていたらと考えれば――そのはずなのだが、いったいどんな幸運なのか。怪物が迫ってくるような気配もなかった。
おかげでサトルには余裕が戻ってきた。なんだか、サトルにとってブリュンヒルデとのバカ話がある種の儀式のようで、こうすればいつもの自分に戻れるような気さえしてくるくらいだった。こいつのおかげで意地を張っていられるのだと不思議な気持ちになっていた。
そんな振る舞いに、ブリュンヒルデは「なに笑ってるのよ」と指摘した。
サトル自身は表情に出したつもりはなかったけれど、きっとブリュンヒルデから見れば、彼はファニーでチャーミングな顔をしているだろう。人間、恐怖も過ぎれば笑うしかなくなるらしい。
「あの怪物はどうしたんだ?」
落ち着きが帰ってきて、サトルは今後を左右する質問をした。つまり、その質問はサトルがこの後どういう立ち位置になるのかに関わってくる問題だった。
怪物が追ってきているなら、ブリュンヒルデも揃って逃亡者。もし、彼女が既に怪物を行動不能にしているなら、サトルだけが追われる側だ。
その問いの答えは、彼女の口からは告げられなかった。なにが迫ってくる、不気味な足音が廊下に響く。ひたひた。どかどか。づかづか。どどどん。明らかに不具のそれだ。
「……来た」
ブリュンヒルデの神妙なつぶやきに、サトルは思わず背後を振り返った。
「まあ、そうなるよな」
案の定、怪物がいた。ちょうど階段を下りているところで、もうほぼほぼ四つ足状態だった。転げ落ちないのが不思議なくらいで、横から力を加えればあっさりと自壊するだろうアンバランスさだ。
「提案」
サトルはブリュンヒルデの方を見ずに言った。
「却下」
ブリュンヒルデは一瞬の迷いもなく拒否する。
「話くらい聞けよ」
「経験上、アンタとの会話でメリットを感じたことが一度もない」
ぐうの根も出ない正論だった。
「とりあえず、ここを出ないか。幸いに、あれはどうも走るとかいうプログラムがされていないらしい」
サトルはブリュンヒルデをまっすぐ見た。彼は今までが嘘のように真剣な顔つきだった。
そんな彼の様子に気がついたのか、訝しげな視線もそこそこに、ブリュンヒルデは黙って頷いた。言動に反して、彼女の思考自体は至って冷静だ。
まず、ブリュンヒルデが歩き出した。決してこちらに背を向けることはなく、あたりに散らかった障害物を器用に避けて歩いていた。
一方、サトルはそのまま歩いた。まっすぐ出口を見据えて歩いた。怪物も恐いが、なによりこの女に背を向けることだけは出来ないと考えていた。
怪物は二人を認識しているようだが、走ることも腕を伸ばすこともなかった。ブリュンヒルデの与えたダメージが、確実にその機能を奪っているのだろう。
サトルは心の中で安堵した。いったい何を怖がっていたのだろう。あれは、本当に不出来な人形だったのだ。目的意識もなく、ただ一つの命令の元に存在を許された哀れな人形。顔にこそ出さなかったが、彼は安心しきっていた。
そういう油断が、彼には多かった。
気づけばブリュンヒルデが走り出していた。サトルに向かって一直線だ。
「Torskedum!!」
それでサトルは気づいた。振り返れば、急速に間合いを詰める怪物の姿があった。関節は折れてフレームもひしゃげて、なおも動き続ける怪物。
怪物から目を離さなかったブリュンヒルデはすぐに気づくことができた。気づいたときには、自然と体が動いていた。
「コイツを殴るのは私だ!! しつこいぞ出来損ない!!」
ブリュンヒルデは吠える。
するとどうしたことか。怪物は突如のその動きを止めた。
予想外の出来事にブリュンヒルデは一瞬困惑した。何かがくる、と思った瞬間には遅かった。
