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一等書記官エリック・ブレンダーの事務的な報告 〜ドアマット令嬢の殺人の章〜

作者: anz
掲載日:2026/10/03


 ベンジャミン・ホッブス男爵は王都の一等地にいくつもの土地と邸宅を持つ資産家だ。つい先日、その邸宅の一つで彼は殺害された。自分の娘の手によって。長女アリーシャが犯行後に自ら出頭したのだ。


 この事件はたちまち王都の話題を独占し、新聞は連日ありとあらゆる憶測記事を書き立てている。


「巷ではアリーシャ・ホッブスが死刑になるかならないかで賭けが行われているぐらいだ」


 私の上司、ジョナサン・ハウエル法務卿は呆れたようにため息をつく。


 彼女を異常な殺人鬼だと書く新聞もあれば、悲劇のヒロインのように書く新聞もある。おかげで間もなく始まる裁判は王都中の注目の的となっている。


「難しい判断になりそうなんですか?」


「ああ。彼女の自供がひどく曖昧らしくてね。他の家人の証言とも食い違っているそうだ」


「なるほど。それで私の出番というわけですか」


「いつも面倒ばかりで申し訳ない」


「好きでやっていることですから」


 私は法務卿直属の一等書記官エリック・ブレンダー。書記官というのはつまり官僚の下働き——雑用係のようなものだ。記録や書類の保管、整理が本来の仕事だが、上司に言われるまま何でもやるのが実際のところ。私は調べ物が得意だからこういう時に重宝される。誰かの証言の裏を取ったり、証拠を見つけたりするために呼び出されるのが常だった。


「アリーシャ・ホッブスに会ってみてくれないか?彼女がもし何かを隠しているとしても、君なら真実を見抜けるはずだ」


 こちらに向けられた上司のアッシュグレイの瞳が信頼に満ちている。応えないわけにはいかない。そのために彼の書記官になったのだから。


「わかりました。裁判が始まるまでに不審な点はすべて洗ってみます」


 実を言うとこの事件には興味があった。下世話な新聞が日々熱心に暴いているアリーシャ・ホッブスの生い立ちについて。


 ゴシップ紙の界隈で、彼女には「ドアマット令嬢」という奇妙なあだ名がついている。ドアの前の敷物のようによってたかって土足で踏みつけられている――という皮肉だ。


 彼女の家庭はかなり変わっている。


 ベンジャミン・ホッブス氏は王都でも指折りの富豪だというのに、社交嫌いで内向的、ひどく気の小さい人物だった。そんな彼が唯一心を許した女性は側仕えのメイドのロゼリアだけ。その献身と優しさにすっかり惚れこんだホッブス氏は、周囲の反対に耳を貸さず彼女を妻とした。


 やがて長女のアリーシャが生まれ、幸せな家庭が築かれるかと思われたが、そこからロゼリア・ホッブス夫人は本性を表し始める。


 彼女は資産家の妻となって贅沢な暮らしを覚えると、社交嫌いの夫を家に残して毎晩のようにあっちこっちのパーティーを渡り歩いていた。子育てなどに時間を取られている場合ではなく、育児はすべて乳母たちに丸投げ。アリーシャは母親の愛情をまったく知らずに育った。


 ところがアリーシャが三歳になった時、ホッブス男爵家に二人目の娘が生まれると、どういうわけかロゼリア夫人は人が変わったようにこの赤子を溺愛した。パーティー好きは相変わらずだったが、家にいる間はずっと赤子を抱いていた。


 幼い日のアリーシャの瞳は、自分に与えられなかった愛情が妹にだけ惜しみなく注がれる様子をどのように映していただろう?


 この家では夫人が全権を掌握していた。主であるはずのホッブス氏はいつも夫人の言いなり。そして夫人の愛情を一身に受ける次女のセレーナこそがこの歪な世界の中心だった。欲しい物は何でも与えられ、どんなわがままも聞き入れられた。


 一方、長女のアリーシャに与えられたのは使用人部屋と大差ない北向きの小部屋と最低限の普段着のみ。家族の食卓に着くことも許されず、使用人用の食堂でいつも一人で食事をした。


 夫人はアリーシャを家族として扱わず、ほとんど使用人同然に妹の世話をさせた。同じ血を分けた姉妹にもかかわらず、アリーシャは妹に顎でこき使われ、機嫌を損ねないようにビクビク顔色を窺いながら、息をひそめるように同じ屋根の下で暮らした。


 アリーシャが孤立していたのは家の中だけではない。彼女の妹は学院でも我が物顔で振る舞った。金遣いの派手なセレーナの周りには男女問わず素行のよろしくない取り巻きが大勢集まり、その一大不良グループがこぞってアリーシャをいじめた。セレーナは姉が屈辱的で酷い目に遭わされるのを退屈しのぎの娯楽のように喜んだから、いじめはどんどんエスカレートしていった。他の生徒たちはとばっちりを恐れて我関せずを貫いていた。


 家でも外でもアリーシャに安らげる場所は無かった。虐げられ、踏みにじられ、小さく弱い動物が嵐の中でじっと身を潜めるように、気の毒なドアマット令嬢は救いの無い苦難の日々をひたすら耐え続けた。 


 三年前にホッブス氏が病に倒れ、寝たきりになると、夫人はいよいよ自分が一家の当主であるかのように資産の運用に手を付け始めた。夫がもう長くないと分かり、遠からず受け継ぐ財産を早く自分の好きなように弄り回したかったのだろう。ホッブス男爵家はもはや完全にロゼリア夫人とセレーナのものだった。


 アリーシャは父親の世話を押し付けられ、ずっと寝室に付きっきりで看病するため学院を退学した。この父と娘の関係がよく分からず、ゴシップ紙が盛んに憶測を膨らませている部分だ。


 二人きりの寝室で三年間、アリーシャはいつでも父親を殺すことができた。それ以前に、わざわざ殺さずともほんの少し待てば病が代わりに目的を果たしてくれるというのに、なぜ自ら手を下す必要があったのか。


