転機の日『私が見たもの』―後半
気がつくと其処は私の家で、私は玄関の前で立っていた。さて、どうしようか、と考えてみても、仕事なんてする必要ないし(働くという概念がこの世界には無いといってもいい。働くのは一部の奉仕心旺盛な人だけだ)家に居てもすることは無い。一人の妹と一人の弟が居るが、恐らくまだ寝ているだろう。あの子達は、三個目の太陽が出るまで寝て、四つ目の月で寝るのだ。現在、一つ目の太陽は完全に沈み二つ目の太陽が南に見える。三つ目の太陽も少しだけ見えはじめていた。三つ目の太陽はどうやら、白のようだ。ちなみに、一日の内に太陽と月は、各五つずつ出てくる。
「ひねくれ者なのだね。太陽とは」
実際、私たちが望んだのは紫の太陽だったが、何処かでは白い太陽を望んだ人が居たのかも知れなかった。その意味では、太陽は親切らしい、と考えておくことにする。無論、こんなことを考えるのは、私くらいだと思うのだが。
白い太陽は、世界を有りのままの色で映し出す。草木は青。水は緑。空は赤。地面は黄。そして、私は灰色だった。醜いとは思わない。むしろ美しい色だと思う。灰色。なんとも良い色である。明るくは無いが、暗すぎず、いい塩梅だ。それに、何処か、心惹かれるのだ。この灰色を、あの饒舌な友達はなんと評しただろう……。
以前彼は、黒い太陽をこう評したことがある。『黒い太陽は、なんだろうな。美しい色を作ろうと色々混ぜてみたものの、出来たのは暗い色だったという感じかな? いわゆる失敗作というところか。しかし、黒も黒で中々味わい深い色だよね。ボクはね、黒は白と共に、全ての色を統べているのだと思っているのさ。黒は全ての色を排斥し、白は全ての色を受け入れる。だから、黒い太陽があるのは必然的であると、ボクは思うわけだよ。太陽というものについて更に深く語るなら、黒という太陽があるからこそ、あるからこそ、他の太陽が美しく見えるのさ。勿論、黒が無くとも美しいのだけど、黒が有るのと無いのでは、全く違う。黒があるからこそ、他の太陽の色が明るく、美しいのさ。それを忘れてはいけないよ。だから、ボクは最初、黒い太陽は失敗作だと言ったけど、実は完成形ではないかと考えるわけだね。他の色と同列に語るべき、否、序列としては上に語るべき完成品だよ。黒い太陽は、美しく、必要不可欠な存在だというわけさ』と。……もしかすると私のこの灰色は、よい意味では評されないかもしれない。むしろ、黒い太陽とは対極の評価をされるかもしれない。しかし、似たような評価をされる可能性も、等しくある。どちらにしても、私には嬉しいことだ。彼に評価されるということは、それだけで喜ばしい。幸福だ。
「お早うございます。兄さん」
玄関を空けて家に入った直ぐに妹が立っていた。珍しく早起きをしたようだ。
「お早う。弟はまだかな」
「まだ寝ています。それより、私はこれから食事にしますが、兄さんも一緒に食べますか?」
私は頷いて、妹についていく。そういえば、私は朝食を摂っていなかった。少し腹も空いている。
椅子に座って、妹が調理するのを眺める。手際よく魚の腹を割き、内臓を取り出してそのまま鍋に入れて、煮込む。肉は普通に焼くらしく、グリルを準備している。魚メインの、魚だけの料理らしい。朝食にしては手が込んでいる。何か、良いことがあったのかもしれない。
「今日はどちらに行っていたのですか?」
どうやら、私が何処かへ行っていると知っていたらしい。否、普通玄関で家族を見かけたら出かけていたと誰でも考えるだろう。私は長身の友達と散歩をしていたことを、妹に話した。妹は「そうですか」とだけ言って、黙ってしまった。どうやら、特に話題が無く、その場を繋いだだけらしい。
「さぁ、魚の内臓スープと焼き魚です」
