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ショート短編集

美貌を失い、愛を得る

作者: 福嶋莉佳
掲載日:2025/11/28

まるで、虫を追い払うような声音だった。


「――アマラ。婚約は破棄する。それから……おまえは王都を追放だ」


王太子は高座に腰掛け、飾り立てた衣装の袖を退屈そうに揺らしながら告げた。


アマラの胸がきゅ、と縮み、思わず身体が震えた。

これまで外交儀礼も、民政の調整も、予算管理も、王太子妃候補としての責務をすべて担ってきた。その一つひとつが、国の未来のためだった。


なのに。


「婚約を解かれるのは……まだ分かります……

 ですが……追放など……どうしてそのような仕打ちを……」


震える声が、石壁に吸い込まれる。


王太子は顔をしかめ、煩わしげに目を背けた。


「美しいミリアを妬んで虐めたのだろう? そんな者を、そばに置けると思うか?」


彼の横では、ミリアがうっとりと身を寄せていた。

今や神聖視される“聖女”の微笑が、毒のように甘い。


ミリアは王太子の腕に細い指を掛け、アマラを見下ろす。


「殿下。美醜は、人そのものを映します。アマラ様の醜さが……その見目に、現れたのでしょう」


その声ははっきりと、勝利の震えさえ帯びていた。


アマラはかつて“国一の美貌”と称えられた。

だが今、その面影はどこにもない。


――ミリアに奪われたからだ。


けれどその真実を知る者は、ミリア以外にいない。


ミリアはさらに王太子へ身体を寄せ、甘ったるい声音で囁いた。

視線だけが、鋭い刃のようにアマラへ向けられる。


「殿下……アマラ様はいずれ災いをもたらします。どうか……早く追放を」


「私は……っ、そんなことはしていません! どうか、お信じください……!」


アマラは必死に訴える。だが王太子は、心底うんざりした声を返すだけだった。


「見苦しい。……誰か、さっさと連れていけ」


「殿下っ……! どうか……御慈悲を……!」


兵士たちが両腕を掴む。冷たい鉄の指が、まるで罪人のもののように食い込んだ。

連れ出される足元で、使用人たちが一瞬だけ憐れむような目を向ける。だがすぐに、皆そろって視線を逸らした。


「アマラ様、心配なさらないで……

これからは私が、あなたの座に成り代わりますから」


廊下へと引きずられる直前、アマラは振り返る。


最後に目に映ったのは――

王太子と、聖女ミリアの嘲笑だった。





ミリアは、つい最近までただの平民の娘だった。


孤児院育ちで、生まれつき容姿に恵まれず、肌は荒れ、歯並びは悪く、髪はいつも絡まり、誰からも「地味で冴えない子」と扱われた。


だが心の奥には、努力とも勤勉とも呼べない――

ただ“歪んだ野心”だけが、醜く沈殿していた。


「どうせ……美しさがすべてなんでしょう。努力なんて報われない」


そう言って働くわけでもなく、読み書きもろくにしなかった。


そんな彼女は、孤児院を訪れては子どもたちへ施しをするアマラを見ていた。


美しく、慈悲深く、誰からも愛される令嬢――。


ミリアは心の底から憎んだ。


(……あんたみたいな女がいるから、私は一生報われないんだよ)


(美しく生まれたから、慈悲深く振る舞えるんだ。ブスになったらどうせ落ちぶれるくせに)


いつしかミリアは、

“美さえあれば、王太子妃になれる”

そう本気で思うようになった。


そんな折、天からの加護が降り、

彼女は“癒しの力”を授かった――聖女になったのだ。


だがミリアは、その事実を誰にも言わなかった。


分かっていたからだ。

この容姿では、聖女だろうと、王太子に見初められることはない。


王太子の“美女好き”は、国内の誰もが知るところだった。


そしてアマラが王太子妃候補であり続けたのも、王妃が不在で、王太子が自由奔放だからこそだ。


そんなある日――彼女は一人の魔術師に出会う。

男の母は不治の病で、長く床に伏していた。


ミリアは薄く笑って告げた。


「……お前の母を治してやる。

 ただし、礼として――私の望む“魔道具”を作れ」


魔術師は迷った末、ミリアの望んだ魔道具を完成させた。


そしてミリアは迷いなく、孤児院に訪れたアマラに向かって使用した――


翌日。


「きゃぁぁぁっ!」


アマラの部屋から、悲鳴が上がった。


鏡に映っていたのは、もはや自分とは思えない顔。

かつて“陽光の糸”と讃えられたブロンドは、乾いた藁のようにくすみ、

透き通る白肌は斑に荒れ、

整った目鼻立ちは、見る影もないほど崩れていた。


王太子は彼女を見るなり、あからさまに顔を歪めた。


「……なんだ、その顔は。気持ち悪い」


その冷たさは、かつて愛を囁いた男のものとは思えなかった。


アマラは崩れ落ち、震えながら泣いた。


だが泣いている暇など与えられない。

王太子妃候補として処理すべき仕事は、終わりの気配すらなかった。


海国との輸送路の再契約書。

東方の騎馬民族との停戦条件の見直し案。

隣国第二王子殿下の来訪の延期通知――


アマラは唇を噛み、醜く変わった顔を隠しながら机に向かった。


──数日後、王都がざわついた。


“美しい聖女が現れた” と。


その噂を聞きつけ、王太子は即座に命じた。


「その聖女を、すぐに王宮へ呼べ!」


そして現れたのは――

魔道具を使い、アマラから美を奪ったミリアだった。


王太子の目が、あからさまに輝いた。


「……なんて美しい!

