美貌を失い、愛を得る
まるで、虫を追い払うような声音だった。
「――アマラ。婚約は破棄する。それから……おまえは王都を追放だ」
王太子は高座に腰掛け、飾り立てた衣装の袖を退屈そうに揺らしながら告げた。
アマラの胸がきゅ、と縮み、思わず身体が震えた。
これまで外交儀礼も、民政の調整も、予算管理も、王太子妃候補としての責務をすべて担ってきた。その一つひとつが、国の未来のためだった。
なのに。
「婚約を解かれるのは……まだ分かります……
ですが……追放など……どうしてそのような仕打ちを……」
震える声が、石壁に吸い込まれる。
王太子は顔をしかめ、煩わしげに目を背けた。
「美しいミリアを妬んで虐めたのだろう? そんな者を、そばに置けると思うか?」
彼の横では、ミリアがうっとりと身を寄せていた。
今や神聖視される“聖女”の微笑が、毒のように甘い。
ミリアは王太子の腕に細い指を掛け、アマラを見下ろす。
「殿下。美醜は、人そのものを映します。アマラ様の醜さが……その見目に、現れたのでしょう」
その声ははっきりと、勝利の震えさえ帯びていた。
アマラはかつて“国一の美貌”と称えられた。
だが今、その面影はどこにもない。
――ミリアに奪われたからだ。
けれどその真実を知る者は、ミリア以外にいない。
ミリアはさらに王太子へ身体を寄せ、甘ったるい声音で囁いた。
視線だけが、鋭い刃のようにアマラへ向けられる。
「殿下……アマラ様はいずれ災いをもたらします。どうか……早く追放を」
「私は……っ、そんなことはしていません! どうか、お信じください……!」
アマラは必死に訴える。だが王太子は、心底うんざりした声を返すだけだった。
「見苦しい。……誰か、さっさと連れていけ」
「殿下っ……! どうか……御慈悲を……!」
兵士たちが両腕を掴む。冷たい鉄の指が、まるで罪人のもののように食い込んだ。
連れ出される足元で、使用人たちが一瞬だけ憐れむような目を向ける。だがすぐに、皆そろって視線を逸らした。
「アマラ様、心配なさらないで……
これからは私が、あなたの座に成り代わりますから」
廊下へと引きずられる直前、アマラは振り返る。
最後に目に映ったのは――
王太子と、聖女ミリアの嘲笑だった。
◆
ミリアは、つい最近までただの平民の娘だった。
孤児院育ちで、生まれつき容姿に恵まれず、肌は荒れ、歯並びは悪く、髪はいつも絡まり、誰からも「地味で冴えない子」と扱われた。
だが心の奥には、努力とも勤勉とも呼べない――
ただ“歪んだ野心”だけが、醜く沈殿していた。
「どうせ……美しさがすべてなんでしょう。努力なんて報われない」
そう言って働くわけでもなく、読み書きもろくにしなかった。
そんな彼女は、孤児院を訪れては子どもたちへ施しをするアマラを見ていた。
美しく、慈悲深く、誰からも愛される令嬢――。
ミリアは心の底から憎んだ。
(……あんたみたいな女がいるから、私は一生報われないんだよ)
(美しく生まれたから、慈悲深く振る舞えるんだ。ブスになったらどうせ落ちぶれるくせに)
いつしかミリアは、
“美さえあれば、王太子妃になれる”
そう本気で思うようになった。
そんな折、天からの加護が降り、
彼女は“癒しの力”を授かった――聖女になったのだ。
だがミリアは、その事実を誰にも言わなかった。
分かっていたからだ。
この容姿では、聖女だろうと、王太子に見初められることはない。
王太子の“美女好き”は、国内の誰もが知るところだった。
そしてアマラが王太子妃候補であり続けたのも、王妃が不在で、王太子が自由奔放だからこそだ。
そんなある日――彼女は一人の魔術師に出会う。
男の母は不治の病で、長く床に伏していた。
ミリアは薄く笑って告げた。
「……お前の母を治してやる。
ただし、礼として――私の望む“魔道具”を作れ」
魔術師は迷った末、ミリアの望んだ魔道具を完成させた。
そしてミリアは迷いなく、孤児院に訪れたアマラに向かって使用した――
翌日。
「きゃぁぁぁっ!」
アマラの部屋から、悲鳴が上がった。
鏡に映っていたのは、もはや自分とは思えない顔。
かつて“陽光の糸”と讃えられたブロンドは、乾いた藁のようにくすみ、
透き通る白肌は斑に荒れ、
整った目鼻立ちは、見る影もないほど崩れていた。
王太子は彼女を見るなり、あからさまに顔を歪めた。
「……なんだ、その顔は。気持ち悪い」
その冷たさは、かつて愛を囁いた男のものとは思えなかった。
アマラは崩れ落ち、震えながら泣いた。
だが泣いている暇など与えられない。
王太子妃候補として処理すべき仕事は、終わりの気配すらなかった。
海国との輸送路の再契約書。
東方の騎馬民族との停戦条件の見直し案。
隣国第二王子殿下の来訪の延期通知――
アマラは唇を噛み、醜く変わった顔を隠しながら机に向かった。
──数日後、王都がざわついた。
“美しい聖女が現れた” と。
その噂を聞きつけ、王太子は即座に命じた。
「その聖女を、すぐに王宮へ呼べ!」
そして現れたのは――
魔道具を使い、アマラから美を奪ったミリアだった。
王太子の目が、あからさまに輝いた。
「……なんて美しい!
