第二話
6
(1)
「緊急指令。神奈川区松見町二丁目スカイハイツ麻生809号室で発砲事件発生……」
事件発生を告げる無線を、松岡と川島は車の中で聞いた。
「松見二丁目は目と鼻の先だな」
松岡はすぐに無線を取った。
「こちら松岡。現在現場付近。すぐに急行します」
連絡を終えた時には、現場であるスカイハイツを確認出来る場所に到着していた。
「相手は拳銃を所持しているぞ。応援が駆けつけるまで中には踏み込むな」
真山課長から指示を受けていた。
「行くぞ」
松岡は川島に声をかけ、車から飛び降りた。
11階建てのスカイハイツは、発砲事件が起きているという様子はなく静まりかえって
いた。恐らく、住民は恐怖に駆られながらも、部屋の中でじっと息を潜めているのだろう。
松岡と川島はマンションの南側に廻って8階を見上げた。コーナー出窓とベランダが交
互に続いているマンションの構造では、ベランダ越しに隣に逃げ込む事は出来ない。その
事を確認して、二人は北側のエントランスから中に入った。
管理人室の中では、館内巡回で8階のエレベーターを降りた時、809号室で発砲音を
聞き、肝を潰して110番通報をした顔色を失くした呆然自失状態の管理人がいた。
809号室の住人は長内雅也という若い男だった。管理人は発砲音を聞いただけで、室
内で何が起きたのか、何人いるのか、怪我人が出てるのか、何も分からない状況だった。
「ここから出ない様に」
室内の間取り図を確認した後、既に駆けつけている交番勤務の巡査に指示をし、管理人
にそう告げて、二人は8階に上がった。
エレベーターを降りて辺りを警戒した時、809号室のドアがかすかに開く気配を感じ
た二人はエレベーターホールの壁に身を隠した。ドアを少しだけ開けて顔を出し外の様子
を探っている男を確認出来た。男はすぐにドアを閉めた。
松岡は川島に「行け」と手で合図をした。
「ここで見張っていた方がいいんじゃないですか? 中の状況が全く分からないんですよ」
「いいから行け!」
「ベランダからは逃げられないし、応援が来るまで待つべきです」
「相手はすぐに部屋を出るつもりだぞ。だから、ドアから顔を覗かせたんだ」
「マズイですよ」
「部屋から出たらどういう結果になるか分からん。部屋の中で決着をつけるんだ。俺が責
任を取る。いいから行け!」
「松岡さん!」
松岡の考えている事が理解出来なかった川島は、声を荒げ松岡を制したが、松岡は既に
809号室に向かっていた。川島も覚悟を決めて後に続いた。
ドアの前で拳銃を手にして中の気配を伺った。
中でガタゴトと何かを荒らしている様な音が聞こえた。「管理人」や「宅急便の配達人」
になりすまして、チャイムを鳴らせる様な相手ではない。
「行くぞ」と言う様に松岡が目で合図をし、ドアノブに手をかけた。鍵がかかっていない
ドアのノブが回った。
ドアに鍵がかかっていない事で、また言い様のない不安な気持ちが沸いた。
自分より遥かに経験を積んでいる松岡が、今まで謝った判断をした事は記憶には無いし、
今の様な状況下で、上司の命令を無視した事もない。しかし、今回だけは違う。経験が無
い自分の判断の方が正しい……それは間違いない。
「ダメです」目で訴えたが、松岡は無視をした。
「警察だ!」
銃を構えて室内に突入した。中にいた誰かが一瞬驚いた様な気配が伝わった空気から感
じられた。
素早く室内を確認すると、ベランダに続くリビングルームの隣の出窓がある洋室のドア
が開いていた。室内にいるのは驚いた男……長内雅也……一人だった。
長内は覚せい剤を打った直後の様で、トロンとした様な目を二人に向けたが、その目が
すぐに狂気と怒りに変わった。反射的に長内はテーブルの上のナイフを手に取った。長内
の動作で、また、川島の中に不安な気持ちが沸いた……「不安」などという様な簡単で単
純なものではなかった……明らかに「間違いだった」という「後悔」と「恐怖」……その
「恐怖」は長内に抱いたものではなく、松岡に対して抱いた感覚だった。
テーブルの上には覚せい剤と使用済みの注射器、拳銃があったが、松岡と川島は、拳銃
を向けたままの姿勢を取りながら長内の動作に神経を集中した。
長内は、菊名界隈に縄張りを張る「菊隆会」の準構成員であるが、組長と盃を交わす組
員として認められて欲しい、と思っていた。
「菊隆会」も勢力を伸ばすには一人でも多くの組員が必要だが、喧嘩が強ければ誰でもい
いという訳ではない。組への忠誠心や仁義、頭の良さ、冷静な判断、実行力、ヤクザ気質
での男の観念、自分より強いものに媚びへつらう生き方なども要求される。
そこで、「菊隆会」では、目の上のたんこぶである、敵対する「旭星会」の日向義行と
いう、最近頭角を現してきた若頭の殺害を長内に命じた。
「菊隆会」も「旭星会」も、共に不動産業と、コンサルティング業を看板に掲げ「インテ
リやくざ」とうそぶいているが、蓋を開ければ、みかじめ料などを要求する典型的な暴力
団である。最近は、組同士の小さな抗争がひんぱんに起き、刑事第二課組織犯罪対策係で
も目を光らせていた。
長内にとって、指令は命を賭けた就職試験だったが「菊隆会」では、成功しても失敗し
ても「準構成員が勝手にやった事」として逃げる事も出来る、と計算していた。
重大な指名を帯びていた長内は、異常な程の精神の高ぶりと不安感を押さえる為に覚醒
剤を打った。しかし、拳銃を手にした長内は緊張の余りか、マンションの自室で誤射して
しまった。その時点で、長内は就職試験に落ちた様なものだった。下手したら、不合格よ
り悪い事になる可能性もある。焦った長内が興奮状態で「殺るしかない」と準備をしてい
る所に、いきなり警官が飛び込んで来た。
「冗談じゃない! 俺の邪魔をする奴は容赦しない!」
頭にあるのは、目の前の警官を始末して、一刻も早く日向を殺害する事だった。
「バカヤロー!」
突然長内が叫び、松岡に体当たりをして来た。
咄嗟の出来事だった。あれだけ長内に神経を集中していたのに、それも間に合わない程、
長内の行動は素早かった。
松岡が呻いて前かがみに倒れこみ、拳銃が手を離れた。
長内はナイフを抜いて、仁王立ちになった。
「撃て!」
松岡が叫んだ。
「このヤロー!」
長内も叫んだが、ナイフを手にしたまま動こうとはしなかった。
川島は急所を外した位置を狙って拳銃を構えた。
「狙え! 急所を狙うんだ! 撃て!」
川島は躊躇った。拘束目的の発砲で、撃ち殺すのが目的ではない。
「仕留めろ!」
松岡が苦し紛れに叫んだ時、長内がナイフを振りかざして川島に向かって来た……川島
の拳銃が火を噴いた。
弾は長内の心臓を撃ち抜いていた。
「松岡さん!」
銃を撃った衝撃で後ろに倒れそうになる身体を立て直し、川島が声をかけた時に、松岡
は一度離した自分の拳銃を手に取っていた。
「松岡さん、大丈夫……」
川島は最後まで言えなかった。拳銃を手にした松岡の目が何かに取り付かれた様な異様
な目をしていた。
……撃たれる……川島は感じた……瑛子の顔が浮かんだ……覚悟をして目を閉じた……
銃声が響いた……しかし、身体に何も感じなかった。
目を開けると松岡が倒れていた。
「松岡さん!」
思わず松岡を抱き起こした。
「瑛子と……幸せになれよ……」
そう言って松岡は目を閉じた。
「……!」
初めて人を撃った事と、松岡の最後の言葉がショックだった。
……松岡さんは、知っていたのか……
……気がついた時……応援部隊が飛び込んで来た。
(2)
「松岡警部補の勇気ある行動に対し、敬意を表わすと共に警部補の死を悼みます。」
直立不動で立っている真山刑事課長と川島の前で、県警本部警務部監査室長の渋谷洋一
郎が、松岡の死を悼む言葉を述べた。
「では、川島巡査長、報告をしてください」
渋谷の表情が変わった。
「自分は、松岡警部補と聞き込みを終えて署に戻る車の中で緊急無線を受けました」
今まで何度も同じ事を言ってきた。
「松岡警部補と自分が上の命令を無視して強行突入した事が、今回、松岡警部補が殉職し
た一番の原因だという事は重々承知しております。自分の直の上司とは言え、間違った判
断を下す事に、最後まで抵抗出来なかった自分の力の至らなさを痛感しております」
……それは事実だった……
「命令を無視して突入した理由を述べてください」
「はい。自分達が8階に到着し様子を伺った時、部屋のドアが少し開いて長内が顔を出し
ました。松岡警部補は、長内は直ぐに出かけるつもりでいる。部屋から出たら、マンショ
ンの住民に危険が及ぶ可能性もある。部屋の中で決着をつける必要がある。そう考えてお
りました」
「川島巡査長も同様に考えていましたか?」
「自分は、応援を待つべき。だと考え、松岡警部補に訴えました」
「続けてください」
「はい。銃を構えて強行突入したのは、一度発砲している事もあり、ドアチャイムを鳴ら
して、という事が通じない相手だと判断したからであります。ドアには鍵がかかっていま
せんでしたので、松岡警部補と自分は部屋に突入しました」
川島は言葉を切り、唾を飲み込んだ。飲み込んだ唾が石の様に固く、重く感じられた。
「入った瞬間、長内は驚いた様子で立ち上がりました。自分は、管理人から見せてもらっ
た部屋の間取り図を思い浮かべながら、咄嗟に室内の様子を見渡して、室内には長内しか
いないという事を確認しました。松岡警部補と自分は長内の動作に集中していましたが、
長内の動作は素早く、テーブルの上に置いてあったナイフを手に取り、突然、松岡警部補
に襲いかかりました」
……ここからが川島の勝負だった……
「松岡警部補の腹を刺したナイフを長内が抜いた時、松岡警部補は倒れそうになりました
が、体制を立て直し、長内に狙いを定めていました。長内が怯んだ様子を見せたので、自
分は『こっちは二人だ。大人しくしろ』などと長内を説得しました。松岡警部補は、その
長内に向かって銃を発射する素振りを見せましたが、引鉄はひけませんでした。力が出な
かったからです。自分は長内の急所を外す位置に拳銃を構えていました。松岡警部補はそ
んな自分に急所を狙って仕留めろ、そう言いました。その瞬間、長内が松岡警部補の拳銃
を奪い、至近距離で松岡警部補の胸を撃ちました」
「松岡警部補は拳銃を奪われた時、どういう状態でしたか?」
「はい。長内は松岡警部補を刺した時と同じ様に素早い行動だった事、拳銃を握る松岡警
部補の手の力が弱かった事もあり、簡単に拳銃を奪われました。恐らく、松岡警部補は何
が起きたのか分からない状態だったと、自分は考えています」
「川島巡査長はそれでも、発砲は出来なかったのですね」
「はい。自分は発砲する事は出来ませんでした。自分の判断が遅かった事で、松岡警部補
