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第一話

  「来ちゃった……」

   女が言った。


  「いいんだよ。俺が呼んだんだから」

   男が言った。


  「私なんかでいいの?」

   また、女が言った。


  「『私』じゃなくてはダメなんだよ」

   男が答えた。






(1)

 

  「行ってきます」

   川島達也は無人の部屋に向かってひとり言を言い、マンションの自室を出た。

   

   いつもの様にマンション北西にある小さな公園を見下ろした。ブランコの脇にある花壇に植え

  てある色とりどりのパンジーが、冬の朝日を浴びて「おはよう」と川島に声をかけている様だっ

  た。


  「おはよう……」

   思わず笑みがこぼれた。


   師走に入った最初の月曜日……今日は朝から気分が良い……


   マンションの階段を降り、郵便受けから新聞を抜き取った時冷たい風が頬を撫でた。

  川島はコートの襟を立てJR新横浜駅篠原口方面に向かった。


   川島達也は、神奈川県警神奈川中央署刑事第一課強行犯係に勤務する巡査長である。


  「おはようございます」

   駅に向かう途中、小さな花屋の前で、店のオーナーだろうか、ポッチャリとして笑顔が可愛い

  年配の女性が花に水をあげながら朝の挨拶をしてきた。


  「おはようございます」

   川島も笑顔を返した。

  そのまま花屋を通り過ぎ様としたが、シャッターを開けたばかりの花屋の店内にある可愛いピン

  クの花が目につき足を止めた。季節は冬に入ったばかりだが、店内は春の様相だった。


  「あの……すみません。こんなに早い時間に申し訳ないのですが、花を売ってもらえますか?」


  「えっ、あー、いいですよ。どちらにしますか?」

   少し驚いた様子で、花屋のオーナーが答えた。


  「うーん……これがいいかな……」

   川島は店内を一通り見回し品定めをした後、濃いピンクの花が可愛い鉢植えを指さした。


  「贈り物ですか?」


  「いや、違います。そのまま袋に入れてください」


   ……イイ年の男が職場に花を飾る……などとは思ってもいないのだろう……


  「あの……この花、なんて言う名前ですか?」


  「これはプリムラジュリアンですよ。可愛いでしょう。性格も可愛いんですよ。こんなに寒い冬

  でも花を咲かせてくれて。とっても丈夫な花」


  「プリムラジュリアン……女の人の名前みたいだな……」 

   川島のひとり言の様な呟きを聞いたオーナーが笑った。


  「390円になります。レジが開いていないので、レシートは出ませんがよろしいですか?」

   オーナーはそう言って、一番良さそうなジュリアンの鉢植えをビニール袋に入れて川島に渡し

  た。


  「構いません。無理言ってすみません」


  「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

   川島はズボンのポケットから小銭を取り出して、鉢植えを受取りながら代金を支払い、オーナ

  ーの笑顔に見送られて花屋を後にした。

 

   濃いピンクのジュリアンの鉢植えは刑事一課強行犯係の男所帯の雑然とした部屋には相応しく

  ない。

 

  「でも、そんな部屋に可愛い色をつけるのもいいか……」

   何故か、今朝はそんな気分になった。

  JR東神奈川駅に程近い場所にある神奈川中央署に向かう道すがら、手に提げているジュリアン

  の鉢植えがくすぐったい様な気持ちになった。部屋だけではなく、自分にも相応しくない。署の

  仲間に何だかんだとからかわれるだろう……

 

   まだ8時前だったが、署はもう活動を開始していた。

  ジュリアンの鉢植えを持った姿を署員に見られるのが恥ずかしかった川島は階段を二段飛ばしで

  駆け上り、刑事第一課の部屋に急いだ。


  「ようっ!」

   刑事第一課がある二階の喫煙スペースの前を通った時、誰かに声をかけられた。

  声をかけたのは刑事第二課組織犯罪対策係の岡村佳伸巡査部長だった。


  「おはようございます」

   川島は頭を下げた。


  「最近、お前んとこ調子良さそうじゃない。検挙率も挙がっててさ」

   喫煙スペースの扉を開け、煙草の煙を川島に向かって吐き出しながら岡村が言った。


   川島と同じ年だが、階級は岡村が一つ上になる。暴力団担当の組織犯罪対策係の中ではハンサ

  ムで、署内の女性職員に人気もあるが「自分が、自分が」という部分が強く、むき出しな所が川

  島は苦手だった。


  「……」

   岡村の言葉に答えず、川島は片手を上げてその場を立ち去ろうとした。


  「大きなヤマがなく、余程のドジを踏まなけりゃ良い正月を迎えられるってか。だけど、一人ぼ

  っちの正月は淋しいよなー。いつまでも独身のイイ男ぶって選り好みをしてたってなんにもなら

  ないぜ。刑事の出世には社会的な信用も大事なんだよ……って。そっかー、女にも出世には興味

  はないってか。つまんねえ男」

   ドアを開けたままの状態で、廊下に煙草の煙を撒き散らしながら、岡村は川島の背中に向かっ

  てまた嫌味な言葉を投げつけた。

   

   同じ年でも、同じ神奈川中央署勤務だからと言って、岡村と特にトラブルなどがあったわけで

  はないし、嫌味を言われる筋合いでもない。余程虫の居所でも悪いのか……刑事第二課は三階に

  ある。三階にも喫煙スペースがあるのに、わざわざ二階に降りてきて煙草を吸っている、という

  のは係の誰かと揉めたのか……?


  (何があったか知らないけれど、勝手に言えばいいさ。そういうお前の根性がお前の人生をつま

  らないものにする、という事を思い知れよ!)

   川島は声には出さず悪態をつき、刑事第一課の部屋のドアノブに手をかけた。

  ドアを開ける前に岡村の方を振り向くと、空になった煙草の箱を握り潰しながら、不機嫌そうに

  階段を上がろうとしている岡村と目が合った。「気に食わない野郎だ」そう言いたげな岡村の視

  線を感じた川島は不快な気分になった。

   一度手にかけたドアノブから手を離し、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けて、川島はドア

  を開いた。


  「おはようございます!」

   顔を上げて真っ直ぐ前を見て元気良く挨拶をした川島の目に最初に飛び込んで来たのは、刑事

  第一課強行犯係長、川島とコンビを組んでいる松岡健一警部補の姿だった。松岡は手にしたコー

  ヒーカップのコーヒーを口に含んだ瞬間だった。


  「おはよう! 今日は早いな」

   コーヒーを一口味わった後、松岡は笑顔で川島を迎えた。


  「アッ! また、やられちゃいました」

   松岡の温かい視線にホッとした川島は頭を掻いた。


  「なんだよ。やられちゃったって……?」

   人の良さそうな笑顔を向け、コーヒーをすすりながら松岡が訊いた。


  「今日は、いつもより少し早く家を出たんですよ。だから、自分が一番乗りかな……そう思った

  んですけどね……」


  「甘いな」

   松岡は、川島が手に持っている鉢植えが入ったビニール袋に目を留めながら答えた。


  「松岡さんより早く署に着くには何時に家を出ればいいか……そんな事を考えながら、昨夜は寝

  たのですけどね」


  「そんな事にお前の大事な労力を使うなよ」

   松岡はそう言いながら、川島のためにコーヒーを用意した。

  コーヒーメーカーのポットから、川島のマグにコーヒーを注ぐ時、思わず笑みがこぼれたが、松

  岡は川島には気付かれない様にその笑みを引っ込めた。


   川島は神奈川中央署に赴任してから四年、松岡とコンビを組んで一年になる。それまではそれ

  ぞれ別の相方がいたが、松岡に就いていた若い刑事が別の署に異動になった際、松岡から指名さ

  れて川島はコンビを組む様になった。松岡は、大学も出ていないいわゆるノンキャリアだ。テレ

  ビドラマや小説のモデルになりそうな、捜査に時間を取られて、昇進試験も満足に受けていない

  刑事だ。本人はそれで良しと思っているが「科学的な捜査」より「勘が頼り」の捜査方針に、川

  島は納得出来ない部分があった。「勘」は大事だと思うし、ベテラン刑事である松岡を認めてい

  ないわけではない。「これからはそういう時代じゃない」何処かで松岡のやり方に納得していな

  い部分が川島にはあった。それでも、筋金入りの刑事である松岡を尊敬していたし、一目置いて

  いた。

   まもなく40歳を迎える川島も、松岡の下に就いている様な年齢ではない。今は巡査長だが主

  任クラスの巡査部長職に就き、部下を指導すべき立場になってもおかしくはないが、松岡とはま

  た違った部分で、松岡以上に出世には欲を示さなかったし、どちらかと言うと上に立つよりは、

  誰かの下に就く事で力を発揮するタイプだった。


  「申し訳ないです……本当にスミマセン……」

   松岡が自分のためにコーヒーを入れてくれた事に川島は恐縮をした。


  「お前さ……いつまで経っても他人行儀な奴だよな。上司にコーヒーを入れさせた、って恐縮し

  ているのってお前ぐらいだよ。もっと今時の若者みたいに偉そうにしていたっていいんだぞ」


  「だって、自分は若者じゃないし……」


  「まあな、来年はアラフォーか……だけど、俺からすれば若者に少し毛が生えた様なものだけど

  な。ところで、何だよ。その袋に入っているのは?」


  「プリムラジュリアンって言うんです。駅に行く途中の花屋で見つけて、無理言って売ってもら

  ったんです。殺風景な男所帯の職場に咲く花……って、いうところかな……」

   終わりの言葉は少し声が小さくなった。

  

   川島は袋から鉢植えを取り出し、コーヒーメーカーが置かれているキャビネットの上に飾った。

  部屋の中がパッと華やいだ雰囲気になった。


  「男所帯に咲く花……か……それが必要なのはお前じゃないか。みんなは花を持っているんだよ」


  「はあ……?」


  「まあ、俺の所はそろそろドライフラワーになりかかっているけどな」


  「あー……そういう事……ですか……」

   川島は肩をすくめて、上目遣いに松岡を見た。


  「そういう事だ……」

  

