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「あゆみが帰ってくるかもしれないから」
聡子はそう言って家から一歩も出なくなった。娘の失踪後、ひどい興奮状態とと落ち込みを繰り返した聡子の神経はすり切れたようになって、建二の何気ないひと言にも、いきなり激昂したり、重い欝状態になったりと、普通ではなくなっていた。満足に食事を取らないので、急激に痩せて頬がこけ、一気に五、六才も年を取ったように見えた。
建二は妻に、病院に相談するように勧めてみたが、かたくなに拒否されて、手の打ちようがなかった。毎日の買い物は宅配の食材を注文して、あとは建二が会社の帰り道に買ってくる。けれど聡子はたとえ体の具合が悪くても食事の用意は欠かさなかった。そして食卓にはいつも三人分の食事が用意されていた。
そんなある日帰宅する電車の中で携帯が鳴った。聡子からだった。
「ああ、あなた。今日あゆみの6才の誕生日でしょう。駅前のケーキ屋さんで苺のケーキを買ってきてね」
「あ、ああ。そうだったな」
近頃の建二はどんなことでも妻の言葉に逆らわないことにしていた。二、三度ささいなことを言い返したために、聡子が興奮してカッターで手首を切ろうとしたりしてとんでもない事態になったからだ。
苺の乗った丸いケーキを買って帰ると、聡子が「ありがとう」と言いながらケーキの箱を受け取り、キッチンのテーブルの上でふたを開けた。
「ねえ」
尖った声に着替えをしていた建二が振り返ると、聡子のこめかみに青い筋が浮き出ている。
「あゆみの名前を入れてくれなかったの?」
あっと建二は息を飲んだ。そう言えばバースデー・ケーキの上にはたいてい「〇〇ちゃんおめでとう」とチョコで書かれたプレートが乗っている。
「あゆみ、きっと悲しがるよ」
聡子の声が鋭くなった。
「あなた、本当は私が電話するまで今日があゆみの誕生日だってことを忘れてたんじゃないの?」
「そんなことはないよ」
聡子がすっと目をそらしたので、建二の顔はこわばった。以前にも同じようなやり取りがあった。
「あなたは本当はあゆみのことなんかどうでもいいんでしょう」というところから始まって最後は「あゆみが戻ってこなければいいと思っているのよ」と手がつけられなくなった。
しかし、今日の聡子はそれ以上言い募ることはせず、黙って食事の支度を始めたので、建二は胸をなで下ろした。食卓にはあゆみが大好きだったハンバーグやスープが並んで、中央にはバースデーケーキが飾られている。
建二がその日に会社であったことをぽつりぽつりと話題にし、聡子はそれにあいまいにうなずくだけで自分からはほとんどしゃべらない。いつもの通りの静かな食事だった。食べ終わると聡子はケーキの箱にふたをして冷蔵庫にしまいこんだ。
それからふらふらと歩いてキッチンの椅子に座り込むと、がっくりと肩を落とした。その瞳から涙があふれ、ブルーのエプロンの膝を濡らした。建二は黙って妻の後ろに回り、震える肩を抱いた。
そんな風に<今日こそは>というかすかな希望と、同じ数だけの落胆が夫婦の毎日を刻んでいた。
「九年経ってみつかったこともあるんだから」
聡子は時々自分に言い聞かせるように明るくそう言った。その思いがかろうじて妻を支えているのだとわかっていても、建二は、爆弾のような妻の神経に気を使いながら日々を重ねることに次第に疲れ始めていた。
先日布団を干しに二階にあがる聡子を手伝って、珍しくあゆみの部屋に入った時だった。
床に読みかけの本が開いたまま伏せてあったのでしまおうとすると「何してるの」と聡子が血相を変えて飛んできて、建二の手から本をもぎとった。
「今夜続きを読んであげる約束なのよ。さわらないで」
あゆみがいなくなってから、聡子は二階のあゆみの部屋で寝るようになっている。娘が戻ってくることを繰り返し願い続けているうちに、だんだん夢と現実の境界があいまいになってきているのではないか、そう思うと建二は戦慄を覚えた。
―― 聡子は明らかに普通じゃない
妻を無理やり連れ出して診察を受けさせ、場合によっては入院させることも考えたが、今の聡子にそれを強要することはとてもできそうにはなかった。