第1章・2: 光の前に
エデンの目は、
信じられない光景を前に、見開かれていた。
理解不能な文字で刻まれたルーン。
人の形をしたまま、
床に転がる無数の死体。
血は止めどなく溢れ、
まるで尽きることを知らないかのようだった。
――だが、それだけではない。
そのすべてを見下ろすように、
**“あの目”**があった。
逃がさぬように。
値踏みするように。
まるで――
彼の秘密のすべてを、
最初から知っていたかのように。
血管ははっきりと浮かび、
脈打っている。
それは、
決して“非生物”ではないという証。
秒を重ねるごとに、
エデンとその目は、
何かを共有しているかのようだった。
言葉は、ない。
あるのは――沈黙だけ。
永遠にも思える、沈黙。
だが――
突如として。
空間が、
無数の映像へと砕け散った。
記憶。
戦争。
血。
叫び。
涙。
笑顔。
すべてが、同時に存在していた。
始まりも、終わりもない。
ただ――在る。
「――おかえりなさい、マスター」
どこか懐かしく、
それでいて、まったく知らない声。
「お会いできず、ずいぶん久しかった」
エデンは、
声を発することすらできなかった。
――次の瞬間。
すべてが、消えた。
―――
あの空間は、
最初から存在しなかったかのように消失していた。
椅子は元の位置に戻り、
クラスメイトたちは席に座ったまま。
誰一人、
動いた様子はない。
エデンの頬を、
一筋の汗が伝った。
あまりに重く、
世界を切り裂いてしまいそうな感覚。
血液が、
氷へと変わったかのようだった。
首を左右に振り、
“理屈の通る答え”を探す。
だが、
目に入るのは――
黒板を見つめる、
クラスメイトたちの背中だけ。
「……大丈夫か、エデン?」
ミヤが、
彼の異変に気づいて声をかける。
「……だ、だいじょうぶ……」
「……ふーん、そうか」
言葉とは裏腹に、
エデンの身体は悲鳴を上げていた。
震える手。
乱れた呼吸。
重く、途切れがちになる息。
――エデン……
頭の奥で、
誰かの声が、
確かにそう囁いた。
―――
時間は、
授業から授業へと流れていった。
だが――
エデンの頭から、
あの光景が離れることはなかった。
理解不能な映像。
血。
目。
「リン! リン!」
再び、
終業を告げる鐘が鳴り響く。
クラスメイトたちは、
荷物をまとめ、
放課後の予定を口にしながら立ち上がる。
――しかし。
エデンは、
ほとんど動かなかった。
まるで、
まだ“あの場所”に囚われているかのように。
「エデン・ヨミ!」
――その声が、
悪夢を断ち切った。
「っ!」
ミヤが、
軽く彼の頭を叩く。
「いって!」
「何すんだよ!」
「はは。やっと戻ってきたみたいだな」
「戻るって、何の話だよ?」
「一日中、魂抜けたみたいな顔してたぞ」
「何かあったのか?」
「……いや、別に」
「……そうか」
……
突然、
ミヤはエデンの頭に手を置いた。
温かい、
優しい感触。
「何かあったら、言えよ」
「俺たち、物心ついた頃から一緒だろ」
「俺は、お前を否定しない」
エデンの口元に、
小さな笑みが浮かぶ。
「分かってるよ」
「言われなくても」
「大丈夫だ」
「どうせ、ただの悪夢だろ」
「悪夢を見ない方法、知ってるか?」
「……何だよ」
「腹いっぱい食うことだ」
「は?」
「バカじゃないのか?」
皮肉っぽく笑いながら、
言いかけた、その時――
――グゥゥゥ。
エデンの腹が、
激しく鳴った。
「……え?」
「ほらな」
「俺、お前のことよく知ってるから」
肩をすくめて、ミヤは言う。
「今日は俺が奢る」
「誕生日プレゼントってことで」
「……分かったよ」
「今回は、お前の勝ちだ」
エデンは、
小さく笑った。
―――
その時。
再び、
教室の扉が開く。
「そうそう、ヨミ君」
担任のメイが、
振り返って言った。
「今日は、チバ君と一緒に教室掃除よ」
「……あっ、そうだった……」
「でも、今日はちょっと――」
「変更はできません」
「……」
「先生、俺が代わります」
ミヤが、
手を挙げた。
「え?」
「ミヤ? でも、俺たち――」
「今日は試合があるだろ」
「忘れたのか?」
「……試合?」
「……あっ、ヤバ!」
「完全に忘れてた!」
「俺からの、二つ目の誕生日プレゼントだ」
「……ありがとう、ミヤ」
「それと……ハヤトには謝っといてくれ」
「任せとけ!」
軽く手を振りながら、
ミヤはそう言った。
エデンは、
その場を後にする。
……
「――次は、お前の番だ」
ミヤは、
誰にも聞こえない声で呟いた。
その唇には、
歪んだ笑みが浮かんでいた。
―――
時間が刻一刻と過ぎていく中、
エデンは夕暮れに染まる街を、全速力で駆け抜けていた。
沈み始めた太陽が、
地平線を赤く染める。
「クソッ……!」
「なんで俺は、いつも何にでも遅れるんだよ!」
「クソ、クソ、クソ……!」
角を曲がった、その瞬間――
――ドンッ!!