妹はスープと焼き魚を、私の前に置いた。そして、私の前の椅子に座り、「頂きます」と手を合わせて言って食べだした。私もそれに習って、料理を食べる。どちらも、絶品だった。トロリと口の中で内臓がとける食感と、柔らかく弾力のある内臓の食感が堪らない。妹は料理が上手なのだ。しかし、普段は私が作っているので妹の料理を食べるのは久ぶりなのだが。
私が妹の料理を食べて幸せに浸っていると、上からトトトト、と音が聞こえてきた。どうやら、弟が起きたらしい。そのまま足音は一階に下りてきて、リビングまでやってきた。
「おはよ。兄さん、姉さん」
「お早う」と私たちも返す。弟は妹の隣に座った。
「兄さん、お客さんが来ているよ」
弟は眠そうに目をこすりながら言った。どうやら客人の訪問によって目が覚めたらしい。
「そうか。では、これを食べてから行くとしよう」
「玄関に居るからね」
私は別段急ぐことも無く、食事を済ませ(既に弟が私に客人が来ていると私に伝えてから、十五分は経っている)客人が待っているという玄関へと向かう。
玄関のドアを開けて客人が誰なのかを確認する。
「こんにちは」
其処に居たのは、細身の誰かであった。しかし、この人とは初対面であったし(正確に言うなら二回目だが、初対面といっても差し支えない)、会話すらしていないのだ。住所も何も伝えてはいない。私は疑いの目で見ていると、細身の誰かは貴方の視線などものともしませんよ、という感じに言った。
「貴方に少し手伝って欲しいことがあります」
細身の誰かはそう言うと同時に、私の手を掴んで引っ張っていった。
細身の誰かが私を何処に連れて行き、何を手伝わせる気かは知らないが、多分面倒なことなのだろう。
多分、内気な友達を増やす位には面倒な筈だ。
「私は君の何を手伝えばいいのかな?」
「………」
細身の誰かはうつむいてしまった。どうやら答える気は無いらしい。否、最後には言ってくれる筈だ。それまで待つしかないだろう。それでも、半ばというか完全に無理やりに連れてきた私に対して、説明義務を果たさないのはどうだろう。あまり感心する態度ではないのだが。
どうやら細身の誰かは、バス停を目指しているようだ。無言のままバス停のベンチに腰掛けて、バスの到着を待つ。バスは直ぐに来た。私も細身の誰かもそれに乗る。
バスの運転手は真っ黒な、背の低い男とも女とも言えない人物だった。
「私は君の何を手伝えばいいのかな?」
私は二度目のその質問を発した。返事を期待したわけでは勿論ないが、なんとなく聞いてみただけだ。
「収穫を手伝ってください」
なんと、答えが返ってきた。しかし、それでも要領を得た回答ではなかったが。どうやら、聞かれたことしか答えない人らしい。
細身の誰かは俯いて、何かを考えているらしかった。何を収穫するのかは知らないが、恐らく手間が掛かるのだろう。しかし、少し考えるとたどり着く疑問なのだが、何故私なのだろう。なにも私に手伝いを頼まなくても、別の誰か……例えば、隣家の人とか家族とか色々と手伝ってくれそうな人は沢山いそうなのだが。それとも、私でなければならない理由があるのだろうか。しかし、初対面で会話すら、全くしていない私でなければならない理由など、全くといっていいほどないはずである。とはいえ、人の考えを理解しようとと考えても詮無いことだ。人の思考を理解しようと考えることほど、傲慢で横暴なことは無い。私はそこで思考を止め、窓から景色を眺めた。
窓の外では、石が降っている。天気予報では降水確率も降石確率も降雪確率も降硝確率も、その他諸々の何かが降ってくる確率は零パーセントだった筈だ。今日も今日で、相も変わらず私は、天気予報に弄ばれてしまったわけだ。外を歩く人たちも、鞄などで頭を守りながら、身近な建物に逃げ込んでいく。バスの屋根から、石の当たる音が聞こえてくる。