が命を落とした。と考えています。松岡警部補に対しては申し訳ない、という気持ちでい
っぱいで、自分はいかなる処分も受ける覚悟でおります」
川島の脇の下から気持ちの悪い汗が幾筋も伝った。
「松岡警部補は倒れこみながらも最後の力を振り絞って自分に言いました。仕留めろ。お
前が……自分の事ですが、殺られたら犠牲者が増える。自分達は警察官だ、市民を守れ、
無駄死にはするな。だから、自分は急所を狙って撃ちました。事実、あとほんの僅か、数
秒ですが撃つのが遅かったら、自分も撃たれていました」
「真山課長。鑑識の検証はどうだったのですか?」
渋谷はいかにもキャリアを絵に描いた様なタイプで、鋭い目の奥には揺ぎ無い自信が宿
っていた。
「はい。横浜中央署鑑識課及び県警本部の協力を頂きまして、厳重に且つ慎重に検証を行
いました結果、撃った位置から判断した傷の具合、弾道その他、全て川島巡査長の証言通
りで相違ない、という結論に達しました」
「川島巡査長、あなたは拳銃を撃ったのは始めてでしたか?」
「いえ、自分が交番勤務時、暴走族同士の集団暴行事件の際に威嚇射撃をした事はありま
す」
「人を撃ったのは初めてですね」
「はい。初めてであります」
「分かりました。川島巡査長に関する処置については後日通告をいたします。川島巡査長
においては、今回の事案に縛られる事無く、業務を遂行すべく日々精進してください」
……この事案に縛られる事無く……そんな事は自分には出来ない。それは、そうさせな
い様に松岡が導いた……松岡はこういう事は想定していなかっただろう。それなのに……
あれは、自分に対する制裁なのか……
「刑事」という職業に、事件を解決するという信念以外、出世とか、手柄とか、組織への
忠誠心、そういう事が含まれているとしたら、松岡は決して「良い刑事」ではなかった。
自分もバカにしてる部分もあった。しかし、りっぱで優秀な「捜査員」だった。警察を題
材にした本を読んだ事もある。その本を読んだ時、あくまでもフィクションの世界だった
が、自分が松岡に抱いていた「立派な捜査員」という気持ちは間違っていない、と感じた。
その「立派な捜査員」が最後の最後に「捜査員」ではなく「ただの男」になった。自分
を「捜査員の部下」としては見ず「妻が情を通じる相手」としか見なかった事が悔しかっ
た。もし、自殺という事が分かったら、被疑者死亡で不起訴処分になるだろうが、松岡は
銃刀法違反の罪を犯している。松岡にその罪を背負わせる事よりも、自分が背負う十字架
の方が重い様な気がした。
だから……偽装工作をした……
目で見て、頭で様々な事を考えた。
特に二人の手の硝煙反応には注意を払った。長内は一度拳銃を撃っているが、松岡は一度
も発砲しない事になっている……消えるかどうか分からないが、硝煙反応を隠すために松
岡の手を傷から溢れ出ている血で染めた。その行為の最中、人間を、尊敬していた先輩刑
事である松岡を冒涜している気持ちになった……
(大丈夫だ)……全てが終わった時「ぼんやり」していると思っていた自分が、僅かの時間
の間にいろいろな事を考え行動出来た事に対して、何か得たいの知れない魂が自分の中に
宿った様な気がした……宿った……のだろうか……それとも……
数日後処分が下された。
川島は警察官職務執行法7条により正当防衛が認められ、殉職した松岡は二階級特進で
警視に昇格した。
7
(1)
「吉田、松っちゃんのデスクを整理してやってくれ」
真山は、チラッと川島を見て、吉田に言った。
「すみません……」
川島は課長に向かって頭を下げた。
「いいんだよ。今日はもうこれで終わりだ。川島、お前もたまには早くあがれよ」
課長は優しい眼差しを川島に向けた。
「すみません。お言葉に甘えて、今日は帰らせて頂きます」
川島は課長に礼を言い、自分に代わって松岡のデスクを整理してくれる吉田にも頭を下
げた。
「借りは返せよな」
吉田はそう言ったが、後輩である川島を見る目は温かかった。
「お先に失礼します」
川島の後に次いで、吉田以外の一係の捜査員も部屋を出て行った。強行犯係のブースに
残ったのは、課長の真山と吉田だけになった。
「川島は大丈夫か?」
真山は、生意気だが、どこか人をホッとさせる雰囲気を持ち合わせている川島を思い浮
かべながら吉田に訊ねた。
「正当防衛が認められお咎めなしになったから、少しは元気になりましたが、結構参って
いますね」
「あいつも思いつめるタイプだからな。みんなでフォローしてやってくれよ」
川島は殻に閉じこもり、すっかり「川島らしさ」を失くしていた。
「分かりました」
吉田はそう言って、松岡のデスクの整理を始めた。
「これ? 何でしょうか?」
上から順番に引き出しを整理していた吉田は、一番下の大きな引き出しの手前に裸で置
いてあったSDカードを取り出した。
「何だ? それは?」
「SDカードですよ」
「SDカードって何だ?」
「携帯やデジカメ、パソコンのデータを保存するメモリーです。昔のフロッピーデスクと
同じ様な物ですよ」
「ふーん。で、中に何が入ってるんだ?」
「見てもいいですかね?」
「構わないよ。見てみようよ」
「松岡さんのプライベートな物って事ないですよね? Hな画像だとか?」
吉田はパソコンを立ち上げた。
「SDカードはそういう物を保存するカードなのか?」
「そうじゃないですけれど、そうだとしたら、松岡さん、嫌な気分だろうなって」
「そんな物は署のデスクにはしまっておかないだろう。捜査関係じゃないか?」
パソコンが立ち上がって、吉田はカードを差し込んだ。手際良く、パソコンを操る吉田を、
真山は関心した様に見ていた。SDカードを開くと、日付の入ったフォルダが沢山保存され
ていた。吉田は一番上のフォルダを開いた。
「課長! これは……」
吉田が絶句した。
「何だ……! 松ちゃんの奥さんだ……一緒にいるのは川島か!」
画像を確認した真山も言葉を失った。
吉田は次から次へとフォルダを開いて、保存されてある画像を開いた。真山は画面を食い
入る様に見つめている。
「不倫の現場写真……ですか?」
言わなくても画像がそれを物語っていた。
「日付はいつからになってるんだ?」
「今年の4月18日が初めで、最後は10月17日です……」
「10月17日……? だけど、何でこんな物を松っちゃんが持ってるんだ……」
「さあ……? 自分で撮ったとか……撮影場所は川島のマンションですよ。川島という表札
も映っています」
「川島と松っちゃんの奥さんが出来ていた、っていう事なのか? 松っちゃんが気付いて奥
さんを尾行して、この写真を撮ったって言うのか? だけど、ひと回り位年が上だろうよ」
真山は、松岡瑛子の顔を思い浮かべた。
何度か会った事はある。スラッとした美人で松岡には相応しくないし、勿体ない。会う度
にそう思っていた。外見的には「不釣合いな二人」であっても、美しい妻は、刑事の夫を信
頼し、尊敬し、愛している……真山はそう感じていた。
「俺はお前にたった一つだけ負けている事がある。それは、カミサンだよ」
飲んだ席で、自分の妻と比べて真山がそう言うと、松岡は何も言わずただ笑っていた。
あの時の松岡は本当に幸せそうだった。
「ちょっと待てよ」
真山はそう言って、デスクの受話器を取り上げ「川島短縮」ボタンを押した。
「お客様がおかけになった電話番号は現在電源が入っておりません……」
アナウンスが流れた。
「川島のヤロー……」
悪態をついて、次に「松岡自宅短縮」ボタンを押した。
「只今、留守にしております……」
「松ちゃんの家も留守だ」
「二人でデートでもしてるんじゃないですか?」
吉田が呆れた様子で言った。
「おい! そういう言い方をするなよ!」
「すみません……」
「マイッタなあ……」
真山は頭を掻きむしった。
「川島の奴、署じゃこんな顔を見せないのに……やけに男っぽい雰囲気っていうのか……」
「うーん……」
真山は改めて画像を確認して唸った。
「惚れてるんですね」
「吉田、お前、そんな刺激的な事言うなよ」
「だけど、いい顔してるじゃないですか?」
「確かにな……」
瑛子を見つめる川島の何とも言えない幸せそうな顔と、松岡の幸せそうな顔が重なり、真
山は眩暈を起こしそうになった。
「課長……大丈夫ですか?」
吉田が心配そうに声をかけた。
「あー、大丈夫だ」
「でも、なんか安心しましたよ。川島ってこういう奴だったって」
「川島は誰よりも人間臭い男だよ。もう、いいよ、そういう事は。現実に戻ろうよ」
「現実……ですか?」
「川島は、松っちゃんが気付いていたという事を知っていたのだろうか?」
「いやー、それはないと思いますよ。あの二人の間には何かあった、という様な雰囲気は感
じませんでしたよ」
「そうだよなあ……っていう事は、松っちゃんは自分の胸だけにしまっていたって事か……」
「半年以上もですか?」
「吉田、お前だったらどうする?」
「自分?……ですか? 自分のところは手のかかるガキが三人もいるし、それに松岡さんの
奥さんみたいに綺麗じゃないし……」
「だからさ、その事は外して」
「うーん……耐えられないでしょうね。一人だけの胸にしまっておく事なんて出来ないです
よ。嫉妬だって沸くだろうし。相手が自分の相棒だとしたら尚更ですよ」
「そうだよな。俺だってそうだ。だが、松っちゃんは耐えていた……って事か?」
「松岡さん、Sじゃなかったんですか?」
「S?」
「サドです」
「変な事言うなよ!」
「性的な意味じゃないですよ。一般的にサドって、相手を加虐し服従させることによって自
分の欲求を満たす事ですが、自分自身を追い詰める事で満足すると言うか。自分に対してサ
ドだったという事です」
「だけど、それをしてどうなるんだ?」
「だから、それで満足しているんですよ。だとしたら、多分、奥さんも何も気付いていない
と思いますよ。自分だけが知っているんだぞ。という事に快感……って言っちゃ失礼かもし
れませんが……それでいい、そう思っていたのかもしれない」
「松っちゃんはそんな変態か?」
「変態じゃないですよ。性格的な事ですよ」
「俺はそんな生き方嫌だなあ……夫婦だし、相棒だぞ。どっちも自分の生活の基盤だ」
「自分だって嫌ですよ。白黒の決着はつけたいですよ」
「……だよな。だが、松っちゃんはそれをしなかったのかなあ……」
「だから、サドだって……本当に失礼な言い方かもしれないけれど」
「そんな簡単な事じゃないんだよ……」
「すみません。だけど、簡単な事じゃないって……課長……まさか!」
真山は答えず、椅子を回転させて吉田に背を向けた。
……俺が知っている松っちゃんらしくない事をして……何かあったのか?