 彼女が心にどんな闇を抱えて犯行に及んだのか想像もできなかった。想像できないから興味がある。


 ——目を通していたゴシップ紙から視線を上げると、法務卿が眉を顰めてこちらを見ていた。


「君がそういうものに興味があるとは意外だな」


 大げさで扇情的な見出しが踊る安物の紙の束を胡散臭そうに見つめる。


「ゴシップ紙は情報の宝庫ですよ。書かれていることの九割は嘘か誇張ですが、残りの一割に価値があるのです。お上品な新聞なんて何も書いてないのと同じですから」


「あまり感心しないが、君がそう言うのならそうなんだろうね」


 まだ何か言いたげな上司の視線を遮るように、私はまた紙の束をめくって視線を落とした。



*



「お父様は可哀想な人なんです」


 アリーシャ・ホッブスは穏やかな微笑みさえ浮かべてそう言った。幸薄く気弱なドアマット令嬢——という世間のイメージとは少し印象が違う。


「可哀想?」


「はい。いつも何かに怯えていました。母に愛されないことを恐れ、娘に馬鹿にされることを恐れ、病でもう先が無いことが分かると、最後は私に見捨てられることを恐れていました。私はどこにも行かない、ずっと一緒にいると言ったけど、信じてくれなくて。あまりにも怖がってばかりいるから可哀想で、見ていられなくて……」


「だからあなたがその不安から解放した?」


「はい。もうそれ以外の方法が思いつかなかったんです」


 ゆっくり落ち着いた話し方には不思議と説得力がある。まるで本当に殺人を救済だと信じているかのようだ。


「つまり、考えた末に決意を固めて実行に移したということですか?」


「ずっと考えていましたけど、なかなか決心がつかなくて…………でも、毎晩ひどく悪夢にうなされている姿を見ていたら、もう楽にしてあげたい、私がやるしかないと思って……」


「眠っている父親の上に大理石の花瓶を振り下ろした」


「…………はい。でもその時のことはあまり覚えていないんです。夢の中の出来事みたいで、どこまでが現実なのかよくわからなくて……」


「なるほど……」


 私は腕組みの片方の手を頬杖のように頬に添え、少し首を傾けて考えを整理した。


 父親を極度の不安から救うために殺した――という動機が本当なら眠っている間に手を下すだろう。彼女にはいくらでもその機会があった。しかし現場を調べた警察の報告書では、血痕がベッドの横まで広範囲に飛び散っていたという。だとすると犯行時、ホッブス氏は上体を起こした姿勢だった可能性が高い。


 それに、犯行後すぐに出頭したアリーシャの衣服には一滴の返り血も付いていなかったそうだ。証言と現場の状況が符合しない。法務卿が言っていた通り、彼女は何かを隠しているのだ。


「ところで、さっきから手で隠しているその右腕の袖口の痣……階段を踏み外して転んだ時にぶつけた痕だと看守に聞きました」


「あ、はい……私、しょっちゅう転んだり何かにぶつかったり、子供みたいにそそっかしくて本当にお恥ずかしいのですけど……」


「髪で隠れていますが、その額の横の傷も?」


「これは昨日の晩、壁にぶつけてしまって……」


「壁に?……正面からこう、ですか?」


「は、はい……おかしいですよね……こんな馬鹿な怪我ばっかり」


 顔から壁にぶつかるというのはそそっかしいどころのレベルではない。夢遊病だとか、何らかの心神喪失状態、あるいは……


「アリーシャさん、私はここに来る前にあなたのことを調べて、ある一つの仮説に思い当たりました。もしその考えが正しければ、裁判の結果が根底から覆る可能性があります。あなたはもしかして――」


*


 裁判は予想通り証拠が乏しく、決め手に欠けるものとなった。被告人は起訴事実をすべて認めている。しかし証拠は無い。心証だけが量刑を左右する、そんな展開だ。


 私は裁判所の参考人として証言台に立った。被告人席に座ったアリーシャに視線を向けると、さすがに緊張した様子が伝わってくる。


「さて、一旦ここまでの情報を整理します。被告人アリーシャ・ホッブスは、寝たきりだった父親――被害者ベンジャミン・ホッブス氏を看病するため、寝室の隣の使用人控室に寝泊まりしていました。寝室は内側から施錠されており、夜間、出入りできる者は被告人しかいなかった。被告人は深夜、被害者が熟睡状態にあるのを確認した後、ベッドの横のチェストの上に飾られていた大理石の花瓶を取り上げ、被害者の頭部に振り下ろした。これでよろしいですか?」


「……はい」


 アリーシャの表情に先日の面会の時のような落ち着きは無い。おそらく彼女は迷っている。このまま裁判を成り行きに任せていいのかどうか。


「いくつか確認します。寝室に明かりは点いていましたか?」


「いいえ。父は明かりがあると眠れないので、毎晩眠りに就く前に部屋の明かりはすべて消していました」


「ということは、あなたが控室から寝室に入ってきた時はランプか何かの明かりを持っていた」


「はい。いつも携帯用のランプを使っています」


「次に凶器に使われた大理石の花瓶について。私も現物を確認しましたが、かなりの重さでした。あなたはそれを片手で持ち上げましたか?」


「いいえ、片手では重くて……しっかり持ち上げるには両手じゃないと」


「ではその時、ランプはどこに置きましたか?」


「ベッドから少し離れた所に備え付けの燭台があって、そこに吊り下げました」


「それだと暗くて被害者の顔がよく見えなかったのでは?」


 アリーシャの表情がこわばった。少し間があって答えが返ってくる。


「あまりベッドの近くに明かりを置くと父が起きてしまうと思いました。ぐっすり眠っていることは確認しましたし、頭の輪郭ぐらいは分かりましたから。それに……ちゃんと顔が見えてしまうと決心が鈍ってしまいそうで……」