しかし、それも直ぐに止んだ。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。周りを見ると、このバスに乗っているのは私と細身の誰かだけになっていた。屋根はところどころ凹んで、こちら側に盛り下がってきている。太陽は、既に五つ目が沈みかけているようだ。西の空に、一つ目の月が顔を覗かせている。その月の中心あたりでは、兎が餅をついている。おや、兎達が喧嘩を始めた。どうやら相棒の手も一緒についてしまったらしい。兎たちには珍しい失敗だ。槌を持った兎が懸命に謝っている。
「もう直ぐ着きますよ」
細身の誰かはそう言って、降りる準備をしている。兎から目をはなして、私も慌てて準備をする。
…………。
特にする必要も無かった。所持品は何一つ無いのだから。
「ではそろそろ何を収穫するのかを教えてはくれないかな?」
「……そうですね。貴方には、思い出を収穫していただきます」
「思い出?」
「はい。思い出はいつか霞んでしまったり、忘れられたりするものです。今向かっている場所には、そういった忘れられたり、霞んでしまったりした思い出たちが集まっているのです。そして、それを収穫して風に乗せ、光に混ぜ込み世界に還すのです」
どうやら、私とは住む世界が違うらしい。
「違いませんよ――」
細身の誰かは私の心を読んだのか、そう言った。
「――世界とはこんなものなのです」
妙に自信満々で言う細身の誰かは、何処か諦めの色を窺わせる。
そこでバスは停車した。バスから降り(ちなみにバス代は細身の誰かが肩代わりしてくれた)、あたりを見回す。別になんでもないただの畑だった。
「この畑に思い出が?」
私は、純度百パーセントの疑惑を込めて言った。
「……そんなわけ無いでしょう。あるのは、もう少し山に入ったところにある畑です」
……畑にあるらしかった。ますます疑う気持ちが強くなる。
「さぁ、歩きますよ」
細身の誰かはそう意気込んで、山道に入っていく。私も遅れないようにそれに続き、畑へと向かった。月を見ると兎たちの喧嘩は収まっていた。互いに抱き合っている。
私はその微笑ましい光景を眺めつつ、無言で彼女についていく。当の細身の誰かはというと、ただただ早く畑に着きたいという感じで歩き続けている。というか速い。私などドンドンと置いて行かれてしまう。これでもよく歩くのだが、細身の誰かは私とは鍛え方が違うのだろうか?
周りの木々は、特に変わった様子も無く、時折枝を動かしては幹を掻いている。と、「着きました」細身の誰かが言った。その顔はとても嬉々としていた。
遅れていた分を一気に詰め、隣に並ぶ。眼前には、なんと言うか、畑があった。何が栽培されているのかと聞けば、それは思い出なのだと答えるのだろうけれど、一見普通の畑とそう違いは無い。どういう風に見ても思い出なんて、栽培しているとは思えなかった。というか、思い出って栽培するものなのだろうか。
しかし、細身の誰かには違いがはっきり分かるのだろう。そして、栽培することを当然だと、普通だと思っているのだろう。それは細身の彼女が正しいといっている以上、正しいことなのだ。
「何を言ってるのですか? 勿論ちゃんとわかりますよ。全然違うでしょう。あの神々しさが分からないのですか」
私に分かるはずも無かった。何処からどう見ても、ただの畑である。
「では、収穫しますか」
まだまだ疑惑と迷いと不安が心で渦巻いているが、とりあえず話をあわせてみる。
「はい。そうしましょう。普通に抜いてもらえれば大丈夫なんで、バンバン抜いちゃってください」
そう言って、細身の誰かは適当な岩を見つけてそれに座った。手には何処から出したのか、水筒が握られている。
どうやら、手伝いというよりは、すべてを任されるらしかった。『手伝って欲しいことがあります』が聞いて呆れる。
細身の誰かは、水筒のコップに液体を注いだ。その液体から、なにやら油のような臭いがする。細身の誰かはそれを、美味しそうに飲み干した。
