「まっすぐは損なのか」 文書内でも第一章の冒頭に掲げられており、 物語全体のテーマ「正直とは何か」「誠実は損なのか」を象徴するタイトルになっています。
「正直者は馬鹿を見る」と、世間ではよく言われます。損をしないためには、少しぐらいの嘘や誤魔化しは仕方ない——そんな空気が、日常のあちこちに潜んでいます。しかし本当にそうでしょうか。この物語の主人公・潮平真は、子どもの頃から“曲がれない”性質を背負ったまま大人になり、仕事の現場でも家庭でも、誠実でいようとする姿勢を貫き続けます。その真っ直ぐさは、ときに人に感謝され、ときに疎まれ、ときに彼自身を傷つけます。それでも彼は、嘘を重ねて心が鈍っていくことのほうを怖れたのです。
本作は、一人の男が「正直であるとはどういうことか」を問い続けた人生の軌跡です。まっすぐであることが損か得かではなく、「自分を嫌いにならないための生き方」があるのだという小さな確信を、読者のあなたとともに探していけたら幸いです。
終わり
『正直者は馬鹿をみるのか?』
第一章:まっすぐな子ども
誠一は生まれつき嘘が苦手だった。
別に正義感が強かったわけじゃない。嘘を言うと、胸の内側がひどく痒くなる。それが堪らなく嫌だっただけだ。
小学校の作文で「あこがれる人」を書く授業があった。皆が人気の野球選手や動画配信者を挙げる中、誠一は父のことを書いた。
『父は喋らない人です。でも約束だけは違えません』
教師から「もっと有名な人でもいいよ?」と言われたが、誠一は首を振った。
「有名じゃなくていいです。嘘じゃない人がいいんです」
帰り道、同級生にからかわれる。
「誠一って馬鹿まじめ〜」
「うるせぇな。でも馬鹿はやらねぇよ」
その頃から誠一の直線は始まっていた。評価されようが、されまいが、揺れない直線。
第二章:働く理由
高校を出て、誠一は地元の建設会社に入った。
四季に揉まれ、雨天と納期に揉まれ、眠気と積算資料に揉まれ、数字を扱う部署へ配属された。
上司・白川はよく言った。
「数字はいじってもバレないだろ?」
誠一はまばたきせずに答えた。
「数字はいつか工程のツケになって現場で人を潰します。俺は出せません」
白川は笑った。
「お前みたいな馬鹿も必要だ。だが出世は無理だろうな」
誠一は出世したかったわけじゃない。
俺は、嘘のない評価よりも、自分を嫌いにならない評価が欲しいだけだ
それが彼の働く理由だった。
第三章:正直の摩擦
三十代に入ると、正直はただの性格じゃなく摩擦になった。
「工期を短く見積もって」と頼む営業
「品質は問題ないことに」と口裏合わせを求める同僚
事故報告を棚上げしようとするプロジェクト責任者
誠一は全部に答えた。
「嘘は線じゃなくて鎖になる。俺はそれを繋がない」
誰かが切れた。
「社内の空気読めよ!」
誠一は椅子を鳴らさず立ち上がり、低く言った。
「俺が読めないのは、空気じゃなく嘘の価値だけだ」
会議室はざわつき、彼を避ける視線は濃くなった。
だが不思議と、嘘が嫌いな若手だけは、いつも誠一の斜め後ろに立っていた。
いつの時代も、直線の後ろには直線を信じたい誰かがいる
第四章:発症と落下
誠一が四十七歳になった冬、風は細く冷たかった。
朝の現場巡回、鉄骨の詰所、積算チェック。毎日が睡眠を削るスケジュール。
まっすぐすぎる姿勢は、しばしば自分への無理もまっすぐだった。
午前七時三十八分。
左視界にノイズ。まっすぐ立っていた右足の感覚が消える。
まだだ…仕事はまだ途中だ…
それが最後の意識。
次の瞬間誠一は、コンクリート舗装に引かれた白線の上に倒れこんだ。
脳梗塞。
救急搬送。
生還。
だが左半身は硬直したまま戻らなかった。
病室で医師が言う。
「運がよかったですね」
「運じゃねぇです。嘘をつかなかった積み重ねの直線の上で倒れただけです」
医師は驚き、白衣の袖でカルテをめくりながら呟いた。
「やっぱり、あなたはまっすぐな人だ」