前のアマラより、美しい……!」
ミリアは気高さを装い、深く礼をした。
「王太子殿下にお目通り叶い、光栄に“あられまして”ございます……」
それから王太子は、ミリアに夢中になった。
ミリアは身勝手な要求を、惜しげもなく放つ。
「宝石が欲しいわ」
「宮廷に私専用の部屋を」
「税金をもっと、王都の装飾に回して」
王太子はそのたびにうっとりと頷いた。
「ミリアが望むなら、すべて与えよう」
誰が止めても無駄だった。
王太子は、ミリアが微笑むたびに理性を失っていった。
アマラが必死に国政を支える陰で、
王太子はゆっくりと、破滅へと沈んでいく。
――ここから、全てが崩れていった。
◆
アマラは、兵士に左右を固められ、城門をくぐった。
追放に際し、ミリアに宝飾もドレスも奪われ、
身分を示すものは何ひとつ残されていない。
連れて行かれた先は、王家の馬車ではなく、荷物運搬用の粗末な荷台だった。
木枠は軋み、座る場所すらなく、板は冷たく湿っている。
馬が歩みを進めるたび、荷台は大きく跳ね、身体が何度も打ちつけられた。
それでもアマラは抵抗しなかった。
膝を抱きしめ、ただ涙を流し続けていた。
「……どうして……」
声にならない嗚咽が胸の奥で震える。
父と母は優しかった。
家族はきっと抱きしめてくれるだろう。
だが、婚約破棄され追放された娘が戻れば、家門の名誉は地に堕ちる。
跡継ぎである弟の未来にも傷がつく。
だから頼れない。
分かっているのに、胸が軋むほどに苦しかった。
荷台はただ黙って進む。
やがて国境付近の森で兵士たちが馬車を止めた。
「……ここまでだ。行け」
アマラは地面に下ろされる。
そこは木々が鬱蒼と茂り、人が住んでいる気配などない。
兵士たちは振り返りもせず馬を返し、アマラは一人取り残された。
風が冷たかった。
息を吸うたび胸に痛いほど染みた。
それでもアマラは足を前に出した。
歩いていなければ、泣き叫んでしまいそうだったから。
「……歩かないと……」
だが、歩けば歩くほど森は深くなり、どこかに辿り着く気配は消えていく。
息は荒く、視界は揺れ、足はもう鉛のようだった。
やがて、膝が折れた。
「……あ……」
地面に倒れ込む。
冷たい土の匂い。
枯葉の感触。
ここで死ぬのだろうか――
そんな思いがぼんやりと浮かんだが、それさえどうでもいいような、遠い感覚だった。
(……もう……楽に……なりたい……)
そのまま、意識は暗闇に沈んだ。
……どれほど時間が経ったのだろう。
がさ、と草を踏む音。
近づく足音。
「……おい。どうした……」
低い声が、すぐそばで漏れた。
荒い呼吸と共に、屈みこむ気配。
腕が持ち上げられる。
温かく、粗野な手つき――だが、乱暴ではなかった。
「……こんなところで寝るな、死ぬ気か」
その声を最後に、アマラの意識はまた深みに落ちた。
気を失ったまま、彼女は男の腕に抱え上げられ、森の奥の家へと運ばれていった。
◆
アマラは、ふわりと温かな空気の中で目を覚ました。
天井が見える。
粗末だが清潔な木の梁。
壁には小さな幾何模様の布が掛けられている。
鼻先をくすぐる、温かなスープの匂い。
身体が布に包まれている――ベッドだ。
じんわりとした温もりが、凍え切った心にまで染み込んでいく。
身を起こそうとした瞬間、低く落ち着いた声が響く。
「……気がついたか」
アマラははっとして身を起こす。
視線の先には、粗野な革鎧をまとった男がいた。
乱れた髪、無精ひげ、だが瞳だけは鋭く、どこか深い色を宿している。
(……この方が……助けてくれた……)
胸が熱くなる。
礼を言うことすら忘れていた自分に気づき、慌ててベッドの上で身を正した。
「た、助けてくださり……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
言葉が震えるのは、寒さのせいではない。
名乗るべきだ――と思ったが、喉が凍る。
“アマラ”という名前は、この国でそれなりに知られている。
追放されたとはいえ、名家の令嬢であり、王太子妃候補だったのだ。
そして何より……アマラという名の女は、あの日、王都でいなくなった。
実質的に“死んだも同然”なのだ。
アマラは息を震わせながら、ゆっくりと言った。
「私……カーラといいます」
男は特に反応を示さず、ただ木皿に注いだ湯気立つスープを差し出した。