心の中で、松岡に問いかけた。
「吉田、この事は誰にも言うな」
椅子を回転させて吉田に向かって言った。
「分かっていますが、課長が考えている事を言ってくださいよ」
「お前と同じ事を考えてる」
「いいんですか? 言っちゃって」
「あー、言ってみろ」
「松岡さんを撃ったのは川島かもしれない……って事です」
「……」
「ズルイですよ。課長も答えてください」
「それもある……」
もう一つ考えていた事もある……それは、簡単に口には出来なかった……
真山は鍵を使って自分のデスクの引き出しを開け、松岡が撃たれた件での川島の事情聴取
のファイルを取り出した。
「あれっ? 課長、それって……」
松岡殉職の際の川島の事情聴取などを含めたファイルは、全て資料室に保管されていた。
「コピーを取っておいたんだ」
そう言って真山はファイルを開いた。
「俺は……疑問を持っていたんだよ。あの時、松っちゃんは『応援が来るまで待ってろ』と
いう俺の指示を無視して、川島と二人で拳銃を構えて長内の部屋に突入した。その事が俺は
一番気に食わないんだ。今までも松ちゃんは上司の指示を無視した事はある。今までは正し
かった……だが、今回の事は大きなミスだ。勘が頼りのあの松っちゃんのする事じゃない。
あの時は何を考えていたのか……」
「川島と奥さんの事が根底にあって、正常な精神状態ではなくなっていた。という事ですか?」
「うーん……そんな事は有り得ない……俺はそう思いたい。いいか、話を戻すぞ。覚醒剤を
打った直後で、興奮気味の長内は半狂乱になって、まず、松っちゃんの腹を刺した。お前が
川島だったらどうする?」
「長内を落ち着かせる様に、説得します」
「川島もお前と同じ事をした。だが、相手は錯乱状態で発砲をしていて、ナイフで松っちゃ
んを刺した。説得が通じるか?」
「……」
「俺だったら、長内を撃つ。こっちは二人だ。だが、勿論急所は外す」
「川島は躊躇したと言っていました」
「松っちゃんは、川島にはそういう教育をしていない筈だ。躊躇している間に松っちゃんは
撃たれた」
「川島は長内を撃つ気がなかったって事ですか? 怖気づいたとか」
「それも一つ考えられる。他に二つある。一つは……長内が松っちゃんを刺し、川島が長内
を撃って、その後、松っちゃんを撃った。もう一つは……長内が松っちゃんを刺した事まで
は同じだ。川島は長内を撃つ。その後が問題だ……松っちゃんが自分の拳銃で自分の胸を撃
った……」
「課長! 待ってくださいよ! 川島が松岡さんを撃った、という可能性は自分も考えまし
た。ですが……」
「カードに残された写真を見て思ったんだよ。松っちゃんらしくない事をしている。何か覚
悟をしていたんじゃないか? と」
「覚悟……って言ったって。あの事件は突発的に起きた事ですよ」
「あの時、二人は聞き込みの帰り道に現場付近に居合わせたんだよな」
「そうです。コンビニの売上金強盗の一件の帰りでした」
「そうだったな……」
「だけど……そうか! 川島は、松岡さんを殉職扱いにしたい……と考えたという事ですか?」
「その可能性の方が大きい。川島は何も知らなかったんだ。もし、知っていたとしても、川
島は自分の不倫がバレたからと言って、相手の旦那を殺す様な奴じゃない。それは俺が保障
する」
「だけど……自殺は銃刀法違反で書類送検で……」
「被疑者死亡で不起訴処分だ」
「懲戒解雇になるって事ですか?」
「うーん……だが、退職金はパアーだろうな」
「川島は、松岡さんの奥さんの事を考えて……ですか……」
「いや、川島はそういう事を計算する男でもない」
「じゃあ、一体何なのですか?」
「分からん」
「この事はお前と俺だけの話だ。絶対に口外はするな! 万が一、今俺達が話した事が当た
ってたとしたら、とんでもない事になる。その事は分かってるだろうな」
「分かっています」
「川島をフォローしてやれよ、と言ったが、あいつの様子にも気をつけてくれないか? 川
島は生意気なところもあるが、根はナィーブだ。松っちゃんは川島を可愛がっていた」
「了解です」
「最後に聞くが、そのカードはどういう状態で置かれていたんだ?」
「この引き出しの一番手前に、裸で置かれていましたよ」
吉田はサイド引き出しの一番下の大きな引き出しを指さした。
「SDカードはどうしますか」
パソコンから外したカードを吉田は、真山に見せた。
「これはなかった事にする」
「課長……」
吉田はカードを真山に渡した。
「デスクの整理は終わったか?」
「一応終わりました。私物は……あのSDカード位で」
「遅くまで悪かったな。松っちゃんの穴埋めに上はいろいろ考えているが、当分の間は一名
欠員のままだ。塚原じゃ松ちゃんの代理は務まらない。お前も大変だろうが、その辺を考え
てみんなの面倒を見てやってくれ」
班長であった松岡のすぐ下には、51歳になる、松岡同様叩き上げの塚原保がいた。
真面目で誠実な性格で、真山も信頼を置いていたが、松岡の様には、人を引っ張っていく力
がなかった。
「分かりました。自分はこれで帰りますが……課長はまだ帰らないのですか?」
「うん、正直言って、このまま真っ直ぐ家には帰りたくない気分だ。ちょっと一人で考えた
い」
「じゃあ、お先に失礼します」
「有難う。今日の事はくれぐれもよろしく頼む」
「承知しています」
そう言って吉田は帰って行った。
(2)
「松ちゃんよ、どうしちゃったんだよ」
吉田が去って、一人になった真山はデスクに頬杖をついた。急に涙が溢れた。
松岡とは20年程の付き合いになる。初めて会ったのは、神奈川県内の警察署の剣道大会
だった。
初戦で対戦する松岡を見た時「なんだこの男は?」と思った。若いんだか、若くないんだ
か、年寄りなんだか、年寄りではないのか、冴えない男で「勝てるな」真山はそう思った。
制限時間五分の三本勝負。先に二本取れば勝ち。決着がつかない場合は、一本取って勝ち。
の勝負だったが、甘く見ていた真山は自信を失いそうになった。審判の「始め」の合図と同
時に、冴えない松岡が豹変した。「勝ちに行くぞ」という気持ちが全面に現れていて、手強
い相手だった。しかし、一本気過ぎる試合運びは、また真山の中に自信を取り戻してくれた。
それでも、決着はつかず、延長戦の一本勝負で真山は勝利を手にする事が出来た。
勝負がついて防具を脱いだ時、松岡が真山を見て、ニコッと笑った。その笑顔が妙に人懐
こくて「今度、一杯やりませんか?」真山は松岡を誘った。真山が二回戦敗退の後、約束が
果たされた。松岡は、一目惚れした台湾人と日本人との混血の女性と結婚したばかり、と嬉
しそうに話をしていたが、少し接しただけで「刑事としては優秀な男だ」と分かった。
5年前、真山が横浜中央署刑事課長に就任して、松岡は部下になった。それから、ずっと
松岡を信頼し、頼りにしていた。
「松岡と川島か……」
おもむろに真山は受話器を取り上げ、川島に電話を掛けた。今度は呼び出し音が鳴ってい
た。
「川島です」
緊張した声で応えた。
「真山だ。松っちゃんのデスクの整理は終わったよ」
「すみません。自分がすれば良かったのですが」
「いいんだよ。お前も辛いんだ。どうだ、調子は戻ったか?」
真山は言いながら、電話の奥の気配を嗅ぎ取った。
「はい、少しは。でも、まだ時間がかかるかもしれません」
川島の声には覇気がなかった。
「もう、マンションか?」
「そうです」
真山は耳を澄ませた。
受話器から、キッチンの流しからだろうか? 水の音が聞こえた。
「休んでいるところに悪かったな。今日はゆっくり休んで、また明日から頼むぞ」
「はい、分かりました」
真山はフックに手を掛け川島との電話を切ったが、次に松岡の自宅に電話を掛けた。やはり、
留守電のままだった。
「川島と一緒にいるのか。水の音は、松岡の奥さんが流しで洗いものでもしているのだろうか」
瑛子の顔を思い浮かべながら、そんな事を考えた。
「松っちゃんも、こうして、気配を探ったりしていたのだろうか? 不倫の現場を押さえて、
写真を盗撮する時はどんな気持ちだったのだろうか?」
考えると切なくなった……待てよ……それにしちゃ、執拗に写真を撮っている……
真山は慣れない手つきで、吉田のデスクのノートパソコンを立ち上げ、さっき、吉田が行なっ
ていた操作を思い出し、SDカードを差し込んでもう一度写真を確認した。
「やっぱり異常だ……」
フォルダの日付はほぼ毎週になっている。コンビを組んでいる川島の休みは、松岡が一番分
かっている。過去の勤務表を見れば分かるだろうが、川島の休みの度に、松岡は妻を尾行して
いた事になる。それに、何故、SDカードを自分のデスクにしまったのか? 誰かがデスクの
引き出しを開ける事だってある。だから、誰かに見られてしまう可能性もあった。それを承知
で、引き出しに入れておくという事は……しかも、通常はファイルなどを入れるためにある、
一番下の大きな引き出しに剥き出しで……
「誰かに見て欲しかったのか? 刑事の不倫か……相手は先輩の妻……表沙汰になったら、警
務部観察課の調査対象になり、懲罰の対象になる可能性もある。それを狙っていたのか?
