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42.この世界の何よりも

「……っ!」


 ローレンツが目を押さえ、崩れ落ちるようにひざまずく。


「ローレンツ殿下!」


「っいい、俺のことはいいんだ。だからティア、あなたはシンシアを――」


 大きな手で目を覆ったまま、ローレンツはもう片方の手を伸ばす。震えながら、無残に散らばった黄金の砂を指し示した。


「ここだ。シンシアはここにいる」


「シンシア……!」


 見えない。

 飛びつくように黄金の砂を覗き込むが、シンシアの姿はどこにも見えない。


 泣き出しそうになりながら、私はローレンツの示した先に薄紅色の髪を近づけた。


「シンシア。お願い。どうか私の【止まり木】に移動して。昨夜約束したでしょう? 私が必ず、あなたを故郷のオーデア湖に連れ帰ってみせるって!」


 シンシアは答えない。


 ローレンツの手の隙間から、涙が一筋頬を流れていく。

 私はしゃにむに首を振り、「お願い……!」と必死で叫んだ。


「お願い。お願いよ、シンシア――!」


 ぽふ。


 はっとして叫ぶのを止める。


 コケケダマが私の頭の上で跳ねていた。

 軽快に私の髪を滑り落ち、ぽふぽふ跳ねて散らばった砂粒の上に移動する。


「コケケ……?」


 ぽふぽふ。

 ぽふぽふ。


 他の精霊たちも合流する。

 ローレンツの虹のハンカチからも精霊が飛び出して、一点を囲むように集まり出した。折り重なって覗き込む彼らの視線につられるように、私はぽっかり空いた空間に目を凝らした。


「……シンシア……?」


 ふわりふわりと頼りなく、透明な綿毛のような何かが見える。

 息を呑み、震える手でそっと触れてみる。あるかなきかの感触で、今にも壊れてしまいそうなほどに頼りない。


「シンシア……?」


 目は閉じているせいか見つけられないが、小さなくちばしはしっかり見えた。

 私は微笑み、こらえていた涙がぽろりと落ちる。涙はシンシアに着地して、あっという間にふわふわの綿毛にしみ込んでいく。

 シンシアがゆっくりと両の目を開いた。


「シンシアは? そこにいるのか?」


 苦しげに声を絞り出すローレンツに、私は何度も頷いた。


「ええ……っ、います……。シンシアは、ちゃんとここにいます……!」


 コケケダマたちがわっとばかりに群がった。

 くちばしでシンシアに触れ、愛情のこもった仕草で毛づくろいをする。シンシアが小さな目をぱちくりさせて、透明な体をふるりと揺らした。


「コケケ、みんな、シンシアを私の【止まり木】に案内できる? シンシアには休息が必要なのよ」


 合点だ!


 そう言わんばかりに何度も跳ねると、コケケダマたちは協力してシンシアの体を持ち上げる。ある者はシンシアの下に潜り込み、ある者は自身の体を使ってシンシアを支えた。


 シンシアを中心に全員でひとかたまりになり、ふわりふわりと宙を飛ぶ。

 私は頭を下げ、彼らを待ち受ける。


「どうぞ。シンシア」


『…………』


 髪を差し出せば、シンシアがかすかに目を細めた。

 体を震わせながら、コケケダマたちから離れて私のところへやって来る。危なっかしいしまっすぐも飛べていないが、それでも必死に私の【止まり木】までたどり着いた。


 ふわ、と薄紅色の髪に溶け込んで消えていく。


「……っ、やり、ました……! ローレンツ殿下。シンシアが、シンシアが私の【止まり木】に移ってくれました……!」


 ローレンツは答えず、顔を覆って嗚咽を漏らした。

 座り込んで震える彼を、私は包み込むように抱き締める。背中に当たる朝日が暖かい。私はぼんやりと顔を上げ、腕に止まるコケケダマたちに目を留めた。


(ね、お願い。もう一つだけ、叶えてくれる?)


 コケケダマたちがふるふる揺れた。

 いいよいいよ、もちろんだよ。まるでそう言って笑っているみたい。


「……ローレンツ殿下」


 子どものようにうずくまって泣く彼の、髪をそっと撫でて呼びかけた。


「ローレンツ殿下、立てますか? どうか目を閉じて。私が手を引きますから、大丈夫」


「ティア……?」


「私がいいと言うまで、絶対に目を開けては駄目ですよ?」


 いたずらっぽく告げて、ローレンツに手を貸して立ってもらう。

 そのまま数歩進んで、大きな窓の前に彼をいざなった。さああ、というかすかな音が耳に入る。


 私はローレンツの背後に周り、精いっぱい背伸びして彼の目を覆い隠した。

 期待と興奮で胸がはち切れそうになる。声が上ずりそうになるのをなんとか抑え、ローレンツの耳元にささやきかけた。


「――さあ、目を開けて」


 その瞬間、すばやく手を放して彼から離れた。

 ローレンツがひゅっと息を呑む。


「……あ……」


 眼前に広がる光景に、ローレンツは愕然として立ち尽くした。


 朝の光の中を、霧雨が優しく降り注いでいる。

 王城の上には七色の、見たこともないぐらい大きな虹が架かっていた。朝仕事に出てきた使用人たちも気づき、大歓声を上げている。


 ローレンツの口からは何の言葉も発せられない。

 ただただ、食い入るように美しい虹に見入っていた。やがてその瞳から透明な涙があふれ出す。


 気づけば私も泣いていた。

 コケケダマが心配そうに私の頬をついばむが、私は小さく首を横に振る。


(大丈夫。私なら大丈夫よ、コケケ)


 これは嬉し涙なのだから。


 ローレンツが世界を取り戻し、これから自由に生きられる。

 掛け値無しにそれが嬉しくて、私は涙を払って微笑んだ。


「……ローレンツ殿下」


 ローレンツの肩が跳ねた。

 ようやく金縛りが解けたように、真っ赤な瞳でゆるゆると私を見る。


「これは私からあなたへの、寿ぎです。――今のあなたの目には、世界はどんなふうに映っていますか?」


 ローレンツが瞬きをした。

 こぼれ落ちた最後の涙を乱暴に袖でぬぐい、何度も深く息を吸う。


「……ああ、そうだった。思い出した。世界は確かにこうだった。色彩にあふれ、生き生きと輝き……胸が詰まるほどに、美しい」


 噛み締めるようにつぶやいた。


 安堵のあまり崩れ落ちそうになる私を、ローレンツが手を伸ばして支えてくれた。

 そうしていつもと全く同じ、熱のこもった眼差しを私に向ける。


「ティア。それでもあなただけは何一つ変わらない。――あなたは、この世界の何より美しい」

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