 前のアマラより、美しい……!」


ミリアは気高さを装い、深く礼をした。


「王太子殿下にお目通り叶い、光栄に“あられまして”ございます……」


それから王太子は、ミリアに夢中になった。

ミリアは身勝手な要求を、惜しげもなく放つ。


「宝石が欲しいわ」

「宮廷に私専用の部屋を」

「税金をもっと、王都の装飾に回して」


王太子はそのたびにうっとりと頷いた。

「ミリアが望むなら、すべて与えよう」


誰が止めても無駄だった。

王太子は、ミリアが微笑むたびに理性を失っていった。


アマラが必死に国政を支える陰で、

王太子はゆっくりと、破滅へと沈んでいく。


――ここから、全てが崩れていった。





アマラは、兵士に左右を固められ、城門をくぐった。


追放に際し、ミリアに宝飾もドレスも奪われ、

身分を示すものは何ひとつ残されていない。


連れて行かれた先は、王家の馬車ではなく、荷物運搬用の粗末な荷台だった。


木枠は軋み、座る場所すらなく、板は冷たく湿っている。

馬が歩みを進めるたび、荷台は大きく跳ね、身体が何度も打ちつけられた。


それでもアマラは抵抗しなかった。

膝を抱きしめ、ただ涙を流し続けていた。


「……どうして……」


声にならない嗚咽が胸の奥で震える。


父と母は優しかった。

家族はきっと抱きしめてくれるだろう。

だが、婚約破棄され追放された娘が戻れば、家門の名誉は地に堕ちる。

跡継ぎである弟の未来にも傷がつく。


だから頼れない。

分かっているのに、胸が軋むほどに苦しかった。


荷台はただ黙って進む。

やがて国境付近の森で兵士たちが馬車を止めた。


「……ここまでだ。行け」


アマラは地面に下ろされる。

そこは木々が鬱蒼と茂り、人が住んでいる気配などない。


兵士たちは振り返りもせず馬を返し、アマラは一人取り残された。


風が冷たかった。

息を吸うたび胸に痛いほど染みた。


それでもアマラは足を前に出した。

歩いていなければ、泣き叫んでしまいそうだったから。


「……歩かないと……」


だが、歩けば歩くほど森は深くなり、どこかに辿り着く気配は消えていく。

息は荒く、視界は揺れ、足はもう鉛のようだった。


やがて、膝が折れた。


「……あ……」


地面に倒れ込む。

冷たい土の匂い。

枯葉の感触。


ここで死ぬのだろうか――

そんな思いがぼんやりと浮かんだが、それさえどうでもいいような、遠い感覚だった。


(……もう……楽に……なりたい……)


そのまま、意識は暗闇に沈んだ。



……どれほど時間が経ったのだろう。


がさ、と草を踏む音。

近づく足音。


「……おい。どうした……」


低い声が、すぐそばで漏れた。


荒い呼吸と共に、屈みこむ気配。

腕が持ち上げられる。

温かく、粗野な手つき――だが、乱暴ではなかった。


「……こんなところで寝るな、死ぬ気か」


その声を最後に、アマラの意識はまた深みに落ちた。


気を失ったまま、彼女は男の腕に抱え上げられ、森の奥の家へと運ばれていった。





アマラは、ふわりと温かな空気の中で目を覚ました。


天井が見える。

粗末だが清潔な木の梁。

壁には小さな幾何模様の布が掛けられている。

鼻先をくすぐる、温かなスープの匂い。



身体が布に包まれている――ベッドだ。

じんわりとした温もりが、凍え切った心にまで染み込んでいく。


身を起こそうとした瞬間、低く落ち着いた声が響く。


「……気がついたか」


アマラははっとして身を起こす。

視線の先には、粗野な革鎧をまとった男がいた。

乱れた髪、無精ひげ、だが瞳だけは鋭く、どこか深い色を宿している。


(……この方が……助けてくれた……)


