36.色を失くした日
王妃様が亡くなったことで、王城中が慌ただしさに包まれていた。
幼いローレンツを守るはずの護衛も、普段のように四六時中側にいられるわけがない。泣き疲れたローレンツが眠りについた夜、彼は自室で一人きりになった。
「眠るローレンツを無理やり起こし、父はあの子を宝物庫へと連れて行ったのだ。ローレンツは厳格な父を嫌っていたが、その晩だけは大人しく従った。それというのも、父が――……」
国王陛下が苦しげに眉根を寄せる。
むずかるローレンツに、先王はあやすようにこう告げたのだという。
――お前の母上のために、父上には内緒で王家の宝をひとつだけ分けてやろう
――お前が選んで、棺の中に入れてやるんだ。母上もきっと喜ぶ
「……っ」
ひどい。
怒りに震える私に、国王陛下は疲れた眼差しを向ける。
「後から聞いた話だが、きらびやかな宝の数々に、あの子は歓声を上げたそうだ。そして父に命じられるがまま、素直に一度目を閉じた。次に目を開いた時には、あの子の世界からはもう色が失われていた……」
ローレンツは恐慌状態に陥った。
むろん宝を選ぶどころではなく、泣き叫ぶローレンツを先王は力ずくで宝物庫から連れ出した。騒ぎを聞いて駆けつけた国王陛下は、全てを悟って絶望したという。
――よくも……っ!
掴みかかった陛下の腕は、虚しく空を切った。
先王が突然、苦しげに胸を押さえて倒れたのだ。
「……父は頑健で、それまでは風邪ひとつ引いたことのない人間だった。けれど、終わりというのは呆気ないものだな。それから一度も目を覚ますことなく、半月後に息を引き取った」
「そんな……っ」
やりきれなさに、私は泣き出しそうになる。
国王陛下は今では表情を完全に消し去っていた。
事実だけを淡々と告げ、憎しみも怒りも感じさせない。けれどひどく疲れきっていて、話をする前より一気に老けたように見えた。
「泣きじゃくるあの子から、わたしは懸命に事情を聞き出した。父があの子に何をしたか。事が成った後、父があの子に何と言ったのか――」
――おじいさまは、父上からたのまれたんだって言ってたの
――王家には精霊術師がひつようだから。王子として、とうぜんのつとめを果たしなさいって!
「わたしは……わたしは、あの子の言葉を、否定しなかった」
暗い瞳で私を見つめ、国王陛下は虚ろに笑う。
「……否定など、できるはずもない。あの子を守れなかったのは事実で、まして元凶たる父は死んでしまったのに。憎しみをぶつける先を失くしたあの子が哀れだった。ならばせめて、わたしがあの子の怒りを受け止めなければと思った……」
「そんなの……、間違ってます」
ぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちる。
コケケダマが心配そうに私の頬をついばむが、私は涙をぬぐうことはしなかった。止めどなく流れる涙をそのままに、国王陛下に向き合う。
「ローレンツ殿下は優しいかたです。あんなに心の優しいかたが、誰かを憎むことで幸せになれるはずがない。むしろ実のお父様に負の感情を抱くご自分を、あのかたは責めてしまわれることでしょう」
不敬だとわかっているのに、止められない。
愕然と立ち尽くす国王陛下に、震える声を絞り出して訴える。
「当時のローレンツ殿下に必要だったのは、憎しみをぶつける先なんかじゃなかったはずです。大切なお母様を亡くされたばかりで、ただでさえ心に深い傷を負っていたのに! 陛下は……っ、陛下はお父様として、ただ殿下の悲しみに寄り添うだけでよかったのに!」
もう限界だった。
床に崩れ落ちて泣きじゃくる。
コケケダマがおろおろして私の膝で跳ねた。陛下は黙って私を見ていて、やがてゆっくりと傍らにひざまずく。
「すまない……。君の、言う通りだ」
真っ白なハンカチを手渡して、ためらいがちに私の肩を撫でてくれる。
「ローレンツには、わたしを憎み続けることなど到底できなかった。だんだんと感情を隠すようになり、ついには会話もほとんどなくなった。あれでは生ける屍だと、あの子をなじる言葉が耳に入る度、わたしはやりきれない思いを味わった……」
ふっと顔を上げ、テーブルを見上げる。
私もつられて陛下の視線を追った。砂時計の【止まり木】が、静かにたたずんでいる。
「ローレンツが言うには、あの中にシンシアがいるらしい」
陛下がささやくように告げる。
「シンシアは今ではもうほとんど眠りっぱなしだ。視覚だけを対象者に分け与え、遊びに出ることなど全くなくなった。精霊に寿命などないと聞くが、シンシアはもう限界なのかもしれない」
「視覚、を……? 分け与える……?」
しゃくりあげながら確かめれば、陛下は頷いた。
「精霊には、おそらく世界がローレンツと同じように見えている。……いや、違うな。正確には、ローレンツが精霊と同じ世界を見ているのだ」
「精霊の世界には、色がない……?」
「おそらくな。だからこそ精霊には、色鮮やかな【止まり木】が、この上もなく魅力的に映るのだろう」
それはきっと、ローレンツも同じで。
わかっていたはずなのに、突きつけられた現実にまた胸がずくりと痛んだ。こんなことに傷ついている場合じゃないのに、私はどれだけ身勝手なのだろう。
「以前わたしはローレンツに尋ねたことがある。この【止まり木】を破壊すれば、お前にかけられた呪いは解けるのか、と」
ふらつきながら立ち上がり、陛下は砂時計へと手を伸ばす。
私はその後ろ姿を固唾を呑んで見守った。
「ローレンツは、そんな問いは無意味だと答えた。この世にある全ての【止まり木】を、精霊術師は敬い大切にせねばならない。これはシンシアの愛しい我が家なのだ、壊すことなど自分が絶対に許さない、と」
しゅんと鼻をすすり、私は無言のまま何度も頷いた。
そうだ。
精霊術師だった祖母から、私だって口酸っぱく言い聞かされた。
自分のものであろうと他者のものであろうと、【止まり木】は私たち人間と精霊を結ぶ唯一無二の架け橋。侵すことなどできない至高の存在。
たとえどんな理由があろうとも、傷つけることなど決してあってはならないのだ……。
「シンシアが目覚めなくなってから、ローレンツは砂時計を宝物庫からここに移した。宝物庫と違ってこの塔にはたくさんの精霊が棲みついている。シンシアが活力を取り戻す切っ掛けになればと思ったらしい」
だが、と陛下は肩を震わせる。
「わたしは、シンシアがこのまま消えてしまえばいいと願っている。わたしにこの【止まり木】は壊せない。それは決してシンシアや【止まり木】を愛しているからじゃない。ただ確証がないからだ。呪いが解けるならいい、ローレンツに詰られようが喜んでこの砂時計を粉々にしてやるさ。……だが逆に、呪いを解く機会を永遠に失ってしまったら?」
「陛下……」
視線で射殺せそうなほど強く、あかあかと燃えさかる憎悪を込めて、陛下は繊細な砂時計を睨みつける。
触れようと手を近づけるのに、まるで見えない壁に阻まれているようにその手は宙で止まってしまう。陛下はギリッと音を立てるほどきつく歯を食いしばった。
「……嘲笑うがいい、ティア。わたしは臆病な人間だ。ローレンツは否定しなかった。返答自体を拒否した。だからきっと――……だからきっと、と思うのに!」
力なく腕を下げ、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「わたしはもう何年も、その決断を下せずにいるのだ……」




