決壊の日『優しい声』
次の日、私は隣町まで出かけた。二日続いた弟の料理の弊害もあるにはあるのだが、概ね自分の意思でもって出てきてしまった。
この町は住民が多く、また観光でも有名な場所だ。それだけでも、私の住む何も無い町とは比べるまでも無いのに、さらに私の町とは決定的に違う点がある。それは私の町の家は木造でその他がアスファルトなのだが、この町は、全てが硝子なのだ。黒塗りの硝子や赤塗りの硝子。青、黄、緑、その他諸々。色鮮やかで美しいのだが、いくつか疑問がある。
降水や降雪は大丈夫だろうが、降硝や降石のときはどうなるのだろうか。もしかしたら、その程度では割れない、特殊な硝子なのかもしれない。あの張りぼての町も面白いが、やはり此方の方が楽しみや疑問は大きい。
さて、何故私がここに着たかというと、長身の友達と会うためだ。先日、例の弟の料理を食べた後、ふと思いついたのだ。特に用事は無いのだが、いつも長身の友達が私の家に来るのに、私が行かないのは何か変だと思ったのである。考えてみれば特に変ではないのだが、まぁ一瞬でも変だと思ったのだから、気付かなかった何処かが変なのだ。きっと何かが変なのだ、と言い聞かせて隣町までやってきたのである。これも彼の料理の弊害の一つであるといえよう。
白い太陽が、あたりを照らしている。とはいえ、地面も建物も草も人も犬も鳥も全て硝子なのだった。反射で目が少し痛い。ちなみに長身の友達はもともとここへ移住してきたので、彼は硝子ではない。彼は鉄と木で構成されている。
硝子の町を物珍しく眺めながら歩いていると、キャッチセールスに引っかかった。
「其処のお兄さん―」
私は最後まで聞かずに、スタスタと歩き続ける。
「――ちょっと待ってよ」
やはり私は無視を決め込んだ。その硝子のセールス(服装がチャラチャラしていて悪印象)は私に悪態をついて諦め、後ろに居た女性に声をかけた。
少し離れた場所から様子を覗いてみると、女性は完全にセールスのペースに呑まれていた。どうやら、彼氏に送るプレゼントにお勧め、と女性をのせているらしい。私は、少し哀れに思ったが別に関係の無いことなので、当初の目的、長身の友達に会うことを果たそうと歩き出した。
硝子の町は想像以上のものだった。
下手に触れば指紋が付いて建物が汚れてしまうし、太陽光が強く感じる。私はこの町に来るのは初めてなのだが、どうやら私が住むとするなら、ストレスで直ぐに引越しをする羽目になることが安易に予測できる。否、別にこの町を貶しているわけではない。ただ過ごしにくいなぁ、と思っただけである。勘違いをしないでくれたまえ。私は平和主義者であり、無闇に波風立てないように気をつけているのだ。細心の注意を。
長身の友達の住所が此処だということは知っている。ではこの町のどの辺りなのか、それは分からない。私が知っているのはここまでなのだ。さてさてどうしたものか。
道なりに歩いて、T字路で看板を見つけた。『右、青塗り商店街』『左、白塗り街道』。
少し迷ったが、『白塗り街道』を選んだ。なんとなく、今日の私は『白塗り街道』な気分なのだ。となると、長身の友達も『白塗り街道』な気分だろう。
『白塗り街道』なる場所は人通りが激しく、飲食店や土産屋がぽつぽつと点在している。目を引くのは、硝子製の観覧車である。川の向こうに見える観覧車は、キラキラと太陽の光を反射している。今度妹と来てもいいかもしれない。……無理か。妹は、年齢的に言えばまだまだ子供だが、精神的には大人なのだ。それに、下手に妹と観覧車を見に来て「シスコン」と誰かに罵られても、私は文句を言えないのだから。
観覧車から視線を外して『白塗り街道』を歩く。美味しそうな匂いがして左を見た。うちわをパタパタ扇いでいる男性がいる。網の上に、イモリが串に刺された状態で置かれている。時折それをひっくり返して、最後に店のカウンターに立てた。イモリの香ばしい香りと、食欲をそそるその容姿。私はお金を払って、焼きたてのイモリ焼きを買った。一口食べると、口の中一杯に、香ばしい香りが広がる。イモリ特有の甘みもあいまって、なるほどなかなか美味しい。今度此処へ着たら、もう一度買うことにしよう。
思わぬ所で美味しいものを発見してしまい、当初の目的を忘れてしまいかけていた。
私はイモリを頬張りつつ長身の友達を探すため、『白塗り街道』を進む。硝子の人たちは、しかし、別に体が透けていると言うわけではない。表面を構成しているのが硝子であるだけで、後は普通の人間だ。
長身の友達は直ぐに見つかった。町を歩く人の中心に、小さめの木が一本立っているという感じだ。向かい側から、こちらに歩いてくる。彼は私に気付いていないようだ。私は彼の正面まで歩いて行き、声をかけた。
「やぁ、君に会いたくてわざわざ来てしまったよ」
私は長身の友達の台詞を拝借した。
「やぁ、ボクはキミに会いたくてわざわざ会いに行こうとしていたところなのに、キミからこちらに来てしまって、少し興ざめすると同時に、少し喜んでいるよ」
えらい説明口調で言われて、思わず笑いかけたが、ぐっと我慢した。説明的口調になったのは、多分私の台詞に対応させたことを言いたかったからだろう。
「イモリ焼きの匂いがする」
長身の友達は言って少し笑った。
「うん。先ほど一本買ったのだよ。あの店のはなかなか美味しくて癖になりそうだ」
「残念だね。その店、来月店を閉めるよ」
「本当か?」
勿体ない。あの味なら客も来るだろうに。
「本当だよ。あの店の店主さ、来月引越すんだ。この前買いに行ったときにそう言ってた」
「……そうか。残念だ」