第五章:不自由でも曲がらぬ選択
身体は自由でなくなった。だが腐る理由まで自由を失ったわけじゃない。
誠一は言う。
「障害は曲線じゃない。ただの勾配の変化だ。方向は変えねぇよ」
杖歩行。握れない左手。
妻・尚子は毎日味噌汁の香りだけは誤魔化さなかった。
「具が多いと食べにくいでしょう」と具を小さく切る。
だが味噌の濃さだけは変えない。
ある日、娘・灯がこう聞いた。
「パパ、正直でいて報われない時どうするの?」
「報われなかった線を引き直せばいい。俺は嘘を書き直せないだけだ」
灯は父の曲がらない背を見てうなずいた。
「報酬は、曲がらない自分でいられるってこと?」
誠一は初めて即答しなかった。
窓外に揺れる芝草の直線を目で追いながら、少しだけ笑った。
「……それも、あるかもな」
第六章:連帯する定規になる
誠一は職場には戻れなかった。だが現場には戻った。
身体が不自由な監督は不要と思った会社は去った。
だが別の会社は誠一を定規役で迎え入れた。
「誠一さんの目は誤魔化せないから」と品質検査担当に。
現場職人たちは言う。
「誠一がOKって言うなら、それが真っ直ぐだ」
誠一はもはや孤独な正直者ではなく、狂わない定規(物差し)として立っていた。
「助けてもらってるんじゃない。線が狂わぬ役割を俺が担ってるだけだ」
杖でも進行方向は狂わない。
左手が動かぬなら右目で測り、左脚が遅いなら工程で測る。
まっすぐすぎた男は、今や誰かの狂わない定規となった
第七章:海辺の答え合わせ
退職して三年。
誠一はもう監督職ではなかった。
だが現場にはまだ立っていた。
杖で歩く左脚は以前より太く短く感じた。握れぬ左手は冷えて重い。
冬の海風が指の隙間を抜ける。
その隙間で、彼の人生の"答え合わせ"が始まっていた。
幼馴染の泰は、仕事用でも世間話でも、今も変わらず誠一を「馬鹿」と呼んだ。
だがその響きは昔と違った。どこか救われたい者の声に似ていた。
泰はテトラに座り、防波堤に打ち寄せる波を指で示した。
「誠一、俺たちの同期、今どうなってるか知ってるか?」
誠一はゆっくり座り、うなずく代わりに空を見た。
「嘘で進んだ奴は…転んだんだろ?」
泰は驚き、そして笑った。
だがすぐに目尻が赤く濡れた。
「そうだ。嘘で工程をごまかした奴は品質不良で損失を出して退場。
口裏合わせした奴は調査で首。
逃げ回ってた営業はクレームの板挟みで倒れた。…誰も無事じゃねえ」
誠一は乾いた波音を聞きながら、ひどく穏やかな瞳で言った。
「泰、俺はな――
無事でいたかったわけじゃない。
無実でいたかっただけでもない。
自分を嫌いにしない自分でいたかっただけだ」
波が沈黙したように聞こえた。
泰は、防波堤の白線を見つめた。その線はところどころで塩に溶けて薄くなっていた。だが曲がってはいない。
「つまりよ…正直は戻ってこなくても、方向だけは狂わねえってことか」
「ああ」
「お前みたいな奴ばっかりじゃ会社は回らねえって言われてたよな?」
「回らねえかもな」
「でもよ…嘘で回した会社、人間だけが止まったんだよ。
工事も工程も、心も人生も」
泰は笑って泣いていた。
誠一は横顔でそれを見た。
そして初めて「馬鹿と言われ続けた自分」を誰の評価も介さず受け止めた。
「やっぱりお前は…“逃げなかった馬鹿”なんだな」
「そうかもな。
でも、その道しか選べなかったんだよ」
誠一は自分の左胸に手を当てた。動くはずのない左手で、そこだけは掴めた気がした。
第八章:娘が継いだもの
娘・灯が十七歳になった春、誠一はふと問われた。
「パパの病気があっても、正直でいるって後悔しない?」
灯はまっすぐだった。誠一譲りの直線。
だが誠一と違うのは、彼女は痛みに気づく嗅覚を持っていたことだ。
誠一は味噌汁をすすり、少し笑った。
「灯。正直はな…見返りじゃねえんだ。報酬でもねえ。
でも、“自分を嫌いにさせない免許証”みたいなもんかもな。
