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第7話「領地見学で四人の距離が縮まり、私だけ少しモヤモヤしています」

週末の朝、学園から『香りの楽園』へと向かう馬車の中は、期待に満ちた会話で盛り上がっていた。


「ミリィ様、本当にありがとうございます。こんな機会をいただけるなんて」


セレーナ嬢が嬉しそうに微笑んでいる。薄い青色のドレスを身に着けた彼女は、馬車の窓から差し込む朝日の下で一層美しく見えた。


「いえ、私こそ皆さんに興味を持っていただけて嬉しいです」


「僕も楽しみだ」


殿下がセレーナ嬢の向かい側に座り、自然な笑顔を浮かべている。以前のような過度な緊張感はなく、友人として彼女との会話を楽しんでいるようだった。


「ミリィ、事前に領地にはお手紙で知らせてくれているのよね?」ルネが薬草の入った鞄を膝に置きながら確認した。


「ええ、この話が決まってすぐに手紙を送って、工房と香草畑の見学準備をお願いしておいたわ。家族もお客様をお迎えする準備を整えてくれているはずよ」


「お忙しいご家族にご迷惑をおかけしてしまいますね」


セレーナ嬢が気遣わしそうに言った。


「大丈夫ですよ。家族も『香りの楽園』を多くの方に知っていただけることを喜んでおりますから」


馬車は王都から離れ、緑豊かな丘陵地帯へと入っていく。窓の外には色づき始めた木々が広がり、清々しい秋の空気が流れ込んでくる。


「あ、香りが変わってきましたね」


ルネが鼻を動かして辺りの香りを確かめている。


「そうですね。このあたりからもう、たくさんの香草の香りが漂ってきます」


「本当だ。なんだか心が落ち着く香りですね」


殿下が深く息を吸い込んだ。


「セレーナ嬢は薬草や香草に関心がおありなのでしたよね?」


「ええ、祖母の影響で幼い頃から薬草の香りに親しんできました。香りには様々な効能がありますから、とても興味深いのです」


「ヴァルディス家はご両親とも医術に関わるお仕事をされているのでしたね」


「確か、お祖母さまが元宮廷薬剤師の名医でいらしたのですよね。宮廷薬剤師を目指す私にとって、憧れの方なんです!」


「ありがとうございます。私は幼少期、その祖母から薬草学の基礎を学びました。私も、ルネ様同様、そんな祖母に憧れ、宮廷薬剤師として社会に貢献したいと思うようになったんです」


私は静かに三人の会話に耳を傾けながら、セレーナの知識の深さ、その聡明さに改めて感心した。王子の記憶で見た時よりも、ずっと学問に対して熱心で、目標に向かって地道に努力を重ねられる方のようだ。


そうして、楽しくも興味深い会話を交わしていれば、あっという間に領境に達したようだ。馬車が丘の上を通ると、リュクスティリア領の全景が見えてきた。


「まあ、なんて美しい……」


セレーナ嬢が感嘆の声を上げる。


眼下には色とりどりの香草畑が広がり、その中央に石造りの館と工房が佇んでいる。畑では深紅のルージュ・ミスティカや淡い紫の月花(つきばな)草が風に揺れ、まさに『香りの楽園』の名にふさわしい光景だった。


「ここは僕も初めて見るが、本当に素晴らしい景色ですね」


殿下が窓に顔を近づけて景色を眺めている。その時、セレーナ嬢も同じように窓の外を見ようとして、二人の距離が自然と近くなった。


以前なら殿下は舞い上がってしまったであろうが、今日の殿下は落ち着いている。セレーナ嬢も、以前のような警戒心を見せることなく、自然に殿下と景色を共有している。


「あちらが屋敷になります。工房はその奥にあります」


なんだか胸の奥がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。けれど、私は何食わぬ顔で説明を続けた。殿下の成長ぶりを見るのは嬉しいはずなのに、なぜだろう。


「ミリィ、どうしたの? 少し顔色が悪いけれど」


ルネが心配そうに私を見つめている。


「何でもない。大丈夫よ。ちょっと、馬車酔いしたのかな?」曖昧に笑ってやり過ごす。


「そう? でも……」


ルネの琥珀色の瞳が、心配そうに揺れていた。


---


「ミリィ嬢!」


先に馬車を降りた殿下が、楽しそうに手を振る。その隣でセレーナ嬢が優雅に微笑んでいた。慌てて薬草の入った鞄を大切そうに抱えたルネと共に馬車を降りる。私は殿下たちに駆け寄ると、花畑を背後に、くるりと皆の方に向き直り、カーテシーをした。


「ようこそ、リュクスティリア領へ。『香りの楽園』へお越しいただき、ありがとうございます」


「お招きいただき、こちらこそありがとうございます」


セレーナ嬢が丁寧にお辞儀をする。彼女の薄い青色のドレスが、秋の空の下で一層輝いていた。


「わあ、こっちはルージュ・ミスティカ、あっちに見えるのは香霧(こうむ)モミね!本当に素晴らしい香りね!」


ルネが興奮した様子で辺りを見回している。


「空気自体が香草の香りに包まれているわ。さすがは『香りの楽園』ね」


「香草畑は後ほどゆっくりご案内しますね。まずは工房からご覧いただきましょうか」


私は三人を案内して工房へと向かった。扉を開けると、様々な香料と器具が整然と並ぶ室内に、彼らは感嘆の声を上げた。


「素敵……まるで宝石箱のようですね」


セレーナ嬢が目を輝かせながら、色とりどりの精油瓶を眺めている。


「これが先ほどの畑でも見たルージュ・ミスティカの精油です」


私は特産品の薔薇から抽出した精油を彼らに香ってもらった。


「なんて上品で深い香りなの」


ルネが感動した様子で瓶を見つめている。


「この香りには、どのような効能があるのですか?」


セレーナ嬢が熱心に質問してくる。


「心を落ち着かせ、緊張を和らげる効果があります。また、肌を美しく保つ効果も」


「それは興味深い。薬草学の観点から見ても、薔薇には様々な薬効がありますものね」


彼女の知識の深さに、私は少し驚いた。王子の記憶で見た時よりも、ずっと真面目で真摯な方のようだ。


「セレーナ様は、お祖母さまから薬草学の基本を学ばれたとお話しされていましたよね?現在も?」


「お祖母は領地で過ごされるようになってしまいましたので、最近は専ら書物を読んで勉強しております。母に時間がある時は、時々母からもいろいろお話を聞いたりしていますわ」