怪物は走ってきた勢いそのままに必殺の槍を解き放つ。両断されたはずの怪物の腕は、スパイク状になって突進するブリュンヒルデを刺し殺さんと腕を伸ばす。
死んだ、とブリュンヒルデは思った。あの槍は、間違いなく自分の心臓に到達すると―――――
「危ねえぞバカ!!」
―――――割り込む人間がいなければ、の話だが。
サトルの体も自然と動いていた。彼は持っていた斧で、怪物の刺突をはじき飛ばした。力任せの一撃で軌道がずれたおかげで、怪物の腕はブリュンヒルデに至らず廊下の側壁へと突き刺さる。
その光景でブリュンヒルデは我に返った。
「走れJapanesk!!」
「言われなくても走ってる!!」
二人は出口に向けて走り出した。
怪物は今度こそ最後の力を振り絞ったと見て、ぐたりと力なく倒れていた。
それから振り返ることもせず、二人は全速力で廊下を駆け抜ける。
かつての昇降口を抜けると、ようやく日常へと帰還した。外は暗いが、建物の中ほどではなく、よく見た光景がいつぶりかの安堵を与えた。
ただ、そんな状況でもブリュンヒルデは一切気を抜いていないらしい。相変わらず、人を殺せそうな眼孔で睥睨している。
サトルもようやく振り返って、彼女の視線の先を見た。
入り口は暗くぼんやりとしている。もしかしたら、全部夢だったのでは。そう思わせるくらい、そこはありふれた今にも崩れそうな旧校舎だった。
何の変哲もない旧校舎だ。
一息つくサトルに、ブリュンヒルデは話しかける。
「ねえ」
「あん?」
「この建物って、今は使われてないのよね」
「見ればわかると思うけど」
「……じゃあ、いいわ」
何がいいのか? と聞く暇もなく、ブリュンヒルデは例の金属片を取り出した。まるで指揮者のように腕を振るい、中空に軌跡を描く。否、奇跡を描く。何もないはずの空気は、その金属片によって傷つけられ、その爪痕を確かに中空に残った。
その痕跡は、平仮名の『く』のようにも、何かの枝切れの形にも見えた。刻みつけると言う言葉にふさわしい形だった。空間が悲鳴を上げているようにも感じた。その軌跡は、青い閃光を以って現前した。
ブリュンヒルデが、描かれた記号をもう一度撫でるようにすると、青白い閃光は消えることなく、指向性を与えられたようにそのまま飛んでいく。
「〈燃焼〉」
そう、短く呟くと、旧校舎の入り口は燃え盛った。
kenは火を象徴する。松明の明かりだ。それは闇を駆逐する役割を持っている。あらゆるスタート。文明の象徴。怪物のとどめを刺すのにこれほどふさわしい文字もないだろう。
「は?」
サトルは呆けたように息を吐いた。
呆然としている間にも火の勢いはどんどん増していった。さしずめキャンプファイヤーだ。それなりの歴史建造物でも、ブリュンヒルデからしたら燃やしやすいくらいの感想しかないのかもしれない。なんの感慨もなく、自分が生み出した炎を見つめている。
「これでよし」
「よし、じゃねえだろう!! 下手したら学校丸ごと燃えるじゃねえか!!!」
サトルは珍しく常識的なつっこみを入れた。相手があまりに非常識なアレだったからだ。
「まあ、これで倒せるとは思わないけど時間稼ぎくらいにはなるでしょ」
「話聞けよオマエ」
「……ああ、安心して。燃え広がらないように、一応囲ってあるから」
準備が大変だったわ、とブリュンヒルデがため息。
「……そういう問題なんだけど、そうじゃなくてだな」
一応それなりの歴史があるんだぞ、とサトルが呆れ顔。
「いちいちうるさいわね。良かったじゃない。もしかしたら、あの中にいたのはアンタだったのかもしれないのよ」
Flæskestegの出来上がりね、とブリュンヒルデが心底疲れたという顔。
「そういう問題でも……マジかよ」
