38.その最期まで
シンシアに会いたい。
そう頼んだ私に、ローレンツは目を見開いた。けれどすぐに何かを悟ったらしく、小さく頷いて私の手を引いてくれた。
「……聞かないのですか? どうして私がシンシアの名を知っているのか、と」
「新年の儀の打ち合わせの席に、父の姿が見えなかったからな。王太子である兄はいたから問題はなかったが、まさかあの人があなたと逢引していたとは。何と言うか……妬けるな」
「私としては、有意義な逢引でしたけれど」
ツンと澄まして答えれば、ローレンツが肩を震わせて笑う。私はその後ろ姿をじっと見つめた。
シンシアのこと、それから色を失うに至った経緯。
きっとローレンツにとっては一番触れられたくない敏感な部分だろうに、こんなふうに笑って許してくれる。ローレンツの優しさが胸に沁みた。
「塔の鍵はまだ持っているか?」
「あ……っ、そうだ。返し忘れていましたね」
ポケットから取り出した鍵で中へと入り、塔の長い階段を二人で登る。
扉を開けるために一度放した手を、どちらからともなく繋ぎ直した。私もローレンツも、この温かさが手放せないのだから仕方ない。
(今だけ。今だけだから)
そう自分に言い訳をして、最上階へ向かう。
砂時計は変わることなく美しかった。
そっとひっくり返して、落ちる黄金の砂粒を二人で眺める。ややあって、ローレンツがためらいがちに口を開いた。
「シンシアの姿は、やはり見えないな」
「……ええ。眠りっぱなしなのだと、国王陛下から伺いました」
私は砂時計からローレンツへと視線を移す。
注意深く彼の反応を見守りながら、一息に言い放った。
「ローレンツ殿下。あなたには、この砂時計が何色に見えますか?」
「……っ」
ローレンツが息を呑む。
けれど私に引く気はなかった。お腹に力を込めて、彼を睨み据える。
「私が何を聞きたいか、おわかりでしょう? どうか私にだけ教えてください」
「……なぜ」
苦しげに声を絞り出すローレンツを、私は悲しい気持ちで見つめた。
「コケケダマも精霊たちも、この砂時計に興味を示したことが一度もないからです。ローレンツ殿下の精霊たちも、同じなのではないですか?」
「…………」
「殿下にもわかっているはずです。この砂時計は、もう――」
「……それでも」
ローレンツがようやく沈黙を破った。
長いまつ毛を伏せて、砂時計のガラスを愛情のこもった仕草でなぞる。
「それでも、シンシアは確かにこの中にいるんだ。俺にはわかる。見えずとも感じられるから」
藍の瞳が頼りなく揺れた。
まるで迷子の子どものようで、私はたまらず彼の腕にすがりつく。ローレンツも手を重ね、私の髪にそっと顔を埋めた。
「……あなたの瞳には、この砂時計はどう映っている?」
「透明なガラスの中に、夢みたいに綺麗な黄金の砂粒が見えます。落ちるたびにきらきら光を放って、目が逸らせなくなるのです」
「そうか……」
ローレンツの声が震えた。
荒い呼吸を繰り返し、砂が落ちていくかすかな音だけが部屋に満ちる。
やがて、ローレンツは意を決したようにきっぱりと顔を上げた。
「光ならば、確かに俺にも見える」
けれど。
苦しげに告げて、ローレンツはきつく歯を食いしばる。
「……黄金には、到底見えない。子どものころはそれでも、うっすらと金色を帯びていた。だが今ではもう、白銀と言っていいほどに色を失ってしまった――」
(ああ。やはり……)
涙が一筋頬を流れ落ちる。
この砂時計は、もう【止まり木】とは言えない。
効力を失った【止まり木】に、本来なら精霊が宿ることなどあり得ない。新しい【止まり木】に移動するか、元の住処へと帰ってしまうから。
「シンシアの、故郷は――」
「オーデア湖という、遠く北方にある美しい湖だ。三代目国王が婚約者の墓を見舞った帰りに出会ったらしい。王家の記録にそう記されていた」
精霊に物理的な距離は関係ない。
その気になれば彼らは、一瞬で故郷へと帰還できる。実際私が王都に出た際も、旅と【止まり木】に飽きた精霊たちは次々とサザランド領地へと帰ってしまった。
それなのにシンシアは、今もこうして砂時計の中にいる――……
「シンシアにはもう、住処に戻る力すら残されていないのですか……?」
「その通りだ」
涙交じりの私の問いを、ローレンツが淡々と肯定した。砂の落ちきった砂時計を、またひっくり返して目を細める。
「……俺には、シンシアが哀れでならない」
さらさら。
さらさら。
砂粒が静かに落ちていく。
「愛した相手は人間で、シンシアを置いて逝ってしまった。……当然だ。人間の寿命など、精霊に比べたら瞬く間に終わってしまうのだから」
シンシアはそれでも王城にとどまり続けて、彼の子孫の願いを叶え続けた。
そうして今は、帰る力すら失っている。
「ティア」
ローレンツが改まった調子で私の名を呼んだ。
泣き出しそうな顔で、笑う。
「俺はせめて、シンシアの最期を看取ってやりたいと思っている。俺が生きている間に叶うのかは、俺にもわからないが……。本当に、すまない」
「なぜ、謝るのです……?」
後から後からこぼれる涙を、ローレンツが優しく指でぬぐってくれた。
こつんと額同士をくっつけて、目を閉じる。
「あなたが、俺を救いたいと願ってくれているから。そして俺の父もまた、そう願っていることをあなたは知ってしまったから」
「……っ。お父様の、陛下の、ことを……」
「ああ。今ではもう、よくわかっている。本当に父が祖父に頼んだというのなら、『呪い』などという言葉があの人の口から出てくるはずがない。あれは父の意に反して、祖父が勝手に仕出かしたことなのだろう。だからこそ父は、今でも後悔の念に囚われているのだろう」
私はたまらずローレンツの胸に飛び込んだ。
こぶしを握り、ローレンツを何度も叩く。
「そこまで、わかっているくせに――!」
「すまない……。だが、シンシアを守るためにも、俺は知らぬ振りを突き通さなければならないんだ……」
泣きじゃくる私をローレンツが抱き締める。
あやすように背中を叩き、甘い言葉で慰めてくれる。
ローレンツはもう、決めているのだ。
とっくの昔に、決めてしまっているのだ……。
(……だけど、私は)
きつく唇を引き結ぶ。
だけど私は、私にできることをするだけだ。たとえローレンツがそれを望んでいなくとも。
――嫌われても恨まれても、私がローレンツを救うと決めたのだから。