……それは嫉妬なのか……?」
(2)
「一人で大丈夫なのか……?」
川島は瑛子をずっと心配していた。
あの日から一ヶ月が経った……ずっと考えていた……自分の行為は正しかったのか? あの
まま「自殺」として扱われた場合、どうなっていたのだろう?
「何故松岡警部補は自殺をしなくてはならなかったのか?……暴かれたら……暴かれなかった
としても、一番辛い思いをするは瑛子だ。真実を封印した事で瑛子の気持ちを救う事が出来た
のか?……瑛子と自分はこれからどうなるのだろう? このまま会えずに、そして、時が経ち
『思い出』だけになってしまうのか?」
川島は携帯を手にして瑛子の携帯に電話をかけた。
「来る?」
「いいの?」
「うん……」
そして、今、瑛子と向き合っていた。
川島は俯いたままの瑛子をじっと見つめていた。
いつもなら……ドアを閉めたと同時に瑛子は川島の胸に飛び込み、お互いの温もりを感じあう
……「会いたかったの」「会いたかったよ」言葉には出さずに。
今日は……遠慮がちに手を差し伸べた川島の脇をスッと瑛子は通り抜けた……まだ、一度も
二人は言葉を交わしていなかった……
「知っているのよ……」
突然、瑛子が言った。
「知っている……? って。何を?」
「あなたから無邪気な笑顔が消えた訳……今日は一度も笑顔を見せない……」
「瑛子が俺を拒否している……だから……」
「……」
また瑛子は俯いた。
「違うの……」
「何が違う?」
瑛子は答えずに「知っているのよ……」と同じ言葉を繰り返した。
「だから、何を知っているって言うんだよ!」
「ほら、キレた。前はそうじゃなかったでしょう?」
「ふざけるな!」
川島は瑛子が目の前にいるのに、理由の分からない事に対してイライラしていた。
「無邪気なあなたの笑顔が好きなのよ……」
「いい加減にしろよ! 何が言いたいんだよ!」
「松岡の事よ……」
「松岡さんの事?」
「間違っているのよ。そう思わない?」
「思わない!」
川島は怒鳴った。
「私が何も知らないと思っているのだったら、それも間違いよ」
「知った事を言うな!」
川島の目の中に怒りが宿った。
「あの日……主人が死ぬ前日。主人と話をしたのよ」
「松岡さんと話?」
川島は瑛子の顔を覗き込んだ。悲しげで辛そうな瑛子の表情を見た川島の目の中の怒りが少
し消えた。
「松岡は全て知っていたのよ。私達の事。毎週私の後を尾行していて……あの人のデジカメの
中に私とあなたとの証拠写真が一杯入っていた。私はそれを見つけていたの……」
「……!」
「覚えている? 松岡が忘れ物を取りに帰った時の事。あれは課長宛の宅急便だったのよ。中
身は証拠写真が詰っているSDカード。私が見る事を想定してわざと置き忘れた。だってね、
封がしてなかったの。でも、実際は送らなかった。ただ私に見せるためだけ。多分、指紋を調
べたと思うのよ。そして、私はあなたにその事を伝える。そう思っていたのよ。でも、私は言
わなかったし、態度を変えなかった。何も知らないから、あなたも変わらない。その事で我慢
が出来なくなって、私に全て話をしたのよ。動かない証拠があるからどうしようもない事だけ
ど、私は肯定もしなければ否定もしなかった。じっと黙って松岡の話を聞いていただけ」
川島は黙ってじっと瑛子の話を聞いていた。
「松岡は、あなたや私の事を責めなかった。それに『私と別れる』とか『あなたと別れろ』と
かそういう事は一切言わなかったし、私に『どうしたい?』とも聞かなかった。でも、言った
の。『自分で決着をつける』と。それが……私が聞いた……松岡の……最後の言葉よ」
そこまで言った瑛子の目から大粒の涙が溢れた。
川島は瑛子の涙を初めて見た。葬儀の時の瑛子を思い出した。あの時、気丈に振る舞っている
瑛子は涙を見せなかった。
「ずっと一人で耐えていたのか?」
川島は瑛子の傍に行って肩を優しく抱いた。
堪えきれなくなった瑛子は、川島の胸に飛び込んで泣いた。
「ごめん……ごめんな……」
川島はそう言って瑛子の髪を撫ぜ、泣くがままにさせておいた。
「松岡が撃たれた……と、聞いた時……思ったの。自分で撃ったのではないかって……決着を
つけたのではないかって……」
瑛子は顔を上げて川島を見た。
「……」
川島の目からも涙が溢れていた。
「殉職と聞いて、松岡さんはりっぱでした。そう聞いて、二階級特進を知った時……あなたが
そうさせてくれた……そう思ったの。松岡の名誉と、私のこれからの事を考えてくれて……」
「違う! 自分のため……だ……」
「自分のため?」
「……」
川島は答えなかった。
「どういう事?」
「……」
まだ黙っていた。
再び、沈黙の時間が流れた……
「自分のため……に何かをしたの?」
涙がいっぱい溜まった目で、川島を見た。川島の目からも涙が溢れた。その涙を瑛子は指で
拭った。
「松岡さんは自分で自分の胸を撃った。最後に言ったんだ……瑛子と幸せになれ……と」
「……!」
「俺は嫌だった。最後は刑事のままでいて欲しかった。でも、松岡さんは……瑛子の夫で死ん
だんだ。それが嫌だったから、だから……偽装工作をしたんだ……自分のために」
「私は……」
「俺は正直に話をしたんだ。だから、もう何も言うなよ!」
「言わせて!」
「いい加減にしろ!」
「私はずっと……主人のために生きてきた、と思っているの。……それが自分の生きる道、自
分を守るにはそれしかないと思っていたから。じゃあ、幸せじゃなかったのか? 愛していな
かったのか? と聞かれたら……幸せだったし、愛していた。と答える。でも『刑事』という
主人の仕事、主人の人生を守るために、自分の感情を殺して生きて来た部分があったの。だか
ら……あなたが……もし、私のために……だったら、生きていて良かった、ってそう思うの」
「違う!」
瑛子は川島の口を手でふさいだ。
「違わない!」
「うるさい!」
川島は乱暴に瑛子の手を振り払った。
俯いている瑛子を川島は見つめた。川島の視線を感じた瑛子が顔を上げ、二人は黙ったまま
見つめ合った。このまま永遠に言葉を交わす事がなくなる……静かだが重い時間が流れた。
「あなたと出会って幸せだったの」
瑛子が口を開いた。
「幸せだった?……どうして過去形なんだ?」
「もう無理かもしれないから……」
「……」
「でも……あなたを失いたくない。ずっとあなたと一緒にいたいの」
「ずっとそばにいるよ」
「もう無理なのよ」
「無理なんかじゃない! もう言うな!」
川島の声は悲鳴に近かった。
「無理……なの。あなたの無邪気な笑顔を見る事は出来ない……あなただって分かっているで
しょう? 松岡のした事が。いつもの松岡の……静かな感情……静かな嫉妬……」
「俺はそんなに弱くない……」
「あなたは……」
「言うな!」
川島は瑛子の両腕を掴んだ。
何かを訴えたい様な瑛子の目を見つめる川島の眼差しが、フッと優しくなった。
「もういいんだよ……あの時、俺は自分の気持ちのためだけに偽装工作をした。でも、気付いた
んだ。松岡さんの最期に言った言葉の意味に。最愛の妻と部下との関係を知って、最期にあんな
神の様な事を言える筈はない……人間はそんなに優しくなれる筈はないんだ。聞いた俺がどんな
気持ちになるか分かっていたんだ」
「松岡の復讐……」
「復讐?……確かにそうだったのかもしれない。そう感じていたから、だから、また人間が嫌い
になった……たった今まではそうだった……」
「……?」
「瑛子と俺の間には『松岡さんの死』という、大きな犠牲が存在する……そうだろう?」
川島の口調が変わった。
「犠牲?……」
「そうだよ。でも、さっき、言っただろう?」
「……?」
「俺が……もし『瑛子のため』にだったら、生きていて良かった……って。そう言ったよね?
