論戦の日『キミとボク』 後半
次回、もしくはその次の更新でもって完結します。
男か女か分からないバスの運転手が居るバスに乗り、彼の家に到着した。他に乗客がのっていなかったから、タクシーみたいに家の前まで送ってくれた。親切だった。
「お邪魔したいのだけれど」
玄関を数回ノックして戸を開ける。予想通りと言うべきか、出てきたのは彼の妹だった。
「ああ、貴方ですか。今日はどういったご用件で?」
できた妹だ。ボクの妹にしたいくらい。でもまあ、ボクを女だと気付いていないのだから、観察眼は優れていないらしいけど。どうせ、彼がボクを彼と呼んでいるから男と思ってるだけのことだろうさ。
「ああ、キミの兄に用事があってね。今彼は居るかい?」
「はい。上がって待っていてください。兄さんを呼んできます」
ボクの返事を待たずに、彼の妹は奥に消えた。突っ立っていても仕方ない。ボクは言われた通り、上がって待たせてもらうことにした。何度か来ていて勝手は知っている。ボクは迷わず今に進み、彼がいつも座っている椅子の正面に座った。
そういえば、何時の間にこの家と彼の妹と弟は帰ってきたんだろう? ボクは一切聞いていなかった。聞いていなかったのだよ。あまりに自然だったから、こうしてくつろぐまで彼らが居なくなっていたことに気付かなかった。
「やあ、久しぶり」
戸を開けて、彼が入ってきた。
「久しぶり、とは挨拶だな。キミね、家族が帰ってきたのなら、何故ボクに報告に来なかったんだい? 驚いたよ。ちょっと訪ねてきてみれば、家はあるわ妹は戻ってきているわ。本当、どうして教えてくれなかったんだい? 一つだけ言い訳を潰させてもらうと、報告する時間が無かった、というのは無しだからね。それ以外の理由で尚且つ正当な理由があるというのであれば、ボクはキミを許そうじゃないか」
彼は困ったように苦笑いをして、ゆっくり首を振った。
「だろうと思ったよ。大方祝い事をしていたとかそういうところだろう? まあ、そんなことはどうでもいいのだよ。全くもってどうでもいい。些細な問題でしかないからね。ボクの本題を述べたいのだけど、いいかい? うん、なら語らせてもらうよ。キミ、なんで今日というこの清清しい日に、こんな時間まで眠っているのかな?」
「君にそんなことを言われる覚えはないさ。ただまあ、怠惰な生活を送るのが私の存在意義であるとも言えなくも無い」
さも当然とばかりに言うので、ボクは思わず溜息をついてしまった。
「キミは怠け過ぎなのだよ。人間何かを極めるべきだとボクは思うけれど、怠惰を極めるのはどうかと思うね。そりゃあ、何を極めたところでそれはキミの自由だがね。それとも、ボクに報告するためにわざわざ手間をかけるのがそれほど嫌かな? ボクはそんなにキミに嫌われているのかな? いや、分かるよ。そうじゃないのだろう。手間とか面倒が嫌いなのだろう。分かるよ。ボクも嫌いだ。しかし、たまにはその手間とか面倒もこなす必要があるのではないかな? 少なくとも、ボクはそう思うよ。たとえキミが思っていないとしても、それは確固たる事実として存在するんだ。それを忘れちゃいけない。だから、キミは一度ボクの家に来てみてはどうかと思う。きっと考え方が変わり、世界が変わるだろう」
彼は何度か頷いた。
「君の言いたいことはわかるが、私が怠惰を極めたわけじゃないよ。怠惰を極めているからこそ、私が此処に在るのだから」
「屁理屈という言葉を知ってるかな?」
「李も桃も桃のうち。ならば、屁理屈も理屈と言えるのではないかな?」
「それこそが既に屁理屈と言えるのだけどね」
「理屈だけで世界が構築されているなんて、まさか思ってないだろうね?」
「屁理屈じゃあ、人は救えないよ」
「しかし理屈ほど残酷でもないさ」
「屁理屈ほど無益なことは無いね」