  (そろそろ身を固めろよ)川島を見る松岡の目がそう訴えていた。


  「これ、見せてもらうよ」

   松岡はコーヒーをすすりながら、川島のデスクの上の新聞を手に取った。


  「どうぞ」

   川島は椅子に腰を下ろし、コーヒーを口に含んだ。


  「今年はこのまま何もなければいいけどな」

   新聞を開きながら松岡が言った。


  (何もなければいい……か……)

   川島は声に出さず呟いた。


  「ですよね……」

   そう答えて、川島はデスクトップパソコンを開いた。

  開いた瞬間、自分を憎憎しげに見つめる岡村の顔が浮かんできた……気分の良い朝が台無しにな

  る表情だった……また、嫌な感覚に襲われた。


   川島のパソコンが立ち上がった頃、強行犯係の係員が出勤してきた。


  「あれっ! こんな所に花があるよ」


  「これは……」

   訊かれる度に川島は説明しなくてはならない羽目になった。


   そして……いつもの一日が始まった……



(2)


   その日の夕刻……


  「松っちゃんは何処に行った?」

   神奈川県警横浜中央署真山秀作刑事第一課長が誰にともなく訊いた。


  「松岡さん? そう言えばさっきから見当たりませんよね。トイレじゃないですか? あー、で

  も、それにしちゃ長いか……もしかして、具合でも悪くなったのかな?」

   答えたのは川島だった。殺人事件が発生し、緊張感が漂いバタバタしている刑事課の部屋には

  ふさわしくないノンビリとした声だった。


  「奥さんが、着替えを届けに来ているらしいんだよね」

   川島は松岡の携帯を鳴らしたが、自分のすぐそばで携帯の着信音が聞こえた。


  「あっ、ここで鳴ってる。携帯を置いていっているから、やっぱり署内じゃないんですか……」


  「松っちゃん何処に行ったんだよ……」


  「自分が代わりに行きましょうか?」

   午前中から捜査で走り回り、疲れていた身体を動かすのは面倒だったが、困った様子の真山に

  川島が言った。


  「頼むよ」

   真山課長からそう言われて、川島は松岡の妻が待っているという玄関に向かった。


   師走に入り歳末特別警戒が始まった事や、午前中に東神奈川で起きた理髪店夫婦殺害事件があ

  った事もあり、警察署の一階はごった返していた。

   川島は階段を降りきらない途中でロビーを見下ろし、松岡の妻らしき人物を探したが、それら

  しき人は確認出来なかった……と、言うより、松岡の妻を知らなかった……交通課の受付カウン

  ターで確認しようと思ったが、交通課は忙し過ぎて相手にしてくれそうにない。


   その時、入り口の隅で、申し訳なさそうに立っている女性の姿が目に入った。


  「あの人じゃないだろう……」

   松岡には似つかわしくはない……今朝、雑談中に「そろそろドライフラワーになりかかってい

  る」と言った松岡の言葉を思い出した。

   松岡は50歳も半ばを過ぎている。だいぶ額も後退しかけた中肉中背の中年男だった。そのイ

  メージに添った女性を捜していた。しかし、他にそれらしき人物は見当たらない。



  「あの……松岡さんの奥様ですか?」

   川島は、松岡の妻らしくない女性に声をかけた。「違います」という答えを期待している自分

  があった。


  「はい、松岡です」

   声をかけられた女性が、顔を上げて答えた。


  「……!」

   川島は一瞬、息を呑んだ。


  「署内かと思いますが連絡が取れないので、自分が代わりに伺いました。松岡さんにはお世話に

  なっています刑事第一課の川島と申します」

   思いがけない展開に起立の姿勢で答えた。緊張で声が少し上ずった。


  「こちらこそ、いつもお世話になりありがとうございます。お忙しいのに、ご足労をおかけし申

  し訳ございませんでした。松岡から頼まれました着替えを持って来ました。これを渡して頂けま

  すか」


   川島を見る松岡の妻が眩しかった。


  「わかりました」

   無愛想な言い方になったが、そういう態度を取らざるを得ない雰囲気を松岡の妻から感じた。

  精一杯の無理したポーズだった……そうしないと……目の前の女性がスッと自分の中に入り込ん

  で来てしまうような気がした……

  

   川島は独身である。今まで恋愛経験がなかった訳ではないが「結婚」に全く興味がなかった。

  警察官になって18年、現在勤務している横浜中央署、その前の勤務地である横浜港湾署、いず

  れの署でも、仕事に追われ家庭を顧みる事が出来ず「離婚」の憂き目に会い、子供にも会えずに

  淋しい思いをしている先輩刑事を見て来た。好きで選んだ「刑事」の職に就いている限り、余程

  の事がない限り「結婚はしない」と考えていた。

   だから、同じ刑事第一課の課員の家族に興味を持った事は一度もなかったし、ましてやいつも

  コンビを組んでいる冴えない風貌の松岡の家族の事などは考えた事もない。

   しかし……目の前にいる自分よりかなり年上であろう「松岡の妻」はどうでもよくなかった。

  何故、そんな気持ちになったのかは分からなかった。


  「携帯を置いて出かけたみたいで、連絡が取れなくて申し訳ありません」

   川島はまた頭を下げた。


  「いいえ、返ってご迷惑をおかけしてしまったみたいで。こっちに着替えが入っています。こっ

  ちは……あの……炊き込みご飯で握ったおにぎりです。松岡が帰ってくるとばかり思っていまし

  たので、たくさん炊いたのですが、私一人では食べきれないので、余計な事かと思いますが、お

  夜食にでも皆さんで召し上がってください……」

   そう言って、川島に紙袋を二つ手渡した。


   松岡の妻のほつれ髪が艶かしかった。


  「ご馳走になります」

   川島は紙袋を受け取りながら頭を下げた。


  「よろしくお願いします」

   松岡の妻は何度も頭を下げて帰って行ったが、何故か川島はその場から動く事が出来ず、後姿

  を見つめていた。


   妻がエントランスの階段を降りきった時、何処に行っていたのか、松岡が戻って来た。

  妻は立ち止まって、手振りを使って何か話をしていた。「着替えを持って来ましたけれど、不在

  だったので他の人に渡しました」とでも伝えているのだろう。松岡が「悪かったな」とでも言っ

  ているかの様に、妻の肩を2、3度叩いたのを見た時、川島に嫉妬の感情が沸いた。


  「バカな事を……」

  ひとり言を言って苦笑いをした瞬間「済まなかったな」階段を早上がりで駆け上ってきた松岡が

  声をかけた。


  「わざわざ届けに来てくれたんだから、ちゃんと居なくちゃダメじゃないですか。何処に行って

  いたんですか?」

   心の動揺を隠すように、怒った風に言った。


  「今夜は署に缶詰だ。だから気分転換に外に煙草を買いに行っていたんだ。それに、こんなに早

  く来るとは思わなかったんだよ」


  「夜食用にと、炊き込みご飯で握り飯も用意してくれてますよ」


  「なんだ、余計な事をして。たいして美味くもないのに……」

   川島から手渡された紙袋の中身を確認しながらの言葉とは裏腹に「嬉しい」という気持ちが表

  情に表れていた松岡を見た川島に、再び嫉妬の感情が沸いた。



  「神奈川区広台太田町二丁目、カットサロン『スパイク』で、中年男性と中年女性の絞殺体を発

  見」の臨場要請を告げる署内放送が流れたのが午前11時半。管轄である横浜中央署刑事第一課

  強行犯係の捜査員と鑑識は現場に急行した。

   明らかに事件性を物語っている死体を確認し「帳場」が立てられた。

  所轄の刑事はすぐに現場の聞き込みに走った。神奈川県警本部捜査一課の応援を仰ぎ、横浜中央

  署がそのまま特別捜査本部になった。まもなく、捜査会議が始まる。初動捜査を終えた所轄の刑

  事全員は顔を揃えていた。


  「当分、帰れそうにないな。お前は準備してあるのか?」

   松岡が川島に訊いた。

 

  「自分は、一週間分の着替えをいつもロッカーに用意してあります」

   訊かれて、川島はぶっきらぼうに答えた。


  「いい心がけだな」

   松岡が川島の肩を叩いた。


   ……松岡さんの様に、届けに来てくれる相手はいません……その言葉を呑み込んだ。松岡が癪

  だった。




(1)


   東神奈川で起きたカットサロン店主夫婦の事件は、思いがけず早い段階で解決をみた。

  カットサロン「スパイク」は、最近増えだした「1,500円カット」が売り物のカット専門店

  で、反町に二号店を出す程に店は繁盛していた。

   事件は「怨恨」の線が有力で、初動捜査の段階で数人の容疑者の名前が挙がっていた。事件発

  生3日後に、反町店の店長である被害者夫婦の甥で、容疑者の疑いが濃かった小松肇が自首をし

  てきた。動機は単純だった。加害者である小松肇の運営方針と技術に疑問を抱いていた被害者の

  小松洋一郎との間にはいさかいが絶えず、小松洋一郎が店長更迭を画策している事を嗅ぎつけた

  小松肇が、話をつけるために訪れた際、話し合いが不調に終わり、カッとなった肇が二人を絞殺

  した。


   署に缶詰状態は思いがけず3日で解かれた。

  「わざわざ、県警本部から出っ張って来る程ではなかったのによ。所轄の実力を思い知ったか」

  と、陰口を言われながら県警本部の応援部隊は引き上げて行った。




  「お前はカニは好きか?」

   川島がデスクでパソコンを使って事務仕事をしていた時、隣の席の松岡が訊いてきた。

  クリスマスも過ぎ、年の瀬も押しつまっていたが、担当している事件もなく平和な一日だった。


  「はあ……? カニですか……?」


  「うん、タラバガニだ」


  「好きですけど、余り食べた事ないです……って言うか、食べられる様な身分じゃないし」


  「隣からカニをもらったんだ。どうだ? 今晩、俺の家で一杯やるか?」

   川島は松岡から誘いを受けた。


  「今晩……ですか……でも、いいんですか?」


  「いいから言っているんだよ」


  「そうですか……」


  「なんだよ、用があるならハッキリ言えよ」


  「いえ、特に……」


  「どうするんだよ?」


  「じゃあ、有り難くお邪魔します」

   川島は答えた。


  「そう来なくちゃ。おっ、6時だ。行くか!」

   そう言って、松岡は早速帰り支度を始めた。


  「エーッ……!」

   川島は慌てた。まだ、心の準備が出来ていなかった。


  「課長、自分と川島は今日はこれで上がらせて頂きます」

   松岡は席を立ち、刑事第一課長である真山に断りを入れた。


  「お疲れ!」

   課長の真山が顔を上げて答えた。


  「おい、帰るぞ」

   松岡は帰る体制になっていた。


  「ちょっ、ちょっと……待ってください」


  「お先に失礼します」

   川島が急いでパソコンをシャットダウンし、課長と係員に挨拶をしてコートを手に取った時

  には、松岡はすでに廊下に出ていた。


  「急に伺って、奥さんはビックリするんじゃないですか?」

   松岡の妻の顔が浮かんだ。


  「大丈夫だよ。もう準備をして待っている」

 

  「……?」

 

   松岡に誘われてから、まだ15分と経っていなかった。いつ、妻に連絡を取ったのだろう? 

