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第5話「『真心』で大失敗した王子に、恋愛の基本を教えることになりました」

 一週間後の朝、工房には清々しい秋の空気が流れ込んでいた。窓辺に並べられた香草の鉢植えが朝露にきらめき、蒸留器から立ち上る水蒸気が陽光に照らされ、虹色に輝いている。


 私の手元には、ついに完成した香水「真心」があった。

 深いアンバー色のガラス瓶に収められたその香水は、見た目からして今までの殿下の派手な香水とは一線を画している。控えめで上品な佇まいが、込められた想いの真摯さを表現していた。


 蓋を開けると、最初に清廉なシダーウッドの香りが立ち上る。森の奥深くで静かに根を張る古木のような、誠実で揺るぎない印象だ。続いて、純白のバラがほのかに香り、その奥から優しいカモミールの温かな香りが寄り添うように漂ってくる。


 全体の印象は、まるで早朝の森で一輪の白いバラを見つけたような——清楚で、誠実で、そして何より相手を思いやる優しさに満ちている。


「お嬢様、とても素敵な香りですね」


 マリーが感嘆の声を上げた。


「ありがとう。殿下の真摯なお気持ちが伝わるといいのだけれど」


 その時、工房の扉がノックされた。


「ミリィ、クラヴィス殿下がいらっしゃったよ」


 兄様の声だ。約束通り、殿下が香水を受け取りにいらしたようだ。

 応接室に向かうと、殿下は落ち着かない様子でそわそわと座っていた。いつものキラキラした雰囲気はなりを顰め、まるでお預けされたワンコのようだ。


「殿下、お待たせいたしました。お約束の香水が完成いたしました」


「本当ですか! ありがとうございます、ミリィ嬢!」


 殿下の目が希望に輝いた。見えない尻尾がぶんぶんと振られているような錯覚を覚える。

そんな彼の前に、私はそっと美しい布とリボンで包んだ香水を差し出した。


「『真心』と名付けました。殿下の誠実なお気持ちを表現したつもりです」


 殿下が丁寧にリボンを解くと、アンバー色の瓶が姿を現した。


「美しい……」


 蓋を開けて香りを確かめた殿下の表情が、驚きに変わった。


「これは……今までの香水とは全く違いますね」


「はい。派手さや華やかさではなく、真摯さと誠実さを重視しました」


 殿下がゆっくりと香りを吸い込む。その表情が次第に穏やかになっていくのが見て取れた。


「素晴らしいです。まるで朝もやに包まれた森で、一輪の白い花を見つけたような……清らかで、誠実で、心が落ち着きます。確かに、これなら僕の本当の気持ちが伝わるかもしれません」


「気に入っていただけて良かったです。使い方の注意点もご説明しますね」


 私は真剣な表情で続けた。


「この香水をお使いの際は、相手の女性に対して紳士的に、そして誠実に接してください。香水だけでは想いは伝わりません。殿下ご自身の行動と言葉が何より大切です」


「分かりました。ミリィ嬢のおかげで、きっと彼女に僕の本心を理解してもらえるでしょう」


 殿下は真剣な面持ちで頷くと、香水を大切そうに胸元に抱えて帰っていった。




 

 それから三日後——。

 私が工房で新しい香料の整理をしていると、またしても兄様が現れた。しかし今度は、明らかに困惑した表情をしている。


「ミリィ、またクラヴィス殿下がいらしたのだが……」


「また? もしかして、上手くいったご報告かしら?」


「いや、それが……どうも様子がおかしい気がするんだ」


 急いで応接室に向かうと、項垂れた様子の殿下が座っていた。先日の希望に満ちた表情とは打って変わって、深く落ち込んでいるかのように、どんよりとした空気を漂わせている。私は、そんな殿下の向かいの席に腰を下ろすと、そっと声をかけた。


「殿下……どうなさいましたか?」


「ミリィ嬢……」

 殿下が顔を上げると、その目は涙で潤んでいた。


「大失敗でした……」

「え?」

「あの香水をつけて、勇気を出して彼女に話しかけたのです。今度こそ僕の真心が伝わると思って」


 殿下の声が震えている。


「でも、彼女は僕を見るなり、こう言ったのです。『あら、今度は香水の趣味まで変わったのですね。でも、どんなに取り繕っても、殿下の本質は変わらないでしょう? 余計に不自然ですわ』と……」


 なんということだ。香水を変えたこと自体が、かえって不信感を増してしまったのか。


「それで僕は必死に説明しようとしたのですが、『今度はどんな演技をなさるのかしら』と言われて……もう、どうしていいのか分からないのです」


 殿下が両手で顔を覆った。気のせいか、タレ耳と丸まってしまった尻尾まで見えるようだ。


「彼女は僕のことを、『恋愛遊戯を楽しんでいる軽薄な人間』だと思っているのです。何をしても、『また新しい手口』だと受け取られてしまって……」


 私は胸が痛んだ。殿下の想いは確かに真摯なものだったのに、過去の行動がすべてを台無しにしてしまっている。


「殿下……」


「ミリィ嬢、僕はどうすればいいのでしょうか? もう彼女に僕の本心を信じてもらうことは不可能なのでしょうか?」


 殿下の切実な問いかけに、私は言葉に詰まった。香りで想いを伝えることの限界を、初めて突きつけられた気がした。


 窓の外では、秋風が香草畑を渡って工房に入り込み、様々な香りを運んでくる。穏やかな香り、爽やかな香り……だが今の私には、どの香りも殿下の問題を解決してくれそうには思えなかった。