今までは『自分のため』だけ、そう思っていた。でも、さっきの瑛子の言葉を聞いて『自分のた
めだけではない』という事が、どんなに俺にとって大事な事かという事に気付いたんだよ。それ
を教えてくれたのは松岡さんなんだ」
「松岡が教えてくれた……?」
「松岡さんは復讐のつもりでいたかもしれない。優しい人間もいれば、優しくない人間もいる。
それを見極めて、真の優しさを感じ取るのも人間なんだ。大切なのは……俺と瑛子がどう思うか、
どう感じるか、なんだ」
「分からない……」
「松岡さんは瑛子を本当に愛していたんだよ」
「……」
「あの時……松岡さんは俺に長内の急所を狙え、仕留めろ。そう言った。それを聞いた長内がど
ういう行動を起こすか? その事に気付かない松岡さんじゃない。全て承知していたし、咄嗟に
自分でシナリオを描いていた。俺に瑛子を託す事を含めて、全て……だけど、最期の最期に松岡
さんは俺に言いたかったんだ。『俺は瑛子の夫だ。お前に負けない位、それ以上に瑛子を愛して
いる』と。刑事というプライドを捨ててまでも、それを貫きたかったんだ」
「……」
「川島、考えてみろ、松岡さんはずっと俺に問いかけていたんだよ。そして、俺は考えて、自分
の気持ちで松岡さんの最期の言葉を受け止めた。自分のためは、瑛子のため……と。今は自分の
行為に悔いはないし、松岡さんの死を『犠牲』にしないで、飛び越える。俺も自分の気持ちを
貫く」
「飛び越える事が出来るの?」
「飛び越えなくちゃいけないんだ。今、本当に幸せなんだよ。今だけじゃない。これから、もっ
と幸せになるんだ。俺の言いたい事はそれだけだよ。俺が言った事を瑛子がどう受けとめるか
……覚悟しているよ……」
川島は少年の様な無邪気な笑顔を浮かべていた。
8
「川島、今晩付き合ってくれ」
真山は川島に声をかけた。吉田がチラッと二人の様子を見た。
「はあ……」
パソコンのキーボードを打つ手を止めて、川島は答えた。
「そんな情けない声出すなよ。刑事課の連中はみんな俺に誘われるのを待ってんだぞ。その俺が
お前を誘ってるんだ。嬉しそうにしろよ」
「はい……」
川島の声には生気がなかった。
真山は冗談が通じなかったか? と気恥ずかしい気分になり頭を掻きながら自分のデスクに戻
った。そんな真山を、また吉田がチラッと見た。
「おい、いつになったら元のお前に戻るんだよ」
生ビールのジョッキを持ち上げて、乾杯の仕草をした真山が川島に言った。
「えっ、いつもの自分ですけど」
「そうか……まあ、いいけどさ。いつものお前だって、お前が言うのだったら。ところで、最近、
実家に帰ってるか?」
「実家……ですか? 帰ってないけど。何なんですか? 急に」
「小さな親切大きなお世話だよな。年取ると大きな世話ばかりやきたくなってな。嫌がられつい
でに単刀直入に聞くが、松っちゃんと何かあったのか?」
「松岡さんと……って、どういう事ですか?」
マイペースな川島に引きずりこまれそうになった真山は姿勢を正した。
「松っちゃんの話をして辛い事を思い出させて申し訳ないが。俺は、お前と松っちゃんはベスト
コンビだと思っていたからな。もう一度聞くぞ。本当に何もなかったのか?」
「自分は何もないって思っていましたよ。だけど、松岡さんが、自分に対してどう思っていたの
かは分かりません。もしかしたら、自分はボーっとしているから、イライラしていたかもしれな
いし」
「一緒に行動していて、妙な事を言われたり、お前に対して変な行動を取ったりした事はないの
か?」
「そうですね……どっちもないですよ。って、自分が鈍感だから気がつかなかったのかもしれな
いけれど……」
「おい、いい加減、この席で『自分』なんて言うのはやめてくれないか。飲んでるんだ。気楽に
しろよ」
「はあ……」
「こんな物が松っちゃんのデスクから見つかったんだよ」
真山はSDカードを川島に見せた。
「SDカードじゃないですか」
瑛子が言っていた証拠が詰ってるSDカードと分かったが、とぼけた。
「そうだよ。中に何が入っているか知っているだろう?」
「捜査関係の資料ですか?」
「とぼけるなよ」
「松岡さんと何かあったって聞く事は、このカードに自分……僕の悪口が書かれている物でも入
っているんですか?」
「悪口より性質が悪い物だ」
「エーッ! そんなの分からないですよ。だけど、本当にデスクの引き出しに入っていたのです
か?」
「そうだ。しかも剥き出しでな。吉田がデスクの整理をしている時に見つけた」
「……」
「しつこく聞くぞ。松ちゃんから何か話をされていなかったのか? トラブルとかはなかったの
か?」
「トラブルって……特に何も」
「松っちゃんの奥さんと付き合っているのか?」
「……」
川島は答えなかった。
「このカードの中には、お前と松っちゃんの奥さんとのツーショット写真が沢山入っているんだ」
「……」
やはり川島は答えなかった。二人は黙ってビールを飲んだ。
「お前のプライベートな事だ。言いたくなかったら言わなくていい。ただ、俺は気に食わないん
だ」
そう言って真山はビールを飲み干した。
「生ビール二つ」
真山は追加オーダーをした。
二人の間で沈黙が流れた。酒の席での沈黙は辛かった……
「鍵が掛かっていないデスクなんて誰が開けるか分からない」
真山は沈黙を破って言ったが、ビールが運ばれて来て話すのを一旦止めた。
「それに、誰かに見つけられる可能性もある。捜査関係資料だって思われてな。実際に、吉田が
見つけた。何で、こんな物を無防備にデスクにしまっておいたのか? 松っちゃんの事が分から
なくてそれが気に食わないんだ。だから、お前に聞けば分かるかもしれない。そう思ったんだ」
また話を始めた
川島は思いつめた様な表情でビールを飲んでいる。
「気を悪くするなよ。あの時の事を聞く。お前の言った事にウソはないのか?」
「ウソ?」
「そうだ。松っちゃんは自分で自分を撃ったのではないのか?」
「違います!」
川島は真山を見据えて言った。
「どうして松岡さんが自分を撃つ必要があるんですか? そんな事を言う課長の方が変です」
「そうだと思うよ。そんな事を考えるのは松っちゃんに対しても申し訳ないと思うし、何よりお
前を疑って失礼な話だ」
「僕はどうでもいいですけれど、松岡さんに失礼ですよ」
「悪いな、謝るよ。だけど……」
「松岡さんは勇敢でりっぱでした。ただ、僕の判断が遅かったから、僕が躊躇ったから、松岡さ
んが命を落とした。あれは僕の責任です」
「俺はお前を責めているんじゃない。それは分かってくれよ。そうじゃなくて、松っちゃんに何
か意図があったんじゃないか? そう考えているんだ」
「意図?」
「そうだ意図だ」
「有り得ません。あの時、現場の近くを通ったのは偶然でした……あーっ、松岡さんから、捜査
に偶然はない。偶然があったら疑え。そう教えられてきました。でも、あの時は疑いようのない
偶然です」
「そうだろう。長内と松っちゃんには接点が全くない。だからあれはお前の言う様に疑いようの
ない偶然だ。だが、俺の指示を無視して突入した事は偶然じゃない。その時点で松っちゃんには
何か意図があった。俺はそう考えているんだ。死人に口無しだし、死んだ松っちゃんの事を悪く
は言いたくない。犠牲になったのは松っちゃんだ。でも、お前が犠牲になる可能性だってあった
んだ」
そう言って真山は川島を見たが、川島は表情一つ変えなかった。
「SDカードを見た時、松っちゃんの異常さを感じたんだ。毎週の様に奥さんを尾行して写真を
撮っている。それに、お前のマンションの部屋の前にも立っていた。『川島』という表札をも撮
っている」
「……」
「刑事として捜査の中で、松っちゃんは執拗な位の執念を燃やしていたが、刑事ではなく、一人
の男としてみた時の松っちゃんはこんな事をする様な男ではない。俺はそう信じていた。でも、
実際にやっている。だから、信じられなくなってきたんだ」
「僕には分かりません……」
「他人事の様な事を言うなよ」
「……」
「お前と、松ちゃんと、松ちゃんの奥さんとの事なんだ。俺だって、こんな話はしたくない」
「……」
「川島……」
「課長の指示を無視した事はあるまじき行為だと認めます。だけど、松岡さんの判断は間違って
いなかったのかもしれないと思います。覚醒剤を打った後の状態で、長内を取り逃がしていたら、
もっと大変な事になっていた可能性があります」
「それは可能性だ。まもなく応援も駆けつける、それを待つ方が賢明って事は松っちゃんが一番
良く分かってる。だけど、飛び込んだ……」
「ちょっと待ってください。あの時の事はもう正しい判断がくだされています。それが真実です」
「それは分かっているよ。蒸し返すのは良くないって事も」
「じゃあ、蒸し返すのはやめましょうよ」
「ただ……あれからのお前を見て、お前が心配なんだよ。松っちゃんはお前を殺す気なんじゃな
いかって」
「課長……」
「お前を殺すって言ったって、命を奪うんじゃない。お前の魂を奪うんだ。お前は鈍感な男じゃ
ない。松っちゃんはいつも言っていた。川島はぼんやりした風を装っているけれど、芯は負けず
嫌いで神経が細やかだ。川島とコンビを組ませてもらった事に感謝しています、と。松っちゃん
はお前が可愛くて仕方がなかったんだ」
(魂を奪う……)
「俺は、松っちゃんとは同じ年だし、長い付き合いでいろんな話をしてきた。俺が松っちゃんの
上司になった時、聞いた事があるんだ。『俺が上司でやりにくくないか?』と。その時、松っち
ゃんは言ったよ。『やりにくい? とは、俺に嫉妬の感情がある事を言っているのか?』言いに
くい事をズバリ言われて面食らったけど『そうだ』と俺は答えた。そうしたら、松っちゃんはま
た言った。『嫉妬は自分を見失う原因になる。若い時に、関わったある事件で、嫉妬の感情のた
めに苦い経験をした事がある。だから、その時から、自分の中から嫉妬の気持ちを排除する事に
した。だから、嫉妬なんてないし、やりにくい、とも思わない』それを聞いた時、松っちゃんら
しい……と思ったよ。俺は自分が考えていた事が恥ずかしくなった」
「……」
「いつだったかな? 今年の夏前かな? 松っちゃんと飲んだ時『川島が俺を飛び越えそうな気
がする』とポツリと言ったんだよ。悔しそう顔をしている松っちゃんを見て、俺は『嫉妬か?』
と言いそうになった。でも、言わなかった。自分の中に閉じ込めていた感情が出て来て、戸惑っ
ているんだな。そう感じたよ。SDカードを見た時、松っちゃんは、静かに嫉妬の気持ちを抱き
ながら生きていたのか……って、思ったんだよ」
……瑛子も言っていた……静かな感情、静かな嫉妬……
「話は逸れたが、長い間封じ込めていた嫉妬の感情が沸いた松っちゃんが、とんでもない事をす
るんじゃないか? って、俺は心配なんだよ。お前は大事な部下だ。部下だけど家族みたいに思
っている。お前だけじゃない課員のみんなにも同じ気持ちでいる。俺の大事な家族が、魂を奪わ
れるなんて事は俺には耐えられない。だから、お前の胸の中につかえている物があったら、俺の
前で吐き出して欲しいんだよ」
……松岡さんが自分の魂を奪う……そんな事はさせない。自分がどう受けとめるか……自分は
瑛子と一緒に生きていく……
「僕の胸の中につかえている事は、松岡さんを助けられなかった、という無念な気持ちだけです。
松岡さんはりっぱな刑事だし、りっぱな人間です。それはいつも一緒にいた僕が分かっています。
去年の末に松岡さんの自宅に呼ばれた事がありました。その時、松岡さんは早くに酔いつぶれて
申し訳ない。そう謝ったのですが、その時言いました。僕が来てくれた事が嬉しいから酔いつぶ
れた、と。僕は昔気質の松岡さんの捜査方法が納得いかない事があって、時にはバカにして生意
気な事を言った事がありますが、それでも松岡さんは可愛がってくれていました。だから、課長
もそういう松岡さんを信じてあげてください」
「川島……」
真山は川島の顔を見た。川島も真山に顔を向け、ニコッと笑った。
「川島、お前は……」
真山は声を詰らせた。
剣道大会で初めて見た「松岡の笑顔」と今の「川島の笑顔」が同じだった。
「僕は松岡さんの奥さんと結婚します」
「……!」
真山は驚きで声が出なかった。
「まだ、プロポーズはしていません。あー、でも……すぐには結婚できないか……」
川島がまた少年の様な無邪気な笑顔を見せた。
「もし、彼女がプロポーズを受けてくれたら、僕は刑事を辞めます。突然に申し訳ないと思いま
す。迷惑をかけるけれど許してください。でも、僕は今、課長が仰ってくれた言葉、僕が『大事
な部下で家族だ』その言葉は一生忘れません。その言葉を聞いて『刑事になって良かった。課長
の下で働けて良かった』って、今、心の底からそう思いました。ありがとうございます」
そう言って川島は突然立ち上がった。
「今日はご馳走になりました。ビール美味かったです」
川島は真山に頭を下げた。
「おい、川島!」
突然の出来事に真山は面食らった。
「おやすみなさい」
川島はまた無邪気な笑顔を見せたが、それが泣き顔に変わりそうになった時、踵を返して逃げ
る様に居酒屋を出て行った。
9
(1)
「川島さんから銃の返還がないのですが」
警務課の進藤が刑事課に現れた。
今朝、京浜急行神奈川新町駅近くのファミリーレストランで、銃を持った男が暴れているとい
う通報が入り、刑事第一課強行犯係の係員は拳銃所持の許可を得て、現場に急行した。男が持っ
ていたのはモデルガンだったが、レストラン内に立てこもった。しかし、昼過ぎには観念した男
が自ら投降して来て、無事に事件は解決していた。
「おい! 川島は何処に行った」
真山が残っている係員に声をかけた。
「あいつ、調べたい事があるからそれを済ませて戻るって言っていましたよ」
「何の件でだ?」
「課長の許可も取ってあるって。そう言っていましたけど……」
「そんなの許可していないぞ! お前ら、何やってるんだよ! 川島の行動には気をつけろ!