  もしかしたら、既にそういう話になっていたのかもしれなかった。

  「今晩、署の若いのを連れてくるぞ」

  「分かりました。カニの他に何を用意すればいいですか?」

  「刺身でも用意しておいてくれ。それから、お前の自慢の手料理も」

   川島の承諾を得てもいないのに、そんな会話を交わしたのかもしれない……妻は、夫の言葉

  を信じて準備をする……夫婦と言うのはそういうものなのか?


  「お前も今年一年頑張ってくれたから、お疲れさん会と忘年会だ」

   廊下を歩きながら松岡が言った。

  

   署内で、こんなに嬉しそうな顔をする松岡を見るのは久しぶりだった。

  「遠慮なくお邪魔します」




   二人は松岡のマンションに向かった。


  「あっ、ちょっと待ってください」

   マンションに向かう途中にあるスーパーマーケットの前で川島は足を止めた。


  「何だ?」


  「すぐに戻ります」

   松岡の問いには答えず、川島はスーパーの中に消えて行った。しばらくして出て来た時には、

  可愛い花の鉢植えを抱えていた。


  「ジュリアンか?」

   川島が抱えている鉢植えを見て松岡が訊いた。


  「手ぶらでお邪魔しては申し訳ないので……」


  「気を使うなよ」


  「はあ……」

 

   ……気を使う……それだけではない。先日会った松岡の妻とジュリアンの花を重ね合わせて

  いた……「花」……今日は、薄いピンクを選んだ……



  「あそこだ……」

   マンションに着いた松岡は、三階のベランダを指さした。


   カーテン越しに部屋の灯りが漏れていて、その灯りが川島には温かく感じられた。松岡が少

  し羨ましかった。

   松岡は、毎日帰る度にこうして自分の部屋を見上げ、漏れる灯りに安らぎを感じているのだ

  ろうか……


  「お洒落なマンションじゃないですか?」

   ベランダの腰板が、淡いグリーンのカーボングラスになっているマンションを見上げながら

  川島が言った。妻同様、松岡には似つかわしくなかった。


  「ローンが終わる頃が俺の人生が終わる頃だ。官舎よりずっといいよ。金に代えられない価値

  ってやつだな」

   松岡は持っていた鍵でオートロックを解除した。


  「自分で開けるんですか?」


  「そうだよ。まだるっこしい事は俺の性に合わない」

   何故か、川島はホッとした。


   *****



  「たくさん食えよ!」

   横浜市神奈川区片倉にある松岡のマンションのリビング・ダイニングルームのテーブルの上

  には、カセットコンロにかけられた土鍋から出汁の香りが漂い、タラバガニが所狭しと用意さ

  れていた。


  「おい! ちょこちょこ動いていたらゆっくり出来ない。いい加減にお前も席につけ!」

   居心地が悪そうにしている川島を見て、松岡が妻に声をかけた。


  「これが最後よ」

   酢の物が入った小鉢をそれぞれの前に置いて妻は席についた。

  

   鍋の他に、刺身の盛り合わせや漬物など、美味しそうな手料理が並べられていた。


   ……誘いを断っていたらどうなっていたのだろう? 自分の思い通りにならず、カニや豪華

  な刺身の盛り合わせを持て余し、妻を前にして不機嫌そうに酒を飲んでいたのだろうか……? 

  二つ返事で承諾した事を少し後悔した。松岡に対して意地悪な気持ちを持つ川島が存在してい

  た……


  「紹介するよ、と言っても初対面じゃないだろうが、俺の面倒を見てくれている川島君だ。化

  石のような俺に我慢して付いて来てくれている。こっちは化石の一歩手前の瑛子。お前からも

  ちゃんと礼を言え!」

   

   恐らく、普段は妻の前でこんなに横柄な口の利き方をしないのだろう。「俺の女房だ」と、

  夫婦であるという事を、自分の前で誇示したいような松岡の態度に、川島は不快な気分になっ

  た。


  「化石とは上手く表現したのね。本当にいつもありがとうございます」

   瑛子が松岡の言葉を受けて、笑いながら川島に頭を下げた。


  「面倒をみてもらっているのは自分の方です」

   少し癪だったが、川島も素直に頭を下げた。


  「どうぞ」

   瑛子にビールを勧められて、川島はグラスのビールを一気に飲み干した。

  

   何故、意地悪な気持ちが沸き、癪に障ったかは分からなかったし、それに、何故か居心地も

  良くなかった。それでも宴は始まったばかりで、このもやもや感を晴らすには早く酔いつぶれ

  たかった。


  「ほら! 取り分けてやれよ!」

   また、松岡が瑛子に命令口調で言った。


  「気が利かなくてごめんなさい」

   瑛子はそう言いながら、鍋の中で良い具合に煮えている野菜やカニを器に取り分けた。


  「ありがとうございます」

   礼を言った瞬間、瑛子と目が合った川島はさりげなく視線を逸らした。


   カニと手料理と酒は美味しかったが、会話は余り弾まなかった。松岡が何かにつけ、命令口

  調で瑛子に物を言うような所も気に食わなかった。瑛子は、そんな松岡に黙って従い、一生懸

  命川島に気を使っていた。


  「だいぶ酔ったな」

  空になったカニの足がテーブルの上に沢山散らばった頃、松岡は急に立ち上がり、ヨロヨロと

  した足取りでソファーに横になった。


  「川島さんに失礼でしょう?」

   瑛子が呆れた様子で言った。


  「悪いな。お前が来てくれて嬉しかったんだよ。それもあって、今日は酔いが回るのが早い。

  少し寝かせてくれよ。だが、お前は遠慮せず、ゆっくりして行けよ」


  「はあ……」


  「大丈夫なの?」

   瑛子が心配そうに声をかけたが、酔いつぶれた松岡はソファーで鼾をかき始めた。



(2)

  

  「初めてなのよ。主人が部下を連れて来たのは。それなのにお客様をほったらかしにして寝ち

  ゃうなんて。ごめんなさいね」

   夫の様子に、瑛子が申し訳なさそうに謝った。


  「カニはね、毎年お隣から頂くの。お隣はカニが苦手らしくてね、でも、大事な仕事関係の人

  なので『苦手』とは言えないみたいなのね。今までは、主人の妹夫婦にお裾分けしていたのよ。

  でも、今年は署の部下を誘う、って。『署の部下』って川島さんの事。川島さんとペアを組め

  ている事が嬉しいのよ。本人が言う様に、こんなに早く酔いつぶれたのがその証拠」


  「松岡さんとはいつもぶつかって……自分は、生意気な事ばかり言っているんですよ」


  「それが嬉しいのよ。私からも改めて御礼を言わせてくださいね」

   瑛子は改まって、川島に礼を言った。


  「じゃあ、もう少しお邪魔していてもいいですか?」

  意地悪な気持ちは何処かに吹き飛んでいたが、癪に障る気持ちは残っていた。


  「松岡もそう言っているでしょう。川島さんを早く帰したら、また私は怒られそう。たくさん

  飲んでくださいね。はい、どうぞ」

 

   お酒を飲んでいる瑛子の頬がほんのり赤く染まっていた。定年間近い松岡の妻の瑛子は、自

  分より遥かに年上だろう。長い間、松岡の「妻」だったという自信と安心感が感じられたが、

  それ以上に「大人の女性」の雰囲気が漂っていた。


   松岡が寝入ってから、何故か瑛子は饒舌になり、二人の会話が弾んだ。


  「もうすぐ50歳よ。結婚して20年。長いでしょう?」


  「結婚願望がない」という「川島の結婚観」の話題が終わった後、突然瑛子がそう言い出した。


  「……」

  

   酔いがまわるのも早くなっていた。そのせいか、余り自分の事を話すのが好きではない川島

  も饒舌になっていたが、瑛子の一言で、一瞬酔いが覚めた様な気分になった。


  「自分の中で、そういうのよく分からないんです」


  「そうよね……」

   そう言って瑛子は俯いた。


   二人の間に沈黙が流れた。

  

   川島は俯いている瑛子を見ながら、お猪口の酒を飲み干した。クラッとした……それは、酒

  のせいではなく、瑛子の物淋しげな雰囲気のせい……だと思った。


  「あー、もうこんな時間だ……」

   川島が腕時計を確認した。時間は10時半を回っていた。


  「警察の独身寮にお住まいなの?」


  「いえ。松岡さんと同じで寮は出ました。ああいう所苦手なんです。今は篠原です。岸根公園

  駅から歩いて10分もかかりません」


  「じゃあ近いのね。これに懲りずにまた遊びに来てくださいね。それから、主人の事もくれぐ

  れもよろしくお願いします。主人はあんなだけど、根は優しいのよ。ただ、不器用だから上手

  く伝えられなくて」

   瑛子の会話には「主人」という言葉がたくさん登場していた。


   川島が汚れた食器をキッチンに片付け始めた。


  「いいのよ。そのままにしておいてね。明日も早いのでしょう?」


  「いいんです。やらせてください」

   川島は、片付ける手を休めなかった。


  「子供の頃、こうやって手伝いをしたんです」


   瑛子は「やらせてください」と言う川島の好きなようにさせた。

  瑛子が洗剤を使って汚れた食器を洗い、隣で川島はお湯で洗った食器を水切りカゴに納めた。

  時々、漏れてくる松岡の寝息を聞いてはいたが、二人だけの穏やかで静かな時間が流れている

  様にお互いが感じていた。

 