何かに激しくぶつかり、
エデンは地面に叩きつけられた。
「……いってぇ……」
ゆっくりと身体を起こしながら、
顔をしかめる。
「まるで……壁にぶつかったみたいだ……」
そして――
ゆっくりと目を開いた、その先に。
深淵のように深い、紫の瞳。
その瞬間、
エデンの身体は――凍りついた。
「大丈夫か?」
見知らぬ男が、
静かに手を差し出していた。
「……す、すみません……」
震える声で謝りながら、
その手を取る。
「前を見ていませんでした……」
「気にするな」
「誰にでもあることだ」
「……本当に、すみません」
「大丈夫だ」
「……ありがとうございます。じゃ、失礼します」
エデンは頭を下げ、
その場を離れていく。
「……また、会うことになる」
誰にも届かぬ声で、
男はそう呟いた。
―――
数分後。
汗にまみれ、
荒い息を吐きながら、
エデンはサッカー場へと辿り着いた。
歓声が、
空気を震わせる。
芝の匂いが、
肺いっぱいに広がる。
――ここは、ホームだ。
「遅いぞ、エデン!」
明らかに苛立った声で、
監督が叫ぶ。
「すみません、アキノ監督!」
「完全に忘れてました!」
「レオ先生から、メモを渡されなかったか?」
「……え?」
「……あのメモ?」
「そう、それだ!」
(ありえない……)
恐怖が、
再び身体を這い上がる。
(……あれは、本当に“現実”だったのか?)
「忘れると思ってな」
「だから、あらかじめ渡した」
アキノは、
淡々と言う。
「お前は、このチームのキャプテンだからな」
「……は、はい」
(きっと、レオ先生が間違えただけだ)
乾いた笑いが、
心の中で響く。
(……そうだ、それしかない)
「なんでお前をキャプテンにしたのか分からん」
頭を掻きながら、
アキノは呟く。
「答えは、ピッチで見せろ」
「はい!」
エデンはスパイクを履き、
力強くフィールドを見つめる。
「――必ず、勝ちます」
(バカなやつだ……)
アキノは心の中で息を吐く。
(だが、ピッチに立つと――別人になる)
(……代表クラスになれる器だ)
「準備はいいか、エデン?」
「はい!」
……
その瞬間。
――風が、止まった。
――鳥のさえずりが、消えた。
――人々が、同時に息を呑んだ。
大地が、軋み、
割れ始める。
皮膚が――
焼ける。
崩れ落ちる。
皮も、
筋肉も、
存在しない。
――残ったのは、骨だけ。
叫ぶ暇すら、なかった。
ただ――沈黙。
神の裁きのような光が、
音もなく、すべてを薙ぎ払った。
……
――そして。
光の、その先で。
爆発した。
―――
BOOM!!
―――
その爆炎は、
すべてを呑み込んだ。
人間。
動物。
建造物。
夢。
何一つ、
残さず。
――そこに残ったのは。
完全なる沈黙だけだった。