「あなたは父親を手にかけたくはなかった。しかし極度の不安で心を病んでいた父親を楽にしてあげたかった。その動機が本当ならば情状酌量の余地があると思いますが……」


「それは違います!」


 証人席から声が上がった。ロゼリア夫人だ。彼女の出番はまだ先の予定だったが、待ち切れずに舞台に上がってきたようだ。まあいい。それならこのまま筋書きを進めよう。


「被害者の遺族ロゼリア・ホッブス夫人、違うというのは?」


「アリーシャは夫を恨んでいました。殺したのは復讐のためです。情状酌量の余地などありません!」


 被告人席の娘を睨みつける表情に、母親の情は一切感じられない。


「復讐、ですか?」


「夫は昔から、自分に似て不器量なアリーシャを疎んじてきました。容姿の優れたセレーナだけを社交の場に出し、アリーシャは家に閉じ込めて使用人のように粗末に扱ってきたのです」


 ゴシップ紙に書かれた自分の役割をそっくり夫に押し付けている。これはこれでなかなか売れそうな筋書きだ。


「夫が病に倒れた時、アリーシャは自分から看病役を買って出ました。メイドたちにも手伝わせず、一人で献身的に世話を焼くふりをして、ずっと復讐の機会を窺っていたのでしょう。じっと獲物が弱るのを待って、最後に自分の手で苦痛を与えようと……本当に執念深い娘です」


 裁判官や陪審員の心証に訴えようと、まるで恐ろしい毒蛇か毒虫でも見るような目で娘に嫌悪の言葉を投げつける。アリーシャは明らかに動揺していた。今にも泣き出しそうに表情が歪んでいる。


「恨みや復讐と言い切れるでしょうか?なんとか父親に愛されようと、本当に心から尽くしていた可能性は?」


「夫はそう騙されていたでしょう。でも時々掃除や洗濯に入ったメイドたちは気付いていました。あの子はわざと夫が大嫌いな花を花瓶に飾ったり、運ばれてきた食事を何日も放置して、悪臭がし始めてから食べさせたり、些細な嫌がらせをしては密かに復讐心を満たしていたんです。それを聞かされた時はゾッとしました」


 これはゴシップ紙が喜びそうなエピソードだ。いやむしろゴシップ紙から引用してきたのかもしれない。裁判官や陪審員が顔をしかめ、傍聴席はざわついている。


「花はたまたまでしょう。少々大げさでは?」


「いいえ。夫は本当に心からあの花……カサブランカを嫌っていました。先代や先々代が大事にしてきた本邸のユリ園を全部潰してしまったぐらいです。アリーシャはそれを知っていて、わざと夫のベッドの横の花瓶に見事な大輪のカサブランカを飾ったんです。そう、凶器に使われたあの花瓶です。なんて嫌らしい、陰湿な仕打ちかしら」


「なるほど……ところで使用人たちは被告人の許可なく寝室に入ることはできなかった。これは確かですか?」


「ええそうです。あの晩も夫に近付くことができたのはアリーシャだけです。間違いありません」


「……っていうかさぁ、もう死刑でよくない?」


 もう一人のキャストがしびれを切らせて舞台に上がってきた。アリーシャの妹、セレーナ・ホッブスだ。証人席の母親の隣でずっと退屈そうにソワソワしていたが、もうすっかり飽きてしまったらしい。


「そんなブスどうせ生きてたってこの先もいいことなんか無いんだし、さっさと死刑にしてやった方がそいつのためだって」


 ロゼリア夫人が掌握しかけていた法廷内の空気がまた別の方向にガラリと変わった。すごいインパクトだ。傍聴席のざわめきが違った意味で大きくなる。セレーナ・ホッブスのお行儀の悪さは社交界でも有名だが、聞きしに勝るこの傍若無人な態度。まるで自分の興味が無いものはすべてこの世に存在しなくていいと思っているかのようだ。いや、実際思っているのだろう。どうやったらこんなに傲慢な人間が育つのか、親の顔が見てみたいと思った傍聴人たちの視線が母娘の間を往復していた。


 木槌を鳴らして法廷の静粛さを取り戻そうとした裁判長を、私は片手を上げて制した。ここは私の筋書きで一番大事な場面だ。是非この看板女優に思う存分見せ場を演じ切ってもらいたい。


「あんたもそう思うでしょ?パパもあんたもこれ以上生きてたって仕方ない、何の意味も無いって思ったから、パパを殺して死刑になりたかったんじゃないの?だったらいいじゃない、もう死刑で。さっさと私とママの目の前から消えろブス」


 法廷がシーンと静まり返った。仮にも十数年一緒に暮らしてきた家族に対してこんな言葉を吐き捨てられるものだろうか?一体この娘の頭の中はどうなっているのだろう?


「セレーナ、もういいわ。すみません、娘はちょっと興奮しているみたいで…………でも、私たち遺族の思いは一つです。大切な夫を奪った被告人アリーシャ・ホッブスの死刑を望みます」


 私は被告人席のアリーシャの顔を見た。血の気を失った青白い頬の上を涙が伝っている。もう十分だ。ドアマットの実演はここまでにして、そろそろこの気分の悪い裁判に決着をつけよう。


「遺族の考えは分かりました。被害者ベンジャミン・ホッブス氏を殺害した犯人に死刑を望む……しっかり記録しておいてください。それでは被告人アリーシャ・ホッブス…………アリーシャさん、あなたにもう一度聞きます。本当にこれでいいのですか?」


 ドアマット令嬢は下を向いてポロポロと涙を零したまま答えない。ただその唇が微かにこう動いたのが読み取れた。


「助けて」


 この一言を口にするまで、彼女はどれほど悩み苦しんだのだろう。それでも私は彼女の口からこの言葉を引き出す必要があった。これでようやくこの裁判を正しい方向に進めることができる。


 私は被告人席の前まで歩み寄り、打ちひしがれたドアマット令嬢と正面から向き合った。


「あなたを助けることができるのはあなた自身だけです。でももしあなたが真実を語る気になったのなら、お手伝いはしましょう。私は常に真実の味方です」


 彼女が涙に濡れた目をこちらに向け、小さく頷いたのを確かめると、私は証言台に戻り、最初からずっと胸の中にとどめていた言葉を切り出した。


「裁判長、まず結論から申し上げると……被告人アリーシャ・ホッブスはベンジャミン・ホッブス氏を殺害した犯人ではありません」


「は?」


 裁判長が思わず素の声で聞き返した。少し間があって、法廷内が騒然となる。当然だ。ここに来てこれまでの議論をすべてひっくり返そうというのだから。裁判長の木槌の音が響き渡る。


