1
―― 家の中に何かいる
建二がそう感じたのはひと月ほど前のことだった。仕事から帰ってきて家に上がると、廊下に水がこぼれていた。
「どうしたの、これ?」
建二がたずねると、妻の聡子は「花瓶の水をこぼしてしまって」と小さくつぶやきながら急いでダスターでふき取った。
数日後今度は階段に泥の足跡のようなものがついていた。さらに、夜テレビを消して寝ようとした時、一瞬人の話し声のようなざわめきが聞こえたような気がしたこともある。
けれど建二にとってそんなささいな出来事は、七ヶ月前にこの家を襲った事件と、それからずっと続いている家庭の異常な状態に比べれば、取るに足りないことのように思われて、じきに忘れてしまった。
五才になる一人娘のあゆみが、庭先で遊んでいて姿を消してから七ヶ月になる。聡子が夕飯の支度をするために家の中に入ったほんの十分足らずの間のことだった。炊飯器のスイッチを入れた聡子が「あゆみ」と呼びかけたが返事がない。不審に思って庭に出てみると娘の姿がなかった。
「あなた、あなた、あゆみが…。あゆみが…」
建二の携帯に電話してきた聡子は半狂乱だった。建二が取るものも取りあえず帰宅した時には自宅から少し離れた薄闇の中にパトカーが止まっていた。
新聞やテレビで報じられるような事件が、自分の身にふりかかってくるなんて予想している人間はいない。そういう時にどうすればいいかわかるはずもない建二と聡子に、想像を絶するような不安と恐怖とそして混乱が襲いかかってきた。
建二は取り合えず勤め先の損害保険会社に有給休暇の願いを出して十日間仕事を休み、心労で倒れた聡子を支えながら次々に起こってきた未だ経験したことのない事態に対応した。
当初誘拐の可能性を想定していた警察は、それらしい兆候がないので三日後に公開捜査に切り替えた。夫婦は警察官の質問に何回も同じことを答えさせられた。捜査員や地域の人たちによって周辺の大がかりな捜索が行われ、マスコミも大勢取材に来た。しかしあゆみの行方はまったくわからず、事件などに結びつくような手がかりも見つからなかった。
何一つ進展がないまま数ヶ月が過ぎた。周囲の人たちの間で「神隠し」という古風なことばがささやかれるようになった頃、建二と聡子の暮らしには少しづつ静寂が戻ってきた。けれどそれは人の出入りや電話が減ったというだけで、あゆみがいた頃の日常が戻ったわけではなかった。
娘と同じくらいの女の子を連れた夫婦に出会うと、建二の足は自然に止まった。家に帰れば夕飯の匂いが漂い、テレビのアニメの音が聞こえ「パパァ」というあゆみの声がする。あの頃の生活に戻りたい。そう思うと、胸が焼けるように痛んだ。