「まずは、食え。身体を温めるほうが先だ」
アマラの手が震えた。
受け取った瞬間、体温がじわりと掌に広がる。
「……っ……」
涙がこぼれた。
久しぶりだった。
こんなふうに“人として扱われる”ことが。
王太子はアマラの変わり果てた姿を見たとたん、蔑み、罵り、触れることさえ嫌がった。
周囲の者も、はじめは同情の眼差しを向けたが、やがて避けるようになった。
私は、何ひとつ変わっていないのに――
王宮という場所で、アマラは無音で孤立していったのだ。
だが、この男は――
哀れみの色も、蔑みの色もない。
ただ、静かに見守っている。
「我慢するな……辛けりゃ泣いていいんだ」
男の声は、ひどく無骨で、ぶっきらぼうで。
けれどその実、とても温かい声だった。
アマラは木椀を抱いたまま、嗚咽を漏らしながら涙をこぼした。
こんなにも優しい味がするスープは、初めてだった。
◆
その男――エリンは、それ以上何も聞かなかった。
名も、素性も、なぜ森で倒れていたのかさえ。
ただ一言、
「ここに居たいなら、好きにすればいい」
そう告げただけで、アマラを追い出すことはなかった。
アマラは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
醜い姿になり、誰からも避けられた自分を、エリンはそのまま受け入れてくれた。
恩返しをしなければ、と彼女は出来る限りのことをした。
小屋の掃除。
薪の準備。
食器洗い。
洗濯。
どれも、貴族として育ったアマラには慣れないことばかりだった。
布を絞れば水は飛び散り、薪はうまく割れない。
皿を運べば手が震えて落としそうになる。
「……また失敗してしまって……」
指先に泥がつき、髪は乱れ、服も汚れていく。
アマラは情けなさで胸が痛くなった。
こんな事もできないなんて……。
今の自分は本当に、何の価値もないのだろうか。
俯いていたアマラのそばに、エリンが無言で近づく。
かすかに震えるアマラの指先へ、そっと大きな手が触れた。
洗い物の冷たい水で荒れ、慣れない薪割りで細かい傷がついた手。
エリンはその手を静かに包み込み、低く囁いた。
「……よく、ここまでやったな」
そして、穏やかな声で言った。
「ゆっくりやればいい。
慣れてないなら、出来なくて当然だ」
「……ありがとうございます……」
その優しさに、アマラの強張っていた心が、ゆっくりとほどけていく――
アマラはようやく、
人として息をしてもいいのだと思えた。
◆
エリンが何の仕事をしているのか、アマラにはわからなかった。
朝、薄明かりのなかで無言のまま小屋を出ていき、夜遅くに静かに戻ってくる。
ときおり、炉のそばで短い手紙を書いていることがあった。
書き終えるとすぐに外へ出ていく。
(……金糸の便箋、誰に送るのかしら……)
けれどアマラは問わなかった。
自分の過去を聞かれないのに、相手の秘密を暴くような真似はできない。
それは礼を欠く。
だからアマラは、ただそっと微笑み、
「おかえりなさい」
と迎えるだけだった。
──そうしているうちに、彼女は少しずつ笑顔を取り戻していった。
宮廷で過ごしていた日々は、思い返せば重責と緊張の連続だった。
外交文書に追われ、派閥の駆け引きに気を遣い、人望を得るためのふるまいも必要だった。
それらは確かにやりがいがあり、誇りでもあった。
だが今、小さな小屋の中での生活は――
驚くほど穏やかで、心が静かに満たされていく。
薪を割る音。
煮立つ鍋のやわらかな湯気。
エリンが椅子に腰掛け、黙々と刃物を研ぐ姿。
そんな日々の中で、アマラはふと、自分の髪を整えたり、
服のほつれを丁寧に直すようになっていた。
(せめて……身綺麗にはしておかないと)
ある日、髪を結い直して現れたアマラに、
エリンがちらと視線を上げ、短く言った。
「……いい。似合ってる」
たったそれだけなのに、胸の奥が熱を帯びた。
(あの方といた時には……こんな気持ち、抱いたことがなかったわ)
王太子のそばにいた頃、アマラは常に気を張り詰めていた。
頼ることも、甘えることもできず、
“自分がしっかりしなければ”と背筋を固く伸ばし続けていた。
けれど今は――ただ落ち着く。
エリンの前では、息を詰めていなくてもいい。
沈黙が怖くない。
見た目を気にして怯える必要もない。
そのすべてが、アマラにとっては初めて知る“安らぎ”だった。