「それは素晴らしいですね!」


ルネが目を輝かせた。


「私も宮廷薬剤師を目指しているので、ぜひ色々とお話を聞かせていただきたいです」


二人の学問談義が始まった。その様子を、殿下が微笑ましそうに見つめている。


「僕には専門的すぎて難しいが、二人とも本当に熱心だな」


「殿下も何か興味のある分野がおありでは?」


私が尋ねると、殿下は少し考え込んだ。


「実は、外交に興味があるんだ。様々な国の文化や価値観を理解し、平和的な関係を築くことに魅力を感じている」


「それは素晴らしい志ですね」


「でも、そのためにも相手を理解することが大切だと、最近実感している。ミリィ嬢に教えてもらったおかげだ」


殿下が私に感謝の眼差しを向けた。その時、セレーナ嬢がこちらを振り返る。


「ミリィ様は、殿下の良き相談相手でいらっしゃるのですね」


「いえ、そんな……私は調香師として、人の想いに寄り添うお手伝いをしただけです」


「謙遜されることはありません。殿下がこんなにも変わられたのは、きっとミリィ様の助言のおかげでしょう」


セレーナ嬢の言葉に、殿下が頷く。


「その通りだ。僕は以前、人との接し方を勘違いしていた。でも、ミリィ嬢のおかげで、本当に大切なことが分かったんだ」


二人のやり取りを見ていると、なんだか胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。殿下の成長は確かに誇らしい。セレーナ嬢も素敵な方だ。二人はお似合いで、このまま信頼関係を築いていけば、きっと近い将来殿下の想いは届くはず。


でも……。


「さあ、次は香草畑の見学に行きましょう」


私は明るく声をかけて、一行を外に案内した。


---


香草畑は秋の日差しの下で美しく輝いていた。ルージュ・ミスティカの深紅の花びらが風に揺れ、月花草の淡い紫の花が可憐に咲いている。


「本当に美しいわ!こうしてじっくり見学させていただけるなんて、今日こちらに伺えて本当に良かった!」


セレーナ嬢が両手を胸に当て、感動の声を上げた。


「この薔薇の香りは格別ですね」


彼女が花に顔を近づけて香りを楽しんでいる様子を、殿下が優しい眼差しで見つめていた。以前なら一方的に物や言葉を送りつけていた殿下が、今は彼女の喜ぶ姿を見ることを何より嬉しそうにしている。


「ミリィ、これは何の花?」


ルネが月花(つきばな)草を指差した。


月花(つきばな)草です。夜に香りが強くなる特殊な性質があって、鎮静効果が高いんです」


「へえ、面白い性質ね。夜間に香りが強くなるということは、月光と何か関係があるのかしら?」


「そうですね。月の光に反応して香り成分を放出するという説があります」


四人で香草について語り合っていると、時間があっという間に過ぎていった。午後になって、お茶の時間を終えると、もう帰る時間となってしまったようだ。


「ミリィ嬢、今日は本当にありがとう」


殿下が心から感謝の言葉を述べた。


「こんなに充実した時間を過ごせるとは思わなかった」


「私も、とても勉強になりました」


セレーナ嬢が微笑む。


「特に、香草と薬草の相関性について、新しい視点を得ることができました」


「それは良かったです。皆様に楽しんでいただけて、私も素敵な一時を過ごせました」


私は笑顔で答えたが、心の中は複雑だった。


確かに今日は楽しかった。四人で話していると、まるで昔からの友人のような親しみを感じることもあった。学年も立場も違うけれど、今日1日で何年ぶんもの交流ができたように思う。それくらい充実した時間だった。


「名残惜しいけど、そろそろ帰る時間だな。ミリィ嬢、今日は本当にありがとう」


馬車に乗り込む三人を見送った後、私は一人で工房に戻った。残り香に包まれた室内で、今日の出来事を振り返る。


殿下は本当に変わった気がする。以前のような一方的な恋愛感情ではなく、セレーナ嬢を一人の人間として尊重し、理解しようとしている。それがちゃんと言動にも現れるようになっていて、殿下の元々の良さである思いやりや気遣いも自然と伝わっていたのではないかと思う。


セレーナ嬢も、最初の殿下の妄想から受けた印象とは違い、学問に対する真摯な姿勢を持った素晴らしい女性だった。二人で議論する姿は微笑ましく、とても楽しそうだった。きっと今後も良い関係を築いていけるだろう。


でも……。


なぜだろう。胸の奥が少しだけ重たい。


まるで大切にしていた何かを手放すような、そんな寂しさを感じている。


殿下が私に悩みを打ち明けてくれた時の、あの特別な時間。調香師として、人として、彼の成長を見守ることができた喜び。


それがもうすぐ終わってしまうのかもしれない。


夕風が窓から吹き込んで、ルージュ・ミスティカの甘い香りを運んでくる。その香りに包まれながら、私は静かに今日という日を心に刻んだ。

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