王太子妃、五十七歳。王妃になる前に隠居します
王太子妃エルディアナは、五十七歳になった。
十八歳でこの国の王太子へ嫁いでから、三十九年が過ぎている。王太子の妻としては、ずいぶん長く務めた。
だが、王妃として務めた日は、一日もない。
「ひいおじいさまのつぎが、おじいさま」
春の庭園で、三歳の孫が小さな指を一本立てた。
王太孫レオナールの長男、リュカである。今日は乳母から、王位継承の順番について教わったらしい。
「それから、おとうさま」
二本目。
「それから、ぼく」
三本目を立てると、リュカは得意げに胸を張った。
隣に座っていた双子の妹ミアが、兄の立てた指をじっと見つめている。
青い髪飾りと赤い髪飾り。服装を揃えなければよく似た双子だったが、性格はまるで違った。
リュカは、覚えたことを順番に話したがる。
ミアは、その順番からこぼれたものに気づく。
「おばあさまは?」
エルディアナは、膝の上で編んでいた小さな花冠から顔を上げた。
「おばあさま?」
「おばあさまは、いつ王妃さまになるの?」
悪意など、あるはずもない。
ミアは、池を泳ぐ白鳥について尋ねるのと同じ顔をしていた。
エルディアナは微笑んだ。
「おばあさまはね、待つ人なのよ」
「なにを?」
「順番が来るのを」
ミアは納得しなかったらしい。
「まだ?」
「ええ。まだよ」
「ずっと?」
エルディアナは花冠へ視線を落とした。
まだ。
その言葉を、この三十九年間に何度聞いただろう。
まだ陛下はお元気だから。まだ王妃陛下がいらっしゃるから。まだその時ではない。あなたはいずれ王妃になるのだから。
いずれ。いずれ。いずれ。
「王太子妃殿下」
庭園の入り口から、侍従長が足早に近づいてくる。
「王妃陛下が、午後の慈善委員会を欠席なさるとのことでございます。恐れ入りますが、殿下に代理をお願いしたいと」
「承知しました」
「加えて、北方連盟の使節団を迎える晩餐会につきまして、席次案に問題があるようでして」
「あとで拝見します」
「来週の宮廷舞踏会についても、女官長が御相談したいと申しております」
「わかりました」
立ち上がろうとしたエルディアナの袖を、ミアがつかんだ。
「おばあさま、またおしごと?」
ごく小さな声だった。責めるような響きもない。
けれど、その一言で、エルディアナの膝は動かなくなった。
侍従長が困った顔で待っている。リュカは、編みかけの花冠を持ち上げた。
「まだできてないよ」
「そうね」
エルディアナは、もう一度腰を下ろした。
「殿下?」
「慈善委員会には、副委員長がおられます」
「ですが、王妃陛下の代理となりますと」
「代理が必要であれば、王妃陛下が正式に御指名なさるでしょう」
「では、晩餐会の席次は」
「王宮儀典局の職務です」
「舞踏会は」
「女官長と宮内府の職務です」
侍従長が目を瞬いた。
どれも、これまでエルディアナが引き受けてきた仕事だった。
頼まれれば。王妃が疲れているから。国王が望んでいるから。前例を知る者がほかにいないから。王太子妃なのだから。
「本日は、孫たちとの予定がございます」
エルディアナはそう言って、花冠を編み始めた。
侍従長はしばらく立ち尽くしていたが、やがて深く頭を下げ、立ち去っていった。
その背中を見送りながら、エルディアナは自分でも驚いていた。
断ることは、思っていたより簡単だった。
夕食の席で、王太子アルベルトは父王の話をした。
「父上は、今日も騎馬演習へ出られたそうだ」
六十歳になった夫は、昔より白髪が増えた。だが、その父である国王は、八十四歳になってなお壮健だった。
朝は日の出とともに起き、午前は政務、午後は狩猟か乗馬。食欲もあり、酒量も若い頃と変わらない。
王妃のほうが先に身体を悪くし、近頃は公務の多くを欠席していた。
「主治医も、陛下は百歳までお元気でいられるかもしれないと申しておりました」
「それは喜ばしい」
アルベルトは満足そうにうなずいた。
「国が安定しているのも、父上が健在だからこそだ」
「ええ」
「来月の建国記念舞踏会だが、母上の体調次第では、また君に任せることになる」
「いつまででしょう」
アルベルトが手を止めた。
「何がだ?」
「私は、いつまで王妃陛下の代理を務めるのでしょう」
夫は怪訝そうに眉を寄せた。
「母上がお元気になるまでだろう」
「王妃陛下がお元気にならなければ?」
「君はいずれ王妃になるのだ。今さら、代理の公務を負担に思うことでもあるまい」
三十九年間、何度も聞いた。
あなたはいずれ王妃になるのだから。王妃に必要な忍耐です。王妃になる者として。王妃になる日のために。
「いずれとは、いつでしょう」