「さぁ、そのまま草を抜く感じでやったら抜けるので、バンバン抜いちゃってください。抜いた草はその辺に捨ててくれて構いません」
畑の神々しさ(?)からか、それとも飲んだ液体の中にアルコールのような成分が含まれているのか、細身の誰かの口調は大いに崩れた。否、こちらが素なのかもしれない。どちらにしても、私には関係の無いことだが。
足と腰に力を込めてゴボッっと一本目を抜いた。根は無く、その代わり何か光るものがさらさらと、茎から流れ出ていく。少しそれを眺めていると、光は消えて手に青い草と、地面に黒い玉が残った。黒い玉はゆっくりと土と同化していく。何処ともなく消えていく。
「今のは……」
「それが思い出です。そうやって抜くことで、思い出は世界に放出されて風に乗り、光と一体になり、世界を潤すのです」
私はこの植物に、否、この思い出というものに魅せられた。ドンドンと抜いていき、光が流れ落ちるのを見ては、その美しさに惹かれていった。手が土にまみれようが、服が汚れようが、汗にまみれようがお構いなしだ。それだけ、この思い出が流れ落ちる姿は綺麗なのである。全ての人に、この美しさをわかってもらいたい気分だ。
抜いていて分かったのだが、流れ落ちる光は、それぞれに色が違う。それに、草そのものも普通の草木とは違いがあった。葉の色がゆっくりと変色しているのだ。これはかなりの集中力をもって見ないと、気付けないだろう。
「素晴らしいですね」
私は本心から言った。
「そうでしょう。貴方にはわかってもらえると思っていましたよ」
細身の誰かは既に自分を取り戻したらしく、いつもと同じ調子で言った。しかし、どこか嬉しげでもあった。私から理解を得たことが嬉しいらしい。
空には二つ目の月が姿を現し、月から見下ろす顔が其処にはあった。その顔は、なんともいえない美しさを持った、男性だった。
そしてまた作業に戻り、夢中に思い出を抜いていく。一本一本丁寧に荒々しく。
どれ位時間が経っただろうか。はっと我に返り、あたりを見ると思い出の詰まった草はもう無い。細身の誰かはそれを見て、立ち上がり私の方へ歩いてきた。
「私は、家に戻りますが、貴方はどうしますか? といっても、もう畑は無いのですが」
帰るつもりらしい。結局、細身の誰かは私が抜き終わるのを待っていただけだった。
「何を言っているのですか? あんなに楽しそうに抜いているのに、私が一緒に抜いてしまうと楽しみが減ってしまうでしょう。だから私は、手を出さずに待っていたのです」
色々と突っ込みどころ満載だが、私は何も言わなかった。というか、私もそういう気持ちが無かったわけではない。
「……そうですね。帰りますよ。とりあえず山を降りてから考えます」
「そうですか。それでは」
細身の誰かはそう言って、山の中に消えていった。私はそれを見送って、山を降りた。周りの木々は、少し眠たそうに枝を幹に当てて擦っていた。しかし、何故細身の誰かは、最初私に目的を話さなかったのだろう。やはり、信じてもらえないと思い、引き返せない場所までつれてきてから話そう、という魂胆だったのだろうか。世の中にはよく分からないことをする人もいるものだ。そんなことを考えていると、私は凄いことに気がついた。家にはバスを利用しないと、帰れないのではないのではないだろうか。細身の誰かと別れる際に思い至らなかったことを後悔しながら、山を降りていく。バス代なくしてバスに乗るのは不可能だし、携帯電話もなければ、公衆電話は数年前に撤廃されている。何故だろう、手や服についた土や、かいた汗が滑稽に思えてきた。細身の誰かも多分気付いていただろうに、言ってくれても罰は当たらない気がするのだが。
しかし、次の瞬間その滑稽さも、帰れないかもしれないという不安も、全てが消えた。
山を降りると其処に、我が家が存在していたからだ。