胸が熱くなる。

礼を言うことすら忘れていた自分に気づき、慌ててベッドの上で身を正した。


「た、助けてくださり……ありがとうございます」


深く頭を下げる。

言葉が震えるのは、寒さのせいではない。


名乗るべきだ――と思ったが、喉が凍る。


“アマラ”という名前は、この国でそれなりに知られている。

追放されたとはいえ、名家の令嬢であり、王太子妃候補だったのだ。


そして何より……アマラという名の女は、あの日、王都でいなくなった。

実質的に“死んだも同然”なのだ。


アマラは息を震わせながら、ゆっくりと言った。


「私……カーラといいます」


男は特に反応を示さず、ただ木皿に注いだ湯気立つスープを差し出した。


「まずは、食え。身体を温めるほうが先だ」


アマラの手が震えた。

受け取った瞬間、体温がじわりと掌に広がる。


「……っ……」


涙がこぼれた。


久しぶりだった。

こんなふうに“人として扱われる”ことが。


王太子はアマラの変わり果てた姿を見たとたん、蔑み、罵り、触れることさえ嫌がった。

周囲の者も、はじめは同情の眼差しを向けたが、やがて避けるようになった。


私は、何ひとつ変わっていないのに――


王宮という場所で、アマラは無音で孤立していったのだ。


だが、この男は――

哀れみの色も、蔑みの色もない。


ただ、静かに見守っている。


「我慢するな……辛けりゃ泣いていいんだ」


男の声は、ひどく無骨で、ぶっきらぼうで。

けれどその実、とても温かい声だった。


アマラは木椀を抱いたまま、嗚咽を漏らしながら涙をこぼした。


こんなにも優しい味がするスープは、初めてだった。





その男――エリンは、それ以上何も聞かなかった。

名も、素性も、なぜ森で倒れていたのかさえ。


ただ一言、


「ここに居たいなら、好きにすればいい」


そう告げただけで、アマラを追い出すことはなかった。


アマラは胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

醜い姿になり、誰からも避けられた自分を、エリンはそのまま受け入れてくれた。


恩返しをしなければ、と彼女は出来る限りのことをした。


小屋の掃除。

薪の準備。

食器洗い。

洗濯。


どれも、貴族として育ったアマラには慣れないことばかりだった。

布を絞れば水は飛び散り、薪はうまく割れない。

皿を運べば手が震えて落としそうになる。


「……また失敗してしまって……」


指先に泥がつき、髪は乱れ、服も汚れていく。

アマラは情けなさで胸が痛くなった。


こんな事もできないなんて……。

今の自分は本当に、何の価値もないのだろうか。


俯いていたアマラのそばに、エリンが無言で近づく。


かすかに震えるアマラの指先へ、そっと大きな手が触れた。

洗い物の冷たい水で荒れ、慣れない薪割りで細かい傷がついた手。


エリンはその手を静かに包み込み、低く囁いた。


「……よく、ここまでやったな」


そして、穏やかな声で言った。


「ゆっくりやればいい。

 慣れてないなら、出来なくて当然だ」


「……ありがとうございます……」


その優しさに、アマラの強張っていた心が、ゆっくりとほどけていく――


アマラはようやく、

人として息をしてもいいのだと思えた。





エリンが何の仕事をしているのか、アマラにはわからなかった。

朝、薄明かりのなかで無言のまま小屋を出ていき、夜遅くに静かに戻ってくる。

ときおり、炉のそばで短い手紙を書いていることがあった。

書き終えるとすぐに外へ出ていく。

(……金糸の便箋、誰に送るのかしら……)


けれどアマラは問わなかった。


自分の過去を聞かれないのに、相手の秘密を暴くような真似はできない。

それは礼を欠く。


だからアマラは、ただそっと微笑み、

「おかえりなさい」

と迎えるだけだった。


──そうしているうちに、彼女は少しずつ笑顔を取り戻していった。


宮廷で過ごしていた日々は、思い返せば重責と緊張の連続だった。

外交文書に追われ、派閥の駆け引きに気を遣い、人望を得るためのふるまいも必要だった。

それらは確かにやりがいがあり、誇りでもあった。


だが今、小さな小屋の中での生活は――


驚くほど穏やかで、心が静かに満たされていく。


薪を割る音。

煮立つ鍋のやわらかな湯気。

エリンが椅子に腰掛け、黙々と刃物を研ぐ姿。


そんな日々の中で、アマラはふと、自分の髪を整えたり、

服のほつれを丁寧に直すようになっていた。

(せめて……身綺麗にはしておかないと)


ある日、髪を結い直して現れたアマラに、

エリンがちらと視線を上げ、短く言った。


「……いい。似合ってる」


たったそれだけなのに、胸の奥が熱を帯びた。


(あの方といた時には……こんな気持ち、抱いたことがなかったわ)


王太子のそばにいた頃、アマラは常に気を張り詰めていた。

頼ることも、甘えることもできず、

“自分がしっかりしなければ”と背筋を固く伸ばし続けていた。


けれど今は――ただ落ち着く。


エリンの前では、息を詰めていなくてもいい。

沈黙が怖くない。

見た目を気にして怯える必要もない。


そのすべてが、アマラにとっては初めて知る“安らぎ”だった。


(……ずっと、このままならいいのに)