「それは」
「陛下が退位なさる時ですか」
「そうなるだろう」
「陛下は、退位なさるおつもりなのですか」
アルベルトは答えなかった。
国王は、退位について一度も口にしたことがない。側近が遠回しに勧めた時には、まだ自分には責務があると退けたという。
王太子であるアルベルトも、父へ強く進言しようとはしなかった。
「陛下は御壮健です」
「だから何だ」
「喜ばしいことですわ」
「ならば、なぜそのような話をする」
「陛下の長寿を願いながら、陛下が王座を退かれる日を待つことに疲れました」
アルベルトの表情が固まった。
「私は、父上の死を待っているわけではない」
「私もです」
エルディアナは静かに答えた。
「ですから、待つのをやめようと思います」
「何を言っている」
「王宮庭園の東側に、小さな離れを建てる許可を願い出ます」
「離れ?」
「ええ」
「孫たちの遊び場なら、すでに」
「私が暮らすための家です」
食堂が静まり返った。給仕の者たちが、息を殺している。
「王太子妃が宮殿を離れて暮らすなど、聞いたことがない」
「庭園内です。宮殿から歩いて十分ほどでしょう」
「そういう問題ではない」
「では、どのような問題でしょう」
「君には、王太子妃としての役目がある」
「王太子妃として定められた儀礼には出席します」
エルディアナは夫をまっすぐ見た。
「ですが、王妃陛下や宮内府、儀典局、各委員会から非公式に預けられてきた仕事は、半年後をもって返上いたします」
「公務を放棄するというのか」
「本来の担当者へ戻します」
「慈善委員会はどうする」
「委員長である王妃陛下か、副委員長がお務めになります」
「宮廷舞踏会は」
「女官長と儀典局がございます」
「外国使節の夫人たちは、君でなければ話がまとまらない」
「でしたら、まとめられる者を育てるべきでした」
「エルディアナ」
「私は三十九年間、王妃になるための練習を続けてまいりました」
声を荒らげる必要はなかった。もう、誰かを言い負かしたいわけではない。
「ですが、練習のまま人生が終わる可能性もあると、ようやく気づいたのです」
「父上より私が先に死ぬと言いたいのか」
「あなたかもしれません。私かもしれません」
「縁起でもない」
「五十七歳の女が、残りの人生について考えることは、縁起でもないことでしょうか」
アルベルトは黙り込んだ。
夫は悪い人ではない。若い頃から穏やかで、愛人を持ったこともなく、妻へ暴言を吐いたこともない。父王を敬い、国を思い、家族を大切にしている。
ただ、妻が待ち続けることを当然だと思っている。
「私はもう、王妃になりたいのではありません」
エルディアナは言った。
「少し、休みたいのです」
離れの建設計画は、王室会議へ提出された。
王太子妃が王宮を離れて暮らすことには反対が出たが、建築予定地が王宮庭園内であること、公式行事には出席すること、警備体制を維持することを条件に、国王は計画を認めた。
「気分転換も必要だろう」
国王はそう言ったという。
エルディアナが何から離れようとしているのか、確かめることはなかった。
離れの建設には、半年かかった。
その半年のあいだに、エルディアナは自分のもとへ集められていた仕事を、すべて洗い出した。
王太子妃として正式に定められた役目。王妃の欠席時に限り、正式な命令を受けて代行する役目。いつの間にか、慣例として任されるようになった役目。本来は宮内府や儀典局、女官長、各委員会が処理すべき役目。
それらは三十九年のうちに絡まり合い、誰にも区別がつかなくなっていた。
晩餐会の席次は、王宮儀典局へ。
舞踏会と茶会の運営は、女官長と宮内府へ。
慈善委員会の実務は、副委員長と書記官へ。
外国王族への贈答品は、外務官房と宮廷宝物局へ。
貴族夫人同士の仲裁は、それぞれの家門と宮廷監督官へ。
エルディアナは、過去三十九年分の記録を整理した。
誰と誰を同席させてはならないのか。どの国では、どの色が祝意となり、どの色が弔意となるのか。喪中の夫人へ、どのような文面で招待状を送るべきか。外国使節の妻が、公の場では口にしない事情。公式な爵位だけでは決められない、宮廷内の席順。
規則として残せるものは規則として書き、個別の事情は注記として添えた。
王太孫妃クラリッサにも、若い世代が担える公務を引き継いだ。
クラリッサは、王太孫の妻としてすでに学校や孤児院への慰問を受け持ち、幼い双子を育てながら、自分の役割を果たしていた。
「お義母様のなさっていたことを、すべて私がお引き受けします」
クラリッサは申し出た。
「いいえ」
エルディアナは首を横に振った。