「静粛に!静粛に!」


 私は騒ぎが収まるのを少し待ってから、まだざわついている法廷をぐるりと見渡して論証を始めた。


「被告人は重要犯罪者を拘留する特別監房に収監されている間、何度か転んで怪我をしていました。それはおそらく監房が薄暗かったせいでしょう。アリーシャさん、あなたは夜盲症――いわゆる鳥目なのではないですか?」


 答えが返ってくるのを辛抱強く待つ。


「…………はい。私は暗い所ではほとんど目が見えません」


 最初に会った時には返ってこなかった答えが、今ようやく返ってきた。彼女の中で何かひとつ、区切りがついたのだろう。


「幼少期のあなたを世話した乳母たちに聞きました。夜になると極端に視力が落ちるのは生まれつきだそうですね」


「はい。でも私は夜に出かけるわけでもなくずっと家で一人でしたから、乳母の他には誰もそのことを知らないと思います」


「そこでもう一度現場の状況を考えてみます。犯行時刻は夜。凶器は両手じゃなければ持てない重い花瓶で、明かりをベッドの側に置くとホッブス氏が目を覚ましてしまうかもしれない。しかし明かりが無ければ夜目の利かない被告人はホッブス氏の頭がどこにあるかも分からない。わざわざこんな状況を選ぶ必要がどこにあるでしょう?彼女には他にいくらでも選べる方法があったのに」


 裁判官と陪審員を見回す。こんな自明なことを見逃して進められてきたここまでの裁判に何の意味があるだろうか。


「現場の状況から彼女が誰かを庇って罪を被ろうとしていることは明白です。私は事前の面談で被告人に何度もそのことを問い質しましたが、彼女は頑なに口を開きませんでした。何故ですかアリーシャさん?あなたは何故、自分を一度も娘として扱ってくれなかった母親をそこまで庇うのですか?」


 再び法廷がどよめいた。しかし周囲の喧騒をよそに、私とアリーシャの間には長い沈黙が流れる。私にはもう大方察しがついている。しかし彼女は自分でそれを言葉にしなければならない。


「……………………私を娘だと言ってくれたからです。愛してくれると…………」


 堪えきれずアリーシャはまた泣き崩れた。私は残酷なことをしている。彼女に真実を語らせるために、この法廷で彼女の儚い希望を粉々に打ち砕いて見せたのだ。


「あなたたちは一体何の話をしているの!?アリーシャが私を庇っている??私が夫を殺した犯人だとでも言いたいの???何の証拠があってそんなデタラメを……」


 ロゼリア夫人が目を剥いて叫んだ。心底醜い顔だと思う。仕事に感情を挟むつもりはないが、ここから一切、彼女に容赦をするつもりもない。


「証拠も何も……あなたはすでに自分がこの事件の重要な容疑者であることを自供していますよ?」


「なんですって!?」


 私はまだ嗚咽を漏らしているアリーシャに尋ねる。


「アリーシャさん、寝室の花瓶にカサブランカの花を飾ったのはあなたですか?」


 彼女の証言が必要だ。彼女が母親を守ろうとしている限り、論証は困難を極めた。だが愚かにも当の母親が自らその盾を手放した。手放したばかりか踏みつけ、唾を吐き、泥に塗れさせた。私はそれを拾い上げ、入念に汚れを拭い、自分の理論武装の一部とする。


 アリーシャの嗚咽が止まり、震える声が返ってきた。


「……はい。私が飾りました」


「ほら見なさい!この子は夫を恨んでわざわざ嫌いな花を……」


「嫌いじゃありません!」


 声を張り上げた夫人を黙らせるぐらいに、初めてアリーシャが大きな声を上げた。


「ホッブス家のユリ園は王都でも一番と評判で……お父様の誇りでした。中でも大輪のカサブランカは毎年王妃様に献上していたほど素晴らしくて、お父様の一番好きな花だったんです」


「あの人は自分でそのユリ園を潰してしまったのよ?何があったか知らないけど、あの花を目の敵にしていたのは確かよ!」


「……忘れてしまったんですか?お母様にあの花を贈った時、目が真っ赤に腫れてしまったから……お母様のために自慢のユリ園をすべて潰してしまったんですよ?」


「私のためにあのユリ園を?」


 夫人はフッと小馬鹿にしたように鼻で笑った。どんな真心も通じない人間というのは存在する。犠牲になったユリたちが浮かばれない。


「ホッブス氏は寝室にその花を飾ってほしいとアリーシャさんに頼んだ。そうですね?」


「はい。急にあの花が見たいと言い出して……」


「それはいつですか?」


「……お父様が亡くなったあの日です」


「ホッブス家にとって禁忌の花だったカサブランカが、それ以前に寝室に飾られたことはありましたか?」


「ありません。あの花瓶も花と一緒にあの日私が買ってきた物です。ですから、お父様の寝室に花が飾られたのはあの日が初めてです」


 私はロゼリア夫人を振り返る。


「お分かりですか?あなたはアリーシャさんが寝室にカサブランカを飾ったと言いました。その通りです。そして、それを知り得るのは、あの日あの部屋を訪れた人間だけです」


「わ、私はメイドたちから聞いたと……」


「あの日、使用人は誰もあの部屋に近付いていないとあなた自身が証言しました。あの日以前に寝室に花が飾られたことはありません。花瓶すら無かったのに、メイドたちが想像だけでそんな話をしますか?しかも、飾られるはずがないカサブランカがそこにあったと、まるで見てきたかのように」