「殿下、申し上げにくいことですが……」

 私は意を決して口を開いた。


「香水だけでは、根本的な解決にはならないかもしれません」


「え?」


「その方が殿下を信用されていないのは、香りの問題ではなく、むしろ……」

 私は慎重に言葉を選んだ。


「殿下のこれまでの行動が積み重なった結果なのではないでしょうか」


 殿下の表情が暗くなる。


「つまり、僕が今まで軽薄だったということですか?」


「軽薄というより……その方から見れば、殿下の恋愛に対する姿勢が一貫していないように見えるのかもしれません」


 私は調香師として、人の想いに寄り添ってきたつもりだ。しかし今回の件で改めて気づかされたのは、香りはあくまで「自分の心を表現する手段の1つ」に過ぎず、「相手の心」を変えることはできないということだった。


「殿下、率直にお聞きしますが……その方以外に、これまでお心を寄せた女性はいらっしゃいますか?」


 殿下の顔が赤くなった。


「それは……その……」


「正直にお話しください。解決の糸口を見つけるためです」


 殿下は観念したように頷いた。


「実は……これまでにも、何人かの女性に好意を抱いたことがあります。でも、彼女たちはみな、僕の想いに応えてくれませんでした」


 やはり。殿下の「恋愛遍歴」は事実だったのだ。


「その度に、僕は香水を贈ったり、詩を書いたり、花束を送ったりしていました。でも、どれも上手くいかなくて……」


「つまり、同じような方法を何人もの方に繰り返していらっしゃったのですね」


「はい……」


問題の核心が見えてきた。殿下は確かに一人ひとりに対しては真剣なのだが、複数の女性に同じようなアプローチを繰り返している。それでは、どんなに真剣でも相手には「不誠実」としか映らないだろう。


「殿下、香水や贈り物で想いを伝えようとする前に、まずはその方と友人としての信頼関係を築いてみてはいかがでしょうか?」


「友人として?」


「はい。恋愛感情を前面に出すのではなく、まずはその方がどのような人なのか、何に興味をお持ちなのか、どのような価値観をお持ちなのかを知ることから始めてみてください」


 殿下が困惑した表情を浮かべた。


「でも、それでは僕の想いが伝わらないのでは?」


「想いを伝えるのは、その後でも遅くありません。信頼関係ができてからの方が、むしろ真摯に受け取ってもらえるのではないでしょうか」


 私自身に恋愛経験は皆無だけど、調香師として様々な人の想いを見てきた経験から、私は確信していた。本当の愛情とは、相手を知り、理解し、尊重することから始まるのだと。


「そう考えると、僕は今まで彼女達のことを本当に知っていると言えたのでしょうか……」


 殿下が自問するように呟いた。


「好きな色も、好きな本も、どんなことに興味があるのかも……僕は彼女達の美しさに心を奪われただけで、彼女達一人ひとりの人間性を理解しようとしていなかったのかもしれません」


 殿下の目に、新たな決意の光が宿った。


「ミリィ嬢、ありがとうございます。僕は香水に頼るのではなく、まずは彼女と一人の人として向き合ってみます」


「それが良いと思います。そして、殿下」


「はい?」


「もしその過程で、やはり香りの力が必要でしたら、いつでもお手伝いいたします。ただし、今度は相手の方をよく知ってからにしましょう」


 殿下が深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました。ミリィ嬢は僕の恩人です」


 そう言うと、満足そうな笑顔を浮かべ、殿下は帰っていった。



 私は殿下を見送った後、工房の窓から香草畑を眺め、今回のことを振り返ってみた。

 調香師として、香りで人の想いを伝える手助けをすることは大切だ。しかし、それ以上に大切なのは、その想いそのものが相手への真の理解に基づいているかどうかなのかもしれない。


 『真心』という名の香水は失敗に終わったが、殿下にとっても私にとっても、大切なことを学ぶきっかけにはなった。


 クラヴィス殿下との奇妙な関係が始まってから一ヶ月。

 最初は殿下の突然の「運命の人」宣言に困惑し、あの濃すぎる恋愛妄想に辟易していた私だったが、今では殿下の恋愛相談に乗る立場になっている。


 調香師として香りの力を過信していた私は、今回の経験で多くのことを学ぶことができた。殿下の恋の行方はまだ分からない。だが、少なくとも殿下は変わろうとしている。そして私も、調香師として一歩成長できたような気がする。


 そう思うと、この殿下との奇妙な縁も有り難いものに思えてくる。


「ただ一つ、気になることがあるとすれば……」


 私がこれほど殿下の恋愛相談に熱心になっていることを、家族は知らない。もし父様や兄様が知ったら、一体どんな反応を示すだろうか。

 特に兄様は、殿下が頻繁に領地を訪れることを既に警戒している様子だった。もし殿下との「協力関係」が発覚したら……。


 私は小さくため息をついた。調香師としての新たな挑戦も、殿下との不思議な友情も、まだまだ始まったばかりなのに、既に次の試練が待ち受けているような予感がする。


 秋の風が工房を吹き抜けて、新たな香りを運んでくる。それは、これから訪れる変化の予兆のようにも感じられた。

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