  「居心地がいい……」

   ポツリと川島がつぶやいた。

 

   ……さっきまでは居心地が悪かったのに……


  「何が?」

   瑛子が訊いた。


  「こうして手伝いをしている事が……」


   川島が布巾で拭いた食器を瑛子が食器棚に納めていた。


  「相性がいいのよ。きっと……」

   最後の食器をしまい終わった瑛子が言った。


  「相性……?」


  「川島さんと私……後片付けの……ね」

   最後の言葉は言い繕っている様に聞こえた。


  「はあ……」

   片付けが済んだのに、川島は流しの前に立ったままだった。


  「どうしたの? ぼんやりして」


   ……ぼんやり……


  「僕、ぼんやりした子だったんですよ」

   川島はキッチンの流しに寄りかかって、突然話を始めた。



   当時、男の子に人気のあった超合金の合体おもちゃには全く興味がなく、一日中虫取りや、

  ザリガニ取りに明け暮れていた川島は要領が悪かった。一緒にいる友達は、クワガタやかぶと

  虫、ザリガニを沢山取っているのに、川島の虫かごは空っぽの事が多く「ぼんやり達也のヘタ

  クソ!」といつもからかわれていた。勉強は出来たが、学校でもぼんやりしている事が多く

  「川島君……」授業中に先生からよく注意された。

   両親は、川島が小学校一年生になった年に離婚をした。

  原因は、友人と人材派遣会社を共同経営している母の志津子が家庭を顧みなかった事と、双方

  の異性問題だった。

   当時は今と違って「人材派遣」の需要が少ない時代だったが、今後「派遣雇用」の形態が増

  加すると考えていた志津子は、生活の全てを仕事に費やしていた。川島は、仕事が忙しい母に

  代わって、同居していた志津子の母の山内ゆき子に育てられたが、決して「おばあちゃん子」

  ではなかった。ゆき子は実の娘の志津子に遠慮している様なところがあって、孫の川島に対す

  る態度にもそれが充分に表れていた。


  「お母さん、いい加減にして。達也を甘やかさないでね。やるべき事をきちんやらせてね」

   夜遅く、仕事から帰って来た志津子に叱られている祖母を何度も見てきた。

  

  「達也、ぼんやりしていちゃダメなのよ。男の子だからね、男の子はね……」

   志津子は達也にもいろいろな事を要求した。だから、窮屈で息苦しかった。でも、母は大好

  きだった。勿論、祖母も。仕事を持つ母と、遠慮している祖母に「愛されている」という事を

  感じていたが、ただ、時々不安になる事があった。二人とも、よくため息をついていた。ため

  息をつく時の母と、祖母は辛そうな顔をしていた。

  

  「僕が悪いのかもしれない……」

   ため息をつく母と祖母を見ている間に、そう思うようになり、ため息をつく事がなくなる様

  に、二人に気に入ってもらえる様に「ぼんやりしていちゃダメだ、良い子にならなくちゃいけ

  ない」そう考えた。

   しかし、川島の努力は無駄になった。幼稚園の年長組に上がったと同時に祖母のゆき子が亡

  くなり、それから一年後に、母の志津子が家を出て行った。

   川島が小学二年生の春に、父の俊郎は子連れ同士の再婚を果たした。川島に年子の血の繋が

  らない弟と、生まれたばかり腹違いの妹が出来た。継母の美奈代は、家庭的な女性だった。

   美奈代には、ため息をついて欲しくなかったから、それに気に入ってもらいたかったから、

  川島は言う事を聞いて「良い子」になる努力をした。でも、基本の「ぼんやりした子」は消え

  なかった。血の繋がりのない弟は「利発で要領の良い子」で「良い子」になろうとする川島の

  上を行っていた。進んで美奈代の手伝いをして父の俊郎からも可愛がられていた。負けたくな

  くて、弟と競った。

   ある日、学校から帰るとお客様がいた。美奈代の実母の恵子だった。


  「こんにちわ」

   川島がきちんと挨拶をすると恵子が褒めた。おやつをもらって、自分の部屋に行こうとした

  時「達也君はどう?」恵子が美奈代に訊いている声が聞こえた。川島は足を止めて、二人の会

  話に聞き耳をたてた。


  「いい子なんだけれど、ちょっとぼんやりさんで。一生懸命お手伝いをしてくれたりするけれ

  ど、返って足手まといになったりするの。人に気を使わせる子って……ああいう子供の事を言

  うのよね」

   美奈代が答えた。


   川島は手に持っていたケーキを落とした。物音に気付いた美奈代が慌てて廊下に出た時には

  川島は自分の部屋に逃げ込んでいた。


   決めた……努力をするのはやめよう……「ぼんやり」な子でいよう……嫌いだ!……ため息

  をいっぱいつかしてあげよう……そして、心を閉ざした……


  「自分の不用意な言動であの子が傷ついた」分かっていた美奈代は、川島に人一倍気を使って

  接する様になった。川島も表面的には何気なさを装っていたが、美奈代にも、誰にも心を開か

  なかった。

   別れた実母の志津子とは定期的に会っていた。でも、もう川島はその母にも心を開こうとは

  しなかった。


  「いつまでもぼんやりしていちゃダメよ」

   心を開かない息子を見て、志津子は川島にそう言った。


  「ぼんやり……? 違うんだよ、母さん」

   川島は心の中で訴え続けたが、自分を一つの方向からしか見ようとしない母親にも、益々心

  を閉ざした。


  「何処かに自分をちゃんと見てくれる人がいる。いつかそういう人に巡り合う事が出来るかも

  しれない……」

   ずっと夢見ていた。




  「はいっ、熱いから気をつけてね」

   瑛子は、立ったまま話をしている川島に熱いほうじ茶が入った湯飲みを渡した。


  「美味しい……」

   香ばしいほうじ茶をすすった川島が笑みを浮かべた。熱いお茶が胃に沁み渡って温かく穏や

  かな気持ちになった。それは……瑛子の気持ちの温かさに川島は感じた。


   瑛子も川島の隣で立ったままでお茶を飲んでいた。


  「ぼんやりって、ちょっと違わない?」


  「そうかなあ……?」


  「だって、お母さんとおばあちゃんのため息を気にしていたなんて……神経のある子供だった

  のじゃないの?」


  「神経のある子供……って?」


  「神経が細やかで、優しい子」


  「どうなんだろう……」


  「辛かったの?」


  「辛くはなかったけれど……」


  「どうした? 何が辛いんだ」

   ソファーで寝入っているとばかり思っていた松岡が言った。


   ……二人だけじゃなかった……川島は松岡の存在をすっかり忘れていた。


  「聞いていたの? 川島さんの子供の時の話よ」

   瑛子は松岡の傍に行って話しかけた。


  「そうか……」

   そう言って松岡はまた眠りについた。


  「変な人……」

   瑛子と川島は顔を見合わせて笑った。


  「辛くはなかったんですけどね。でも、辛い、って思った方が良かったのかもしれない」


  「どうして?」


  「感情がないみたいな気がして……」


  「どうして警察官になったの?」


  「うーん……人を裁きたかったから」


  「裁くのだったら裁判官じゃなかったの?」


  「人間が嫌いになったんです。だけど、それじゃいけない、そう思って。刑事になったらいろ

  んな人間模様が見れるかなあ……って。テレビの見過ぎだったかもしれないけれど」


  「……」


  「あっ、でも、彼女とかはちゃんといたんですよ。でもね、いつも言われてた。川島君の世界

  には入れない、って。マイペースで、ぼんやりしてたんですよ。きっと」


  「静かな感情?」


  「エッ……? 僕の中では静かじゃない……」


  「良かった……」


  「どうして?」


  「静かな感情が怖かった時があったの」


  「分からない」


  「分からなくていいのよ。私の方があなたより長く生きているんだから」


  「……」


   二人の視線が絡み合った。

 

  「すっかり綺麗になって。お陰で助かったわ」

   重い空気を振り払うように瑛子が言った。


  「じゃあ、これで失礼します」

   川島は帰り支度を始めた。


  「可愛いお花もありがとうございました」


  「ジュリアンの鉢植え……あの日、松岡さんが署に見えた日……」

   川島は敢えて「奥さん」と言う言葉を使わなかった。


  「私が署に行った日? 主人の下着を届けに行った日の事ね」

   

   ……主人の下着、という言葉が川島の胸に刺さった……


  「朝、出勤する時に、近所の花屋で同じ鉢植えを買ったんです。殺風景な署の部屋に飾ろうと

  思って。部屋が明るくなったけれど、みんなにからかわれちゃいました」


  「川島さん、やっぱりぼんやりしてないと思うの。神経が細やかで優しいのね」


  「そんな事ないです……」


  「主人は川島さんとコンビを組めて本当に幸せだと思うわ」


  「面倒な荷物抱えちゃって、運が悪いって思っているかもしれませんよ」


  「主人の事は良く分かるの」

 

   ……主人の事が分かる……瑛子の言葉に川島の胸に嫉妬の気持ちが沸いた……


  「松岡を起こすわね」

   瑛子はソファーで寝入っている松岡を揺すったが、完全に寝込んでいるのか、松岡は目を覚

  まさなかった。


  「そのまま寝かせてあげておいてください」


   ……起こさなくていい……川島はそう思った。


  「本当に失礼な人よね」

   そう言いながら玄関まで見送ってくれた瑛子の手に、川島は小さな紙切れをそっと渡した。

  瑛子は怪訝そうな表情で、チラッと紙切れに書かれた文字を見たが顔色一つ変えなかった。


   ……紙切れには川島の携帯番号が書かれていた……


  「おやすみなさい」

   外に出て、ドアの鍵とチェーンをかける金属音を聞いた川島は、ドアの向こうにはまだ瑛子

  がいるという事を感じて、しばらくの間じっとドアを見つめていた。

   川島が出てすぐに鍵とチェーンをかける、という瑛子の動作が心の動揺を表している様に感

  じられた。


   マンションのエントランスを出て、三階にある松岡の部屋を見上げた。

  カーテン越しに動いている人影が見えた。一つの影がかがんで、少しすると二つの影がもつれ

  るように消えて行く様が確認された。

   瑛子がソファーで酔いつぶれている松岡を起こし、抱えて寝室に連れて行ったのだろう。ま

  た、嫉妬の気持ちが沸き起こったが、川島はそのまま動かず部屋を見つめていた。しばらくす

  ると、また一つの影が戻って来て、カーテンを少し開けかけたが、カーテンは開かなかった。


   リビングルームの灯りが消えた。


  「かかってくるだろうか?」

   ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、携帯電話をじっと見つめた。




(1)