 法廷は静まり返っている。ロゼリア夫人は必死で何か言葉を探している。どうやら裁判の形勢はほぼ定まった。しかし私はここで終わるつもりはない。


「アリーシャさん、教えてください。あの晩、本当は何があったのか。ホッブス氏が殺害された時、あなたは寝室にいなかったのではないですか?」


 少しの間、沈黙があった。一度でいいから母親に愛されたい、愛されるかもしれないという儚い希望は、もはや跡形もない。それでも断ち切り難い未練を引き摺るように、アリーシャは重い口を開いた。



*



 あの日……お父様はベッドの上で軽い夕食を済ませた後、お母様と大事な話があるからと、私を自分の部屋に戻らせました。


 お話が終わったらまた呼ばれるかもしれないと思ってしばらく待っていたのですが、いつの間にかウトウトしてしまって、気が付いたらもう日付けが変わる時間でした。寝室の様子を見に行こうか、どうしようかと迷っていると、お母様が部屋にやってきて……ちょっといいかしら?って……


 私、きっと何か怒られるのだと思ってドキドキしていたら、お母様は私をベッドに座らせて、自分も隣に座って、「お父様と喧嘩しちゃったわ」って笑ったんです。セレーナと話す時みたいに、私に向かって笑ったんです。そんなこと初めてで、夢を見ているのかと思いました。


「お父様はね……あなたを嫁がせるつもりなの。あの守銭奴の顧問弁護士に」


「そのお話ならお断りしました……私、ずっとお父様の側でお世話をさせてほしいと……」


「ええ。でもあの人は自分がまだなんとか動けるうちにあなたとセレーナの相手を決めてしまいたいのよ」


 お母様は少しためらってから私の頬に手を伸ばして、優しく触れました。


「アリーシャ……ごめんなさい。私はずっとあなたを避けてきた。セレーナの夫となる人がこの家を継いで、あなたはいずれここを出ていく――それはずっと前から決まっていたの。だから私はあなたに母親の情を持ちたくなかった。でも……」


 お母様の手が私を抱きしめて……それはとても優しい抱擁だったけれど、私は驚きで息が止まりそうでした。


「あんなつまらない男に嫁いであなたがみすみす不幸になるのはやっぱり見過ごせない。いまさら母親ぶって虫が良すぎると思うかもしれないけど……ねえ、アリーシャ?もしあなたが嫌なら無理に嫁いだりしなくていい。セレーナはいずれ結婚してホッブス男爵夫人になる。でもあなたはずっとこの家にいて、私の娘のままでいてくれる?これからはあなたをちゃんと娘として愛したい……」


 これは夢なのだと思いました。夢だと分かっていました。本当じゃない、いつか覚めてしまう偽物。だけどずっと胸の奥にあった空白が嘘みたいに満たされていくのを感じました。母の手に抱かれている妹を見ていつも感じていたあの寂しさも、嘘みたいに…………


 私は恐る恐るお母様の背中に手を回して、ギュッと強く抱き返しました。


「私はどこにも行きたくありません。ずっとこの家にいたいです。お母様…………」


「ええいいわ。あなたはずっとこの家の娘よ、アリーシャ」


 そしてお母様は私を寝室に連れて行きました。お父様とお話をするのだと思ったんです。私の結婚のことを二人で説得するのだと…………でもお父様は寝ていて……いえ、そう思ったけど、よく見るとシーツの上が血だらけで、私……何が起きているのか訳が分からなくて…………


 お母様は落ち着いた静かな声で言いました。


「事故が起きたの。あなたの話をしているうちに、この人はひどく興奮し始めて、いきなり私の髪を掴んでベッドに引き摺り込んだ。病気とは思えないほどすごい力で首を絞めてきて……私は無我夢中で振り払ってベッドから逃げようとした。そうしたらこの人、ベッドから起き上がって追いかけてこようとしたの。私は怖くなってこのチェストをベッドの方に押し付けた。その時、上にあった花瓶が倒れて、偶然この人の頭に……」


 私は頭の中が真っ白で、聞こえたことの半分も理解できませんでした。お父様は死んでいる。なのにどうしてお母様の声はこんなに静かで、誰か知らない他人のことみたいに淡々と話すんだろうって……恐ろしくて仕方ありませんでした。


「ねえアリーシャ……私は起きたことをありのまま全部警察で話すわ。でもきっと信じてもらえない。私たち夫婦はずっと不仲だと騒がれていたし、何かもっともらしい理由で私は絞首台に送られる。そうしたら残されるのは世間知らずの娘二人だけ。あなたたち二人が受け継ぐ遺産を目当てに野良犬のような連中が群がってきて、何もかも喰い尽くしてしまうわ。ホッブス家は……私たちの家はもう終わりよ。無くなってしまうの」


「分かりませんお母様…………私、どうしたらいいのか何も…………」


 しばらく沈黙が続きました。私はとにかくその恐ろしい場所から逃げ出したくて、ベッドの上のお父様から目を逸らしてお母様の顔を覗っていました。


「ああ……ごめんなさい。そうね、あなたの部屋に戻りましょう。私もどうしたらいいか分からない。でも…………もしかしたら一つだけ、すべてうまくいく方法があるかもしれない。とても恐ろしいことだけど、あなたとこの家を守るために、たった一つだけできることが……」


 私の部屋に戻るまで、お母様はずっと何か悩んでいました。部屋に着いても座ろうとせず、しばらくその場を歩き回って何か考え込んで……そしてようやく口を開きました。


「あなたなら信じてもらえるかもしれない」


「えっ?」


 また私の頬に触れ、優しく撫でながら、お母様は言いました。


「ずっとあの人に付きっきりで献身的に世話してきた優しい気の毒な娘。あなたは世間からそう見られている。だからきっとあなたが看病中の事故だと言えば、警察もその言葉を信じるわ」


「私が…………あの事故を起こした…………でも……私無理です。きっと怖くて何も話せません。お母様みたいに落ち着いて説明なんて……」


「あなたは何も言わなくていいわ。いいえ、むしろ言えば言うほど疑われる。嘘がつけない子だもの。ただ警察に聞かれたことに全部、はいそうです、私がやりましたと答えればいいのよ」