そんな甘やかな願いが、胸のなかでふわりと花開く。


気を紛らわせるように、アマラはエリンのシャツを膝に広げ、ほつれた部分を縫い始めた。

不器用な縫い目だけれど、何度も解いてやり直し、ひと針ひと針に気持ちを込める。


小屋の扉が軋む音がした。


「……帰ったぞ」


エリンが戻ってきた。

アマラはぱっと顔を上げ、胸が少し高鳴る。


「エリンさん、あの……今日は、ちゃんと縫えました」


差し出したシャツの縫い目は少し曲がっている。

けれど昨日よりは格段にましだった。


エリンはそれを見ると、ふっと短く笑った。

大袈裟でない、ほんのわずかな笑み。

だがアマラの胸を温かく満たすには十分だった。


「……悪くない。着られる」


それだけの言葉なのに、アマラは胸の奥がぽっと熱くなる。


褒め言葉に慣れているはずなのに、

これほど嬉しいと感じたのはいつ以来だろう。


小さな小屋のなかで、暮れゆく陽が二人の影を寄せ合っていた。





そんな穏やかな日々が続いたある夕暮れ、

アマラが食器を片づけていると、帰ってきたエリンが珍しく口を開いた。


「……近いうちに、この国を出て、祖国に帰る」


手にしていた木皿が、かすかに震えた。


「……この国……では、なかったのですか?」


アマラは思わず問い返していた。

エリンがこの森に住んでいるのだから、当然この国の人間だと思い込んでいたのだ。


エリンは火の灯りの中、影を揺らしながら答えた。


「違う。……俺は別の国の者だ。

 そろそろ戻らなければならない」


その声音に嘘も迷いもなかった。

事実だけを静かに告げる、あのいつもの口調。


アマラの胸が、ぎゅうっと締めつけられた。


(……帰る……? ここから……いなくなる……?)


身体の力が抜け、椅子の背に手をつかないと立っていられなかった。


“私も……どうか連れていってください”


喉の奥まで出かかった言葉は、そこで止まった。


こんな醜い姿で、家事もままならない。

ついて行けば、迷惑にしかならない。


自分はただ、重荷になるだけだ。


アマラは強く手を握りしめた。

震えが収まらない。


「……そう、ですか……」


視界が滲む。

こぼれ落ちそうになる感情を必死に抑え込み、唇を噛む。


そして――

アマラはゆっくりとエリンを見上げた。


「貴方の……優しさに……私は救われました」


言葉にすると、胸がひび割れるように痛い。

だが、それでも言わなければいけなかった。


「今まで……本当に、ありがとうございました……」


声が震えて、途中で途切れた。

それでも、頭を深く下げる。


感謝の言葉しか、どうしても出てこない。


アマラの肩がかすかに揺れ、涙が膝に落ちた。


エリンは、ただ静かにその姿を見つめていた。





アマラは一晩中、涙をこぼしながら針を進めていた。


縫い目が滲んで見える。

それでも手を止めたら、心が壊れそうだった。


(……どうか、この方が……祖国に帰っても、幸せでありますように)


祈るように針を刺す。

強い指先を思い出しては、胸が震えた。


やがて、ほつれひとつないシャツが仕上がる。

アマラは目元を拭い、そっと畳んだ。


エリンはいつの間にか、戸口からその背中を見ていた。

声をかけるでもなく、ただ静かに、アマラの震える肩を見つめていた。


そして――出発の日。


アマラは完成したシャツを胸に抱え、エリンの前に立った。

涙を堪え、微笑みを作る。


「これ……縫わせていただきました。

 どうか……お元気で……」


その声はかすかに震えていた。


エリンは受け取ったシャツを静かに見つめ、そして尋ねる。


「……これから、どうするつもりだ」


アマラはほんの少し俯き、

けれど勇気を振り絞るように顔を上げた。


「ここで……暮らしていこうと思います。

 貴方のおかげで……家事も、一通りこなせるようになりましたから」


なけなしの笑みを浮かべながら言う。

その笑顔は弱々しく、今にも崩れそうだった。


エリンはしばし黙り、背を向ける。


「……そうか」


ただそれだけを言って、歩き出した。


ザッ……ザッ……と足音が森の道に消えていく。

その背中が遠ざかるたび、アマラの胸に空いた穴が大きくなっていく。


風の音だけが残り、世界から色が剥がれ落ちたようだった。


やがて、耐えきれなかった。


アマラはその場に崩れ落ち、声をあげて泣いた。


「……っ……う、う……!」


行かないで……行かないで!

置いていかないで……!

ひとりに……しないで……


顔が崩れた時も、追放を言い渡された時も、

ここまで胸が裂けそうになったことはなかった。


その痛みの正体に、アマラは気づく。


(ああ……私は、あの人が……好きだったのね……)


