第2章・3:冥界の試練
エデンは、
声を発することすらできなかった。
ただ、
震える唇で言葉にならない音を漏らし、
手は止まらず震えている。
彼の目の前に広がっていたのは――
荒廃し、圧倒的な光景。
黒い断崖の間を、
溶岩の川が流れ。
遥か遠くでは、
歪んだ獣たちが歩き回っている。
空は、
赤と紫に染まり。
不可能なほど巨大な山々が、
視界の果てまで連なっていた。
エデンは、
目を見開いたまま、言葉を詰まらせる。
「……こ、ここは……」
「……いったい、どこなんだ……?」
「ギリシャの冥界へようこそ」
シュンは、
一切の前置きなく告げた。
エデンは、
思わず一歩後ずさる。
「……冥界……?」
「な、何考えてんだよ! こんな所に連れてきて!?」
両手で頭を抱え、
完全に取り乱す。
「お前、死神か何かか!?」
「俺、あの時死んだのか!?」
「それとも、これは悪夢で――」
「目が覚めたら、足がなくなってるとか!?」
シュンは、
額に手を当て、深くため息をついた。
「……落ち着け」
「俺は死神じゃない」
「お前は死んでいない」
「罪を償うために来たわけでもない」
「それに、足も無くならない」
「……誰がそんな馬鹿げた理論を思いつくんだ」
―――
それでも。
エデンは、
周囲をキョロキョロと見回し続けている。
答えを探すように。
シュンは、
再び大きく息を吐き、言った。
「……正直言って」
「全部説明すると、
俺が完全な狂人に聞こえる」
エデンは、
ゆっくりと視線を落とす。
「……正直さ……」
「まだ、悪い夢だと思ってる」
「……じいちゃんは、
家で待ってて……」
「……でも……」
「何か説明できるなら、してくれ」
シュンは、
真剣な表情で彼を見た。
「……分かった」
数秒、
言葉を選ぶように沈黙する。
「お前の学校で――」
「神話とか、宗教は習ったか?」
「……少しだけ」
「……基礎くらいは」
「なら、それを全部混ぜろ」
「神々、怪物、伝説……」
「それを――現実にしろ」
「それが、この世界だ」
エデンは、
思わず唾を飲み込む。
「……そう言われると……」
「……想像してたより、
もっと馬鹿げて聞こえるな」
乾いた笑い。
(……誰がこんなバカを助けろって言ったんだ……)
シュンは、
顔を覆いながら心の中で呟く。
「……今、何か言った?」
「……忘れろ」
何事もなかったように続ける。
「いいか」
「数日前まで――」
「お前が不可能だと思っていたことは……」
「この世界じゃ、
すべてが現実だ」
「……じゃあ、なんで……」
エデンは、
疑問をぶつける。
「……なんで、こんな世界が存在してて」
「……人間は、何も知らないんだ?」
……
「……忘れたんだ」
シュンは、
即答した。
「……忘れた?」
「……どういう意味だ……?」
「それは、複雑な話だ」
「今は説明しない」
エデンは、
眉をひそめる。
「……俺を馬鹿だと思ってるだろ」
「思ってるんじゃない」
「知ってる」
皮肉な笑み。
「見ず知らずの男と一緒にいる」
「いつ危害を加えられるかも分からない」
「……知らない人について行くなって、
教わらなかったか?」
エデンは、
目を細める。
「……でも」
「……お前が俺を傷つけるとは、思えない」
「……悪い奴には、見えないし」
シュンは、
視線を逸らし、
半分だけ笑った。
「……本当に」
「お前、
物語の中に生きてるみたいだな」
シュンは、
何の前触れもなく姿を消した。
――空気を切り裂く閃光。
瞬きする間もなく、
彼はエデンの背後――
切り立った山の頂に立っていた。
冥界の灰色の空を背に、
その姿は、
まるで最初からそこに存在していたかのようだった。
エデンは、
思わず息を呑む。
(……速すぎる……)
(……戦っていたら、今ごろ俺は死んでる……)
「――これから、お前に試練を与える」
シュンは、
低く、揺るぎない声で告げた。
「……試練?」
「どういう意味だ?」
「確かに、お前をここへ連れてきたのは俺だ」
「だが――」
「お前の“力”は、まだ見ていない」
「それを、俺自身の目で確かめる」
「……どうやって?」
「この世界の“小さな獣”と戦ってもらう」
「それで十分だ」
エデンは、
眉をひそめる。
「……ふざけるな」
「俺、戦い方なんて知らないぞ!?」
「どうやって戦えって言うんだ!」
「ルールは一つだけだ」
シュンは淡々と告げる。
「祖父の剣は使うな」
「使えば――」
「高確率で、死ぬ」
皮肉な笑み。
「……だから、手は打っておいた」
そう言って、
ゲンの剣を軽く振る。
エデンは、
慌てて周囲を見回す。
(……いつの間に……?)