(……ずっと、このままならいいのに)
そんな甘やかな願いが、胸のなかでふわりと花開く。
気を紛らわせるように、アマラはエリンのシャツを膝に広げ、ほつれた部分を縫い始めた。
不器用な縫い目だけれど、何度も解いてやり直し、ひと針ひと針に気持ちを込める。
小屋の扉が軋む音がした。
「……帰ったぞ」
エリンが戻ってきた。
アマラはぱっと顔を上げ、胸が少し高鳴る。
「エリンさん、あの……今日は、ちゃんと縫えました」
差し出したシャツの縫い目は少し曲がっている。
けれど昨日よりは格段にましだった。
エリンはそれを見ると、ふっと短く笑った。
大袈裟でない、ほんのわずかな笑み。
だがアマラの胸を温かく満たすには十分だった。
「……悪くない。着られる」
それだけの言葉なのに、アマラは胸の奥がぽっと熱くなる。
褒め言葉に慣れているはずなのに、
これほど嬉しいと感じたのはいつ以来だろう。
小さな小屋のなかで、暮れゆく陽が二人の影を寄せ合っていた。
◆
そんな穏やかな日々が続いたある夕暮れ、
アマラが食器を片づけていると、帰ってきたエリンが珍しく口を開いた。
「……近いうちに、この国を出て、祖国に帰る」
手にしていた木皿が、かすかに震えた。
「……この国……では、なかったのですか?」
アマラは思わず問い返していた。
エリンがこの森に住んでいるのだから、当然この国の人間だと思い込んでいたのだ。
エリンは火の灯りの中、影を揺らしながら答えた。
「違う。……俺は別の国の者だ。
そろそろ戻らなければならない」
その声音に嘘も迷いもなかった。
事実だけを静かに告げる、あのいつもの口調。
アマラの胸が、ぎゅうっと締めつけられた。
(……帰る……? ここから……いなくなる……?)
身体の力が抜け、椅子の背に手をつかないと立っていられなかった。
“私も……どうか連れていってください”
喉の奥まで出かかった言葉は、そこで止まった。
こんな醜い姿で、家事もままならない。
ついて行けば、迷惑にしかならない。
自分はただ、重荷になるだけだ。
アマラは強く手を握りしめた。
震えが収まらない。
「……そう、ですか……」
視界が滲む。
こぼれ落ちそうになる感情を必死に抑え込み、唇を噛む。
そして――
アマラはゆっくりとエリンを見上げた。
「貴方の……優しさに……私は救われました」
言葉にすると、胸がひび割れるように痛い。
だが、それでも言わなければいけなかった。
「今まで……本当に、ありがとうございました……」
声が震えて、途中で途切れた。
それでも、頭を深く下げる。
感謝の言葉しか、どうしても出てこない。
アマラの肩がかすかに揺れ、涙が膝に落ちた。
エリンは、ただ静かにその姿を見つめていた。
◆
アマラは一晩中、涙をこぼしながら針を進めていた。
縫い目が滲んで見える。
それでも手を止めたら、心が壊れそうだった。
(……どうか、この方が……祖国に帰っても、幸せでありますように)
祈るように針を刺す。
強い指先を思い出しては、胸が震えた。
やがて、ほつれひとつないシャツが仕上がる。
アマラは目元を拭い、そっと畳んだ。
エリンはいつの間にか、戸口からその背中を見ていた。
声をかけるでもなく、ただ静かに、アマラの震える肩を見つめていた。
そして――出発の日。
アマラは完成したシャツを胸に抱え、エリンの前に立った。
涙を堪え、微笑みを作る。
「これ……縫わせていただきました。
どうか……お元気で……」
その声はかすかに震えていた。
エリンは受け取ったシャツを静かに見つめ、そして尋ねる。
「……これから、どうするつもりだ」
アマラはほんの少し俯き、
けれど勇気を振り絞るように顔を上げた。
「ここで……暮らしていこうと思います。
貴方のおかげで……家事も、一通りこなせるようになりましたから」
なけなしの笑みを浮かべながら言う。
その笑顔は弱々しく、今にも崩れそうだった。
エリンはしばし黙り、背を向ける。
「……そうか」
ただそれだけを言って、歩き出した。
ザッ……ザッ……と足音が森の道に消えていく。
その背中が遠ざかるたび、アマラの胸に空いた穴が大きくなっていく。
風の音だけが残り、世界から色が剥がれ落ちたようだった。
やがて、耐えきれなかった。
アマラはその場に崩れ落ち、声をあげて泣いた。
「……っ……う、う……!」
行かないで……行かないで!
置いていかないで……!
