第4話「香りオタクの私、王子の恋愛相談を受ける羽目に」
殿下の突然の香水攻撃から三日。時折殿下の妄想を思い出しては、辟易とした気分になりつつも、私はなんとか気持ちを立て直し、これまで同様調合三昧の日々を送っていた。
工房で新しい香水の調合に集中していると、またしても兄様が現れた。しかも今度は、明らかに困った表情をしている。
「ミリィ、またクラヴィス殿下がいらしている」
「え? また?」
三日前に『永遠の愛』という香水を持参してから、もう来ないでほしいと心の底から願っていたのに。
そもそも、うちの領地は王都から比較的近いとはいえ、それでも馬車で片道二時間はかかる。第三王子という立場は、そんなに暇ではないと思うのだけれど……。
「今度は何か相談があるとのことで……」
相談? 一体何の相談だろう。まさかまた香水を持参されているのではないだろうな。
困惑した気持ちを抱えながら応接室に向かうと、殿下は思いつめたような表情で座っていた。いつものキラキラした雰囲気が影を潜めている。私に気づくと、パッと顔を上げ、嬉しそうな笑顔で迎え入れてくれた。
「ミリィ嬢、お忙しい中ありがとうございます」
「いえ、殿下こそお忙しい中での再訪、何かご相談があるとお聞きしましたが……」
殿下は少し躊躇うような素振りを見せた後、供した紅茶で喉を潤してから、意を決したように口を開いた。
「実は、ミリィ嬢にお願いがあるのです。あなたの特別な能力を使って、お力添えいただけないかと」
やはり、私の能力のことか。
「香りを通じて何かを感じ取る力をお持ちですね? 僕の推測が正しければ、人の記憶や想いを読み取ることができるのでは?」
核心を突かれてしまった。否定しようにも、あの時の私の反応を見られていては言い逃れできない。
「それは……」
「どうか、僕を助けてください」
殿下が突然頭を下げた。
「助ける……とは?」
「実は僕には……どうしても諦められない人がいるのです」
え? 諦められない人?
「でも、その人は僕の想いに気づいてくれません。いえ、気づいていても応えてくれないのかもしれません」
殿下の表情が暗く沈んでいく。これは一体……。
「それで、ミリィ嬢の力をお借りして、その人の本当の気持ちを知りたいのです」
つまり、私の能力を使って、その人の記憶を読み取れということか。
「殿下……それは……」
「これです」
殿下が懐から小さなハンカチを取り出した。薄いピンク色の絹のハンカチに、繊細な刺繍が施されている。
「これは、その方が落とされたハンカチです。僕が拾って、お返ししようと思ったのですが……」
ハンカチからは、微かに香りが立ち上っていた。上品で清楚な白いバラと、ほのかなスミレの香り。とても品の良い、淑女らしい香りだ。
「お相手は、とても素敵な方なのですね」
「はい。美しくて、聡明で、気品があって……僕の理想そのものの方なのです」
殿下の目が遠くを見つめている。本当に心から想っているのが伝わってくる。
「でも、どうしても僕の想いが伝わらないのです。それどころか、最近は避けられているような気さえして……」
そんな切ない表情を見せられては、断るのも気の毒だ。それに、母様の教えを思い出す。人の想いに寄り添うことの大切さを。
「分かりました。試してみます」
「本当ですか! ありがとうございます!」
殿下の表情が一気に明るくなった。
私はそっとハンカチを手に取った。繊細な刺繍からは、丁寧に手入れされた証拠が見て取れる。持ち主の几帳面な性格が伺える。
ハンカチに鼻を近づけると、香りと共に記憶が流れ込んできた。
——美しい金髪の女性が、図書館で本を読んでいる。
——その女性が、誰かと楽しそうに談笑している。
——そして……殿下が現れると、明らかに表情を曇らせる女性。
「あ……」
その記憶の中で、女性が友人らしき人物に話している場面が見えた。
「また例の王子様がいらっしゃったわ。本当に困ってしまう」
「まあ、それはお困りでしょうね。あの方の恋愛遍歴は有名ですもの」
「そうなの。今度は私が標的みたい。でも、あの方はきっとすぐに他の方に興味を移されるでしょうから、適当にやり過ごすしかないわね」
なんということだ。その女性は、殿下のことを「恋愛遍歴が有名な、すぐに興味を移す人」だと思っているのだ。