と言ったはずだろう」
真山が舌打ちをしながら怒鳴った。
「携帯に電話しろ!」
言われる前に、吉田が電話をかけていた。
「電源が切られてます」
「川島のヤロー! 何やってんだ! 念のため、松ちゃんの自宅にもかけてみろ!」
「松岡さんの家も出ません!」
「探せ! マンションだ! 川島のマンションに行け! 松ちゃんの自宅にも行ってみろ!」
真山が最後まで言い終わらないうちに、吉田と小笠原が部屋を飛び出していた。
去年末、居酒屋で川島の本心を言葉で聞く事は出来なかった。しかし、あの笑顔と、立ち去る
時に垣間見せた泣き顔で、真山は「川島の心」をハッキリと見る事が出来た。その川島が警察官
としてあるまじき行動を執った。
「魂を奪う……川島、俺が心配していたのは……こういう事だったんだよ。バカな事をするなよ
……」
*****
その頃、川島は、みなとみらいのホテルの一室に瑛子と一緒にベッドの中にいた。
「2301号室よ」
ホテルにチェックインした瑛子から部屋番号の連絡があったのは、神奈川新町のファミリーレ
ストラン立てこもりの犯人が確保された直後だった。
「直ぐに行くから待っていて」
川島は瑛子に答えた。しかし、直ぐには行けない状況だった。これから刑事として処理しなく
てはならない事がたくさんある。でも、今日は瑛子との大事な日だった。一年前の今日、瑛子と
初詣に行った。そして、思い出の日に、瑛子にプロポーズする日でもあった。そのために、ホテ
ルのスィートルームを予約し、最上階のフレンチレストランにディナーの予約も入れておいた。
胸の内ポケットを触った。内ポケットには大事な物が入っていた。
やるべき事を考えた……署でやる事。それは、自分じゃなくても、自分が居なくても処理出来る
……自分しか出来ない事、自分が行かなくてはならない場所……それは瑛子が待っている場所
……自分を本当に必要としている人……それは瑛子だった。
迷わず瑛子が待っているホテルに向かった。
*****
「結婚しよう」
「今、なんて言ったの?」
川島の隣に横になって、ベッドに頬杖をつきながら瑛子は訊いた。
「もう言えないよ。一度しか言えないんだ」
「だって、好きって言われた事もないし、愛してるって言われた事もないのに?」
「言って欲しかった?」
「ううん……」
「返事は?」
人を嫌いになる薬があればいい……と思った事がある。川島に自分は相応しくない。今まで
「若くなりたい」そう思った事はなかった……でも、今思う。「何が望み?」と訊ねられたら
「若くなりたい。彼に相応しい人になりたい」そう答えるだろう。
「……」
瑛子は答える事が出来なかった。
「何を気にしているか、って分かっているよ。だけど俺は決めたんだよ。瑛子と一緒に生きて
いくんだ。もう刑事も辞める。瑛子だけを守って生きていく……」
瑛子は川島の胸に顔をうずめた。川島の胸に温かいものが流れ落ちた。
「幸せ?」
瑛子の涙に気付いた川島が訊いた。
「幸せ……」
「もう……いいんだよね?」
「……」
黙って頷く瑛子を川島はきつく抱きしめた。
「だけどね、もう少し待ってくれる? 自分の中で考えている時期があるんだ」
……ぼんやりした自分じゃなくなっている、と本当に自信が持てた時……
「大丈夫よ」
瑛子は笑って、川島の鼻をつまんだ。
……署に戻らずに、ここに来て良かった……心の底から、その幸せを感じた。
「猫を飼うんだよ」
「猫?」
「覚えてる? 一年前の今日、初詣に行く電車の中で猫を見た事。猫が『楽しんで来いよ』
って言ったって、そう言っただろう? その時から、もし瑛子と一緒になれたら猫を飼いたい
って、夢見ていたんだ……」
「覚えているわ。猫が好きなの?」
「うん、猫は媚びない。だから、子供の時から好きだった……」
「猫と私とどっちが好き?」
「決まってるだろう……」
「猫でしょ」
「バカ!」
川島は瑛子とまた一つになった。
……「愛してる」……と言いたかったが、言葉に出来なかった……その言葉を無限に使って
も……この思いは伝えきれない……
「指輪を買いに行こう!」
川島が瑛子の手を引いて、二人はベッドから離れた。
「でも、その前にこれにサインして」
「何?」
「婚姻届だよ。瑛子の気が変わらないうちに」
「せっかちなのね。気が変わるなんて事ないのに……」
「いいから、サインして」
すでに「川島達也」のサインがある婚姻届を瑛子に渡した。
「証人は誰にするの?」
サインを済ませた瑛子が訊いた。
「一人は真山課長。課長は俺の事を家族、そう言ってくれた。もう一人は別れたおふくろ。こ
れを見たらおふくろはもうため息をつかなくなる」
瑛子から受取った婚姻届を大事そうに白い封筒にしまった。
「おふくろに郵送するんだ」
「お母さんには直接渡せばいいのに」
「まだ会えないんだよ。正式な夫婦になったら、二人で会いに行く。その頃には、俺は、ぼん
やりした俺じゃなくなっている」
「ぼんやり……って、お母さんは、あなたがぼんやりした子なんて思ってないわよ」
「ぼんやりしてるんだよ」
そうなんだよ……川島は瑛子に言わなくてはならない事があった。
「指輪を買いに行く前に、署に寄って拳銃を返してくる」
何気なさを装って言った……敢えて「何気なさを装う」自分を感じて、不安になった……
「拳銃を持って来ちゃったの?」
案の定、瑛子が不安そうな表情を見せた。
「うん、署に戻らずにホテルに直行した」
「だって、それって、職務上に違反している事じゃないの?」
瑛子は嫌な予感がした。
「そんな難しい事言うなよ。ちゃんと正当な理由は言ったよ。ウソついたけど」
「ウソはダメよ」
「だって、瑛子がどっかに行っちゃう様な気がして」
不安な気持ちを瑛子に気付かれない様に、わざと子供っぽい事を言った。
「ほらっ、子供みたいな事言ってる。これじゃあ、やっぱり、まだお母さんには会えないわね」
「だよね……」
「私は何処にも行かない。あなたが来るまでずっと待ってたのに。おバカさんの川島達也ね」
「多分……ずっと、瑛子の前ではおバカさんだと思うよ。それでもいい?」
「覚悟してる……」
ホテルを出て、横浜駅までの道……川島は瑛子の肩を抱いた。
すれ違う人が自分達を批判的に見ている様に感じた瑛子は、自分の肩を抱く川島の手から逃れ
ようとした。
「気にする事はないよ」
川島は瑛子の肩を抱いたまま真っ直ぐ前を見つめていた。
(違うの……私が気にしているのは、その事じゃないの……)
瑛子は川島の横顔を見つめた。
(松岡の静かな嫉妬は消えていない……まだ残っている……)
「どうしたの?」
川島の優しい眼差しが、瑛子を更に不安にさせた。
沢山の批判的な目が一つの大きな塊になって、自分と川島を睨みつけている様に感じて、瑛子
は川島が肩を抱く腕を解き、川島の腕にしがみついた。
「何処にも行かないでね」
「何を心配してるの? バカだな。ずっと瑛子の傍にいるよ」
横浜駅前の郵便局で母親宛の手紙を投函して、二人は駅に続く地下道を降りて行き、地下構
内に入って行った。
「どこかでお茶でもして待っていてくれる? 署に拳銃を返してすぐに戻って来るよ」
「分かったわ」
「タクシーで行く事にするよ。その方が早いしね」
瑛子はタクシー乗り場に続く階段の下で川島を見送った。階段を昇りきる一歩手前で川島は
振り返った。
「行ってらっしゃい」
そう言って、瑛子が笑顔で手を振っていた。
(2)
階段を昇りきって、タクシー乗り場に向かっている時、背の高い猫背の男とすれ違った。
何故か、注意信号が発せられたような気がして、川島は立ち止まり振り返ってその男を目で追
った。タクシー乗り場には二組の客が並んでいた。川島はそのまま列の後ろに並んだ。順番が
回って来て、タクシーの自動ドアが開いた時、また……感じた。
「乗らないんですか?」
タクシーの運転手が助手席の方に身を乗り出して訊いたが、川島は答えず、背の高い猫背の
男が歩いて行った方向をもう一度振り返った。
「ちょっと、どうするんですか?」
川島の後ろでタクシー待ちをしていたサラリーマン風の若い男が、イライラした様子で川島
の背中を突いた。
その瞬間、川島の中で激しく警報が鳴った。身につけている拳銃を触った……自分は、とん
でもない間違いを犯した!……その事に気付いた。
「刑事」として「責任ある人間」として間違った行動をとってしまった!……魂を奪う……そ
ういう事だったのだ!……
「松岡さんを飛び越えなくてはいけない!」その思いで、咄嗟に背の高い猫背の男が歩いて行
った方向に歩き出した。急いで走りたいが、足がもつれて上手く進まない……気持ちばかりが
急いていた。昇ってきた階段を降りて、駅のコンコースを確認すると背の高い猫背の男がゆっ
くりとした様子で歩いているのが確認された。男の向かう先には小さな花屋があった。その花
屋の店先で白いコート姿の客が花を選んでいた。
刑事の勘……川島の注意信号が更に激しく鳴り出した……辺りを見回した。
「キャアーッ!」
一歩踏み出そうかと迷っていた時、女の激しい声が駅構内に響き渡った。
声がした方向を向くと、サアーッとその部分が空白になった。
空白の部分以外では、起きた事を知らない人間が「スタバでお茶しようか」などと、いつも
