第2章・4:痛みの悪魔
エデンの目は、
限界まで見開かれていた。
目の前には――
ただ存在するだけで、
命を脅かすほどの恐るべき獣。
――ドンッ!!
凄まじい一撃が放たれる。
だが。
衝撃は、
肉にも骨にも届かなかった。
反射的に――
エデンは、残された力で身をかわしていた。
(……速いな)
腕を組み、
その様子を見下ろしながら、
シュンは内心で呟く。
(……普通の人間なら、
こんな動きはできない)
(……まだ、驚かせてくれよ。エデン)
―――
(……クソ……)
エデンは、
脇腹を押さえながら思う。
(……何度も、
ケツを蹴られたみたいだ……)
(……でも……)
(……じいちゃんの訓練……)
(……無駄じゃなかった、みたいだな……)
だが。
視線を落とし、
脇腹を伝う血を見て、
歯を噛みしめる。
(……それでも……)
(……もう、長くはもたない……)
――GRRRRRR!!
獣が唸り声を上げ、
鋭い一撃を振り下ろす。
その爪は――
冥界の岩すら、
バターのように切り裂いた。
攻撃は、
止まらない。
容赦も、
間もない。
だがエデンは、
一歩、また一歩と下がり続ける。
まるで――
攻撃を先読みしているかのように。
(……他の奴らが来る前に……)
(……ここで、終わらせなきゃ……)
(……でも……)
(……どうやって……?)
―――
その時。
静かだが、芯のある声が、
戦場に割り込んだ。
「……なるほど」
「だから、解放してくれと頼んだわけか……」
振り向けば――
そこに立っていたのは、
地獄そのものの瞳を持つ男。
乱れた髪は、
夜のように重く、暗い。
その名は――
テンザク。
「……ああ」
シュンは振り返らず、
淡々と答える。
「ただ……」
「少し、期待しすぎたかもしれないがな」
「……まさか」
「禅華の力は教えたのか?」
その問いに、
シュンは小さく笑った。
「……それがな」
「完全に忘れていた」
「……本気か?」
テンザクは、
狂人を見るような目で睨む。
「禅華の力すら知らない奴が――」
「こいつらに勝てるわけがないだろう!」
「……だから、面白い」
シュンは、
愉快そうに言った。
「そう思わないか?」
「……俺が、
いつからお前の部下になったのか……」
テンザクは、
低く呟いた。
―――
――ザシュッ!!
次の瞬間。
強烈な一撃が、
エデンの胸を捉えた。
鋭い爪が、
皮膚を容易く引き裂く。
血が、
胸元から流れ落ちる。
恐怖が、
身体の奥から這い上がる。
「……っ……」
エデンは、
膝をついた。
全身を、
本能的な恐怖が支配する。
(……無理だ……)
(……何も、できない……)
(……これが……)
(……じいちゃんを救うための、道だと思ったのに……)
(……でも……)
(……あいつら……)
(……触れることすら、できない……)
脳裏に浮かぶのは――
あの視線。
哀れむような、
見下すような――
弱者を見る目。
それは、
消えない烙印のようだった。
……
――再び。
大地が揺れる。
ついに――
**あの怪物の“子供たち”**が姿を現した。
数は、
あまりにも多い。
――終わりが、見えない。
だが。
エデンは、
動かなかった。
瞳に――
炎は、もう無い。
そこに残っていたのは、
完全な絶望だけだった。
――ドンッ!!
凄まじい一撃が、
再びエデンを襲った。
骨が、
嫌な音を立てて軋む。
それでも――
エデンは、
膝をついたまま動かなかった。
血が流れ、
内臓が押し潰される感覚があっても、
彼は、そこに在り続けた。
(……今の一撃……)
(……普通の人間なら、確実に死んでいる……)
腕を組んだまま、
シュンは静かに考える。
(……こいつの身体は……)
(……一体、何で出来ている……?)
攻撃は、
さらに苛烈さを増す。
打撃。
踏みつけ。
破壊。
血は、
四方へと飛び散る。
あまりの弱さに――
ついには、
あの巨獣ですら興味を失い始めていた。
―――
山の頂。
テンザクは、
その光景を愕然とした表情で見つめていた。
拳は、
砕けそうなほど強く握られている。
(……本当に……)
(……このまま、何もしないでいいのか……?)
(……シュンが、
死なせないのは分かっている……)
(……だが……)
(……それを、信じていいのか……?)
どの一撃も、
人間なら即死のはずだ。
それでも。
エデンは、
目を開いたままだった。
命の息吹が、
ゆっくりと――
確実に、消えていく。
(……これが……)
(……現実なのか……?)
(……本当に……)
(……あの二人に、勝てるほどの力を……)
(……俺は、
手に入れられるのか……?)
(……じいちゃんを……)
(……助けられるのか……?)
――限界だった。
テンザクは、
耐えきれず――
シュンに飛びかかった。
その首を、
力任せに掴む。
「……やれ!!」
「……頼むから、何かしろ!!」
……
その瞬間。
――初めて。
シュンの表情が、変わった。
瞳が、
闇に沈む。
鋭く、
すべてを貫く眼差し。
「……本気で、俺に逆らうつもりか?」
凍りつくほど静かな声。
「勘違いするな」
「お前が生きているのは――」
「俺が、許しているからだ」
その視線には、
圧倒的な侮蔑が宿っていた。
――まるで、
人間が蟻を見るような。
「……もう一度、
俺に触れてみろ」
「その瞬間――」
「死ぬ」
テンザクは、
力が抜けたように地面へ崩れ落ちた。
そこにいたのは――
天すら震わせる覇気を纏った存在。
シュンが指を上げる。
すると――
地面から、
黒き鎖が現れ、
テンザクの身体を縛り上げた。
……
「……気づいていないようだが」
シュンは、
淡々と続ける。
「……あの少年には――」
「お前も、俺も……」
「理解できない何かがある」
「……どういう意味だ……?」
「……よく見ていろ」
「これから、起きることを……」
――その時。
低く、
喉の奥から響くような声が、
意識の底に木霊した。
「――皆、殺せ……」
―――
時間が、止まった。
エデンの瞳は――
完全な白へと染まる。
先ほどまで凶悪だった獣たちが、
一斉に――
後退し始めた。
本能が、
叫んでいた。
――逃げろ。
皮膚が、
剥がれ落ち始める。
テンザクは、
恐怖に目を見開く。
獣たちの悲鳴は、
地獄そのものを震わせた。
制御されない無形のエネルギーが、
エデンの身体から噴き出す。
色は――
紫。
匂いは――
腐敗。
その圧力は、
空間を支えていた
不可視の壁すら粉砕した。
テンザクの背筋に、
氷のような悪寒が走る。
(……何だ、これは……?)
(……なぜ……)
(……死ぬと、感じる……?)
獣たちは、
振り返ることすらせず逃げ出した。
かつて血に飢えていた身体には、
恐怖しか残っていない。
(……このオーラ……)
(……この恐怖……)
(……はっきり分かる……)
(……俺は、死ぬ……)
テンザクは、
喉を鳴らした。
そして――
シュンの笑みを見た瞬間、
雷のような理解が走る。
(……お前……)
(……怪物より、酷い……)
―――
冥界の最奥で。
一つの存在が、
目覚め始めていた。
支配するために生まれたもの。
――悪魔。
痛みを司る者。
――苦痛の魔神。




