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「お疲れ様でした」
建二はいつもの通り六時過ぎにタイムカードを押し、残っている社員に挨拶をすると廊下に出た。
「小森くん」
後ろから女性の声がした。振り返ると、建二とは同期の、契約担当の責任者をしている谷口皐月だった。
「今日、ちょっと食事にでも行かない?」
あゆみのことがあってから、建二は社内での飲み会にまったく参加しなくなった。上司も同僚も、事情を知っているので無理に誘うことはしない。皐月は以前から建二とは仲がよく、何度か二人で飲みにいったこともある。お互い仕事上の悩みも上司への不満も打ち明けられる戦友のような関係だった。その皐月も建二の家庭の事情に遠慮してずっと声をかけてこなかった。
「あっ、ごめん。無理だったら断わって」
「いや」
建二はちょっとうつむいて考えてから携帯を取って、自宅へ連絡をいれた。
「小森君、ここんとこなんだかすごく疲れてるみたいだから」
行きつけの居酒屋で建二のグラスにビールを注ぎながら皐月が言った。
「娘さんのことも…なんか聞きづらくって。みんな心配してるんだけど、興味本位で聞ける話でもないしね」
「いや、心配かけて申し訳ないと思ってるよ」
「その後何か進展ないの?」
皐月の問いに建二は首を横に振った。
「そう」
「何もない。何もなさすぎてどうしていいかわからないんだ」
皐月は黙ってうなづいた。
「実は女房が……」
「奥さん、具合が悪いの?」
「ああ、精神的にずいぶん参ってる。仕方ないんだけどね」
「病院には?」
「娘が帰ってくるかもしれないと言って、家から一歩も出ないんだ」
建二は三杯目のビールをあおった。
「こんなこと親が言うべきじゃないのはわかってる。でもこんな宙ぶらりんな、まったく先の見えない状態で、これからずっと、もしかしたら一生やっていくのかと思うと……」
「いっそ駄目なら駄目だとはっきり分かるほうが、気持ちのけじめをつけられる」
建二が決して口に出せない思いを引き取るように皐月がつぶやいた。
その夜建二はかなり酔って、気づくと皐月のマンションにいた。深夜の二時過ぎにマンションを出て、タクシーで家に戻ると、明かりはすっかり消えて家の中は静まりかえっていた。