「でも私……」


 自分にそんなことができるなんてまったく思えませんでした。何か聞かれた途端に震えが止まらなくなって、泣き出してしまうと思いました。


「私もあなたにそんな怖い思いをさせたくない。だから本当に無理ならいいの。ごめんなさい。ただ、もし私までこの家からいなくなったら、この先もっとあなたたちに怖い思いをさせてしまうことになる。私はそれが耐えられないのよ、可哀想なアリーシャ…………私の娘…………」


 お母様が屈んで私の頭を抱き寄せて……私はまたお母様の香りに包まれて、胸の中が温かくなって……この温もりを守るためなら、ほんの少しの勇気なら出せるかもしれないと思いました。


「お母様、私……」



*



「それから後のことは記憶が曖昧で、うまくお話しできません。警察で何を聞かれたのか、自分が何と答えたのか、もう頭の中がグチャグチャで……ただ泣き出さないように必死でお母様のように落ち着いた顔を取り繕って、その場しのぎの嘘に嘘を重ねて……」


 供述が曖昧になるわけだ。ゴシップ紙が次から次に新たな疑惑を報じたせいで、警察の取り調べは迷走していた。言われたことを全部そのまま認めていたら辻褄が合わなくなるのは当たり前だ。まともな調書ができるはずもない。


 ただ、一部の新聞は徹底してアリーシャを殺人鬼に仕立て上げようとしていた。ゴシップネタの出処はロゼリア夫人だろう。彼らが夫人から聞いた話を警察に流し、容疑は殺人に傾いていった。


「全部デタラメよ!その子は頭がおかしいの!全部妄想の中で創り上げた戯れ言だわ!」


 アリーシャの証言が終わるまで、先刻から何度も邪魔をしようとして裁判長に制止されていたロゼリア夫人がまた騒ぎ出した。自ら引導を渡されるために舞台に上がってくるなら、ここからは私が相手になろう。


「今のアリーシャさんの話を聞いて腑に落ちないことを一つ、夫人にお聞きします」


 私は証人席に向き直った。


「あなたが犯人だと仮定して……別にアリーシャさんが殺人罪で死刑にならなくても、事故だと認められて裁判が終わればそれでよかったのでは?優しい母親のふりを続けていればそうなる可能性は高かった。なのにわざわざアリーシャさんを罵って信頼を損ない、結果証言が翻った。そうなるリスクを承知の上で、あなたは何故そこまでアリーシャさんを死刑台に送りたいんですか?」


「何がおっしゃりたいのかしら?デタラメな仮定の上で質問されても答えようがないわ」


「あなたにはアリーシャさんが生きていては困る理由があるということです。裁判長、ここで一人証人を召喚してもよろしいですか?」


「許可します」


 黒尽くめのローブに黒い覆面をかぶった異様な風体の人物が入ってきて、法廷内がまたどよめきに包まれた。


「証人の身元はすでに裁判所が確認済みですが、この場で身元が公になると支障があるため、覆面をかぶったまま証言してもらいます。声も聞かれないように、法廷の事務官に耳打ちで話してもらいます。事務官は聞いた内容をそのまま復唱してください。よろしいですか?」


「許可します。参考人は証人に質問をどうぞ」


「それでは証人……あなたは被害者ベンジャミン・ホッブス氏が亡くなる三日前、彼に会った。そうですね?」


 黒覆面は声を出さず大きく頷いた。


「どのような話をしましたか?」


 黒覆面が事務官の横に近付いて何か耳打ちする。実に奇妙な光景だ。ややしばらく耳を傾けていた事務官の顔がみるみるこわばっていった。


「どうしましたか?事務官、復唱を」


「せ……セレーナ・ホッブスの出生について…………彼女がベンジャミン・ホッブス男爵の実子ではないことを証明できると……」


 この日何度もどよめきに揺れていた法廷が、とうとう蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。傍聴席に詰めかけていた新聞社の似顔絵描きたちが一斉に証人席の方を向いて仕事を始める。


「はぁぁ???ちょっと何よそれどういうこと!?全っっっ然意味わかんないんだけど!!」


「さっ、裁判長!抗議します!!我が男爵家の品位を貶めるこんな悪質なデマは決して看過できません!!」


 当のセレーナに続いてロゼリア夫人もヒステリックな金切り声で叫んだが、訴えはあっさりと退けられた。


「参考人、続けてください」


「あなたはどのようにそれを証明したのですか?」


 黒覆面はまた耳打ちを始めた。今度はかなり長い話になり、事務官は顔を引きつらせながら懸命にペンを走らせてメモを取った。


「ホッブス男爵は元々疑いを持っていました。ロゼリア夫人は長女を産んだ後、男爵と寝室を共にすることがまず無かったので。その間、夫人がどこで何をしていたか、私はほとんどすべて知っていました。私が知っているある男性と……ひ、頻繁に一夜を共にしていたことを……」


 今度は似顔絵描きたちが一斉に夫人の方に向き直った。


「ここでは理由は言えませんが、私はその男性が夫人と会っていた場所と時間を全部記録していました。男爵もまた、夫人が家にいなかった日時を詳細に記録していました。男爵と私はお互いの記録を突き合わせ、ほぼ完全に一致することを確認しました。それで男爵は私の話を信じ、この情報に大きな対価を支払ってくれたのです」


 気の毒な事務官は自分の口から出た言葉が信じられないという顔で、ひたすら汗を拭っている。私は彼の後を引き取り、この証言が浮かび上がらせる事件の背景を説明する。


「死期が近付き遺産の整理を考えていたホッブス氏は、長年の疑惑をはっきりさせるため、手を尽くして有力な情報を求めました。そしてこの証人の情報に相当な信憑性があると認め、ある決断を下したのです。その三日後、ホッブス氏は決断を伝えるために夫人を寝室に呼び出しました。ベッドの横には決別の証であるカサブランカを飾って。さあ教えてください、ロゼリア夫人。ホッブス氏はどんな言葉で、どんな態度であなたに離婚の意思を告げたのですか?」


