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翌朝建二がリビングへ行くと、食卓にはいつもの通り、三人分のトーストや目玉焼きが並べてあり、コーヒーの香りがしていたが聡子の姿はなかった。浴室で水音がするのでのぞいてみると、ガラス越しに人影が見えた。
「昨日はごめん。伊藤くんが急に転勤になってさ。俺、入社の時からずっと彼の面倒みてたもんだから」
ふっと水音がとぎれて「ごはん、食べてて」と細い声がした。
「あ、ああ」
リビングで朝食を取る間、聡子は戻ってこなかった。食事を終えて、着替えをしようとスーツを探したが見当たらない。寝室に戻ってクロゼットを探していると、いつ来たのか聡子が入り口に影のように立っていた。
「スーツ、見当たらないけど」
「洗ったわ」
「えっ?」
「びっしょりだったわよ。夜中に雨が降ったのね。傘、持ってなかったんでしょ」
「洗ったって、全部?」
「ええ、シャツもスーツもネクタイも下着も全部」
そう言うと聡子は薄笑いを浮かべた。皐月のマンションからは、タクシーで戻ってきた。そして、一滴も雨は降ってなかった。しかし妻の仮面のようなほほえみを見ていると、建二は背中がぞくりとした。急いで他のスーツに着替え、そそくさと家を出た。
夕方帰宅してみると、聡子は昨夜のことなどまるで忘れたかのように何も聞こうとはしなかった。食事が終って、建二は水割りの残りが入ったグラスを持ってリビングのソファーに腰を下ろし、テレビをつける。聡子は無言でシンクに向かって食器を洗い始めた。しばらくして聡子の声がしたような気がしたので、建二は妻のほうを見た。
「何か言った?」
「いいえ」
聡子はけげんそうに夫の顔を見返した。床に水がこぼれていたのはその翌日のことだった。
その頃から聡子に少しづつ奇妙な言動が見られるようになった。ある晩食事をしていた聡子が急に箸を置いて「おかえり」とつぶやいたので建二が「どうしたの?」とたずねるとあわてたように「あゆみの……」と言いかけて言葉を濁した。
ある時は、帰宅した建二が門のところから何気なく二階の窓を見ると聡子が誰かに手を振っている。建二にでないことは明らかだったが、聡子の視線の先にそれらしい人影は見当たらなかった。
三度目は夜中だった。玄関のドアが開く音で目が覚めた。こっそりのぞくと、聡子が門の内側に立って何かを待っている。そして十分ほど経つと何事もなかったかのように戻ってきた。
建二があわてて身を隠すと聡子は玄関の鍵をしめながらつぶやいた。
「おかえり」
「聡子、よく聞いてくれ」
翌日夕食を食べながら、建二は思い切って妻に語りかけた。
「君が、あゆみが帰るのを待ちわびている気持ちはよくわかる。俺だって君とまったく同じ気持ちだよ。でもあんまりそのことばかり考えて思いつめるのはどうなんだろう。俺は時々君が幻覚でも見ているんじゃないかと心配になってくるんだ」
聡子は建二の顔をじっと見つめて口の中で「ごめんなさい」と謝った。建二の話が理解できたのかできなかったのか、聡子はそれからも時々不意に「おかえり」とつぶやくことがあった。
けれど次第に建二は、そのことばが聡子にとって自分自身を落ち着かせるためのまじないのようなものなのかもしれないと思うようになった。聡子の精神状態が、前よりはずいぶん落ち着いてきたように見えたからだ。何より以前のように急に怒り出すことや泣き出すことがなくなった。建二にとって久しぶりに平穏な日々が戻ってきた。
長い間の不安と緊張が少しゆるんで、建二は時々上司や同僚と飲みにいったりもするようになっていた。