   年が明けた……


   松岡と川島は横浜中央署管内で起きた、女性連続殺傷事件の聞き込みの最中だった。


   最初の被害者は、年末年始から実家に帰省し、深夜、自宅であるテラスハウスに帰って来た

  所を襲われ、太ももを鋭い刃物で切られ全治一ヶ月の重症を負った。

   一週間も経ない間に、一件目の現場から約200メートル程離れた、家具付きのワンルーム

  マンションのエントランスで、仕事帰りの女性がやはり刃物で襲われ、その女性は命を落とし

  た。狙われた相手が20代の若い女性である事や手口などから、同一犯の可能性が高かったが、

  容疑者の断定はまだ出来ていなかった。



  「飯でも食うか」


  「はい……」


  「食える時に食っとかないとな。今日は長くなりそうだ」

   二人は立ち食い蕎麦屋に入った。


   蕎麦を食べている最中に、川島の携帯が鳴った。慌てて画面を確認すると、見知らぬ番号が

  表示されていた。


  「出ないのか?」

   鳴りっぱなしの携帯に応えない川島を見て、松岡が訊いた。


  「おふくろです」


  「出てやれよ」


  「いいです。後でかけ直します」

   そう言って、川島は無視をしたが、少しすると呼び出し音は鳴り止んだ。


   ……相手が誰だか分かっていた……出るわけにはいかない……


   聞き込みを終え、署に戻った川島はそのまま屋上に上がり、携帯を取り出し着信履歴を確認

  して、発信ボタンを押した。


  「もしもし……」

   ハスキーな女性の声が応えた。


  「川島です。昼間は聞き込み中だったので電話に出れなくてすみません」

   相手の名前を確認しなくても、声を聞いただけで誰だか分かった。


  「お仕事中にごめんなさい」


  「いいんです。電話を頂いてありがとうございました」


  「……」


   瑛子は察しているだろう。昼間、川島の隣に誰がいたのかを。


   会話が途切れた。


   好意を抱いた女性に電話番号を教え、長い間待ちに待った電話がかかってきた……「今度、

  食事でもどうですか?」などと、簡単に言える間柄ではなかった。


  「携帯の電話番号を教えて頂いたから、何か、主人の事でお話でもあるのかと思って……」


  「そういう事ではありません」


   ……そうか……でも、本当にそう思っているのだろうか?……そうだとしたら、もっと早く

  に電話がかかってきた筈だ……


  「会いたかったからです」

   素直に答えた自分に驚いた。


  「私に?」


  「そうです。この間、居心地が良かったから……あなたといると優しい気持ちになれる」


   また、沈黙が流れた。


  「どうして?」

   

   ……好きだからです……でも言えなかった。


  「迷惑ですか?」


  「ううん、でも、ちょっとビックリ」


  「初詣に行きましょう」


   携帯の向こうにいる瑛子が笑った。


  「可笑しいですか?」


  「私と初詣に行ったら、あなたは、今年一年、また松岡に縛られる事になるかもよ」


   自分との間に、二回も松岡を登場させた瑛子の返事を聞いた時、川島は事の重大さに気付い

  た……でも、後戻りはしない……


  「それは自分次第です。嫌ですか?」


  「そう……ね。誘って頂いて嬉しいけれど……」


   ……嬉しい…………


  「じゃあ、決まり! という事で。今、抱えている事件が解決した非番の日に。約束してもら

  えますか?」


  「……」

   瑛子からの返事はなかった。


  「決まったら、今度は僕から連絡します」

   そう言って、川島は一方的に電話を切った。


   すぐにまた携帯が鳴った。


  「何処にいるんだ? 捜査会議が始まるぞ」

   今度の相手は松岡だった。


  「すぐに行きます」

   慌てて戻った。


   合同捜査会議室に着くと、捜査本部長である署長が席に着き捜査会議が始まろうとしていた。

  川島は松岡の隣の席に着いた。


  「用は済んだのか?」

   松岡が怒った様な表情をして小声で訊いた。


  「はい……」

   松岡の目が見れなかった。


  「こういう時は勝手に消えるな。トイレに行くんでも必ず行き先を言っておけよ」


  「……」


   自分だって……去年末、カットサロン店主殺害事件の捜査会議が始まる前に、行き先も告げ

  ずコンビニにタバコを買いに行った松岡の事を思い出した……腹が立った……でも……そのお

  陰で……怒りが消えた。





(2)


  「どっちにしようかな?」


   瑛子は、久しぶりに出かけた横浜のショッピングビルにあるアクセサリーショップで、若い

  女の子に混じって、鏡の前で二つのピアスを手に取って迷っていた。


   一つはいぶし銀の大きなフープピアス、もう一つは小さなパールがゆらゆら揺れた可愛いピ

  アス。

   鏡の前でパールのピアスを耳にあてた。


   ……これはちょっと子供っぽいかな……?


  「こっちの方がいい」

   後ろで優しい声がした。


   鏡の中で川島が、いぶし銀のフープピアスを指差していた。


   瑛子は振り返った。


  「このピアスには、Vネックのシンプルなセーターが似合う」

   川島は笑っていた。


  「驚いた!」

   瑛子は心の中を見透かされたような気がした。川島から……いつか誘われる「初詣」のため

  のピアスだった。


  「どうしたの?」


  「ここ」

   川島は右側の頬を押さえた。


  「この上にある歯医者に行くんです。エスカレーターに乗ってたら見かけたので……」


  「歯が痛いの?」


  「……」

   川島は黙って頷いた。


  「ずっとほったらかしにしていたから、罰をうけた」

   マンションにカニを食べに来た時と違って、話し方が甘え口調だった。


  「ダメじゃない。身体が資本なんだから、ちゃんと健康管理をしなくちゃ」


  「反省」

   そう言って笑ったが、歯が痛いのか顔をしかめた。


  「ほら、早く行かなくちゃ」


  「行きます。ピアスはこっちでね」

   また、川島がフープピアスを指差した。


  「そして、シンプルなVネックのセーター」


  「色は白。ピアスが映える」

 

   川島が見せる少年の様な無邪気な笑顔が魅力的だった。


  「連絡します」

   そう言って、川島はエスカレーターに向かった。


   エスカレーターに乗った川島に手を振った瑛子はてレジに向かった。

  

   恋を知った少女の様な気分になった。



   一時間後、瑛子は、駅ビルの地下にある食鮮館に降りるエスカレーターに乗っていた。

  いつまでも恋する少女の様な気分ではいられない。夕食の支度が気になる主婦の顔に戻ってい

  た。


   携帯が鳴った。


   エスカレーターを降りきった所で電話に出た。


  「何処にいますか?」


   名前も告げない……勿論分かっていたが……突然、川島が訊いてきた。


  「今? 駅の地下街の何処かのカフェでコーヒーでも飲もうかな? と考えていたところ……」

   瑛子はウソを言った。「夕食の買い物」と生活感は見せたくなかった。携帯を耳に押し付け

  周りの気配が伝わらないように、急いで反対側にあるエスカレーターに乗って今度は上に昇っ

  た。食鮮館では、タイムサービスを告げるアナウンスが流れていた。


  「じゃあ、コーヒーを飲むのは少し我慢して。僕は今日はこれであがり。松岡さんは定時であ

  がった後、課長と飲み会。僕も誘われたけれど辞退……と、いう事で、これから鶴岡八幡宮に

  初詣に行きましょう。横須賀線のホームの中程の階段で待っていますから」


   川島が告げた事の意味を考えた……松岡は課長と飲み会……帰りが遅い……夕食の支度はし

  なくて済む……だから、時間は大丈夫。


 「でも、フープピアスもしていないし、白のVネックセーターも着ていないの」


   ……断った……つもり……


  「それは次の時で。ホームで待ってます」


  「分かりました」


   決して強引ではない……川島の誘いに乗るしかなかった……その誘いを待っていた。


   改札口に向かう途中でまた携帯が鳴った。今度は松岡からだった。


  「今日は課長に誘われたから夕食はいらない。帰りは遅くなるよ」

   ぶっきらぼうに自分の用件だけ言って、電話を切った。


   いつもの事だが、今はいつもの事の様には思えず、瑛子は周りを見渡した。松岡が何処か

  で自分の行動を見ている……そんな気がした。


   少し躊躇ったが、そのまま改札口に向かった。改札口に向かう間、駅構内の鏡で自分の姿

  を写した……こんなに、おばさんなのに……また、躊躇いの気持ちが沸いたが、何かを振り

  切る様に瑛子は改札口を通った。


  「早く、早く」

 

   瑛子が、横須賀線ホームに続く階段の下から見上げた時、川島が手招きしていた。夢中で

  階段を駆け昇ったと同時に、ホームに横須賀線が滑り込んできた。


  「セーフ」


  「ちょっと、ちょっと、おばさんだからキツクて息も絶え絶えよ」


  「じゃなくて……運動不足」

   少年のような笑みを見せた。


   二人は横須賀線に乗り込んだ。平日の午後でも電車は結構混んでいた。ドアと、座席と手

  すりの間に瑛子を守る様にして、川島は立った。瑛子はまた周りを見渡した。人の目が気に

  なった……疚しい事をしている、という事ではない……こんなおばさんと……川島……


   鏡で今の二人の姿を映して確認したかった……


  「電車から景色を見るのが好きなんです」

   外の景色を見ながら川島がポツリと言った。


  「……」


  「電車は一番前に乗る。地下鉄はダメだけど東横線は外が見える。バスも一番前の一人用の

  席」


  「……」

   瑛子は川島の横顔を見ていた。遠くを見つめる川島の表情が幼なかった。


  「アッ! 猫!」

   突然川島が声を上げた。


  「猫?」


  「マンションの窓辺に猫が座っていた。僕と目が合って言った。楽しんで来いよって」


   瑛子は笑って、また川島の横顔を見つめた。真剣な表情をしていた。ぶっきらぼうな言い

  方でも、松岡とは違う。「松岡のぶっきらぼうさ」は、長い間夫婦をしている馴れ合いだっ

  たが「川島のぶっきらぼうさ」は、甘えている様なところがあって、それが新鮮で嬉しかっ

  た。


   ……松岡と川島を比べている事に気がつき、戸惑った……


   ……不思議な人……不機嫌そうな表情をしているが、決して不機嫌ではないのだろう……

  この人は、松岡と一緒に仕事をしている時はどんな表情をしているのだろう……?

