第3話「王子のストーカー行為が始まりました(香水付き)」
あの舞踏会から一週間。私はようやく平穏な日常を取り戻していた。
今日も『香りの楽園』と呼ばれる我が領地で、調香師としての仕事に没頭している。工房の窓から差し込む朝の光が、色とりどりの香草を照らし、空気中には穏やかな香りが漂っていた。
「ミリィお嬢様、今日のルージュ・ミスティカの蒸留はいかがでしょうか?」
工房の助手を務めてくれているマリーが、薔薇色の液体が入った小瓶を差し出してくれる。ルージュ・ミスティカは我が領地の特産品である希少な香りバラで、そこから抽出した精油は、王都でも高値で取引される逸品だ。
「とても良い香りね。今回は特に純度が高いわ」
小瓶に鼻を近づけて香りを確かめる。幸い、この薔薇には記憶が宿っていない。植物の香りは安全だ。人の記憶が混じらない分、純粋に香りそのものを楽しむことができる。
「お嬢様の考案された技術のおかげです。Luna Floraブランドの評判も上々で、王都の貴婦人方からの注文が絶えません」
Luna Floraは、私が立ち上げた個人ブランド。最初は姉の恋愛を応援するために作った化粧品から始まったが、今では領地の重要な収入源となっている。
「それは良かったわ。今後も品質を落とさないよう、一つ一つ丁寧に——」
その時、工房の扉がノックされた。
「ミリィ、少しいいかい?」
兄様の声だ。珍しいわね、昼間に工房を訪ねてくるなんて。
「はい、兄様。どうぞお入りください」
扉が開くと、兄様の後ろから見覚えのあるプラチナブロンドの髪が見えた。
「ミリィ嬢、お忙しいところ申し訳ありません」
爽やかな声と共に、クラヴィス殿下が現れた。相変わらず絵に描いたような美形だが、私にとっては香りの記憶が濃すぎる危険人物だ。
「ク、クラヴィス殿下! なぜこちらに?」
「殿下は近隣の視察でこちらにいらしていて、せっかくなので我が領地の名産品をご覧いただくことになったんだ」
兄様が説明してくれたが、その表情はどこか強張っているし、視線は明後日の方を向いていた。
「さ、さようでございましたか…ようこそ、我が領地『香りの楽園』へ」
なんとか挨拶の言葉を紡ぎ出し、必死に口角を上げて歓迎の意を伝えると、クラヴィス殿下はニコニコしながら兄様を通り過ぎ、スッと私の眼前まで距離を詰めてきた。
私は、咄嗟に一歩後ずさりしてしまう。不敬と言われようとも、今度こそ香りを嗅がないよう気をつけなければ。
そんな私の態度を気に留める様子もなく、殿下は人好きのする笑顔のまま話しかけてきた。
「先日はお聞きしたいことがあってダンスにお誘いしたのですが、ご気分が悪そうだったので……。それで、お体の調子はいかがですか?」
心配そうな表情を浮かべ、労わるようにそう告げられれば、尻込みしてばかりいる己の態度が些か申し訳ない気持ちになってくる。そういえば、あの時も私の顔色を気にしてくれていたっけ…。
「あ、はい。おかげさまで、もうすっかり大丈夫です」
「それは良かった。実は、あの時、ミリィ嬢の瞳が光っているのを見たのです。とても美しい光でした。あれは一体……?」
やはり見られてしまっていたか。殿下は私の能力に気づいている…のかしら?さて、どう答えたものか…。
「それは……その……」
言葉に詰まる私を見て、殿下は興味深そうに首を傾げた。
「もしかして、何か特別な能力をお持ちなのですか? 僕は魔法や不思議な力にとても興味があるのです」
兄様が私と殿下のやり取りを見て、少し心配そうな表情を浮かべた。
「殿下、ミリィは少し疲れやすいところがありまして……」
「ああ、そうでしたね。突然不躾な質問を投げかけて困惑させてしまいましたね。申し訳ありません」
「こちらこそ、椅子をお勧めもせず、申し訳ございません。どうぞ、こちらでお茶でも」
私は工房の奥にある応接スペースに殿下をご案内した。ここなら、香草の香りに包まれているので、殿下の香りも多少はごまかせるはずだ。
「素晴らしい工房ですね。これが噂に聞く『香りの楽園』の調香工房ですか」
殿下は興味深そうに辺りを見回している。
「ありがとうございます。祖母の代から続く伝統の技術で、私も母から受け継ぎこちらで様々な調香を行っております」
「さようですか。どんな香りを調香されているのか、実に興味深いですね。是非時間のある時にでもゆっくり見学させていただきたいものです。……ところで、ミリィ嬢」
殿下が突然立ち上がり、懐から小さな瓶を取り出した。
「これは僕が特別に調合させた香水です。ぜひ、ミリィ嬢に試していただきたくて」
え? 香水?