ひとりに……しないで……
顔が崩れた時も、追放を言い渡された時も、
ここまで胸が裂けそうになったことはなかった。
その痛みの正体に、アマラは気づく。
(ああ……私は、あの人が……好きだったのね……)
森で差し出してくれた無骨な手も、
静かに見守ってくれたあの眼差しも、
言葉少なく寄せてくれた温もりも――
すべてが、こんなにも愛おしかったなんて。
初めて、誰かを愛したのだと理解した。
追いかけて、伝えたかった。
けれど、醜い姿で拒まれるのが――
恐ろしくて、足が一歩も動かない。
アマラは初めて、この顔を呪った。
「神様……お願いします……どうか……元に戻して……!!」
震える手で顔を覆い、地面に伏して泣き叫んだ。
だが――
どれほど祈っても、
どれほど涙をこぼしても、
魔法は解けなかった。
エリンの背中が見えなくなっても、
アマラは地面に座り込み、膝を抱えて震えていた。
行ってしまった方角を、涙で滲む視界のまま、ただ見つめ続けて。
アマラはいつまでも――いつまでも泣き続けていた。
◆
その頃――王宮は、まるで別の国になったかのように歪んでいた。
ミリアは、まるで長年押し殺してきた欲望を解き放つように、好き放題に振る舞っていた。
「まあ、素敵だわ……これが王妃の宝石? 全部、私の部屋に運んでおきなさい。
だって私は“聖女”なのよ? 美しい聖女には、美しい物がふさわしいでしょう?」
侍女たちは戸惑いながらも従うしかなかった。
彼女の指先にあるのは、聖女の地位。
王太子の寵愛。
そして――一夜にして奪った国一の美貌。
聖女は鏡の前で笑う。
奪った顔を、誇らしげに。
「ほらね。やっぱり“美貌”さえあれば何だって叶うのよ。
笑わせるわ。努力だの品位だの……そんなもの、役に立たないじゃない」
慈善活動で民に慕われるアマラを見て、
“美しいだけの女が称賛される”のが許せなかった。
だが、今は違う。
王宮は彼女の庭になった。
「殿下ぁ……今日は少し疲れてしまいましたの。
お仕事なんて、後でよろしいでしょう? 私を慰めて?」
王太子は、かつて見せたことのない顔で微笑んだ。
「そうだな。仕事など後回しでいい。お前の願いなら何でも聞こう」
アマラが絶対に言わなかったわがまま。
慎み深く、責任を放らず、王太子の前で弱音を見せない――
そういう彼女と真逆な聖女の“甘えと依存”は、
王太子には新鮮で、強烈な刺激だった。
王太子は日に日に聖女に傾倒し、
政務は山のように積み上がっていく。
「殿下、許可なく宝物庫の宝石を持ち出すのは……」
重臣が進言すると、
ミリアは即座に王太子の腕に縋り、涙を浮かべた。
「ひどい……! 私、虐められました……!
私に嫉妬して、お立場を利用して……!」
王太子の表情が冷える。
「……無礼を働いたのか?」
「い、いえ、そのようなつもりでは……」
「ならば口を慎め。聖女を泣かせるような者に、王宮に立つ資格はない」
ミリアの微笑みは勝ち誇ったように深まった。
王は病に伏して床から起きられず、
王妃はすでに亡くなって久しい。
本来なら、王太子を支え、王宮を動かしていたのはアマラだった。
王太子妃となるべき教育を受け、
政務を整理し、
貴族たちをまとめ、
王国の“柱”として働いていたのだ。
だが彼女がいない今――
その役目を担える者は誰もいない。
ミリアは王宮を食い荒らし、
王太子はそれを止めるどころか溺れきっている。
重臣の一人が恐る恐る進み出て、声を絞る。
「……聖女様。
治療院へのご同行をお願いしたく……
各地で病が広がり、癒しの力を求める声が――」
ミリアはうんざりしたように片手を振った。
「今、忙しいのよ。
私の髪飾りの選定が終わっていないの。
治療院なんて、後でいいでしょう?」
重臣は顔色を失い、深く頭を下げて下がるしかなかった。
ミリア自身は気づいていなかった。
“聖女の力”が日に日に弱まっていることに。
人を癒すための祈りを、もう何日も捧げていないことにも。
王宮は静かに、確実に――
崩れ続けていた。
◆
エリンが去ってから、アマラは彼の小屋で静かに暮らし続けていた。
エリンと過ごした日常の残り香で、アマラはそこにすがるように生きていた。
(……もしかしたら、帰ってくるかもしれない)
そう思う瞬間が何度もあった。
森で枝が折れる音がすれば胸が跳ね、夕暮れに影が揺れれば扉を見つめた。
だが次の瞬間、
(……そんなはずないわ。あの方には帰る場所があるのだから)
と、必ずその淡い期待を打ち消す。
希望と諦めが波のように胸を反復し、アマラはそのたびにひとり、静かに涙を拭った。
そんなある日だった。
小屋の扉が、コン、と軽く叩かれた。
「……誰?」
返事もないまま扉が開き、見知らぬ男が立っていた。
黒衣に身を包み、鋭い眼光の男が立っていた。
袖口には、小さな幾何模様の刺繍がちらりと覗く。年齢はエリンより少し若いだろうか。
「貴女が――カーラか?」
唐突な来客に、アマラは思わず口をついて出た。
「はい……」
男はアマラをじろりと観察し、眉を寄せた。
「……?」
「え……? あ、あの……どなたで……?」
問い終える前に、男は冷やかな声で言い放った。
「いや、失礼……あなたに用がある。来てもらおう」
「え?ど、どうして……」
アマラが一歩下がった瞬間、男は指先を軽く弾いた。
青白い魔力が足元に広がる。
その紋様は一瞬で小屋を呑み込み、視界がぐにゃりと歪んだ。
「――っ!」
風も大地も消え、身体が宙へ引きずり上げられるような感覚。
瞬きした時、世界はもう別の場所だった。
重厚な石造りの柱。
赤い絨毯。
高い天井を照らす魔灯の光。
見覚えのない――
だが明らかに王宮のような豪奢な造り。
アマラは震える声で呟いた。
「ここは……?」
男は黒衣を翻し、ぞんざいに答えた。
「アルヴァン王国の宮廷だ。
俺はこの国の宮廷魔術師――カデル」
アマラの心臓が強く跳ねた。
隣国。
宮廷。
魔術師。
全てが突然すぎて、まったく理解が追いつかない。
カデルはアマラを一瞥し、わずかに眉をひそめた。
「……殿下が連れて来いと言った。事情は向こうで聞け」
「……殿下、が……?」
アマラの視界が揺れる。
隣国アルヴァンの“殿下”。
王族が――私を?