「ばっ……」


 法廷中の注目が一点に集中し、夫人は言葉を失う。呼吸が乱れ、うまく言葉が出てこないようだ。


「馬鹿馬鹿しい!!侮辱にも程があります!!夫と私はくだらないゴシップで騒がれているような関係では……」


「口論の末、あなたは傍らにあった花瓶を取り上げ、ベッドの上で上体を起こしていたホッブス氏の右側頭部に叩きつけた。花瓶は上から落ちて来たわけでも、振り下ろしたわけでもありません。ベッドの横まで飛び散った血痕があなたの殺意を証明している」


 私は証言台を離れ、完全に沈黙した夫人の前に立った。


「口がきけないようにしてしまえばどうにかなると思いましたか?秘密がまだ秘密のうちに、ベッドの上ですべて葬ってしまえば最悪の事態を止められると……」


 取り出した一冊の書類の表紙を夫人に向かって突き付ける。


「あなたは自分の夫を甘く見すぎだ。離婚届も遺言書も全部、ホッブス氏はとっくに用意して預けてあったんです。あなたの言う守銭奴の顧問弁護士、テディ・スミス氏に」


 書類を開いてその内容を読み上げてゆく。


「ロゼリア・ベイツに手切れ金として金貨五千枚とダウンタウンの旧ヘルヴィング邸および付属のユリ園を分与する。セレーナ某(なにがし)は被相続人との血縁関係が認められないため、一切の相続を認めない。よって残る遺産のすべてを一人娘のアリーシャ・ホッブスに相続する――もちろんホッブス氏の死後もこの書類は完全に有効です。ただし、あなたの殺人罪が確定した時点ですべての権利は消滅します、ロゼリア・ベイツさん。次はあなたの裁判でお会いしましょう」


「嘘よ!そんなもの全部あの弁護士のでっち上げに決まってる!!ええそうよ!認めてたまるもんですか!!」


 夫人に続いてセレーナも立ち上がる。


「そうよ!一人で勝手に話を進めて馬っ鹿じゃないの!!そんなのママと私が認めると思う?あなた、誰に無礼な口をきいてるか分かってんの!?」


「さあ?男爵夫人でも男爵令嬢でもないあなたがたが何者か、誰が興味を持つでしょう?まだ理解できませんか?あなたがたが認めても認めなくても、この書類にある事実は変わりません。すぐに分かりますよ、そのような態度や言動がこれからのあなたがたにとって賢明かどうか」


 裁判長の木槌が響き渡った。


「静粛に!参考人の陳述は以上ですか?」


「はい……あ、いえ、最後に一つだけよろしいでしょうか?被告人アリーシャ・ホッブスに事務的な連絡を」


「許可します」


 私は被告人席の方に向き合った。


「アリーシャさん、この後のことはお父様の顧問弁護士にご相談ください。彼はあなたを救うため、この裁判に全面的に協力してくれました。結婚のことはともかく、決してあなたが思っているような人物ではありません。それから……」


 被告人席の側まで歩み寄って、少し声を落とす。これは少し個人的な話だ。


「あなたには嫌なものをたくさん見せてしまいました。子は親を選べない。あのように付けられた傷はあなたを一生苦しめるかもしれない。でも忘れないでください。あなたが見上げる窓はそこだけじゃない。よく周りを見回せば、光の射し込む窓が必ずあるはずです」


「もしかして……書記官さんもそうだったんですか?」


「さあどうでしょう?私はもう忘れてしまいました」


 私は少し笑って誤魔化してから、裁判長を振り返った。


「私からの報告は以上です」



*



 子は親を選べない――半分は自分に向けた言葉だった。私の父は無慈悲な処刑者として民衆に恐れられた先代の法務卿ルトガー・エンリッチ。私が十歳の時、暴漢に襲われて母と共に命を落とした。


 私は父の厳格な教育を受けて育ち、その徹底した合理的思考を色濃く受け継いでいる。法廷でロゼリア夫人を追い詰めている時、幼い頃の私をいつも容赦なく理詰めで叱責した父の顔を思い出した。私の中には確かに冷血卿とあだ名された父の血が流れている。どんなに逃れたくても、常に背後に父の呪縛を感じている。


 それでも今の私がただの冷血卿の模造品にならなかったのは、育ての親の影響が大きい。


 当時父の部下だった一人の書記官が、身寄りのなくなった十歳の私を引き取って育ててくれた。私の保護者で、人の心を教えてくれた恩人、そして今は上司でもあるジョナサン・ハウエル法務卿だ。


 私の心が父の呪縛に囚われそうになった時、あの方から教わった言葉が道を指し示してくれる。心の暗闇ばかりを見つめる必要は無い。よく周りを見回せば、光の射し込む窓は必ずどこかにあるのだ。


 ——私は物思いを中断し、読むでもなしに広げていた新聞を閉じる。ちょうど待ち人が小走りにカフェテラスに入ってくるのが見えた。私の光、ジョナサン・ハウエル法務卿だ。三分遅刻。


「すまないエリカ、内務卿との打ち合わせが長引いてしまって……」


「分かってます。叔父様のスケジュールを管理しているのは私ですから。今日の打ち合わせは例の新法案の問題点の整理ですよね?予定の時間では足りないと思ってました。五分から十分程度の遅刻は想定内です」


「そう言ってもらえると助かるよ」


「別に遅刻していいとは言ってませんが」


「……そうだな。悪かった、本当に気を付ける」


 法務卿は向かいの席に座って汗を拭う。そして私が手にした安物の大衆紙に目を留め、先日と同様に眉を顰めた。


「またそれか……エリックの時は仕方ないが、エリカの格好の時にこういう場所で堂々とそういうものを広げるのはやめてくれ」


「エリックの制服のままでもよかったのに、わざわざ着替えてこいと言ったのは叔父様じゃないですか」


 エリック・ブレンダーというのは仕事用の名前と身分で、私にはエリカ・マシューズという本名がある。父の名前を憎んでいる人は今も大勢いるから、身の安全のために姓を変え、ハウエル法務卿の姪という設定で家に置いてもらっている。