  

   カニを食べに来た時の川島を思い浮かべた。ごく普通の「夫の部下」の顔をしていた。


  「変?」

   川島が瑛子に向いて訊いた。


  「ううん、変じゃないけど……」


   川島の表情は「夫の部下」ではなく「一人の男」だった。


   電車が揺れた拍子に、バランスを崩した川島が瑛子に倒れかかり、咄嗟に出した瑛子の手

  を握った。


  「なんか、映画のシーンみたいだ」

   手を握ったまま、川島がニコッと笑った。


  「……」


   ……映画のシーン……瑛子は、自分を制する事が出来そうになかった……透明で少年の様

  な魅力がある川島といると、自分の中で忘れていた感情が蘇ってくる気がする……「静かな

  感情」が消える……


  「あなたを好きになりそう……」

 

  「好きだ……」


   言葉には出さないが、お互いの目がそう伝え合っていた。


 

   躊躇いはあったが躊躇わなかった……そして……始まった。

  でも……「始まった」とは考えなかった。「始まり」には「終わり」がある。日々の中での

  自然の出来事……愛を確かめ合う言葉も言わなかった。言わなくても充分に分かっている……

  互いの目を見れば……「始まり」がなければ「終わり」もない。自然の成り行き……「一緒

  にいて幸せ」その時間だけを大事にしていた。




(1)


   松岡が住むマンションの敷地にある数本の桜も満開になった。

  六角橋にある官舎から今のマンションに移り住んで4年半。初めての春を迎えた年、敷地に

  咲いた桜を見た瑛子が「此処に引っ越して本当に良かった」そう言って目を輝かせた。

   結婚してからも職務に追われ、満足にお花見も出来ない松岡と瑛子にとって、自宅マンシ

  ョンに咲く桜を見るのが楽しみになった。桜の咲く時期になると「出かけるぞ」と言う松岡

  を、瑛子は玄関先で見送らず階下に降り、署に向かう松岡と一緒につかの間の桜見物を楽し

  み「行ってらっしゃい」桜の木の下で松岡に手を振った。

   今年もまた同じ事をする瑛子がいた……しかし、何か違う……桜を見る瑛子の瞳の中には、

  松岡とは別の何かが存在している……


   瑛子の様子が変だ……松岡は気付いていた。


  「いつ頃からか……そうだった。一月の終わり頃からだ……だが、それよりだいぶ前、川島

  を連れて来た頃を境に……瑛子の雰囲気が変わった。昔、出会った頃の瑛子になった」


   松岡家では、松岡が非番の日「一人でゆっくり休ませてあげよう」という事で、特別な事

  がない限り、午後から2、3時間瑛子が外出するのが長い間の習慣になっていた。一時期、

  瑛子はパートで仕事をしていたが、瑛子が選んだ仕事は週末出勤の販売業の仕事だった。松

  岡は瑛子が家に居たところで気にはならない。

  「私がちょこまか動いていると落ち着かないでしょう?」そう言っているが「瑛子の方が自

  分がいると落ち着かないのだろう」そう思って、瑛子の好きな様にさせていた。


   それが……「ただいま。ゆっくり出来た?」毎回同じ言葉を言うが、外出して帰って来た

  瑛子が、その時に限って自分の目を見ない様になった……余り良い気分ではなかった。

   そして、横浜中央署でも同じ様な気分を味わっていた。

  休み明けの朝「おはようございます」と刑事第一課の部屋に入ってくる川島が自分の目を見

  なかった……やはり、良い気分ではなかった。


   ……だから気付いた……間違いないだろう……勘……伊達や酔狂で長い間刑事をやってい

  るのではない……そうではない。夫の勘だ……


   瑛子を尾行してみる事にした。そのためにデジカメを購入した。


   4月半ばの日曜日、花見の時期は終わったが、天気も良く穏やかないつもの日曜日だった。

  「行ってきます!」

   いつもと同じ様に出かけて行く瑛子を、松岡はソファーに寝転んだままで見送った。


   その日はいつもと同じ様な日曜日ではなかった。


   玄関のドアが閉まったと同時に、松岡は起き上がり、頭の中で時間を計算して外に出た。

  北側の廊下から下を見ると、瑛子がマンションのエントランスを出て、横浜市営地下鉄ブル

  ーラインの片倉町駅方面に歩いて行く姿が見えた。尾行はお手の物だ。絶対に気付かれる事

  はない。松岡は瑛子の後を追った。


   地下鉄の階段を降りた所で、改札口を抜ける瑛子を確認した。


   時刻表を確認した。あざみ野行きも湘南台行きも、到着までにまだ5分以上の時間があった。

  自動販売機の切符を買う時に、一瞬迷ったが、一番高い料金の切符を買った。


   片倉町駅のホームは地下四階にある、エスカレーターを何回も乗り継いでいると、松岡は深

  い穴にはまり込んでしまう様な気分になった。


   瑛子はあざみ野行き方面のホームの黄色いラインの前に立っていた。浮き浮きした様子が行

  き先を物語っていた。


  「切符代を払い過ぎたか……」


   松岡の思った通り、瑛子は岸根公園駅で降りた。地上に出て、信号待ちをしている時に誰か

  に携帯電話をかけた。

   駅の階段を昇りきった所で身を隠して様子を見ていた。電話を切った瑛子は交差点を渡った。


   ……向かう方向は、JR新横浜駅篠原口方面……川島達也のマンション……


  「分かっているんだ焦ることはない」


   交差点を渡り、角のコンビニで買い物を済ませ出て来た瑛子は幸せそうな顔をしていた。


   瑛子は周りを気にする事もなく、そのまま川島のマンションに向かった。5,6分歩いた所

  で、歩いた側にある、小綺麗ないかにも若者が好みそうなワンルームマンションに入った。

   松岡はマンションを通り過ぎ、少し先の酒屋の自動販売機の陰に隠れた。

  三階の廊下を歩く瑛子の姿を松岡はデジカメで撮った。一番奥の部屋の前に立った時、瑛子は

  バッグから何かを取り出した。

  「鏡か」……その動作が瑛子の気持ちを表していた……また、デジカメで撮った。チャイムを

  鳴らすとすぐにドアが開いた。


   松岡は夢中でデジカメのシャッターを切った。


   二人の姿がドアの中に消えて、松岡は何かにとりつかれた様に川島のマンションに向かった。

  気がつくと部屋の前に立っていた。

  「川島」の名前が書かれた表札をデジカメで撮り、じっと中の気配を伺った。


   コンビニで買った弁当を食べ、お喋りをして、テレビを見て、オセロゲームやトランプを楽

  しむためではないだろう。そこで繰り広げられる事を思い浮かべたが、不思議な事に「嫉妬」

  の気持ちはなく……感じたのは「諦め」の気持ちだった。何故、自分がそんな気持ちになった

  のか? 松岡には理解出来なかった。


  「嫉妬」……警察官になってから、仲間に対してそういう気持ちを抱いた事もある。「嫉妬」

  は場合によっては、自分の励みや自分を高める武器になるが、松岡にとって「嫉妬」は自分自

  身を見失う、その事でしかなかった。実際にそういう経験をした事もある。関わった事案で

  「手柄」や「出世」に気を取られ、功を焦って真実を見失いそうになった。「自分は、世の中

  の善悪と戦う刑事だ。企業に従事する人間とは異なった仕事をしている」松岡理論でそう考え

  た時「嫉妬」という気持ちを自分の中で排除する事にした。そして、正しいかどうか分からな

  い「松岡理論」で、瑛子を得る事が出来た。瑛子と結婚をして充実した家庭生活があったから、

  刑事としての自分に磨きがかかった。

 


   *****


   瑛子と知り合ったのは20年以上も前だった。瑛子の実家に空き巣が入り、松岡が捜査を担

  当した。

   母親が台湾人の瑛子は、切れ長の目が涼しい美人だった。8歳年上の松岡は特に取り立てて

  男前でもなく、40歳を目前に控えた極々普通の中肉中背の男だったが、一人娘の瑛子に一目

  惚れをした。


  「分不相応だ」

   そう思ったが恋の炎が燃え上がった。事件が解決した後でも「巡回です」とかこつけ瑛子の

  実家を訪れた。

   瑛子が不在でも足繁く通い、思惑通り両親に気に入られた。しかし、肝心の瑛子は興味を示

  さなかった。今は結婚適齢期があるようでないようになったが、当時、28歳という娘の年齢

  に危惧を抱いていた両親は「渡りに船」と瑛子に松岡との結婚話を薦める様になった。その事

  を知った松岡は押しの一手で瑛子に迫り、デートらしき事が出来るまでにはなっていた。とこ

  ろが、プロポーズをしよう! と決め、指輪を用意していた日……瑛子から告白された。


  「私には5年程前から付き合っている人がいます。相手は会社の社長で、世間で言う不倫関係

  です」


   告白を聞いた松岡はショックだったが「そんな事だったのだろう」そう思った。嫉妬の感情

  はなかった。


  「あなたは幸せですか?」

   松岡は訊いた。


  「幸せです」

   瑛子は答えた。


  「どうして幸せですか?」


  「人を愛しているからです」


  「自分は、あなただけを愛しています」


  「……」

   瑛子は答えられなかった。


  「だから、あなたを幸せにする自信があります。今日はあなたにプロポーズをするつもりで来

  ました。しかし、自分は待ちます。あなたが自分の気持ちを受け入れる時が来るまで。そうい

  う気持ちになったら連絡してください」


   松岡はじっと待った。その間「彼女の相手はどういう人だろう?」「今頃、彼女は……」そ

  ういう事は一切考えなかった。ただ、刑事としての仕事に励んだ。


   それから半年後、瑛子から連絡があった。

  もし、自分が嫉妬に狂い、自分を見失っていたら、この日は来なかった……松岡はそう信じて

  いた。



   *****

   

   あれから20年以上経った今、最愛の妻が自分の部下と密会している部屋の前に立っている。

  「これは嫉妬なのか?」自問自答しながら……


   松岡は張込み場所を探していた。

  「良い張込み場所を探すのも刑事の大事な仕事の一つだ」


  「あそこにしよう」

   マンションの北西に小さな公園を見つけた。


   川島の部屋の前から立ち去ろうとした時、何かが割れる音が聞こえ、松岡は思わず立ち止ま

  った。姿を見られていないか? 周りを見て、誰もいない事を確認した松岡はドアに身体を寄

  せて耳を澄ませた。


  「あー、やっちゃったよ」

   川島の声が聞こえた。


  「怪我はなかった?」

   そんな事を言っている様な瑛子の声も聞こえた。


   ドアから聞こえて来るのは、ごく普通の幸せそうなカップルの会話だった……いつもの日曜

  日、瑛子がそういう会話を交わす相手は、この自分の筈じゃなかったのか?