「私に集まりすぎた仕事を、今度はあなたへ集めてはなりません」
「ですが」
「あなたには、あなたの役目があります。王妃陛下の権限が必要な仕事や、各部署が責任を持つべき仕事まで背負う必要はありません」
エルディアナには、仕事を元の場所へ返すことはできた。
だが、各部署の長を交代させる権限も、王妃の名で代理人を任命する権限もなかった。
誰にどこまでの決裁権を与えるのか。王妃の公務を誰が正式に代行するのか。
それを決められるのは、国王と王妃、そして王太子だった。
エルディアナは三人へ、何度も書面を提出した。
王妃公務の代行者を正式に定めてほしい。宮内府と儀典局の責任範囲を明確にしてほしい。王太孫妃へ渡す役目と、渡してはならない役目を決めてほしい。
返ってきた回答は、どれも似ていた。
現状に大きな支障はない。
従来どおり、王太子妃が助言すればよい。
急いで制度を変更する必要はない。
エルディアナは担当者を集め、引き継ぎの説明会を開いた。
一度では足りず、二度、三度と繰り返した。過去の記録を見せ、判断の基準を伝え、質問にも答えた。
「今後は、儀典局長の責任で御判断ください」
「ですが、殿下にも最後に御確認いただければ」
「私は確認いたしません」
「念のためでございます」
「その念のためを、三十九年間続けてきたのです」
儀典局長は困ったように笑った。
エルディアナも笑い返した。
「半年後からは、あなたが決めるのです」
誰もがうなずいた。
けれど、誰も本気にはしていなかった。
離れが完成するまでのあいだにも、書類は変わらず運ばれてきた。
担当部署へ戻したはずの席次表。女官長が決めるべき招待客。副委員長が署名できる慈善事業の支出。外務官房が選定するべき贈答品。
付箋には、決まって同じような言葉が書かれていた。
殿下の御意見をいただきたい。
従来どおり、最終確認をお願いしたい。
今回のみ、御判断を仰ぎたい。
エルディアナはその都度、担当部署へ返した。
判断基準は、引き継ぎ書の何頁に記載してある。前例は、何年の記録に残されている。最終決定は、部署の長が行うこと。
それでも書類は戻ってきた。
最後の一月になると、エルディアナは封を切らずに返すようになった。
中を見れば、また自分が判断してしまう。
判断すれば、彼らは次も持ってくる。
自分がいるかぎり、誰も自分の責任で決めようとはしない。
離れは、王太子妃の住まいとしては驚くほど小さかった。
寝室が一つ。書斎が一つ。南向きの居間と、小さな厨房。庭には温室と菜園を作った。
侍女は二人、料理人は一人。護衛は庭園の外に置き、離れの中まで付き従わせなかった。
移り住んだ初日の朝、エルディアナは日の出を過ぎても眠っていた。長年仕えてきた侍女は、起こしに来なかった。
目を覚ました時には、窓からやわらかな日が差している。
「今、何時かしら」
「九時を回ったところでございます」
侍女はそう答え、紅茶を注いだ。
エルディアナはしばらく時計を見つめた。
九時。
それほど遅くまで眠ったのは、子どもを産んだ翌日以来だった。
昼前になると、双子が走ってきた。
「おばあさま!」
「ここ、おばあさまのおしろ?」
ミアが離れを見回し、目を輝かせる。
「そうよ。おばあさまのお城」
「ちいさいね」
「小さいでしょう」
「王妃さまのおしろじゃないの?」
「王妃様にはならないかもしれないから」
リュカが不安そうに見上げた。
「かなしくない?」
エルディアナは少し考えた。
「昔は、悲しかったわ」
「いまは?」
「今は嬉しいの」
「どうして?」
「ここでは、何かになるのを待たなくてよいから」
双子には難しかったらしい。二人は顔を見合わせると、すぐに温室のほうへ走っていった。
離れへ移ったあとも、書類は届いた。
晩餐会の席次。王妃主催の茶会の招待客。外国王族への贈答品。貴族夫人から寄せられた相談。
どれにも、すでに担当部署があった。
引き継ぎ書も、過去の記録も渡してある。
エルディアナはすべて返した。
王妃陛下の御判断を仰いでください。
儀典局長の責任で決定してください。
外務官房の記録を御確認ください。
当事者同士で御相談ください。
王太子殿下へ御報告ください。
一月もしないうちに、宮殿では小さな行き違いが続いた。
晩餐会では、同格の二家をどちらの上席に置くか決められず、席次の確定が前日まで遅れた。
公式記録だけを見れば同格だった。だが、片方の家が前年に王女との縁戚となったため、儀典上の扱いを改める必要があった。
そのことは引き継ぎ書にも記されていたが、儀典局長は自分の判断で変更することを恐れ、エルディアナの返事を待ち続けた。