「マジもマジでしょ。言ってしまえば奥の手ってやつね。ほら、手札の話したでしょ?」
サトルは頭が痛かった。
彼はほんのさっきの出来事を思い返した。
何が炎も雷もないだ。これだから、博打打ちはいくつ命があっても足りない。自分がくぐり抜けた博打が、如何に綱渡りで楽天的だったかを思い知って、大きなため息が出た。
最近素行も不良な学生。なにやら情緒不安定の様子も。火遊びか自殺か。真相はこんがり焼けて消し炭に。
悪くない証拠隠滅だ。妥当と言っていい。その主演が自分自身じゃなければもっと良かったとサトルは思った。撮影を取りやめていただいてこれ幸いである。
火の手は一層広がっているように見えた。役目を終えながらも引導を渡されなかった旧校舎は、最後の華とばかりに燃え盛っていた。火柱は天に届かんばかりで、この分だと近隣住民からの通報で、じきに消防車が駆けつけるだろう。
「やったと思うか?」
「どうだろう。これで壊れるような代物には見えなかったけれど、未だに出てこないっていうのはそういうことかもね。うまい具合に、瓦礫の下敷きとかになってるのかも。まあ、何にせよ長いしてもしょうがないし、さっさとここを離れましょう」
それはサトルにとってあまりにも予想外の言葉だった。どう考えても、鬼ごっこの続きになるだろうなと覚悟していたというのに。
「なによ。その間抜け面」
「いや、その、あまり自分で墓穴を掘るのも嫌なんだけど……現地解散でオーケー?」
「そう言ったじゃない」
「虐めない?」
「くどい!」
ブリュンヒルデは少し顔を赤らめながら言った。そっぽを向いて、口をややとがらせている。
「いい加減疲れたの。それに、アンタくらいならいつでもヤレるわ。今日のところは命拾いね。感謝しろ」
ブリュンヒルデは親指で自分の首筋をなぞってさっくりクビキリモーション。ついでに中指はあの世行きをお知らせした。
それは、サトルには一ミリたりとも納得できない物言いだった。なんだこの自己中心ガール。世界はオマエを中心に回ってるってか。
「どこの大王様だよ」
「うるさい。さっさと帰ってくそして寝ろJapansk!!」
「対応が雑だし品性を疑う!!!」
もうすっかり日の落ちた夜にサトルの言葉が響いた。
炎に照らされるブリュンヒルデの金色の髪が夜風に撫でられる。彼女はまた、炎を見つめていた。不安の種を見つけるように――見つからないでと祈るように、見つめていた。
所在なくなったサトルは、ふと自分の手の中の感触に気づいた。結局最後まで斧を手放さなかった。サトルは手放さなくて良かったと思った。もし、どこかで斧を放り捨てていたら、最後のファインプレーは起こらなかっただろう。
無我夢中の一撃だった。少し前まで殺し殺されると思った女の子を助けた一撃だった。
なぜあんな行動をとったのか。サトルにはわからない。
「……たぶん、俺は存外この女が気に入ったんだろうな」
ボソリと誰に言うでなく、サトルはつぶやく。
「なんか言った?」
耳賢くブリュンヒルデは反応した。
それにサトルは何でもないと苦笑する。
「これ、借り物だ。返すよ」
斧の柄をブリュンヒルデに差し出した。
それを、ブリュンヒルデはじっと見つめる。
この斧が、この手が、自分を助けてくれたのだと。
サトルは笑っていた。無邪気な少年のような笑顔だった。
「tak……ありがと」
なに対してでなく、彼女はそう言って手渡される斧をとって、サトルの手に触れた。
****
夜は深くなる。
主役がいなくなっても舞台は燃え続け、その日の出来事を灰にしていく。
その記憶は、追いかけ追いかけられた二人の中にだけ。
長いようで短い夜は、終わりを告げた。