  「嫉妬」の感情が沸いている自分に気付いた。


   しかし、松岡はそのまま公園に向かった。

  ちょうど張込みに最適の場所も見つかった。大きな木があるから身を隠す事も出来る。


   出て来るまでに二時間はあるだろう。

  公園のベンチに座って持って来た文庫本を開いた……持って来た本は外国人作家のスパイ小説

  だった。本を選ぶ時、直木賞受賞作家の本を手に取ったが、思い直して、集中しないと読めな

  い本にした……湧き起こるかもしれない「嫉妬」を抑える必要があった……


   松岡は本を読み始めた。一頁を読み終えた時、余計な事を考えた。


  「勝負だ」

   自分を制して本を読んだ。読み進めて行くうちに本に没頭する事が出来る様になっていた。


   部屋のドアが開く気配を感じた松岡は腕時計を確認し、慌てて木陰に身を隠した。


  「読み通り、二時間」

   刑事の勘は正しかった……夫の勘か……


   一度開いたドアが閉まり、少ししてまたドアが開き瑛子が出て来た。デジカメを構えた。

  川島が姿を現した時、シャッターを切った。

 

   何も気にする事無く堂々と二人はマンションを出て、新横浜駅方面に歩いて行った。松岡も

  気付かれない様に、通りの反対側で適度の距離を保ち二人の後を追った。

   途中、二人は小さな花屋に立ち寄った。店先に沢山並んでいる綺麗な花の鉢植えを選んでい

  る様子の瑛子を見つめる川島の表情が優しかった。


   ……あんな川島を見た事はない……


   松岡は去年末、川島が署に持って来た濃いピンクのジュリアンと、カニを食べに来た日、松

  岡のマンションに向かう途中で川島が買い求めた薄ピンク色のジュリアンの鉢植えを思い出し、

  何故か……嫉妬……を覚えた。


   ……嫉妬……


   昔、排除しようとした感情とは違う別の感情に戸惑った。二人から目を背け煙草に火を点け

  気持ちを落ち着かせた。一本煙草を吸い終わった時、鉢植えが入っているのであろうビニール

  袋持った瑛子が花屋から出て来た。二人は顔を見合わせた。川島を見る瑛子の表情が幸せそう

  だった。


   ……お前のその顔は俺だけに見せるものだろう……更に激しい嫉妬を覚えた……嫉妬……

  それは独占欲……なのか?……


   堂々と歩く川島とその後を連いて行く瑛子の幸せそうな後ろ姿を見て「愛しているから幸せ」

  と言ったあの時の瑛子を思い出した。


  「お前は俺を愛していないのか?」

   その後姿に向かって松岡は声を出さずに問いかけた。


   その日から毎回、松岡が休みの日に外出する瑛子を尾行する様になった。

  瑛子が向かう場所はほとんどが川島のマンションだったが、そうではない事もあった。そして、

  いつの間にか「瑛子を尾行する事が自分の休日の過ごし方」松岡にとって当たり前の事になった。

   いつもの様に、帰った後、自分の目を見ない瑛子。翌日の朝、自分の目を見ない川島。次第に

  その二人に、特別な感情を抱く様になって行った。

  「嫉妬」なのか?……「嫉妬」を通り越した「憎しみ」なのか……? 自分でも分からなかった。

  それが……いつからか……二人が自分を排除しようとしている……被害妄想を抱く様にもなって

  きた。そういう事件を何件も取り扱っていた。愛人と共謀して妻を、夫を殺害した事件を……



(2)


   物思いに耽っていた瑛子はドアフォンが鳴って、我に返った。


  「はい……」


  「俺だ」

   応えたのは松岡だった。

 

   珍しい……松岡は帰宅の際は自分の鍵を使ってオートロックを解除し、ドアを開ける……玄関

  に向かう前に洗面所の鏡で自分の姿を確認した。


  「お帰りなさい」

   玄関のドアを閉めた途端、お酒の匂いがマンションの狭い玄関に充満した。


  「あらっ、飲んできたの。今日は早く帰って来るのかと思って夕食の支度をしていたのよ」


  「うん、課長に誘われた」

   松岡は持っていたカバンを瑛子に渡しながら答えた。


  「早く帰って来る……なんて、女の勘か?」

   瑛子の背中に向かって、松岡が言った。


  「そう、刑事の妻の勘」

   松岡を振り向かずに瑛子は答えた。


   何か得体の知れない不安が瑛子を襲った……



   *****


  「俺が時間を作れたという事は、松岡さんも早く帰るという事だよ。帰る時には、それを心して

  いた方がいい」

   瑛子は、川島からそう言われていた。


   *****


  「晩飯は何だ?」

   和室で脱いだジャケットを瑛子に渡しながら、松岡が訊いた。


  「お刺身とおでんよ……これは何?」

   ジャケットを受取った時、ポケットに重い何かが入っているのに気がついた瑛子が訊ねた。


  「デジカメだよ」

   着替えながら松岡がぶっきらぼうな調子で答えた。


  「まあ、珍しい! こういうのを扱うのは一番苦手なのに……」


  「捜査に必要になったのさ。これがないと現場を押さえられない」


  「……」

   瑛子の手からデジカメを奪うように、松岡がまたぶっきらぼうに答えた。


  「あなたがデジカメ? 意外……でも、苦手なデジタルな物に関心を示さなくてはならなくなっ

  た、という事なのね」


  「そういう事だ。面倒くさい世の中だ」


  「お食事はどうしますか?」


  「せっかく刺身を用意してくれているんだ。食べるよ。熱燗もつけてくれ」


  「まだ飲むの?」


  「なんだ、飲んじゃ悪いのか?」


  「そういう事を言っているのではないのよ。飲み足りないのかな……って」


  「……」


  「だったら、先にお風呂に入ったら? 酔いつぶれちゃったらお風呂にも入れなくなるでしょう?」


  「風呂は面倒だ。入れる気分だったら入る。入れなかったら、明日シャワーでも浴びる」


  「分かりました。すぐに用意しますね。でも、本当に面倒くさがり屋なのね」

   絡んで来た松岡に少し不愉快な気分になり、昼間の事もあって後ろめたい気持ちが沸いたが、

  笑顔で答えた。


   瑛子は素早く、テーブルに卓上熱燗器を用意し、冷蔵庫から刺身の盛り合わせと、コンビニで

  買い求めたおでんをテーブルに用意した……全て調理しなくても良い献立だった……


  長年連れ添った子供のいない夫婦の会話は少なかった。松岡は黙って、熱燗を飲み、刺身に手を

  つけ始めた。


  「最近、川島が生意気になった」

   一本目の徳利が空になった頃、松岡が口を開いた。


  「川島さん? どうして?」

   さりげなさを装ったが、松岡の痛い程の視線を感じた。


  「俺はいつか、あいつに追い越される」


  「そうね、いつか仕事では追い越されるかもしれないけれど、あなたが長い間培った刑事として

  の勘や、人生では追いつかれる事はないと思うわ」

   心の動揺を押し隠した。


  「でも、川島さんが生意気になった。という事は、あなたの指導力が功を奏しているって事でも

  あるでしょう?」


  「そうならいい……」

 

   ……今日の松岡は変だった……普段は、余り部下の事は話さない。


  「仕事が一段落しているなら、今日はゆっくり飲んで。そういう時も必要よ」

   瑛子は松岡に熱燗を勧めた。


  「お前は川島をどう思う?」


   ……川島を思い出して瑛子の胸が疼いた……


  「どう思う?……って。一回しか会っていないのよ。よく分からないけれど、あの位の年齢が一

  番良い時期かもしれない」

   言葉を慎重に選んだ。


  「それが気に食わない」


  「そんな事で気に食わないなんて……言ったって仕方ないじゃない。でも、あなたと同じ年頃に

  なった時にどうなっているか? そうじゃない?」


  「うん……」


  「今日は何か変よ。いつもは鍵を使ってドアを開けるのに。それにデジカメも。課長さんとどん

  な話をしたの?」


  「くたびれた親父同士の他愛無い世間話さ」


   やはり、いつもの夫ではない……瑛子は、松岡に「静かな怖さ」を感じた。


  「こんな事言って、でも誤解しないでね。やっぱりあなたには事件が必要なのよ。今は少し落ち

  着いているのでしょう? あなたの場合はそれが良い方向にはならない……でしょう?」


  「もう一本つけてくれ!」


  「怒ったの?」


  「そうじゃない。お前の言う通りだ。事件がないと余計な事ばかり考える」

   テーブルの上の刺身もおでんも綺麗に片付けられていた。瑛子は、日本酒を熱燗器にセットし

  た。

   松岡は、テレビのリモコンを手に取り、テレビのスィッチを入れた。テレビからは、今人気の

  お笑い芸人達の笑い声が聞こえていた。 


  「くだらない!」

   すぐにリモコンを操作してテレビを切った。

  

   松岡は何かに苛立っていた……自分が川島に追い越されそうだからか?……そうではないだろ

  う……本当に、課長と飲んだのだろうか……?