これが無いと、俺は俺を信用できないんだよ」
灯は箸を置き、静かに父の言葉を呑み込んだ。
そして続けた。
「私が学生でノート書くとき、“これでいいよね”って誰かに聞きたくなる。
その時ふと、『逃げない直線』をパパからもらってたって思ったんだ」
誠一は即答できなかった。
だがそれが答えだった。正直は感染するウイルスじゃない。継承する火だ。
彼は娘の額を右手だけでそっと触れこう返した。
「聞くな。でも逃げるな。迷ってもいい、曲がるな」
灯は涙を見せなかった。
その代わり、父よりも揺れない直線の視線でこう宣誓した。
「嘘で回す人生は利息が高い。私は後払いできないから、先に正直でいる」
その直線は未来へ伸びていた。誠一より明るい方向へ。
第九章:白線が消えても
白線は消えることもある。
病気、事故、会社、役職、評価。
線はいつか必ず摩耗する。
だが方向は残る。
誠一は海辺で回想した。
俺の人生は白線の上で倒れた。
けれど、その線があったから俺の方向は曲がらなかった。
借金、施工不良、事故、クレーム、人間の板挟み。
それを払うのは未来の他人ではなく、“嘘を書いた自分自身”だ。
ならば俺は、線がなくなっても…方向だけは残したい。
彼は海風の中で静かに知った。
正直が返ってこない時、人は他人を嫌いになる。
嘘が返ってくる時、人は自分を嫌いになる。
俺が拒み続けたのは、他者じゃなく未来の嫌悪だった。
終章:答えは「線」ではなく「矢印」
六十を過ぎた誠一は、作業小屋にヘルメットを置き、代わりに杖を握った。
「正直者は、馬鹿を見るか?」
答えはすぐ出た。
「見る」
だが灯が続けた。
「でも、“曲がった馬鹿”にはならなかったでしょ?」
泰も続けた。
「馬鹿を見ることは避けられない。
でも嘘を見る人生よりは、ずっとまっすぐだ」
誠一は目を細め、波のほうへ身体の重さごと傾けながら笑った。
「線は消えるよ。でも矢印は残る。
俺は、正直の“方向”で歩いてただけだ。
それだけは…今も先も、変えねえ」
海風が、その言葉を聞き取れる声で返した。
“馬鹿はしないでおこうな、
それは奇跡の海鳴りでも神託でもなかった。
ただ一方向に吹いた、人が自分を許せる速度の風だった。
この物語を書いた理由は、主人公・誠一のような特別な男がいたからではありません。
私自身が、「嘘が書けない人生」を歩いてきたからです。
脳梗塞で身体の自由を失ったとき、私は初めて「杭でも定規でもなくなった“ただの人」になりました。
できる仕事は減り、速度は落ち、世界のほうが私を追い越していく。
それでも――いや、それでもだからこそ――思ったのです。
「次は何を掴むか」ではなく、「どちらの方向へ足を置くか」を問おう、と。
障害者雇用の現実には、理解しがたい面もあります。
自分でも情けなくなる日も、投げ出したくなる感情も正直に存在します。
けれど、その感情ごと誤魔化さずにいようとしたとき、私は誠一と同じ場所に立っていました。
人に誠実でいる前に、自分に誠実でいたい。 その一心です。
この作品のテーマは問いかけです。
「正直者は馬鹿を見るか?」
はい、見ます。これからも見るでしょう。
評価や見返りは、いつも同じ形で戻るわけではない。
それでも最後に残るのは、
「嘘をついた自分を、自分で裁かなくてすむ」
その一点ではないでしょうか。
鎖になる未来よりも、曲がらない今を選べただけで、人は自分の物語を続けられる。
書くことは苦しい。生きることも苦しい。
でも嘘を書かずに苦しむなら、それは自分の選んだ苦さだ。
その苦さだけは胸に置いても腐りません。むしろ人を支える“重さ”になります。
この物語が沖縄の海風のように、誰かの背をそっと押す方向になったなら、それで十分です。
たとえゆっくりでも、曲がっていない一歩なら、いつか必ず夕陽にも朝陽にも届くのだから。
二〇二五年 城間 蒼志