「利益が全てじゃないよ」
「でも大部分を占める」
「確かにね」
そしてどちらともなく笑い出し、一息ついたところで彼が言った。
「で? 今日はどういったご用件で?」
「別に? 特に用事は無いよ。……まさか、用事がないと来てはいけないなんて、そんな心と了見の狭い人間じゃないだろうね。もしそうなら、ボクは悲しくて仕方が無いよ。これでもキミは心と了見の広い人間だと思っていたのにさ。ボクは認識を改めるべきなのかな?」
彼は特に何も感じた風も無く、首を横に振るに留めた。相変わらず無感動な人だね。こんな感じだから、何時までたっても、友達が増えないのかもしれないね。とか言うボクは、あまりの饒舌ぶりに友達が増えないのだけどね。まあ、二人とも問題児というわけさ。
「ところでキミ、最近細身の友達とはどんな感じなのかな? ボクとしてはかなり気になるところなんだけど。進展してるのかい? もしかして進展してないのかな? ふふふ。ボクはそういう話は大好きさ。ボク自信のことを話すのは嫌いだけどね。で、どうなんだい? 少しくらい話してくれても、神様はキミに罰を与えたりはしないと思うよ。まあ、話してくれないとなると、ボクがキミに罰を与えざるを得ないけれどね」
「君には関係ない、と言いたいところだが、そういうと君は怒るだろう。というよりも、私と細身の友達は特別な関係ではないよ。はっきり言っておくが、私は彼女の思い出の収穫を手伝っているだけだからね」
彼はそう言うが、その思い出の収穫というのがいまいちよく分からない。思い出の収穫と聞いて、ボクははじめ、他人の思い出を何らかの方法で搾取するのだと思った程だよ。確かボクの知っている寓話の中に、思い出を食べる生き物や、思い出を奪う悪魔や、思い出を無くさせる、忘れさせる存在の話があった。多分、それの影響を大きく受けたからだろうと思う。個人的には、思い出を忘れさせる存在についての寓話が一番心に残っている。あれは哀れな話だったよ。機会があれば語ることにするよ。
「ボクはよく分からないけれど、その思い出の収穫とは、一体どういったものなんだい? まさか人の頭を解剖するわけでもないだろう?」
「当たり前だろう。大体、思い出とは人の頭にあるものじゃない。人の全身でその人を構築するものなのだよ」
何故か鬱陶しい表現に感じられた。
「まあ、分からないという君の意見もよく分かるよ。私もはじめはそうだった。簡単に言えば、野菜の収穫と同じことだよ」
「簡単に言い過ぎだと言わざるを得ないよ」
「そのままの意味だよ。私は草を抜く。その草から溢れる思い出が世界に還る。それが思い出の収穫」
「理解しがたいね。それはつまり、草が蓄えた思い出、生長の記憶を世界に放出していると考えたらいいのかな? それとももっと別の解釈の仕方があったりするのかな?」
本当に意味が分からなくてそう聞いた。彼は一切嫌な顔をせずに、そのまま説明を続けた。
「いや、草の思い出じゃないね。人の記憶、動物の記憶、言ってしまえば世界の記憶というべきだろう」
しかし、その説明もよく分からない。
「ますます分からないね。どういうことだい? 世界中で忘れ去られた思い出たちが、草に宿るとでも?」
「その通り。細かいことを言うと、まずとある木に宿る。その後大地を経由して草に宿るのさ」
分かったような、分からなかったような説明だったけれど、まあ、分かったことにしておいても良いはずさ。きっと、彼も完全には知りえていないだろう。完全に理解しているというのであれば、彼は嘘つきと呼ばれる人種だということさ。物事を完全に理解するなんて、如何に賢人と呼ばれる人間であったとしても、天才と呼ばれている人間であったとしても、不可能でしかないのだから。