まさか、自分の素性が調べられたのでは。
王太子に婚約破棄された元・王太子妃候補。
追放された、見捨てられた女。
(確かに……前王太子妃候補だった私なら、価値はいくらでもある)
喉がひくりと震えた。
(――政争の駒。
弱みの暴露。
“持っている”だけで前国への牽制になるわ……)
アマラの膝が震え、胸が冷たく締めつけられる。
呼吸が浅くなり、足元の感覚が遠のいていく。
「どうして……私なんですか……?
私には……何の価値も……」
絞り出すような声に、カデルは興味なさげに肩をすくめた。
「さあな。
殿下が『必ず連れて来い』とだけ言った。
……お前がどう思おうと、ここまで来た以上、戻る道はない」
アマラの心臓が跳ねた。
(どうしよう……
私……これから……どうなるの……?)
煌びやかな宮廷が目の前にあるはずなのに、
アマラの世界はじわじわと暗く沈んでいった。
◆
豪奢な謁見室の扉が静かに開いた。
カデルが無言で一礼し、脇に避ける。
その向こうから――
ゆっくりと歩み寄ってくる男がいた。
その男は、長い髪を後ろで束ね、深い紺の礼装に金糸の紋をまとっていた。
剃り上げた頬は鋭く引き締まり、まっすぐに伸びた背筋と静かな気迫が、息をのむほどの威厳を帯びている。
凛とした立ち姿は、まさしく王族。
だが――
その瞳だけは同じだった。
森でアマラを見つめた、あの静かで深く、あたたかな眼差し。
アマラの胸が大きく跳ねる。
「……エ、リン……さん……?」
呆然と呟くと同時に、反射的に頭を下げていた。
王族の証。
肩章、飾り紐、腰剣――
目に映る全てが、一瞬で現実を突きつけてくる。
(エリンさんが……王族……?
そんな……まさか……)
震える思考の中、男は歩みを止め、静かにその名を呼んだ。
「……顔を上げろ、アマラ」
カーラではなく。
“本当の名前”を。
その声だけで、胸がじわりと熱を帯びる。
エリンはまっすぐに見つめたまま名乗った。
「……俺はアルヴァン王国・第二王子、エルネストだ。
諜報と査察を担っている。
任務であの国に渡り、内乱や外戚の動きを探っていた」
その声音には、確かな芯があった。
アマラは震える唇で絞り出す。
「……では、私が……追放されたことも……?」
「ああ。宮廷の混乱も、お前の境遇も知っていた」
エリン――エルネストは一度目を伏せ、穏やかに続ける。
「最初は気づかなかった。だが……一緒に暮らすうちに分かった。
お前が“アマラ”だと」
アマラの肩が震えた。
「……どうして、私を……連れてこられたのですか……?」
政治目的?
いや……彼はそんな事はしない。
なら何故――?