 なので普段の私は目立たなくて友達の少ないただの女子学生。今回のように面倒な案件があって叔父様が私の調査能力を必要とした時は、法務卿直属の調査権限が与えられた一等書記官という仮の姿で仕事をしている。不思議とエリックの姿の時の方が本来の自分に近い気がするのだけど。


「いいじゃないか。たまにはこういう所で一緒に食事をするのも。その櫛——この前の買い物でプレゼントしたのをつけてきてくれたんだね。とてもよく似合っている」


「……ありがとうございます」


「君もそろそろ求婚者の一人や二人現れてもおかしくない年頃なんだ。年相応のおしゃれや社交界の催しにも少しは興味を持ってもいいんじゃないか?」


 ……これだ。叔父様の一番よくない所。褒めるだけでいいのに、どうしていらない一言を付け加えて台無しにするのか。おしゃれに興味を持て?外で一緒に食事をするのに、私が法務卿に恥をかかせるような装いで来るわけがない。エリカの格好で来いと言うから急いで家に帰ってできる限りの支度をしてきたのだ。短時間で飾り櫛に合わせて髪をセットするのも大変なのだ。叔父様は私に人の心の機微を教えてくれた恩人ではあるけれども、女心の理解という点については残念ながら落第と言わざるを得ない。


「エリカ?どうしたんだ?何を怒っている?」


「遅刻の罰として、叔父様にはこの長靴ジョッキのストロベリー・トライフルを注文してもらいます。こっちのトフィープディングと山盛りアイスクリームも気になるのですが、一人では食べきれないので」


「どっちもずいぶん甘そうじゃないか……まあいい。君の機嫌が直るならそれで。それにしても今回は見事だったな」


「長靴ジョッキのトライフルがですか?」


「君がだよ。最初から夫人が犯人だと睨んでたのかい?」


「それはまあ……」


 私はまだメニューを睨んだまま答える。


「アリーシャさんが犯人じゃないことはすぐに分かりましたし、使用人が勝手に寝室に入れないことも確認が取れました。その時点でほぼ夫人一択です。問題はどうやってアリーシャさんに本当のことを話してもらうかだけでしたが……それも例の相続の件で夫人が勝手に墓穴を掘るだろうと思ってました」


「あれは驚いたな。あの覆面の証人はどこから見つけてきたんだ?」


 私はさっき叔父様に取り上げられたテーブルの上の新聞に目をやる。


「それです。叔父様の嫌いなそのゴシップ紙。五面の下の方に小さい記事があるでしょう?」


 女優シルヴィア・リー主演の新作舞台にホッブス男爵が出資――という記事だ。


「次に十三面。これは大きな記事です」


 レガリア座の看板スター、オースティン・グレイが失踪か?


「シルヴィア・リーは元々オースティン・グレイの付き人兼恋人でしたが、最近破局を迎えたと噂になっていました。後ろ盾を失った彼女には普通、大きな役は回ってきません。ところが、この新作舞台に超有力なスポンサーを連れてきたことで一躍主演女優の仲間入りを果たしました」


「詳しいな……」


「低俗なものを愛読していますので。まあ九割方は面白おかしく想像を膨らませて書いた与太話ですが……これまで芸能界に一切関心が無かったホッブス男爵が今このタイミングで女優に出資する――この事実だけは重要です。どう考えても何かある。そして同じタイミングでオースティン・グレイが失踪。ちなみに彼は数え切れないほどの女性と浮名を流してきた王都一のスキャンダル王ですが、そのお相手の一人にはロゼリア夫人の名前もありました。どうでしょう?二つのゴシップ記事とホッブス男爵家の事件をつなぐ線が見えてきませんか?」


「あの覆面の証人は女優のシルヴィア・リー……彼女が告発したロゼリア夫人の相手の男性がオースティン・グレイか。なるほど、覆面が必要なわけだ」


 叔父様は食い入るようにゴシップ紙を見つめて唸った。


「というわけで、元恋人を売ってチャンスを掴んだ主演女優――というゴシップ記事の見出しを話したら、ミス黒覆面は快く情報提供者になってくれました。彼女もいま大事な時期ですからね」


「……今のは聞かなかったことにしておく」


 おっといけない。黒いエリックが出すぎていた。


「結局、好き放題に生きてきた痕跡は必ずどこかに残るんです。オースティン・グレイは夫人の不貞の生き証人として顧問弁護士のスミス氏が確保しています。これから夫人の裁判が始まりますから、しばらくはゴシップ紙がネタに困ることは無さそうですね」


 テーブルにアイスクリームとプディングの山脈が運ばれてきた。その向こうに長靴の形をした生クリームとカスタードクリームの塔がそびえている。


「そっちは好きに騒げばいい。だがああいうのは困るよ」


 隣のテーブルの紳士が広げている新聞の一面の見出しに叔父様の目が注がれる。


 ホッブス男爵殺人事件の真相判明——一等書記官エリック・ブレンダーの冴えわたる弁論——


 ……なんだかやけにしつこく話を聞いてくる記者がいたと思ったが、まさかこんな記事が出るとはさすがに予想外だった。


「エリックの素性をあれこれ探られると面倒なことになる」


「探らせませんよ。それに……エリックが何を書かれようと、本当の私はいま叔父様の目の前にいるこの私です」


 私の興味の矛先は新聞よりも目の前の山のようなプディングだった。スプーンの上でアイスクリームを絡めてから口に運ぶ。冷たさと脳に染み入るようなこの甘さ。仕事で頭を使った後は無性に甘いものが欲しくなるのだ。


「そうだな…………君のそういう顔が見られただけでも、今日食事に誘ってよかったよ」


「ジロジロ見てないで叔父様も食べてください」


「君を見ているだけで口の中が甘ったるくなってくる気がするよ」


 叔父様は苦笑しながら長靴ジョッキのクリームを口に運び、その主張の強すぎる甘さに顔をしかめた。



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― 新着の感想 ―
好きでもない男の子だから冷遇してたんだろうな。アリーシャに幸あれ。 妹は溺愛してた母が捕縛され血筋が暴露され肩身が狭くなるだろうけど、更生出来るだろうか。
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