「ふうん。まあいいよ。その内ボクにも分かる時が来るだろうさ。分からなかったとしても、それは君の言うところの規則性なんだろう?」
「そういうことになるかもしれないね」
「曖昧だね」
「私の主義さ」
「キミの主義というのは、一体幾つあるんだい?」
「星の数ほど」
「状況によって使い分けるのかな?」
「溢れんばかりの主義で、自分を律しているだけの話だよ」
「馬鹿馬鹿しいね」
「それ程でもないさ」
「褒めてないけど?」
「物事は見る角度によって、その表情を変えるのだよ」
「……キミには適わないね」
「過大評価だよ」
無意味な掛け合いだった。ボクは彼と話すと、必ずこういった掛け合いをすることになる。それは彼とボクが、まるで鏡の向こう側のような存在だからだと思う。ボクの思想は彼の思想が基盤となっているし、彼の心はボクの心が基盤になっている。それはそれがそうであるからそうでしかなく、俗で平凡な言い方をすれば、必然であり予定調和だということだね。
表裏一体というにはあまりにかけ離れ、一心同体というにはあまりに差異がありすぎる。けれど、個別の個体であるというには、あまりに差異がなさ過ぎて、符合する点が多いのだから。
勿論、このことはお互いに自覚的で、気付かないように無視して、完膚なきまで無視して、尚、ボク達はその事実から逃れられない。けれども、ボク個人の考えでは逃れる必要などありはしないのだけれど。
「ところで、焼いた鳥も美味しかったろう?」
彼がボクに言った。
「まあ、美味しいといって言えなくもないね。けれど、やはり生のほうが良いね。その方が、命を食べているという実感があるから。あんな市販品など、ただのモノでしかない。栄養が詰まったただのモノ。命ではないよ」
「そうとも言えないね。言い方を変えれば、その栄養そのものが命と言える」
「それは言いすぎだと思うよ。命は命。栄養は栄養さ。それに、命は目に見えず、何らかの方法を以ってしても、それを視覚することはできない。それに比べて栄養は、ただの物質の結合体じゃないか。物質と物質が結びついているだけだよ」
「命を視覚することは確かに不可能だけど、感じることはできるさ。それに、その物質の結合体とやらも、命があってそれから形成された。すなわち命と同義さ」
彼は自信満々にそう言った。
成程、確かにそう言われるとそうと思えてくる。しかし、安易にそれを認められないね。ボクは負けず嫌いなんだ。
「こじ付けがましいと思うね。もし栄養が命と同義だとしても、肉、今回は鳥だね、その鳥の命ではないわけだ。別の個体の命なんだよ。すると其処に差異が出てくるわけだね。例えて言うなら、肉という家に住み着いた栄養という住民さ。宿主と住民。ほら、こう考えれば全く別物として考えられる」
「考えすぎだよ。君はもっと物事を簡略的に考えるべきだと思う」
「安直過ぎるね。キミはもっと深く物事を見据えるべきだと思うよ」
「どっちだろうね」
「両方だろうさ」
不気味なほどの話の流れ。予め打ち合わせをしていたかのような、思想の応酬。やれやれ全く。
全く。
面白いじゃないか。
それからも他愛のない話を続け、気付けば三つ目の月が空に昇っていた。これは如何せんまずい。いい加減に帰らないといけない時間だよ。全く、楽しい時間は人から時間の流れを忘れさせてしまって良くない。
「ああ、もう月が三つ目だね。そろそろ帰らせてもらうよ。いやいや、気にする必要などないさ。突然押しかけたボクに問題があるのだからね。そうだね、今度ボクの家に遊びに来てくれたらチャラにしてあげるよ。確かにお茶の一つ寄越しても良かったと思うからね。まあ、キミにそれほどを望むのは酷というものだろうさ。やっぱりボクは気にしないことにするよ。それじゃあ、また」
「また来るといいよ」
彼はボクに軽く手を振った。