マリーが小さく息を呑む音が聞こえた。香水を異性に贈るというのは、この国では特別な意味を持つ行為だ。特に貴族社会では、香水は単なる贈り物ではない。相手への好意や愛情を表現する、非常に親密な贈り物とされている。
「で、殿下……それは……」
「『永遠の愛』という名前の香水です。薔薇と蜜柑をベースにした、とても上品な香りなのですよ」
薔薇と蜜柑? その組み合わせ、どこかで……。しかも『永遠の愛』なんて、あまりにも直接的な名前ではないか。
「どうぞ、手首につけて香りを確かめてみてください」
殿下が嬉しそうに瓶を差し出してくる。断るわけにもいかず、私は恐る恐る瓶を受け取った。
蓋を開けた瞬間、甘美で濃厚な香りが立ち上った。最初に鼻に届くのは、深紅のダマスクローズの豊潤で官能的な香り。それに続いて、太陽をたっぷり浴びた完熟蜜柑の甘酸っぱい香りが重なり合う。二つの香りが絡み合って、まるで恋人同士が抱き合っているかのような、情熱的で甘美な調べを奏でている。
「あ」
またしても、殿下の記憶が流れ込んできた。今度は香水に込められた想いの記憶だ。
——「この香水をミリィ嬢に渡したら、きっと僕のことを思い出してくれるはず」
——「薔薇は愛の象徴、蜜柑は永遠の絆。完璧な組み合わせだ」
——「彼女の美しい瞳がまた光るのを見ることができるかもしれない」
「うわあああ……」
思わず小さく呻いてしまう。殿下の妄想がまた始まった。しかも今度は、香水を介して私への想いが込められている。
「ミリィ嬢? どうかなさいましたか?」
「だ、大丈夫です。とても……素敵な香りですね」
嘘だ。この香水から感じるのは、殿下の一方的な恋愛妄想ばかりだ。
「気に入っていただけましたか? でしたら、これからも定期的に新しい香水をお持ちします」
え? 定期的に?
マリーが困惑した表情で私を見ている。貴族の男性が女性に定期的に香水を贈るというのは、明らかに求愛の意思表示だ。まるで正式な求婚の前段階のような……。
「あの、殿下。そのお気持ちはありがたいのですが……」
「遠慮はいりません。僕には時間もありますし、ミリィ嬢のために香水を調合するのは楽しいのです」
殿下の目がキラキラと輝いている。これは……まずい予感しかしない。
「それに、ミリィ嬢の不思議な能力についてももっと知りたいですし」
やはり、殿下は私の能力に興味を持っている。しかも、香水を口実に接近を図ろうとしているようだ。
「あの、殿下……」
「次は『情熱の炎』という香水を持参します。ジャスミンとバニラをベースにした、大人の香りです」
勝手に話が進んでいる。この王子、人の話を聞きやしない!しかも、名前からして妄想が込められていそうな香水ばかりだ。そしてその全てが、恋愛や愛情を表現する名前になっている。
「それから『永遠の誓い』、『運命の出会い』、『真実の愛』……」
どんどん香水の名前が出てくる。全部、恋愛関係の名前ばかりじゃないか。これはもう、香水を通じた求愛攻撃と言っても過言ではない。
「ミリィ、失礼するよ」
工房の入り口から、父様の声が響いた。救世主だ。
「リュクスティリア伯爵。お邪魔しております。」
「これは殿下、ようこそお越しくださいました」
父様が殿下に丁寧に挨拶をしている。しかし、その表情は少し強張っているようだ。
「実は、急用ができまして、大変申し訳ありませんが、ミリィをお借りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。急にお邪魔してしまったので、ご予定もおありですよね。僕はこれで失礼することにいたします」
殿下が爽やかに微笑んでいるが、父様の視線は険しい。
「慌ただしくて申し訳ございません。では、殿下。今日はありがとうございました」
「こちらこそ。それでは、また近いうちにお伺いします」
また来る気満々だ。しかも、香水持参で。
殿下を馬車まで見送り、走り去る馬車の陰が見えなくなると、父様は深いため息をついた。
「ミリィ、あの殿下は一体何をしに来たのだ? 視察とは言っていたが……」
「香水を……持ってきてくださいました」
「香水? まさか、求婚の印として?」
「いえ、そこまでは……でも、定期的に持ってくると仰っていました」
父様の顔が青ざめた。
「それは……完全に求愛行為ではないか。しかも香水付きとは、なんとタチの悪い……」
「父様、お顔の色が悪いですよ」
「当然だ。可愛い娘が王子にストーカーされるなど、父として看過できん」
そう言いながら、父様は馬車が去っていった方を眺めた。
「今すぐシエルを呼んで作戦会議だ。『ミリィを嫁にやらない連盟』の緊急招集が必要だな」
父様の表情が険しくなっていく。一方で、私の手にはまだ殿下の香水が残っている。
この香水から立ち上る香りには、確かに殿下の想いが込められていた。ただし、その想いがあまりにも一方的で妄想的すぎて、正直困惑するばかりだ。
母様の教え通り、人の想いを大切にするべきなのだろうが……。
これから殿下の香水攻撃が始まると思うと、頭が痛くなってくる。
工房に戻り、窓から見える美しい香草畑を眺めながら、私は小さくため息をついた。