の賑わう駅の様子そのものだった。
その空気が一変したのは「警察だ!」と叫んだ川島の一声だった。
「皆殺しだ!」
男の怒号が聞こえた。
「ワアーッ!」
また、何処かで叫び声が聞こえた。
花屋の前で、白いコートの胸元を真っ赤な血で染めた女が仰向けに倒れていた……花を選ん
でいた客だった……気付かなかった……
一瞬、シーンと静かになったが「自分は安全圏内」と悟った群集が、一斉に逃げ惑った。
駅の構内は大騒ぎになった。
「空白」と感じた場所には、足を押さえて痛がっている男子高校生、腰を抜かして尻餅をつい
ている年配の男、ナイフを持っている背の高い猫背の男、そして、白いコートの胸元を血で染
め倒れている女……がいた。
「警察だってよ。お早いご登場じゃん、オッサン立てよ」
猫背の男が、尻餅をついている年配の男を無理矢理起こして、後ろから羽交い絞めにし、男
の胸にナイフを当てた。
「何やってるんだ!」
川島は怒鳴った。
「見れば分かるじゃん」
猫背の男は薄気味悪い笑いを浮かべた。
(瑛子……何処にいるんだ……)川島は猫背の男に拳銃を向けながら、目で周りを探した。
猫背の男の後ろで倒れている白いコートが、また真っ赤な血で染まり出した。
「瑛子!」……やっと気付いた……薄いピンクのジュリアンが、鉢からこぼれていた。思わず
駆け寄りそうになったが、川島は自分の立場を考えた……自分は……刑事だ!
「ナイフを寄越せ! その人を放せ! 撃つぞ!」
川島がまた怒鳴った。
「面白いじゃん。撃ってみろよ。その前に、このオッサンの喉をかき切るぞ!」
男も怒鳴った。
長内の部屋に突入した時の事が蘇った。撃とうと思えば撃てたが、男を撃つ事に躊躇いが生
じた。
「どうしたんだよ? どうせ撃てねえんだろう。チッ!」
「いいから寄越せ」
川島が静かに言った。
「それより、その拳銃をこっちに寄越しなよ」
「助けてください……」
「やだよー。オッサン教えてあげようか、俺さー、助けてくださいなんて言われると、余計に
虐めたくなっちゃうのよ」
猫背の男は、年配の男の顔にナイフを当てた。
「お、お願いだから……助け……」
「おやー? 今なんて言った?」
猫背の男の目が異様に光った。
「ワアーッ!」
突然、年配の男性の顔を切った。
「拳銃寄越せよ。そしたらこのオッサンをこれ以上傷つけない。助けてやるよ」
「お願いします……」
人質の男が、痛みを堪えながら恐怖の表情で言った。
「もうお前は逃げられないんだ。もうこれ以上罪を重ねるな! 放せ!」
銃を構えた川島と、猫背の男の睨み合いの時間が続いた。
「うっせえーっ! 罪なんて関係ねーよ! 人間なんてみんないっぱい罪を抱えてるんだ。こ
のオッサンだってそうだぜ。このオッサンさ、さっき階段の下から女子高生のスカートの中を
覗いていたぜ。あんただってそうだろう? 偉そうに『刑事』なんて言ってるけど、誰一人ま
っとうな人間なんていやしねーよ。だから、俺が裁いてやる!」
沈黙を破って、猫背の男が喚いた。
「お前の言う通りだ。みんないっぱい罪を背負って生きている。だけど、一生懸命生きて、そ
して、罪を一つずつ消していくんだよ。だから、落ち着けよ……」
「あんたは本当に刑事か? 似非牧師じゃねえーの。そうゆう綺麗事ばかり言っている人間っ
てたくさん知ってるんだよ。そういう事を言う人間に限って、悪い事をしているって事もさ。
俺はそういう人間にいっぱい傷つけられてきたんだ!」
「だけど、その人とは関係ないだろう?」
「うぜーよ!」
「お……お願いします……助けて……助けてください……」
「ホラッ! よっ! 刑事さん、オッサンが助けてくれ! ってすがってるぜ。拳銃を寄越せ
よ」
そう言って猫背の男は、また人質の男の頬を切った。
「刑事さん……お願いします……家族がいるんです」
「笑わせるぜ! 家族だってよ。スカートの中を覗いているスケベ親父なんて、家族の方で願
い下げだ。いらねえーってさ」
猫背の男は、ナイフを喉元に当てた。
「もし、私に万が一の事があったら……家族に伝えてください……幸せになれよ……と」
ナイフを当てられながらも人質の男は、涙ながらに訴えた。
「幸せになれよ」……松岡さん……
川島の胸にその言葉が刺さった……
猫背の男の狂気じみた目をじっと川島は見た。
「撃たれる」と松岡に感じた時の恐怖感が襲ってきた。
川島は観念して拳銃を男の方に放り投げた。
「おーっ! これが警察の拳銃か……痺れる……」
猫背の男は、人質を抱える手は緩めず、ナイフを捨てて川島の拳銃を手に取った。
「もう、これで満足だろう。人質を放せよ」
「アレッ? そんな約束したっけ?」
「言っただろう。助けるって」
「あー、そういえば言ったな」
猫背の男はそう言いながら、銃口を川島に向けた。
「だったら放せよ! お前は男だろう? 男は言った事は守るんだ!」
「あんた、バカじゃねえーの。古いよ、そんな言葉。男が守るのは約束じゃない! 自分の事
だけだよ」
「ふざけるな!」
突然、川島は猫背の男に向かって歩いた。
「ふざけるな、は俺が言う言葉さ」
猫背の男は薄ら笑いを浮かべていた。
「面白いぜ! お前に興味が沸いた。オッサンにはもう用がねえー。あっちに行きな」
そう言って猫背の男は、人質にしていた中年の男を離した。
「ワアーッ!」
自由になった中年の男は、叫び声を上げながら一目散で逃げ出したが、途中でよろめいて倒
れた。
「キャアーッ!」
遠巻きに観ていた群集がまた声をあげた。
真山が、横浜駅東口駅構内で殺傷事件発生の報を聞いたのは、川島と瑛子の自宅の様子を見
に行った吉田と小笠原が署に戻って来たばかりの時だった。
「とんでもない事件が起きた」と思ったが、管轄外の事件……そう捉えていた。
現場では管轄の横浜西署の捜査員と機動隊員が遠巻きに様子を伺っていた。
「あれは横浜中央署の川島じゃないか!」
捜査の陣頭指揮を執っていた横浜西署の安藤警部が叫んだ。
「どうして川島がこんな所にいるんだ! 横浜中央署に連絡を入れろ!」
安藤は怒鳴った。
「撃つ瞬間には呼吸を止め、銃がぶれないようにする……」
猫背の男は、ひとり言を言って、狙いを定めていた。
川島はジリジリと猫背の男との距離を縮めて行った。
緊張感が極限に達した時……「ワアーッ」と突然猫背の男が声をあげ、銃を撃った。
弾は川島のわき腹をかすった。焼け付くような痛みが走ったが川島は怯まなかった。腹から
血を流したまま歩いた。
「何だよ! お前は……来るなよ……!」
怯んだのは猫背の男の方だった。
「来るなよ!」
猫背の男は、川島に銃口を向けたまま後ずさりした。
川島はそのまま歩き出した。
「どけ!」
川島は猫背の男を睨みつけ、手で男を払う仕草をした。
「うっせえー!」
猫背の男は怒鳴ったが、銃を持つ手と足が震えていた。
その時、また銃声が響いた。
心臓のすぐ近くを撃ち抜かれた川島は、衝撃で仰け反ったが必死に体制を立て直した。
「どけ!」
川島のわき腹と胸元から真っ赤な血が溢れ出た。それでもまだ気力で、猫背の男を思いっき
り突き飛ばした。川島に突き飛ばされた勢いで、猫背の男は尻餅をついた。手から拳銃が吹っ
飛んだ。
その瞬間、警察が動いた。
「被疑者確保!」
怒鳴り声が飛び交い、構内は騒然となった。
「川島!」
安藤が川島に駆け寄ろうとした時……「来るな!」川島が怒鳴った。
「瑛子……」
川島は瑛子の前にひざまづいた。大粒の涙が溢れた。
「どうした?」
瑛子の頭を抱きかかえて訊いたが、瑛子は答えなかった。いぶし銀のフープピアスの片方が
外れて、白いコートの胸元に刺さっていた。川島はそのピアスを瑛子の耳につけ様としたが、
手が震えて上手くつけられなかった。途中で意識を失いそうになり、何度もピアスが手から離
れた。
……一年前のちょうど今頃……鶴岡八幡宮に参拝した時の事が蘇った。
「何をお願いしたの?」
瑛子に訊かれて「秘密」と答えた。
……一緒に選んだフープピアスをつけた彼女とまたデートが出来ますように……そうお願い
をした……
コートの上に落ちたピアスを手に取った。ピアスが血で染まったが今度は瑛子にピアスをつ
ける事が出来た。
残っている最後の力を振り絞って、ズボンのポケットから手錠を取り出し、瑛子の腕と自分
の腕に手錠をかけた。
「守れなくて……ごめんな……」
声を上げて泣きながら瑛子を抱きしめた。
誰も動けなかった……ただ、じっと川島を見ていた。
川島はもう苦しくなかった。瑛子と一緒になれた事が嬉しかった。
「愛してるよ……」
瑛子に、初めて自分の気持ちを言葉に出して伝えた。
……瑛子の顔が微笑んだ……
川島は……瑛子が好きだった無邪気な笑顔を浮かべて……そのまま瑛子の上に重なった……
「川島巡査長の死亡が確認されました」
真山がその報告を聞いたのは、横浜駅東口に到着し車から降りた時だった。真山は、溢れか
えっている群集を掻き分けて夢中で現場に向かって走った。現場に到着した時、川島と瑛子が
並んで担架に乗せられていたが、二人の手は手錠で繋がれていた。
捜査員が川島のポケットを探って手錠の鍵を取り出した。
「待ってくれ!」
真山は制した。
