第2話 入学式
桜の木が揺れている。
風にのって花びらが舞う。
桜の並木道には浮足立つ新入生で溢れている。
今日は高校の入学式。
多くの生徒と保護者たちが笑顔の中、俺は1人で歩いていた。
もちろん、両親は来ない。別に寂しくもない。
もはやあの人たちとは住む世界が違う。
式典の記憶はほぼない。
校長、生徒会長、新入生代表やらが話していたが――顔も名前も覚えていない。
長い話に飽きてしまった俺は外の景色を眺めていた。
入学式が終わり、1年G組の教室ではHRが始まった。
手始めに自己紹介をやるようだ。
「どうも、天海渚です。よろしくお願いします」
最初は俺。
天海は母さんの旧姓だ。
「天海さ……天海くんそれだけで良いの?」
担任が驚いた様子でこちらを見ている。
特に紹介するものが無かったので適当に返事をする。
「あ、はい」
担任は気まずそうにしていたが、気にしない。
彼女は初めて担当クラスを持ったらしく気合いが入りまくってるようだった。
「そう……じゃあ次!」
クラスメイトの視線は後ろの席の人に移る。
後ろの席の短髪少年はとても明るかった。
世間では学級委員タイプと呼ばれているやつなのだろう。
「初めまして。東中学校から来ました――」
俺の後ろに続いた人たちは、出身中学や部活の経歴、趣味などを言っていた……らしい。
申し訳ないことに、全く記憶に残っていない。ここでも俺は上の空だった。
今日の日程、すべてが終了した。
親はそもそも来ていないし、クラスメイトと話す用などもなかった。
だから真っ直ぐ帰ろうと思い、鞄を持って席を立ったとき、短髪少年に声を掛けられた。
「天海くんだよね? 改めまして僕は、荒井宏太。これからよろしく!」
全く話を聞いていなかったので、彼が名前を名乗ってくれて助かった。
典型的なほどにザ・学級委員タイプの親切な荒井くんが手を差し出す。
握手を求められているようだ。急だなと思いつつも、俺はその手をしっかり掴んだ。
「おう、こちらこそ。俺は天海渚。好きなように呼んで。よろしく」
最初のクラスメイトとの会話。
初めてカタギの人間として接すること、他人と交流することに俺は緊張していた。
その緊張感を必死に抑えながら冷静に対処したつもりだ。
だが握手を終えた途端に緊張の糸がほころんだのか、冷や汗をかき始めていた。
この俺がこんなことでビビッていたら組の奴らに笑われてしまう。絶対バレたくない。
入学して1週間が経った。
廊下や教室、グラウンドからの声が聞こえてくる。
部活の掛け声や何かしらの勧誘、友人たちとのおしゃべりが、まるで何かを演奏しているかのように。
今は部活の歓迎期間らしく、放課後になると学年問わず忙しなくしているようだ。
先輩方は新入生を集めるために必死な様子だし、新入生においても、入部した・してないに関わらずやたらと活気が溢れている。
「渚くん! どこかの部活に入ったりした?」
教室の自席という特等席で突っ伏して、この演奏に聞き耳を立てていると、誰かに声をかけられた。
その声の主は荒井くんだった。
どうやら彼は野球部に所属したようである。俺にぜひ部活体験に来て欲しいとのことだった。
「いやごめん、部活に入る予定はないかな。バイトもあるし体験にも行けないや」
実は一人暮らしを機にアルバイトを始めていた。
親父から支度金を貰っていたが、いつ底を着くのかわからない。
この先どんな道を進むのかもまだ決めていない。
いつどのタイミングでいくら必要になるかが全くもって不透明なのだ。
さすがの俺でも、部活動まで手が回らない。
「アルバイトしてるのか! 何のバイト?」
彼は不思議そうにこちらを見ている。
何故そんなにも興味を抱いてくれるのかはわからなかった。
まあ、彼はカタギになって初めて声を掛けてくれた存在だ。ここはしっかり筋を通そう。
「個人経営のカフェでバイトしてる」
一瞬、沈黙した。先程まで騒がしかった音が全く聞こえなくなるほどに。
え、意外……とでも考えているのだろう。
彼は拍子抜けしたようだ。全部顔に出ている。
「へぇ……今度時間合ったら遊びに行っても良い?」
今度は目を輝かせて聞いてきた。表情がコロコロ変わる様子はまるでおやつを前にした犬のようだ。
おそらくお世辞なのだろうが、結構嬉しかったので丁寧に返した。
「もちろん。お待ちしております」
そう言うと、彼は上機嫌で部活へ向かった。
荒井くんは人当たりが良すぎて少し心配になるが、そういう性格の持ち主なんだろう。