本気でがっかりした私を、長身の友達はくすくすと笑いながら見ている。人の不幸は蜜の味、ということだろうか。
「其処の喫茶店にでも行こうか」
長身の友達はそう言って、私の返事も聞かずに喫茶店に入っていった。内気な友達もそうだったが、長身の友達も十分マイペースだ。『喫茶店』、何の飾り気の無い、むしろ直接的過ぎる店名の喫茶店のコーヒーは、美味しかった。私が知る中で一番の味だ。
「キミがボクに会いに来るのって久しぶりだよね」
長身の友達は、なにやら感慨深そうに言った。
「そうだね。私もそう思って物思いにふけっていたら、昨日いきなり此処に来たくなってね。こうして来てしまった」
もう少し別の言い方もあるだろうに、私はどうやら語彙を増やす必要がありそうだ。
「『来てしまった』だったら着たくなかったみたいだよ」
長身の友達は、私の揚げ足をとって笑った。
「言葉の綾さ、気にしないでくれ」
私は肩をすくめて、コーヒーを飲んだ。
「別に良いけどね。……ところで内気な友達がキミの家に行ったんだって?」
長身の友達は、コーヒーを一口飲んで言った。
「うん。昔の友人の人も一緒についてきていた」
「……そう。饒舌な友達の話は聞いてる?」
「うん。一応聞いているさ。変わったようだね、彼」
「それほどでもないよ。鳥を焼くようになっただけさ。それ以外は変わってないよ」
「そうか。それは安心した」
「キミも心配するんだね」
「勿論。いつも無関心でいられないさ」
「内気な友達は?」
「あれは……無関心でいることで、自分を助けていた」
「分かっているよ。特に深い意味で言ったわけじゃないしね。で? 饒舌な友達には会っていくの?」
「いや、私が会う必要はないさ」
「会えばいいのに」
「いいのだよ」
「……ふぅん」
長身の友達はそれ以上何も言わず、ただ静かにコーヒーを飲んでいた。私はそれを、ただ見つめていた。時折、私を見て何かを言いかけてやめる。何が言いたいのか聞けばいいのだが、私にはそれが出来なかった。理由は分からない。ただ、聞いてはいけないような、気がした。
その時なんとなく、私は帰りたくなってきた。否、帰らなくてはならない気がしてきた、という方が正しい。ただただ直感的にそう思ったのだ。ふと、頭をよぎったのだ。理由も原因もない。なんとなく、だ。
長身の友達はコーヒーを飲むのをやめて顔を上げた。
「良いよ、帰っても。……いや、そのほうが良いんじゃないかな」
普段の会話と同じように、それでもやはり説得するような、否、命令するように言った。
多分、長身の友達は、これが言いたかったのだろう。無論、今は何が起こるか分からないが。長身の友達は、私の一番言って欲しいことを言ってくれた。どうしていつも一番言って欲しいことを、言ってくれるのだろう。どうして、それが分かるのだろう。もしかしたら、私は彼の心は分からないが、彼には私の心が分かるのかもしれない。
「……では、また会おう」
長身の友達は「うん」とだけ言った。
鞄を掴み、店を後にする。大勢の人々が行きかう通りの真ん中を、私は止まることなく、無我夢中に走った。硝子で出来た観覧車が見える。こんな状況でなければ、暫くの間眺めていられるだろう。私には、何をする余裕も無い。途中、何度か人にぶつかったが、私は見向きもしなかった。後ろで、硝子が割れるような音がしたが、振り返らなかった。振り返って見えるものは分かっていた。
バス停に着き、バスを待つ。走って行きたいのだが、時間がかかりすぎるし、タクシーではお金が足りない。電車は当然のように、使われていない。よってバスしか頼るものが無いのだ。ダイヤを確認すると、後三分で到着予定だ。私は一秒でも早く到着するように祈った。
バスが到着したのはそれから、五分後だった。普段なら気にならないこの誤差が、今ではとても腹立たしかった。法定速度を守るバスのスピードが、亀の歩みのように遅く感じられる。
私は何をこんなに急いでいるのだろう。
焦るなんて私らしくないではないか。
世界はなるようになり、ならないようには絶対にならない。
これが私の信条だったじゃないか。
今ある姿が、これよりあろうとする姿が、世界の姿だ。
これが私の持論だったじゃないか。
何故こんなに焦るのだ。
焦る必要なんて、無いではないか。
私の予感が杞憂かもしれないではないか。
けれども、私には杞憂ではないことは明らかであった。
バス停を降りると其処は、当然のように私の見慣れた町だ。バス代を払って、駆け出す。
息も大分上がってきて、速度も落ちてきた。人間はその構造上、歩くより走るほうが楽らしい。しかし、それは歩くことを覚えようとする、赤子のときに限ってだろう。少なくとも私は今、そう思っている
我が家に近づいてきた。あの角を曲がれば、我が家が立っているはずである。私は自分をそう奮い立たせて、満身の力を込めて走った。角を曲がる。けれども、しかし、それが無駄な努力であることを、私は直ぐに気付いた。
一瞬、道を間違えたかと思った。しかし、直ぐに悟った。あぁ、運が無いんだと。愕然とするよりも先に、諦めと、納得が頭を、心を――支配した。やはり、私は運がない。否、試されているのかもしれない。否々、散々家族に迷惑をかけてしまった報い、なのかもしれない。どうあったところで、今、私の目に映る光景は変わることはない。変わって欲しいと願えども、それは変わらない。今まで、同じことが起きてきたが、いつも私は××××で××××だった。その報いかもしれない。だから、私は甘んじて受けなければならない。
私の家は、其処に存在していなかった。