森で差し出してくれた無骨な手も、

静かに見守ってくれたあの眼差しも、

言葉少なく寄せてくれた温もりも――

すべてが、こんなにも愛おしかったなんて。


初めて、誰かを愛したのだと理解した。


追いかけて、伝えたかった。

けれど、醜い姿で拒まれるのが――

恐ろしくて、足が一歩も動かない。


アマラは初めて、この顔を呪った。


「神様……お願いします……どうか……元に戻して……!!」


震える手で顔を覆い、地面に伏して泣き叫んだ。


だが――


どれほど祈っても、

どれほど涙をこぼしても、

魔法は解けなかった。


エリンの背中が見えなくなっても、

アマラは地面に座り込み、膝を抱えて震えていた。

行ってしまった方角を、涙で滲む視界のまま、ただ見つめ続けて。


アマラはいつまでも――いつまでも泣き続けていた。





その頃――王宮は、まるで別の国になったかのように歪んでいた。


ミリアは、まるで長年押し殺してきた欲望を解き放つように、好き放題に振る舞っていた。


「まあ、素敵だわ……これが王妃の宝石? 全部、私の部屋に運んでおきなさい。

 だって私は“聖女”なのよ? 美しい聖女には、美しい物がふさわしいでしょう?」


侍女たちは戸惑いながらも従うしかなかった。


彼女の指先にあるのは、聖女の地位。

王太子の寵愛。

そして――一夜にして奪った国一の美貌。


聖女は鏡の前で笑う。

奪った顔を、誇らしげに。


「ほらね。やっぱり“美貌”さえあれば何だって叶うのよ。

 笑わせるわ。努力だの品位だの……そんなもの、役に立たないじゃない」


慈善活動で民に慕われるアマラを見て、

“美しいだけの女が称賛される”のが許せなかった。


だが、今は違う。


王宮は彼女の庭になった。


「殿下ぁ……今日は少し疲れてしまいましたの。

 お仕事なんて、後でよろしいでしょう? 私を慰めて?」


王太子は、かつて見せたことのない顔で微笑んだ。


「そうだな。仕事など後回しでいい。お前の願いなら何でも聞こう」


アマラが絶対に言わなかったわがまま。

慎み深く、責任を放らず、王太子の前で弱音を見せない――

そういう彼女と真逆な聖女の“甘えと依存”は、

王太子には新鮮で、強烈な刺激だった。


王太子は日に日に聖女に傾倒し、

政務は山のように積み上がっていく。


「殿下、許可なく宝物庫の宝石を持ち出すのは……」


重臣が進言すると、

ミリアは即座に王太子の腕に縋り、涙を浮かべた。


「ひどい……! 私、虐められました……!

 私に嫉妬して、お立場を利用して……!」


王太子の表情が冷える。


「……無礼を働いたのか?」


「い、いえ、そのようなつもりでは……」


「ならば口を慎め。聖女を泣かせるような者に、王宮に立つ資格はない」


ミリアの微笑みは勝ち誇ったように深まった。


王は病に伏して床から起きられず、

王妃はすでに亡くなって久しい。


本来なら、王太子を支え、王宮を動かしていたのはアマラだった。

王太子妃となるべき教育を受け、

政務を整理し、

貴族たちをまとめ、

王国の“柱”として働いていたのだ。


だが彼女がいない今――

その役目を担える者は誰もいない。


ミリアは王宮を食い荒らし、

王太子はそれを止めるどころか溺れきっている。


重臣の一人が恐る恐る進み出て、声を絞る。


「……聖女様。

 治療院へのご同行をお願いしたく……

 各地で病が広がり、癒しの力を求める声が――」


ミリアはうんざりしたように片手を振った。

「今、忙しいのよ。

 私の髪飾りの選定が終わっていないの。

 治療院なんて、後でいいでしょう?」


重臣は顔色を失い、深く頭を下げて下がるしかなかった。


ミリア自身は気づいていなかった。

“聖女の力”が日に日に弱まっていることに。

人を癒すための祈りを、もう何日も捧げていないことにも。


王宮は静かに、確実に――

崩れ続けていた。





エリンが去ってから、アマラは彼の小屋で静かに暮らし続けていた。


エリンと過ごした日常の残り香で、アマラはそこにすがるように生きていた。


(……もしかしたら、帰ってくるかもしれない)


そう思う瞬間が何度もあった。

森で枝が折れる音がすれば胸が跳ね、夕暮れに影が揺れれば扉を見つめた。


だが次の瞬間、


(……そんなはずないわ。あの方には帰る場所があるのだから)


と、必ずその淡い期待を打ち消す。


希望と諦めが波のように胸を反復し、アマラはそのたびにひとり、静かに涙を拭った。


そんなある日だった。


小屋の扉が、コン、と軽く叩かれた。


「……誰?」


返事もないまま扉が開き、見知らぬ男が立っていた。

黒衣に身を包み、鋭い眼光の男が立っていた。

袖口には、小さな幾何模様の刺繍がちらりと覗く。年齢はエリンより少し若いだろうか。


「貴女が――カーラか?」


唐突な来客に、アマラは思わず口をついて出た。


「はい……」


男はアマラをじろりと観察し、眉を寄せた。


「……?」


「え……? あ、あの……どなたで……?」


問い終える前に、男は冷やかな声で言い放った。


「いや、失礼……あなたに用がある。来てもらおう」


「え?ど、どうして……」


アマラが一歩下がった瞬間、男は指先を軽く弾いた。


青白い魔力が足元に広がる。

その紋様は一瞬で小屋を呑み込み、視界がぐにゃりと歪んだ。


「――っ!」


風も大地も消え、身体が宙へ引きずり上げられるような感覚。


瞬きした時、世界はもう別の場所だった。


重厚な石造りの柱。

赤い絨毯。

高い天井を照らす魔灯の光。


見覚えのない――

だが明らかに王宮のような豪奢な造り。


アマラは震える声で呟いた。


「ここは……?」


男は黒衣を翻し、ぞんざいに答えた。


「アルヴァン王国の宮廷だ。

 俺はこの国の宮廷魔術師――カデル」


アマラの心臓が強く跳ねた。


隣国。

宮廷。

魔術師。


全てが突然すぎて、まったく理解が追いつかない。


カデルはアマラを一瞥し、わずかに眉をひそめた。


「……殿下が連れて来いと言った。事情は向こうで聞け」


「……殿下、が……?」


アマラの視界が揺れる。


隣国アルヴァンの“殿下”。

王族が――私を?


