第3章・3:茨の道
ザッ、ザッ!
その少年の速度は、目を疑うほどだった。
山の頂から、シュンとテンザクは静かにその様子を見下ろしていた。
彼の背後では、かつて敵だった獣たちが、今では訓練を支える存在となっていた。
ゴォ……ゴォ……
エデンの呼吸は重く、ゆっくりと空気を裂く。
激しい負荷により、身体は汗に濡れ、疲労はその表情に隠しきれず刻まれていた。
それでも――
栄光へと近づく一歩一歩は、地獄から遠ざかる歩みでもあった。
「悪くないな……」
シュンは、背に巨大な岩を引きずるエデンを見つめながら呟いた。
ドン! ドン!
足取りは重く、筋肉は今にも悲鳴を上げそうだった。
それでも、その瞳に宿る炎は、太陽のように燃え盛っている。
「うおおおおおッ!」
咆哮とともに、エデンはさらに一歩を踏み出した。
―――
ドン! ドン! ドン!
拳は乾いた音を響かせ、
一撃ごとに山全体が震えた。
痛みも、血も関係ない。
拳の皮が剥がれようとも、その猛攻は止まらなかった。
「本当に、間に合うと思うか?」
テンザクは視線を外さずに尋ねた。
「相手は簡単じゃない……下手をすれば、死ぬ」
「正直に言えば……分からない」
シュンは率直に答えた。
「できることは、すべてやった」
「あとは――彼次第だ」
「つまり……意志の力を信じるしかない、か」
「そうだ」
シュンは、わずかに笑った。
―――
数時間後。
エデンは自らの身体に包帯を巻いていた。
全身は痣と、いくつもの傷に覆われている。
背中に刻まれた痕は、
自ら進んで立ち向かうと決めた“地獄”の記憶だった。
(どれくらい時間が経ったのか分からない……)
そう思いながら、黙々と傷を処置する。
(ただ一つ確かなのは……残された時間が、確実に減っていること)
(儀式に間に合わなければならない)
(死ぬことは構わない……だが)
(あのクズどもを倒すまでは、絶対に倒れない)
その瞳は、冷たく、沈んでいた。
―――
キィン、キィン!
金属同士がぶつかる音が、冥界に響き渡る。
ガキン! ガン!
攻防は、次第に激しさを増していった。
突き。
斜め斬り。
横薙ぎ。
縦の一閃。
まるで舞踏のような連撃。
エデンの攻撃は荒々しく、即興的だった。
突き。
受け流し。
斜めの反撃。
肘打ち。
軸足を中心に回転。
逆袈裟。
――しかし。
そのすべてを、テンザクは正確に読み、捌いた。
剣を弾き落とすと同時に、
エデンの体勢が崩れる。
ザシュッ――ドン!
回し蹴りが、エデンの首元に叩き込まれた。
バシャッ!
大量の血が口から噴き出し、呼吸が乱れる。
……
それでも、エデンは立ち上がろうとした。
だが――
ザッ。
冷たい剣先が、すでに喉元に触れていた。
一筋の血が、首を伝う。
エデンは両手を上げ、
剣が乾いた音を立てて地に落ちた。
「……降参だ」
テンザクは刀を鞘に収め、
手を差し出した。
「悪くなかった。来た頃より、ずっと良くなっている」
「……ありがとう」
エデンは呟いた。
それでも、自分にはまだ足りないと分かっていた。
―――
シュンは遠くから、静かにその一部始終を見ていた。
その隣には、
かつて凶暴だった小さなマグマ獣――マグタロが寄り添っている。
彼の傍では、
その獣はまるで大人しいペットのようだった。
(進み続けろ……立ち止まるな)
シュンは心の中で語りかける。
(今日のこの悔しさが――明日の栄光になる)
不意に、脇腹に小さな衝撃。
シュンは微笑み、
岩のような頭を優しく撫でた。
「いい子だな」
その声は、どこか父親のように穏やかだった。
……
日々は、ただ淡々と過ぎていった。
昼も夜も、もはや区別はない。
この地獄では、それらは同時に存在していた。
血と汗の違いも分からなくなり、
悲しみの涙と、幸福の涙さえ区別できなくなっていた。
ドン!
一撃ごとに、彼の中の人間性が削られていく。
キィン!
一太刀ごとに、その純粋さが引き裂かれる。
「うあああああッ!」
叫びは、精神を粉々に砕いていった。
……
時が流れるにつれ、
彼の心も身体も、すでに原型を保ってはいなかった。
胸に残っているのは、ただ一つ。
――復讐。
「……その顔は、どうした?」
テンザクが隣に腰を下ろし、問いかけた。
「テンザク……」
「この数か月、本当によくやったな、エデン」
彼は、わずかに微笑みながら言った。
「だが……一つ、気がかりなことがある」
「何のことだ?」
「お前の“人間性”だ」
「人間性……?」
エデンは困惑したように繰り返す。
「強くなりたいという気持ちも、
復讐に燃えるその想いも、理解できる」
「かつての俺も、同じだった」
「その時、頭の中にあったのは――ただ一つ」
「……何だ?」
「俺の村を滅ぼした連中に、代償を払わせることだ」
「奴らの傲慢によって失われた、
すべての命の分だけ、な……」
……
「俺は、闇と貧困の中で育った」
テンザクは、苦い笑みを浮かべた。
「生きていたんじゃない。
一日一日、ただ“生き延びていた”だけだ」
「力を持つ者は皆傲慢で、
弱者のことなど何とも思っていないと信じていた」
「だが……ある日、あのバカに出会った」
そう言って、彼は視線をシュンへと向けた。
「シュン……?」
「ああ。最初は本当に理解できない奴だ」
「正直、今でもそう思う時はある」
「世界を支配できるほどの力を持っているくせにな……」
「それでも、あいつは“人間”だ」
「認めたくないだろうが――あいつは英雄だ」
「弱者のために戦い、
既存の理を恐れずに立ち向かう英雄だ」
「力は、祝福に見えるかもしれない」
「だが本当は、最悪の呪いでもある」
「生まれた瞬間から背負わされた呪い……」
「それでも、あいつは選んだ。
守るために、その力を使うことを」
テンザクは、エデンの目を真っ直ぐに見つめた。
「その力をどう使うかを決めるのは……
お前自身だ、エデン」
「だがな――」
「怪物になる必要はない」
「お前は……人間だ」
エデンは、その言葉に驚いたようにテンザクを見た。
「どんな道を選んでも、
あいつは命を懸けてお前を守るだろう」
「真意は分からない。
お前に何を期待しているのかもな」
「だが……間違いなく、あいつはお前を信頼している」
「テンザク……」
「世界は、あいつを必要としている」
テンザクは、どこか誇らしげに言った。
「弱者を導く光になると、
あいつは決めたんだ」
「そして……」
「世界は、きっとお前のことも必要とする」
……
エデンは俯き、小さく言った。
「……すまない、テンザク」
「俺は英雄なんかじゃない」
「そんな重荷を背負える人間じゃない」
「ただ……一刻も早く、祖父を取り戻したいだけだ」
「エデン……」
「でも、一つだけは分かった」
エデンは、静かに続けた。
「俺は人間だ。
だから、最後まで人間として戦う」
「……だが」
「すべてを失ったその日、
俺は……まだ人間でいられるのか……?」
その言葉に、テンザクは何も答えられなかった。
彼の目に映っていたのは、
怒りに覆われた戦士ではない。
仮面の奥に隠された、
“普通に戻りたい”と願う、
孤独な少年の魂だった。
そして、その少年自身が――
誰よりも理解していた。
もう、戻れないということを。