彼のおしりにしっぽが見えた気がした。
学校帰りにそのまま俺の愛車、『 TB1 BRIDGESTONE 』にまたがりバイト先へ向かう。
三澤駅から徒歩20分の位置にある仲睦まじい老夫婦が営む店。
夫婦こだわりのコーヒーと料理が揃う落ち着いた雰囲気のカフェである。
縁あって俺はそこで働かせてもらっている。
(カランコロン)
「ニャ~」
ドアを開けると、看板娘の黒猫クロが迎え入れてくれる。
彼女は黒の毛並みに翠眼が良く映えた美しい猫であった。
その姿を見たものは一目で心を奪われるだろう。この俺のように。
脚にすり寄って来たクロを挨拶がてら愛でて裏へ向かう。
「おはようございます。店長」
コーヒー豆の良い香りが漂う。
英国紳士のような佇まい。切れ長の目にスクエアメガネをしている、うちの店の頭がコーヒー豆を挽いていた。店長の顔の無表情さはどこか親父に似ているので不思議と安心する。
「お~、おはよう。渚くん。今日もよろしくね」
店長の名は、篠倉文雄さん。
コーヒーをこよなく愛するうちの店のコーヒーマイスター。
一見気難しそうではあるが、優しさに溢れた人である。
「渚くん、おはよう! ごめんね……今日も洗い物からお願いしても良い?」
こちらは店長の奥さんだ。
この店のフードメニューを1人で担っている、篠倉陽子さん。
セミロングの綺麗な茶髪。唇の右下には黒子があり常に慈愛に満ちた笑顔をする女性。
とても明るく元気で、常連様にも愛されている。
「わかりました」
俺は学校の制服から仕事着に着替えて流し台にカチコンだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
中学3年の冬。
今にも雪が降ってきそうな雲に覆われていた。
この通りを歩いていると、どこか焦燥感を感じさせる。
俺は受験勉強の息抜きに、三澤高校の周辺まで散歩に来ていた。
そこはお世辞にも栄えているとは言えないようなところだった。
商店街は寂れて、ほとんどの店がシャッターを下ろしている。
ガキの頃に来たときは、もう少し活気に満ちていたはずなんだが……まあこれも時代の流れなんだろう。
俺は学校の徒歩圏内で一人暮らしをする予定だ。
まあ、合格できればの話だが。
この辺りは会社の者が少なく、その影響を全く受けないカタギの人たちが暮らしている。
烏のシマではあるが、常に抗争が起きている訳でもなければ、犯罪すらあまり起きない平和な町だ。
狼月は烏と同盟を結んでいる。
つまり裏の人間である俺が足を洗ったとしても、比較的影響の受けにくい都合の良い町なのだ。
俺はまだ確定もしていない高校生活に想いを馳せて歩いていた。
「あいたたた……」
声の聞こえる方を見てみると、そこには腰を抑えながら倒れている女性がいた。
あたりを見渡しても人の影が無い。女性1人しかその場にはいなかった。
「大丈夫ですか?」
あまりにも痛がっていたので思わず声をかけてしまった。
さすがにあの状況下で声を掛けないわけにはいかなかった。
「びょ、病院まであと少しなんだけど……腰が限界みたいで」
相当ひどい状態のようだ。顔色がどんどん悪くなっている。
これは時間が惜しい。
「わかりました。病院まで一緒に行きましょう。場所を教えてください」
俺は場所をなんとか聞き出して、その女性を背負うと急いで病院に向かった。
急ぎつつも腰には負担が掛からないように最大限の配慮をしながら。
女性の診察と治療が終わった。
診察室から看護師Aが出てきてキョロキョロしている。
何かを探しているようだ。
「あの、篠倉さんを連れてきてくださりありが……あれ、男の子は……?」
その看護師Aが受付にいたもう1人の看護師Bに声を掛ける。
看護師Bは書類を整理しながら流れるように答えた。
「え、そこにいない?」
俺は女性が診察室に入っていったのを見届けてから病院を離れた。
そろそろ家に帰ろうかと思った時、1台の車が目の前で停車した。
そして後部座席の扉が開いた。俺は黙って乗り込んだ。
「若、困ります。勝手に行動されては」
運転席には柏木が乗っていた。
日が暮れているというのにサングラスを掛けて運転している。
「すまない、それから俺はもう若ではない」
弟が生まれた時点で俺は若頭を名乗ることはできない。
だからわざわざ迎えに来なくたって良いはずなのに。
柏木は過保護すぎる一面がある。
「失礼致しました、坊ちゃん」