まさか、自分の素性が調べられたのでは。


王太子に婚約破棄された元・王太子妃候補。

追放された、見捨てられた女。


(確かに……前王太子妃候補だった私なら、価値はいくらでもある)


喉がひくりと震えた。


(――政争の駒。

 弱みの暴露。

 “持っている”だけで前国への牽制になるわ……)


アマラの膝が震え、胸が冷たく締めつけられる。

呼吸が浅くなり、足元の感覚が遠のいていく。


「どうして……私なんですか……?

 私には……何の価値も……」


絞り出すような声に、カデルは興味なさげに肩をすくめた。


「さあな。

 殿下が『必ず連れて来い』とだけ言った。

 ……お前がどう思おうと、ここまで来た以上、戻る道はない」


アマラの心臓が跳ねた。


(どうしよう……

 私……これから……どうなるの……?)


煌びやかな宮廷が目の前にあるはずなのに、

アマラの世界はじわじわと暗く沈んでいった。





豪奢な謁見室の扉が静かに開いた。


カデルが無言で一礼し、脇に避ける。

その向こうから――


ゆっくりと歩み寄ってくる男がいた。


その男は、長い髪を後ろで束ね、深い紺の礼装に金糸の紋をまとっていた。

剃り上げた頬は鋭く引き締まり、まっすぐに伸びた背筋と静かな気迫が、息をのむほどの威厳を帯びている。

凛とした立ち姿は、まさしく王族。


だが――

その瞳だけは同じだった。


森でアマラを見つめた、あの静かで深く、あたたかな眼差し。


アマラの胸が大きく跳ねる。


「……エ、リン……さん……?」


呆然と呟くと同時に、反射的に頭を下げていた。


王族の証。

肩章、飾り紐、腰剣――

目に映る全てが、一瞬で現実を突きつけてくる。


(エリンさんが……王族……?

 そんな……まさか……)


震える思考の中、男は歩みを止め、静かにその名を呼んだ。


「……顔を上げろ、アマラ」


カーラではなく。

“本当の名前”を。


その声だけで、胸がじわりと熱を帯びる。


エリンはまっすぐに見つめたまま名乗った。


「……俺はアルヴァン王国・第二王子、エルネストだ。

 諜報と査察を担っている。

 任務であの国に渡り、内乱や外戚の動きを探っていた」


その声音には、確かな芯があった。


アマラは震える唇で絞り出す。


「……では、私が……追放されたことも……?」


「ああ。宮廷の混乱も、お前の境遇も知っていた」


エリン――エルネストは一度目を伏せ、穏やかに続ける。


「最初は気づかなかった。だが……一緒に暮らすうちに分かった。

 お前が“アマラ”だと」


アマラの肩が震えた。


「……どうして、私を……連れてこられたのですか……?」


政治目的?

いや……彼はそんな事はしない。

なら何故――?


エルネストは即座に答えた。


「保護するためだ」


保護――

胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。


それは寂しさなのか、安堵なのか……

自分でも判別できない、複雑な痛みだった。


(こんなにも遠い方なのに……

 それでも私を……心配してくれて……

 その言葉だけで……もう十分……)


アマラは深く頭を下げた。


「エルネスト殿下……御慈悲を、ありがとうございます……」


その肩に、そっと彼の手が触れる。


「いずれ――妃に来てもらうつもりだ」


「……え?」


アマラの呼吸が止まる。


「だ、駄目です……私はこんな醜い姿で……

 妃など、相応しくありません……!」


アマラは知っていた。

王宮では、美しさこそ妃の第一の条件とされ、

幼い頃からそれを叩き込まれてきた。


(だから王太子も、迷いなく婚約破棄を言い立てたのに……)


その思いが胸を締めつけていた。


震える声に、エルネストは静かに首を振った。


「アマラ。……あの日、お前を置き去りにしてすまなかった」


その瞳は真っ直ぐで、痛いほどに優しい。


「本当はすぐに連れて帰りたかった。

 だが、お前は元王太子妃候補。

 無計画に連れ帰れば、お前は“利用”されると分かっていた」


アマラの息が詰まる。


エルネストは一歩、彼女へ近づいた。


「お前が涙を流しながら耐えていたことも知っていた。

 自分の身より――俺の幸せを案じて」


もう一歩。

その距離が、胸に触れるほど近くなる。


「美しさを奪われても“品格”を失わず、

 絶望しても腐らず、

 人の為に努力し、

 自分より俺を優先して泣いた――」


その手がアマラの頬を包む。

指先が、驚くほど優しい。


「そんな女に……惚れずにいられるか」


その瞬間、アマラの世界が熱で満たされる。

視界が揺れ、涙が溢れた。


(私自身ですら、受け容れられなかったのに……

 この人だけは……ずっと、私という“人”を見てくれていたのね……)