エルネストは即座に答えた。
「保護するためだ」
保護――
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
それは寂しさなのか、安堵なのか……
自分でも判別できない、複雑な痛みだった。
(こんなにも遠い方なのに……
それでも私を……心配してくれて……
その言葉だけで……もう十分……)
アマラは深く頭を下げた。
「エルネスト殿下……御慈悲を、ありがとうございます……」
その肩に、そっと彼の手が触れる。
「いずれ――妃に来てもらうつもりだ」
「……え?」
アマラの呼吸が止まる。
「だ、駄目です……私はこんな醜い姿で……
妃など、相応しくありません……!」
アマラは知っていた。
王宮では、美しさこそ妃の第一の条件とされ、
幼い頃からそれを叩き込まれてきた。
(だから王太子も、迷いなく婚約破棄を言い立てたのに……)
その思いが胸を締めつけていた。
震える声に、エルネストは静かに首を振った。
「アマラ。……あの日、お前を置き去りにしてすまなかった」
その瞳は真っ直ぐで、痛いほどに優しい。
「本当はすぐに連れて帰りたかった。
だが、お前は元王太子妃候補。
無計画に連れ帰れば、お前は“利用”されると分かっていた」
アマラの息が詰まる。
エルネストは一歩、彼女へ近づいた。
「お前が涙を流しながら耐えていたことも知っていた。
自分の身より――俺の幸せを案じて」
もう一歩。
その距離が、胸に触れるほど近くなる。
「美しさを奪われても“品格”を失わず、
絶望しても腐らず、
人の為に努力し、
自分より俺を優先して泣いた――」
その手がアマラの頬を包む。
指先が、驚くほど優しい。
「そんな女に……惚れずにいられるか」
その瞬間、アマラの世界が熱で満たされる。
視界が揺れ、涙が溢れた。
(私自身ですら、受け容れられなかったのに……
この人だけは……ずっと、私という“人”を見てくれていたのね……)
エルネストの腕がアマラを抱き寄せる。
森で倒れていた彼女を抱えた時とは違う。
今ははっきりと求める力で。
アマラは胸に顔を埋め、震える声で泣いた。
その髪に、エルネストはそっと唇を寄せる。
「……アマラ。
もう二度と、お前を一人にはしない」
アマラの頬を伝う涙はとまらなかった。
だが、その涙はもう苦しみのものではない。
長い孤独が優しさに包み替えられていく――
満たされた涙だった。
◆
王都がざわついたのは、ほんの一瞬だった。
「なっ……ど……どうして……!?」
ある日、ミリアの魔法が解けた――
肌は裂けるように荒れ、
髪はごっそり抜け落ち、歯並びは崩壊し、
“元の姿”どころか、魔道具の反動でさらに醜悪な姿へと変貌した。
「ひ、ひぃ……っ、殿下……助けて……私……」
王太子はミリアの顔を見た瞬間、喉を引き裂くように絶叫した。
「う、うわあああああっ!!! だ……誰だ貴様!!」
「殿下、わ、わたしで……ミリ――」
「黙れ!!近寄るな!!化け物!!誰か助けてくれ!!」
王太子は必死で呼び声を上げたが、誰にも届かない。
王宮の廊下は静まり返っていた。
彼が走り、悲鳴をあげても近衛兵は現れず、
侍従も侍女も、大臣たちの姿も消えていた。
王宮そのものが彼を拒んでいるようだった。
「おい……!誰か、誰かおらぬか!?
なぜだ……なぜ誰も……!!」
ミリアが縋ろうとする。
「で、殿下……助けっ――」
「黙れと言っている!!!」
その怒号には、既に誰一人応じなかった。
これは反乱ではない。
暴動でもない。
もっと静かで、もっと正確な――“宮廷刷新”。
アマラの父を中心にした重臣派が、
無能な王太子とミリアを完全に切り捨てたのだ。
王宮の正門が重々しく開く頃――
その場から少し離れた石柱の陰に、ひとりの男が静かに立っていた。
アマラの父である。
手には、金糸の便箋が握られていた。
表情は一切動かない。
怒りも、嘆きも、憎しみも見せず、ただ淡々と、その“結末”を見届けていた。
禁軍が王太子と偽聖女を囲み、縄で縛り上げた。
「や、やめろ!!俺は王太子だぞ!!」
「……もう違う。廃嫡が決まった」
アマラの父は微動だにしなかった。
「いやああっ!どこへ連れていくの!?私は聖女よ!!」
ミリアは気づかなかった。聖女の力は疾に消え去っていたことを。
「黙れ」
二人は罪人のように引き立てられ、馬車へ押し込まれた。
そのまま――隣国アルヴァン王国へ“引き渡された”。
馬車が砂門を抜けて見えなくなるまで、
アマラの父はただ、静かに立ち尽くしていた。
まるで――
“これでようやく、娘の名誉が戻る”
そう確かめるように。
◆
豪奢な謁見室。
扉が開かれ、王太子とミリアは無理やり跪かされる。
そして――目に映った光景に息を呑んだ。
「……なっ……!!」
「……は?」
玉座の傍らに立つ女。
それは、まるで光を纏ったような絶世の美女だった。
金糸の髪は、息を呑むほど清らかな光を宿し、
肌は宝石のように透き通り、
瞳は――朝の空を閉じ込めたように澄んでいた。
アマラだった。
カデルによって施されていた術が解かれ、
奪われた美は魔道具の反動とともに、一気に返還され――
“本来の姿”はさらに磨きがかかり、
その圧倒的な美は、謁見の間の誰をも黙らせた。
アマラは前へ進み、静かに口を開く。
「……今回、無血で宮廷の掌握が完了した理由をお伝えします」
その声に、廷臣たちは一斉に姿勢を正す。
「まず、国庫が枯渇し、兵站は崩壊寸前でした。
王太子殿下の放漫と“聖女”への過剰供与により、
軍は殿下を支持できなくなっていたのです」
廷臣たちは重々しく頷く。
ミリアは震えながら聞いていた。
ただひとり――王太子だけが、アマラの言葉を聞いていない。
「また、政務は完全に放棄され、民政・外交・財政は滞りました。
重臣たちが動かなければ、あの国は崩壊していたでしょう」
王太子はぽかんと口を開け、
ただアマラだけを、陶酔したように凝視していた。
「アマラ……なんて……美しいんだ……」
うっとりした声音で、ぶつぶつと呟く。
(アマラ……そうだ……
いつだって俺のためにつくしてくれた……
俺の……アマラ……)
アマラは静かに締めくくる。
「以上が、今回の無血掌握の経緯――」
次の瞬間。
「アマラ……!