  「もう、寝るぞ!」

   新しくつけたお銚子を半分も飲まないうちに、松岡はそう言って、ヨロヨロとした足取りで寝

  室に向かった。


  「大丈夫?」

   瑛子は松岡の後を追った。


  「刑事バカの刑事さんはゆっくり休みなさいね」

   求められそうな気配を感じたが、かなり酔っていそうな松岡に手を添えてベッドに寝かせ、そ

  の気を起こさせない程度に優しく声をかけた。


  「明日は6時半に起こしてくれ」

   そう言って、松岡は瑛子に背を向けた。


   リビングルームに戻った瑛子は、ダイニングテーブルに座って大きなため息をついた。何かが

  変わってきている……以前から、少しずつ自分の中で感じていた事が、今日は、ハッキリとした

  形になって現れてきた……大きなため息は、それが原因だった。



   *****


  「幸せ?」

   今日の午後、瑛子は突然川島から訊かれた。


  「幸せよ」

   迷わずそう答えた……しかし、川島の事だけを「幸せ」と思うのは怖いし辛い。川島以外の生

  活の中で「幸せ」を見つけ出さないと自分が壊れる……


  「考えた事はないのか?」

   川島から言われた言葉を思い出していた。


  「何を考えるの?」という事は聞かなかった。


  (松岡さんと別れると考えた事はないのか?)川島はそう言いたかった……充分分かっている。

  問いに瑛子は答えなかった。


   その事は考えた事はあるが、気持ちは閉じ込めていた。年齢の差……お互いの立場……真剣に

  考えられる範囲を超えていた。

   そして、今日……問われて「別れたいの」その気持ちが益々膨らんだが、それでも言えなかっ

  た。川島と一緒になる事と同じ位、それ以上に難しい事。


  「ごめんね」

   黙っている瑛子に川島はそう謝った。


   二人でいる時間を辛い時間にしたくなかったから、瑛子は何も答えなかった。

  でも、その代わりに、川島のわき腹を人差し指と中指で歩く仕草をしてなぞった……(二人で歩

  みたい)そういう気持ちを込めた。


  「くすぐったいよ」

   川島は瑛子の仕草に無邪気に笑った。


   川島の無邪気な笑顔が大好きだった……もし……松岡と別れて川島と一緒になったら……無邪

  気な笑顔が消えるかもしれない……怖かった。


   *****



   ……そして、さっきの夫の態度……


   瑛子は寝室の気配を確かめた……起きてくる気はない……松岡のカバンから、デジカメを取り

  出した。


  「これがないと現場を押さえられない」

   ずっと、松岡の言葉が引っ掛かっていた。


  「証拠」……覚悟していたが、それでもショックは隠せなかった。


   デジカメの中には「幸せな川島と瑛子」がいっぱい存在していた。




5 

    一週間後……


   朝一番で、事件の被害者の婚約者に会いに行くために車に乗り込み、行き先をナビに入力し

  ている所で松岡が川島に言った。

  「悪いが、自宅に寄ってくれないか」


  「えっ……」

   川島はナビ入力の手を止めた。


  「大事な物を忘れたんだ……」


   聞き込みに行く先は戸塚で、松岡のマンションは片倉町。方角が違うし、時間もかかる。


  「分かりました」

   川島は車を発進させた。



  「すぐに戻るから待っててくれ」

 

   マンションの前で車を停めた。三階のベランダで洗濯物を干している瑛子が、車から降り

  てくる松岡に気付いてベランダから消えて行った。川島は恐る恐るベランダを見上げた。松

  岡と瑛子の二人の生活を物語る物が干されてあった。一番見たくない光景……川島は下を向

  いた。



  「悪かったな」

   5分程して、松岡が手に茶色の封筒を持って戻って来た。


  「もう一つ頼みがある。その先の宅急便の配送所に寄ってくれ」


  「はあ……」


   川島は理解に苦しんだ。宅急便を出すのなら、わざわざ取りに寄らなくても瑛子に頼めば

  いいのに……

   配送所の事務所に消える松岡の後ろ姿を見ていた。



   *****


  「着払いの送り状をください」

   配送所の受付で松岡はそう言った。荷物の発送依頼はしなかった。


   送り状を受取った後、持って来た封筒からエアクッションに包まれている小さな物を取り

  出し、付いていた送り状を剥がしカウンターの脇のゴミ箱に捨て、封筒と小さな物をポケッ

  トに仕舞った。

  「署に戻ったら鑑識で指紋の検査をしてもらおう」時間を計算して配送所を出た。


   *****



   瑛子は不安な気持ちでいっぱいになっていた。

  朝、松岡が出かけた後、玄関の下駄箱の上で、宅急便の送り状が貼り付けられている茶色の

  封筒を見つけた。手に取って確認をすると、送り状の宛先が刑事課長の真山の自宅宛になっ

  ていた。封をしていないのが変に思ったが、中味を取り出すと、中にエアクッションに包ま

  れたSDカードが入っていた。


  「まさか!」

   確認せずにいられなくなった。丁寧にエアクッションに付いているセロテープを剥がし、

  SDカードを立ち上げたパソコンに挿入した。不安が的中した。SDカードは「証拠品」だ

  った。


  「課長にこれを送りつけてどうするのだろう……?」

   

   激しく動揺したが、慌ててSDカードを抜き取りパソコンの電源を切った。元の様にカー

  ドをエアクッションに包んで封筒に仕舞い、封筒を元の位置に戻した。

   洗面所で洗濯機が終了を告げていたが、何も手につかなくなった。しばらくダイニングテ

  ーブルに座りこんで考え事をしていた。


  「何か変……」

   しっくり来なかった……刑事の妻の勘……


  「カードを渡すのなら、こんなまだるっこい事をしなくても署で直接手渡せばいいのに……

  本当にSDカードを課長に送るのだろうか?」

   冷静になって推理を始めたが、その前に家事を片付けよう……主婦に戻った。


   ベランダで洗濯物を干している時、シルバーのセダンがマンションの前に停まり松岡が降

  りて来た。慌ててに玄関に走って封筒の位置を確認した。


  「さっきと同じ場所」

   安心してリビングに戻った瞬間、玄関のドアが開いた。


  「どうしたの?」

   リビングルームのドアを開けて言った。


  「……」

   何も答えない松岡は茶色の封筒を持っていた。


  「どうしたの?」


  「これだ。忘れ物だよ」

   そう言って、これ見よがしに封筒を瑛子に見せた。


  「気付かなくてごめんなさい」


  「……」

   それには答えず松岡は玄関から出て行った。


   瑛子がベランダに出ると、車に乗り込む際にベランダを見上げた松岡と目が合った。

  瑛子の背筋が凍った……松岡は口元に笑みを浮かべていた。

 

   セダンは静かに発進した。


  「気をつけて……」

   運転席には何も知らない川島がいる……その川島に向かって瑛子は呟いた。




   素手で封筒の中身を探った事を後悔した……罠に嵌められたかもしれない……刑事の妻

  の勘……


 

  「松岡はわざと封筒を忘れて行った……私が気付かない筈はないという事を知って。そし

  て、やはりわざと封を開けておいた。私が中味を確認する事を承知で。課長には送らない。

  そして……後で指紋を調べるだろう」

 

   妻の不貞を知りながら、何も言わず、しかし、真綿で首を絞めるような事をする松岡が

  怖くなった。


   瑛子は昔を思い出した……



   会社の社長との不倫を告白した瑛子を、松岡は待っていてくれた……あの時、瑛子は松

  岡を試した。

   社長との関係は終わりに近づいていた。松岡に好意を持ち始めていたが、踏ん切りがつ

  かなかった。かなりしつこく迫っていたが、松岡の「静かな感情」が飛び込む事を躊躇わ

  せていた。だから、思い切って告白をした。

  「自分はあなただけを愛している」熱い気持ちを打ち明けてくれたが、激しく、嫉妬など

  の感情をぶつけてくれた方が迷う気持ちを解消させてくれる、と感じた。

  「待っています」という松岡の中に潜む「静かな感情」が怖い様な不安な気持ちになった。

  その後、社長との関係は完全に終わりになったが、瑛子は悩んでいた。

   親しい友人は「松岡さんは本当に瑛子の事を愛しているのよ。心が広い人だと思うわ。

  松岡さんと結婚すれば幸せになる。だから、迷う事なんてないじゃない」そう言った。

   何も知らない両親からも散々言われた。

  「いい加減にしないと、幸せが遠のいていくだけよ。松岡さんを逃がしたら次はない」

   時間が経過し、松岡と会わない日々を過ごしていく間に、徐々に瑛子から不安感が薄れ

  て行き「愛されている」という安心感が広がり始め、そして、松岡と結婚をする決心をし

  た。

   結婚生活は穏やかで平和で幸せだった。ただ、時々、松岡の「静かな感情」に影響され

  て自分も「静かな感情」を持ち始めている事に気が付いた時「これでいいのだろうか?」

  という思いが起きた事もあった。

   淡々と日々を過ごし、人生を終える……それが幸せなのかもしれないが、本当の自分は

  違うのに、いつしか松岡のペースに巻き込まれてしまった……その事を考えた時「なかな

  か踏ん切りがつかなかった自分の感情」を思い出し、選択は正しかったのか? そう思う

  事もあった。


  「贅沢な悩みよ。子供がいないのは淋しいかもしれないけれど、瑛子を見てると松岡さん

  に愛されてる。って感じるわよ。だって、幸せそうだし綺麗だもの」

   やはり友人はそう言った。


  「愛されているから幸せ」なのか? 「愛しているから幸せ」なのか?


   答えを見つけられないでいる時に……川島と出会った。




  「宅急便です」

   松岡の実家から野菜が届いた。


   宅急便の送り状を見て、さっきの事が蘇って来た。松岡は何をどうしたいのだろう? 

  「知っているんだぞ」と分からせておいて、じっと悩み、苦しむ姿を見ていたいだけ

  のか? それとも昔の様に、いつか川島と別れる自分を待っていたいのか……?




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