「幸運を祈るよ、若き天才」
嘲るような笑み。
―――
(……無視した挙句、丸腰で戦えだと……?)
(……誰だと思ってやがる……!)
エデンは、
歯を食いしばる。
その時――
シュンが口笛を吹いた。
その音は、
冥界全体を貫く狩りの合図。
「――試練開始だ」
その瞳は、
どこか歪んでいた。
「クソッ……!」
「ピンク頭の野郎……!」
悪態をつく間に――
足音が、近づいてくる。
「……来るぞ……」
身構えた瞬間。
地面が、
今までにないほど震え始めた。
呼吸が、
一気に荒くなる。
足元に――
亀裂。
――CRACK!
……
地面から現れたのは――
小さな生き物たち。
皮膚は炭のように黒く、
瞳は、
燃える熾火のように輝いている。
「……え?」
エデンは瞬きし――
次の瞬間、
乾いた笑いを漏らした。
「……本気かよ」
「小さいとは言ったけど、これは流石に……」
笑いながら、
しゃがみ込み――
一匹の頭を撫でる。
「名前は何だ? ちび助」
――その様子を、
山の上からシュンは無言で見ていた。
(……馬鹿だ)
(……小さいとは言ったが、
弱いとは一言も言っていない)
(……それに……)
――問題は、もう一つある。
――PUM!
鈍い衝撃。
次の瞬間、
エデンの腹部に重い一撃が叩き込まれた。
「――ぐっ……!!」
膝をつき、
激しく咳き込む。
「……な、何だ……!?」
地面の振動が、
さらに激しくなる。
――変化が始まった。
獣たちの身体が伸びる。
爪が形成され。
背骨が歪み、盛り上がる。
一秒ごとに――
大きく、凶暴に。
「……マジかよ……!?」
目を見開いたまま、
エデンは本能的に走り出した。
「無駄だ」
山の上から、
シュンの声。
「そいつらは――」
「冥界最速の獣として知られている」
「しかも今は――」
「お前より、ずっと軽い重力下だ」
「……はぁ!?」
「ふざけるなぁぁぁ!!」
……
その直後。
――ドンッ!!
一体の獣が、
エデンの脇腹に強烈な一撃を叩き込んだ。
骨が、
軋む音。
口から、
血が溢れる。
――CRASH!!
山肌へと、
叩きつけられた。
身体が、
ほとんど動かない。
衝撃で、
全身から血が流れる。
――そして。
重く、力強い足音。
大地が、
鳴り響く。
エデンは、
残った力で顔を上げ――
凍りついた。
目の前には――
三メートルを超える巨獣。
皮膚は、
マグマのように燃え。
牙は、
爪と同じほど鋭い。
「――GRRRRRRR!!」
轟音の咆哮。
それは、
呼び声だった。
――数え切れない“子供たち”が、
非人間的な速度で押し寄せてくる。
―――
高みから、
シュンは変わらず見下ろしていた。
その瞳は、
冷たく、狂気を孕んでいる。
そして、
笑みを浮かべ、低く囁いた。
「――ようこそ」
「お前の試練へ――」
「悪魔」