俺のために綺麗になって戻ってきてくれたのか!!
やっと……やっと帰ってきてくれたんだな!!」
王太子の叫びが、謁見の間を凍らせた。
隣のミリアすら、声を失って固まる。
エルネストのこめかみが、ほんの一瞬だけひきつく。
「アマラ……俺のアマラ……!」
王太子が手を伸ばした瞬間――
エルネストが即座にアマラの肩を抱き寄せ、
胸元へと庇い込むようにして、王太子の視界から隠した。
「――見るな」
低い。冷たい。
殺気すら帯びた声だった。
王太子の瞳が、狂気じみて見開く。
「なっ……!?
俺のアマラに触るなぁぁぁぁッ!!」
叫びながら駆け寄ろうとした王太子は、
近衛兵により床へとねじ伏せられた。
「離せ!!離せッ!!
アマラ!!アマラァ!!
俺の……俺のところへ……!!」
重臣たちは顔を引きつらせ、誰もが目を背けた。
そこに、王太子の品位の欠片もない。
王太子の錯乱が響く中、
裁きの声だけが冷ややかに宣告される。
「――廃嫡された王太子、および偽聖女ミリアを、
アドラ砂漠外縁へ追放する」
ミリアが悲鳴を上げた。
「……嘘!嘘よ!!
そんなところに行ったら私……死んじゃう!!」
しかし、王太子には何ひとつ届かない。
「アマラ! アマラァァァ!!
俺のアマラ――!!」
「いやぁぁぁ!!助けて!!いやぁ!!」
言葉にならない絶叫を上げながら、
王太子とミリアは兵に引きずられていった。
アマラは、一瞥すら向けなかった。
その肩に添えられたエルネストの手だけが、
静かに、揺るがず、彼女を支えていた。
◆
――そして追放された場所は、焼けつくような砂漠。
乾いた熱風に、ミリアの髪がばさりと吹き飛ぶ。
「ひぃぃぃぃっ……やだ、やだ、いやあああっ!!」
王太子は遠くに見える影へ怯え、喉を震わせた。
「ま、待て!!やめろ!!あれは……魔物じゃないか!!
く、来るな……俺は王太子だぞ!!」
最後の足掻きも虚しく、二人は魔物に追い詰められていった。
ミリアは王太子を思いきり突き飛ばし、
砂を蹴立てながら絶叫した。
「いやよ!私は生きるの!あんたと死ぬなんてごめん!!」
「待てミリア!!離れるな!!俺を置いていくな!!」
砂煙の中、悲鳴と罵声が溶けて消えていく。
やがて砂煙が収まった頃には、
二人の姿は――もう、どこにもなかった。
◆
アマラは窓辺の椅子に腰かけ、静かに針を動かしていた。
一刺しごとに細やかな糸が花の形を描いていく。
「どうですか? もう少しで出来上がるのですよ」
対面のソファに座るエルネストが、書類から視線を上げた。
その表情は、アマラだけに向けられる柔らかな色を帯びている。
「あの時よりも上達したな」
「はい。……人を想いながら縫えば、自然と上達したのです」
アマラは恥ずかしそうに微笑み、最後の糸を留めた。
刺繍の布は、小さな産着。
金糸と白糸で縫われた、可憐な花模様が胸元に咲いている。
「できました」
エルネストはゆっくりと席を立ち、アマラの隣に腰を落とす。
大きな手で、そっと産着に触れた。
「子供が大きくなったら――
あの小屋に、遊びに行こう」
アマラの目が丸くなる。
「まだ、あるのですか?あの小屋……」
「ああ。お前と過ごした場所だ。
壊す理由なんて、どこにもない」
アマラの胸があたたかく満ちた。
エルネストは、産着を抱えたアマラの手を軽く包み込みながら続ける。
「ただ、食器を割られたら危ない。
家事は、俺がするよ」
アマラは思わず肩を震わせて笑った。
「もう……以前よりは上達しましたから、大丈夫です」
エルネストも珍しく声を立てて笑う。
「そうだな……昔はひどかった」
「わ、忘れてください……!」
ふたりは顔を見合わせ、同時に笑った。
重い日々も、孤独も、すべてが遠く過ぎ去ったようだった。
――そして物語は静かに幕を閉じる。
二人が紡いだ日々と、これから紡がれる未来を抱いて。
読んでくださりありがとうございます。
短めではなく“読み応えある長編形短編”ですので、
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『学園で黒い噂が渦巻いてますが、彼の愛が欲しいだけなんです。』
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