「ミリィ嬢? どうでしたか?」
殿下が心配そうに覗き込んでくる。この記憶をそのまま伝えるのは酷だろうか。
「あの……殿下。率直に申し上げますが、その方は殿下のことを……少し誤解されているようです」
「誤解?」
「殿下が、恋愛において……その……あまり真剣ではないと思われているようで」
殿下の顔が青ざめた。
「そんな……僕は本気なのに」
「でも、殿下の過去の……恋愛のご経験が、そのような印象を与えているのかもしれません」
実際、殿下の記憶を読んだ時、あまりにも多くの女性への恋愛妄想が流れ込んできた。きっと、その一端が世間に知られているのだろう。
「どうすれば……どうすれば信じてもらえるのでしょうか」
殿下が項垂れている。意外にも、本当に真剣に悩んでいるようだ。
「殿下、もしよろしければ……」
「はい?」
「香りを使って、殿下の本当のお気持ちをお伝えしてみてはいかがでしょうか」
「香りで?」
「はい。私が殿下専用の香水を調合いたします。その方への真摯な想いを込めた、特別な香りを」
殿下の目が希望に輝いた。
「それは……可能なのですか?」
「香りには、想いを伝える力があります。適切な香りを選べば、言葉では伝えきれない真摯さを表現できるかもしれません」
これは私の専門分野だ。調香師として、人の想いを香りに込めることならできる。
「ただし、条件があります」
「何でも聞きます!」
「これまでのような、華やかすぎる恋愛的な香りではダメです。もっと誠実で、控えめで、相手を思いやる気持ちが伝わるような香りでなければ」
殿下が真剣に頷いた。
「分かりました。ミリィ嬢にお任せします」
「それから、その香水をつけている間は、相手の女性に対して紳士的に、そして誠実に接してください。香りだけでは伝わりません。行動が伴わなければ」
「もちろんです!」
こうして、私は王子の恋愛相談に乗ることになってしまった。
しかし、調香師として人の想いに寄り添うのは悪いことではない。殿下の本気度も感じられるし、その女性に対する想いも真摯なもののようだ。
ただ一つ気になるのは……殿下が今まで私に向けていた好意は、一体何だったのだろうか?
「あの、殿下」
「はい?」
「私への……その……前回の私への香水のプレゼントは……」
殿下がきょとんとした表情になった。
「ああ、あれですか。ミリィ嬢の能力に興味があったのと、調香師としての腕を確かめたかったのです。それに、ミリィ嬢になら僕の想いを理解してもらえるかもしれないと思って」
なんと。私への好意ではなく、能力への興味と、恋愛相談の前段階だったのか。
なんというか、迷惑に思っていた相手が、実は自分のことを好きでもなんでもなかった上に、軽く振られたみたいになっていることに、少しだけモヤモヤした。が、想い人が自分ではなかったことへの安堵の方が大きかったので、そこはスパッと気持ちを切り替え、早速殿下のための香水作りに取り組むことにする。
工房に戻って香料と向き合いながら、私は考えた。誠実さを表現する香り、真摯な想いを伝える香り。それはきっと、派手さよりも深みを、華やかさよりも温かみを重視した香りだろう。
ベースには、誠実さを象徴するシダーウッド。ミドルには、純粋な愛を表す白いバラを少しだけ。そして、相手を思いやる気持ちを込めて、優しいカモミールを加えよう。
「ふふ、やっぱり香りのことを考えている時が一番楽しいな」
香水瓶に「真心」という名前をつけて、私は調香を始めた。
殿下の恋が実るかどうかは分からないが、少なくとも誠実な想いは伝わるはずだ。
そして何より、これで殿下の私への香水攻撃は終わるだろう。それはつまり、あの次々に流れてくる妄想恋愛劇場から解放されることを意味している。
「良かった、これで私にも平穏な毎日が帰ってくるのね」
私は晴れやかな気持ちで香料を計量・混合し、香りを調整していった。
まさかこれが、さらなる騒動の始まりだったとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
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