エルネストの腕がアマラを抱き寄せる。

森で倒れていた彼女を抱えた時とは違う。

今ははっきりと求める力で。


アマラは胸に顔を埋め、震える声で泣いた。


その髪に、エルネストはそっと唇を寄せる。


「……アマラ。

 もう二度と、お前を一人にはしない」


アマラの頬を伝う涙はとまらなかった。

だが、その涙はもう苦しみのものではない。

長い孤独が優しさに包み替えられていく――

満たされた涙だった。





王都がざわついたのは、ほんの一瞬だった。


「なっ……ど……どうして……!?」


ある日、ミリアの魔法が解けた――


肌は裂けるように荒れ、

髪はごっそり抜け落ち、歯並びは崩壊し、

“元の姿”どころか、魔道具の反動でさらに醜悪な姿へと変貌した。


「ひ、ひぃ……っ、殿下……助けて……私……」


王太子はミリアの顔を見た瞬間、喉を引き裂くように絶叫した。


「う、うわあああああっ!!! だ……誰だ貴様!!」


「殿下、わ、わたしで……ミリ――」


「黙れ!!近寄るな!!化け物!!誰か助けてくれ!!」


王太子は必死で呼び声を上げたが、誰にも届かない。

王宮の廊下は静まり返っていた。


彼が走り、悲鳴をあげても近衛兵は現れず、

侍従も侍女も、大臣たちの姿も消えていた。


王宮そのものが彼を拒んでいるようだった。


「おい……!誰か、誰かおらぬか!?

 なぜだ……なぜ誰も……!!」


ミリアが縋ろうとする。


「で、殿下……助けっ――」


「黙れと言っている!!!」


その怒号には、既に誰一人応じなかった。


これは反乱ではない。

暴動でもない。


もっと静かで、もっと正確な――“宮廷刷新”。


アマラの父を中心にした重臣派が、

無能な王太子とミリアを完全に切り捨てたのだ。


王宮の正門が重々しく開く頃――

その場から少し離れた石柱の陰に、ひとりの男が静かに立っていた。


アマラの父である。

手には、金糸の便箋が握られていた。


表情は一切動かない。

怒りも、嘆きも、憎しみも見せず、ただ淡々と、その“結末”を見届けていた。


禁軍が王太子と偽聖女を囲み、縄で縛り上げた。


「や、やめろ!!俺は王太子だぞ!!」


「……もう違う。廃嫡が決まった」


アマラの父は微動だにしなかった。


「いやああっ!どこへ連れていくの!?私は聖女よ!!」


ミリアは気づかなかった。聖女の力は疾に消え去っていたことを。


「黙れ」


二人は罪人のように引き立てられ、馬車へ押し込まれた。

そのまま――隣国アルヴァン王国へ“引き渡された”。


馬車が砂門を抜けて見えなくなるまで、

アマラの父はただ、静かに立ち尽くしていた。


まるで――

“これでようやく、娘の名誉が戻る”

そう確かめるように。





豪奢な謁見室。

扉が開かれ、王太子とミリアは無理やり跪かされる。


そして――目に映った光景に息を呑んだ。


「……なっ……!!」


「……は?」


玉座の傍らに立つ女。


それは、まるで光を纏ったような絶世の美女だった。


金糸の髪は、息を呑むほど清らかな光を宿し、

肌は宝石のように透き通り、

瞳は――朝の空を閉じ込めたように澄んでいた。


アマラだった。


カデルによって施されていた術が解かれ、

奪われた美は魔道具の反動とともに、一気に返還され――

“本来の姿”はさらに磨きがかかり、

その圧倒的な美は、謁見の間の誰をも黙らせた。


アマラは前へ進み、静かに口を開く。


「……今回、無血で宮廷の掌握が完了した理由をお伝えします」


その声に、廷臣たちは一斉に姿勢を正す。


「まず、国庫が枯渇し、兵站は崩壊寸前でした。

 王太子殿下の放漫と“聖女”への過剰供与により、

 軍は殿下を支持できなくなっていたのです」


廷臣たちは重々しく頷く。

ミリアは震えながら聞いていた。


ただひとり――王太子だけが、アマラの言葉を聞いていない。


「また、政務は完全に放棄され、民政・外交・財政は滞りました。

 重臣たちが動かなければ、あの国は崩壊していたでしょう」


王太子はぽかんと口を開け、

ただアマラだけを、陶酔したように凝視していた。


「アマラ……なんて……美しいんだ……」


うっとりした声音で、ぶつぶつと呟く。


(アマラ……そうだ……

 いつだって俺のためにつくしてくれた……

 俺の……アマラ……)


アマラは静かに締めくくる。


「以上が、今回の無血掌握の経緯――」


次の瞬間。


「アマラ……!

 俺のために綺麗になって戻ってきてくれたのか!!