王妃主催の茶会では、服喪期間を終えたばかりの夫人へ、華やかな舞踏会と同じ文面の招待状が送られた。
規則には反していない。けれど、その夫人が社交界へ戻る時期を慎重に選んでいることは、宮廷監督官へ申し送られていた。
監督官は、それを個人的な事情として招待係へ伝えなかった。
北方の大使夫人へ贈る宝石には、その夫人の故郷で採れた青玉が選ばれた。
一見すれば、心のこもった選定だった。
だが、その鉱山では数年前に大きな事故があり、夫人の親族も犠牲になっていた。
外務官房の記録には残されていたが、贈答担当者は、王太子妃殿下が最後に確認するだろうと思い、注意書きを読み飛ばした。
どれも、国を揺るがすほどの失敗ではない。謝罪し、調整すれば済むことだった。
だが、それまで一度も表へ出なかった綻びが、次々に見えるようになった。
エルディアナが一人で防いでいたからである。
アルベルトが離れを訪ねてきたのは、建国記念舞踏会の三日前だった。
温室で、エルディアナは双子と豆の種を植えていた。
「話がある」
「そちらへお掛けください」
夫は庭椅子に腰を下ろしたが、落ち着かない様子だった。
「君が提出した引き継ぎの一覧を、改めて読んだ」
「そうですか」
「これほど多いとは思わなかった」
「存じております」
責めたつもりはなかった。けれど、アルベルトは苦しそうに目を伏せた。
「書類を受け取った時には、細かすぎると思った」
「ええ」
「各部署が読めば済むことだとも思った」
「そのとおりです」
「だが、誰がどの仕事を君へ持ち込んでいたのか、私は知らなかった」
エルディアナは、土を指先でならした。
「知ろうとなさいませんでしたから」
アルベルトは反論しなかった。
「すまなかった」
「何についてでしょう」
「君の仕事を知らなかったことだ」
「ええ」
「君が半年かけて引き継ごうとしていたことも、各部署が受け取ろうとしなかったことも、見ていなかった」
「ええ」
「戻ってはくれないか」
「戻りません」
「建国記念舞踏会だけでも」
「王妃陛下がおられます」
「母上は欠席なさる」
「では、王太子殿下がお務めください」
「私が?」
「あなたも、いずれ国王になられるのでしょう」
アルベルトは言葉を失った。
エルディアナは、土のついた手袋を外した。
「舞踏会を取り仕切るのは、女官長と儀典局です。あなたは主催者として、決定されたものに責任を持てばよいのです」
「これまでは、君が」
「これからは、あなたがなさってください」
「父上が退位なされたら、戻るつもりはあるのか」
「その時に考えます」
「君は王妃になるために、私に嫁いだのではないのか」
「十八歳の私は、そう信じていました」
「今は違うのか」
「五十七歳の私は、明日の朝、何時まで眠っていても叱られない暮らしを望んでいます」
夫は、しばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐き、温室の中で遊ぶ双子を見た。
「父上は、まだ退位する気はない」
「存じております」
「百歳まで生きるかもしれない」
「それは、まことに喜ばしいことです」
今度は、心からそう言えた。
国王があと十六年生きようと。二十年生きようと。
エルディアナは、もう待たなくてよい。
「おばあさま!」
ミアが、土まみれの手で走ってきた。
「おはながさいたら、ずっとここにいる?」
エルディアナは孫娘を抱き上げた。
「ええ。少なくとも、花が咲くまでは」
「そのあとは?」
ミアの向こうに、宮殿の尖塔が見える。
三十九年間、自分の居場所だと思ってきた建物だった。
そこには、まだ自分の名を記した部屋がある。王太子妃の席もある。いつか王妃になる者として用意された、未来の居場所もある。
けれど今は、そのどれも遠くに見えた。
エルディアナは、小さな離れを振り返った。
「次の花を植えましょう」
王妃になる日は、まだ来ていない。
来ないまま終わるのかもしれない。
それでもよかった。
エルディアナの人生は、五十七歳にして、ようやく始まった。
王が長生きすることは、本来とても喜ばしいことです。
けれど、その「喜ばしいこと」の陰で、ずっと順番を待ち続ける人もいるのではないかと思い、この話を書きました。
王妃になるために三十九年を費やしたエルディアナが、王妃になることを諦めたのではなく、自分の人生を先に始める話です。
誰かが悪人だったわけではありません。ただ、彼女が待ち続けることだけが、あまりにも当然になっていました。
五十七歳は、何かを始めるには遅い年齢ではない。
次の花を植える時間は、まだ残っている。
そんな話になっていれば嬉しいです。