「このままにしておいてくれないか。頼みます」
真山は捜査員に頭を下げた。
真山は一瞬目を瞑った。川島の顔を見るのが怖かった……「おい! いくらぼんやりしてい
るからと言ってこんな所で寝ているな!」……そう怒鳴りたかった……でも、見なくてはいけ
ない……勤めだ……覚悟をして目を開いた。
「何だよ、こいつ……何、笑ってるんだよ!」
それが……精一杯の……勤務中の……横浜中央署刑事第一課長としての真山秀作が言える言
葉だった。
10
「課長、堂本志津子さんという方が見えてます」
「堂本?」
「川島のお袋さんです」
廊下で下を向いて立っている川島の母親を見て、真山は驚きで声が出なかった。
松岡瑛子にそっくりだった……瑛子がもう少し年を取るとこういう雰囲気になるのだろう……
応接室で真山と二人きりになった時、志津子が頭を下げた。
「この度は、達也がご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」
「お悔やみを申し上げます。川島君は勇敢でしたよ」
真山も頭を下げた。
「達也が小学校一年生の時に離婚しておりますため、苗字が違っています。私もその後再婚を
いたしましたし、達也は父親の元で父親の再婚相手に育てられました」
「全く知りませんでした」
「突然伺わせて頂きましたのは……これに、真山様のご署名を頂きたいと思いまして……」
そう言って、志津子は机の上に用紙を置いた。
「拝見いたします」
真山は用紙を手に取った。
「これは……」
「婚姻届です。10日間程、仕事で地方に出ておりまして、郵便を確認出来たのは昨日でした。
達也から書留で郵送されて来た物です。中に手紙も添えられておりました。結婚の承認になっ
て欲しいと。一人は私で、もう一人は横浜中央署刑事第一課長の真山様だと。もう、提出する
事が出来なくなりましたが、私は達也の望みを叶えてあげたいし、気持ちを大事にしてあげた
いので、恐れ入りますがここにご署名をお願いいたします」
「喜んで署名させて頂きます。ちょっと待っていてください」
そう言って真山は内線電話を取り、課員に自分の印鑑と朱肉を届ける様に伝えた。
「それから、これは中に同封されていた達也からの手紙です。私だけが分かっていればそれで
いい、と思いました。でも、親バカだと思いますが、達也の事を他の方にも分かって頂きたく
て。あの子は本当にやさしい子でした。あの子の気持ちを……読んで頂けますか?」
真山は志津子から手紙を受取って読み始めた。
「結婚するよ。まだプロポーズもしていないけれど……でも、母さんがこの手紙を読む頃に
は決まっているよ。自信はあるんだ。
彼女と一緒にいると『ここが自分の居場所』だと思える。『ここしかない』って。
そして、彼女を知って……母さんにも手紙を書く気持ちになれた。素直に話も出来るし、
そしてお礼も言える。
彼女、母さんに似てるんだよ。だけど、俺はマザコンじゃない、残念だったね。
『マザコン』って言われた方が嬉しかっただろう?
母さんは母さんだし、彼女は彼女。
母さんは、俺が、母さんを嫌っている。そう思っていたんだよね。確かにそういう時期も
あった。避けていたのは、嫌っていて会いたくなかったからじゃない。一人前に成長した
俺を見せたかったから……そうなんだよ。
そろそろ、その時期が来るみたいだよ。待たせちゃって……ごめんね。
正式な夫婦になったら二人で会いに行くよ。その時をお楽しみに。
そしてお願い。結婚の証人になって欲しいんだ。もう一人は横浜中央署の真山刑事第一課
長。課長は、俺の事を『家族の様に思っている』そう言ってくれたんだ。家族が急に増え
た。
寒くなってきたから風邪ひかないで、元気でね。
追伸
肝心な事を報告し忘れているよね。やっぱり、まだ「ぼんやりとした子」は治ってない。
彼女の名前は、松岡瑛子。俺の元先輩刑事の元奥さん。詳細は後日。
最後に……「幸せを感じる力」を育ててくれた母さんに……ありがとう!」
気が付くと、自分の前に印鑑と朱肉が用意されていた。真山は、課員が印鑑を届けに来た事
も分からない位に、川島が母に宛てた手紙の世界の中に入り込んでいた。
「ありがとうございました」
真山は丁寧に手紙を折り畳んで志津子に渡した。
「テレビや新聞を私は見ていませんが、世間でいろいろ達也の事を言われているのは分かって
います。でも、私はこの手紙の中の達也が本当の達也だと思っています」
「私もそう思います」
「私は……達也が生まれてからもずっと仕事を持っていまして、達也は私の母に育てられまし
た。仕事に夢中で満足に子育ても出来ていないくせに、私は達也に厳しい事ばかり要求してい
ました。どんなに淋しい思いをしたのか? 私は当時、何も見えませんでした。愚かな母親で
す。でも、達也はそんな私にずっと優しくしてくれていました……」
真山は川島を思い浮かべた……川島には人を寄せ付けないところがあった。真山は「もっと
心を開いて欲しい」上司と部下の関係で、それだけではなく人間として川島と向き合った時、
その事を望んだ。また、川島はいつも周りの仲間の事に必要以上に気を配っていた。時にはそ
れが川島の「エエカッコしい」、そして川島が持つ「臆病さ」そう思っていた事もあった。
課の飲み会の席で「もっと自分の事だけを考えて行動していいんだよ。それにさ、選り好み
をしないで身を固めろよ」そう言って川島をからかった事もあった。その度に川島は「はあ……」
と答えて話をはぐらかし、惚けていたし「淋しい思いをさせたくないです」そんな事を言って
いた。でも、あれは「惚けていた」のではないし「エエカッコしい」をしていたのではない。
辛い思いをしている仲間を見ていた川島の優しさから出た言葉だった。
「一番淋しかったのは川島、お前じゃなかったのか? その淋しさを埋める事が出来たのが松
ちゃんの奥さんだったのか……」
志津子の話を聞いた今、分かる気がした……遅かったのか?
……違うよな。遅くはないよな……
真山は心の中にいる川島に呼びかけた。
「お母さんだけじゃないですよ。私も他の課員も川島君の優しさを充分分かっています。それ
に、川島君は分かっていたのですよ。自分のために、お母さんは頑張っているのだと。そうい
うお母さんの背中を見て成長していったのでしょう。川島君は余り自分の感情を表す事なく、
淡々としている様に私の目には映っていましたが、心の中にはいつも人を思う、熱くて優しい
気持ちがありました。その川島君の魂は奪われずに私達の中に残っていますよ」
「達也の魂……ですか?」
「そうです」
「あの……真山さんは、達也が愛した松岡瑛子さんをご存知ですか?」
「はい。とても素敵な女性で、川島君が愛した理由がよく分かりますよ」
「もう達也は、私に話してくれる事が出来なくなりました。恥かしがり屋ですから、ホッとし
ていると思います。でも、今、達也が家族の様に思っている真山さんにそう言って頂いて……
私も嬉しく思っていますし、そこまで人を愛した達也は幸せだった……」
志津子は声を詰らせた。
「川島君の最期の顔を見ました。いい顔をしていましたよ。彼女を、川島君の奥さんの瑛子さ
んを本当に愛していたんでしょうね。あの顔を見て思ったのです。人を愛する気持ちは大事だ、
と。こんな世の中です。人間を信じられないし、愛せなくなってしまっていますが、それじゃ
ダメなんだ。人が人を信じて、愛して、一生懸命生きれば、いつか、きっと良い世の中になり
ます。その事を川島君は教えてくれました。私は警察官として……と言っても……その、余り
長くはありませんが、その事を信じて、職務を全うしていきたいし、これからの人生を歩んで
いきたい、と改めて感じました。お母さんは誇りを持ってください。川島君は……」
真山も、次の言葉が言えなかった。
「達也は本当に幸せ……だったのですね……」
そう言って、志津子は顔を伏せたままハンカチで目頭を押さえていた。
「幸せだった……そうではなくて今も幸せなんです。そう思います。私は、川島君の笑顔を見
て羨ましく思った……嫉妬すら感じました」
……静かな嫉妬……でも、自分は松岡とは違う。川島の笑顔……感じた「嫉妬」を生きる糧
にする……
真山は婚姻届を手に取り「川島達也」と書かれた文字をじっと見つめた。決して上手ではな
いが、誠実で優しくてシャイな川島の性格が、文字にはそのまま表れていた。一つだけ空白に
なっている欄に「真山秀作」と署名をしてしっかりと捺印した。
「お母さん、これをコピーさせて頂いていいですか?」
「コピー……ですか?」
「私も持っていたいんです」
「ありがとうございます。どうぞ、コピーなさってください」
「お借りします」
コピーをするために部屋を出た真山は、無人の廊下に何か気配を感じた……遠くに松岡が立
っていた。
二人はしばらくの間向き合っていた。
「松っちゃん、もう許してやってくれよ……松っちゃんだって、川島の……あの最期の無邪気
な笑顔を見たら……許そうという気持ちになれるよ」
……遠くに立っている松岡がニコッと微笑んだ……
「松っちゃん……」
涙が溢れる目で遠くを見た時……松岡の姿はなかった……
― 終 ―