 やっと……やっと帰ってきてくれたんだな!!」


王太子の叫びが、謁見の間を凍らせた。

隣のミリアすら、声を失って固まる。


エルネストのこめかみが、ほんの一瞬だけひきつく。


「アマラ……俺のアマラ……!」


王太子が手を伸ばした瞬間――


エルネストが即座にアマラの肩を抱き寄せ、

胸元へと庇い込むようにして、王太子の視界から隠した。


「――見るな」


低い。冷たい。

殺気すら帯びた声だった。


王太子の瞳が、狂気じみて見開く。


「なっ……!?

 俺のアマラに触るなぁぁぁぁッ!!」


叫びながら駆け寄ろうとした王太子は、

近衛兵により床へとねじ伏せられた。


「離せ!!離せッ!!

 アマラ!!アマラァ!!

 俺の……俺のところへ……!!」


重臣たちは顔を引きつらせ、誰もが目を背けた。

そこに、王太子の品位の欠片もない。


王太子の錯乱が響く中、

裁きの声だけが冷ややかに宣告される。


「――廃嫡された王太子、および偽聖女ミリアを、

 アドラ砂漠外縁(魔物領)へ追放する」


ミリアが悲鳴を上げた。


「……嘘!嘘よ!!

 そんなところに行ったら私……死んじゃう!!」


しかし、王太子には何ひとつ届かない。


「アマラ! アマラァァァ!!

 俺のアマラ――!!」


「いやぁぁぁ!!助けて!!いやぁ!!」


言葉にならない絶叫を上げながら、

王太子とミリアは兵に引きずられていった。


アマラは、一瞥すら向けなかった。


その肩に添えられたエルネストの手だけが、

静かに、揺るがず、彼女を支えていた。





――そして追放された場所は、焼けつくような砂漠。

乾いた熱風に、ミリアの髪がばさりと吹き飛ぶ。


「ひぃぃぃぃっ……やだ、やだ、いやあああっ!!」


王太子は遠くに見える影へ怯え、喉を震わせた。


「ま、待て!!やめろ!!あれは……魔物じゃないか!!

 く、来るな……俺は王太子だぞ!!」


最後の足掻きも虚しく、二人は魔物に追い詰められていった。


ミリアは王太子を思いきり突き飛ばし、

砂を蹴立てながら絶叫した。

「いやよ!私は生きるの!あんたと死ぬなんてごめん!!」


「待てミリア!!離れるな!!俺を置いていくな!!」


砂煙の中、悲鳴と罵声が溶けて消えていく。

やがて砂煙が収まった頃には、

二人の姿は――もう、どこにもなかった。





アマラは窓辺の椅子に腰かけ、静かに針を動かしていた。

一刺しごとに細やかな糸が花の形を描いていく。


「どうですか? もう少しで出来上がるのですよ」


対面のソファに座るエルネストが、書類から視線を上げた。

その表情は、アマラだけに向けられる柔らかな色を帯びている。


「あの時よりも上達したな」


「はい。……人を想いながら縫えば、自然と上達したのです」


アマラは恥ずかしそうに微笑み、最後の糸を留めた。


刺繍の布は、小さな産着。

金糸と白糸で縫われた、可憐な花模様が胸元に咲いている。


「できました」


エルネストはゆっくりと席を立ち、アマラの隣に腰を落とす。

大きな手で、そっと産着に触れた。


「子供が大きくなったら――

 あの小屋に、遊びに行こう」


アマラの目が丸くなる。


「まだ、あるのですか?あの小屋……」


「ああ。お前と過ごした場所だ。

 壊す理由なんて、どこにもない」


アマラの胸があたたかく満ちた。


エルネストは、産着を抱えたアマラの手を軽く包み込みながら続ける。


「ただ、食器を割られたら危ない。

 家事は、俺がするよ」


アマラは思わず肩を震わせて笑った。


「もう……以前よりは上達しましたから、大丈夫です」


エルネストも珍しく声を立てて笑う。


「そうだな……昔はひどかった」


「わ、忘れてください……!」


ふたりは顔を見合わせ、同時に笑った。

重い日々も、孤独も、すべてが遠く過ぎ去ったようだった。


――そして物語は静かに幕を閉じる。


二人が紡いだ日々と、これから紡がれる未来を抱いて。

読んでくださりありがとうございます。

短めではなく“読み応えある長編形短編”ですので、

もし続きが読みたい・長さがちょうど良かったなどあれば

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『学園で黒い噂が渦巻いてますが、彼の愛が欲しいだけなんです。』

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― 新着の感想 ―
 魔道の道具の扱いに長けた者と取引できるだけの知略があるなら、政略や癒しの力を行使したペテンなどに活かし、贅沢や太子の怠慢で消費した財などを回復できたでしょうに。  歪み妬み混じりの向上心はあっても…
人の価値は美醜ではない。と思います。アマラの人となりが、本当に素晴らしいと言うことです。アマラが、本当の恋を知り得て、それが成就してよかった。
性悪聖女は最近それなりによく見るけれど、流石にこのレベルの毒婦を聖女ってのは無理があるでしょ。
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