16.虹の【止まり木】
気づけば夜になっていて、今日はこれでお開きということになった。
不満顔のヒルダにお休みなさいの挨拶をして、ローレンツと共に教師寮を出る。ちなみに管理人さんの姿は一度も見かけなかった。
「防犯面もとても心配だ。だが安心してほしい、俺が必ずやあなたを守り抜こう」
「ご心配なく。魔術学院の教師寮ですよ? 魔術の達人が勢揃いしている場所に、わざわざ泥棒が来るわけないでしょう」
「油断大敵というからな」
どうやらローレンツは本気で入寮するつもりらしい。
私は説得をあきらめ、明日の学院長に全てを丸投げすることにした。学院長の胃の健康を願うばかりだ。
「夕食を取って帰ろう。ご馳走させてくれ」
「嫌です」
反射的に断ってしまい、ローレンツがあからさまにしょんぼりした。捨てられた子犬のような目でじっと見つめられ、私は思わずたじたじになってしまう。
「違っ……! 嫌というのはご馳走されるのが、という意味であって、その、自分の分は自分で出します、という意味であって」
「ならば了承してくれるのだな」
ローレンツは一転して上機嫌になり、潤んでいた目もあっという間に乾いてしまう。……もしや今のは演技だった?
疑わしくローレンツを見れば、ローレンツはちょっとだけバツが悪そうに目を逸らした。「さあ行こう」とエプロンを外して歩き出す。
「……ローレンツ殿下?」
「あ、いやその。これまであなたを見てきた中で、あなたはひどくお人好しだと思う場面が幾度もあったんだ。ならば泣き落としは有効かもしれん、と試してみた次第で」
「帰ります」
くるりと回れ右すれば、「待ってくれ!」とローレンツが慌てふためいた。
焦ったように私の手をつかみ、ぎゅっと自身に引き寄せる。
「あなたと食べれば、味気ない食事もきっと美味しくなると思うんだ。奢るのはあきらめるから、どうか今宵の食事を俺と共に」
私は少しだけ迷い、ローレンツにつかまれた手に視線を落とした。ローレンツがすぐに察して放してくれる。
仕方ないな、と私はため息をついた。
「私の知っている食堂でもよろしいですか?」
「え?」
驚くローレンツに、私は淡々と続ける。
「宿の近くに家庭料理を出してくれるお店があって、宿の食事に飽きた時に通っているのです。落ち着いた雰囲気の店ですから、殿下も気に入られるのではないかと思います」
「行く!」
食い気味に返事をすると、ローレンツはいかにも幸せそうに頬をゆるめた。
職員室に寄って荷物を取ってくる私を忠犬のように待ち、迎えの馬車までうやうやしくエスコートしてくれる。ちらっと見れば、「目が合った」と大げさに喜んだ。
(……なんだか、ぶんぶん振ってるしっぽの幻まで見えてきそう)
さっきは子犬に例えてしまったが、ローレンツはかなりの長身だ。
だんだんと大型犬に懐かれた心持ちになってきて、うっかりすれば和んでしまいそうになる。これはいけない、と気を引き締めた。
「どうぞ。ここです」
馬車から降り立ち、明るくランプの灯された店を指し示す。
もうすっかり顔なじみになっていて、店員は心得た様子でいつもと同じ奥まった席に案内してくれた。特にローレンツをいぶかしむ様子もない。
「よかった。どうやら殿下とは気づかれなかったようです」
「俺はそれほど顔が知られていないからな。生活圏が王城と学院しかないお陰だ」
「…………」
胸を張って引きこもり宣言されましても。
反応に困った私はメニューを引き寄せる。
何が食べたいかローレンツに尋ねるが、ローレンツは困ったように肩をすくめるだけだった。どうやら食に興味がないらしい。
「あなたと同じものにしてもらって構わないだろうか?」
「私と?……ええ、はい。殿下がよろしいのでしたら」
少しだけ迷いながらも了承した。
今日食べたいものはすでに決まっていたが、どう考えてもローレンツには似合わない気がする。たとえどれだけ変人だとしても、相手は一国の王子なのだ。
(……ま、いっか)
しかし私はすぐに気を取り直す。
なにせローレンツには出会ってから振り回されっぱなしだし、本人がいいと言っているのだから問題ないだろう。
店員を呼び寄せて小声で注文し、ひとまずお茶だけ先に持ってきてもらった。
「お茶でよろしかったですか? 私はお酒を飲んだことがなくて」
「構わない。俺も酒はたしなまないから」
食にもお酒にも興味がないとは、なかなか珍しい気がする。
ならば甘いものが好きなのかと尋ねてみれば、それも特にないと言われた。
(そういえば――)
好きなものもなく、漫然と生きてきたと言っていたっけ。
きっと何か事情があるのだろうが、これ以上はどう考えても踏み込みすぎだろう。私自身、これからローレンツと関係を深めていいものか迷っているというのに。
手持ち無沙汰に髪を触れば、コケケダマがくちばしでツンとつつき返して反応してきた。
私は少し笑ってしまって、そうしてはたと思いつく。
「そうだ。差し支えなければ、ローレンツ殿下の【止まり木】を見せていただけませんか?」
「俺の? もちろんだ。喜んで」
ローレンツはぱっと嬉しげに顔を輝かせる。
精霊術師のローブの懐から大判のハンカチを取り出して、私に手渡してくれた。
「俺の【止まり木】は、あいにくこれ一つしかないんだ」
【止まり木】はたとえ他の精霊術師のものであっても、敬意を持って扱うべきものだ。
うやうやしく受け取って、私は丁寧にハンカチを開いた。
私の薄紅色の髪からコケケダマと精霊たちも飛び出してきて、興味しんしんで一緒になってローレンツの【止まり木】を覗き込む。
(わあ……、すてき)
白のハンカチには、美しい七色の虹が刺繍されていた。
といっても明らかに職人ではなく、素人の手によるものだった。縫い目は不揃いで布もよれている。
けれども大胆に縫い込まれた虹は生き生きと輝いているようで、私は思わず見とれてしまった。
「下手くそだろう? 子供のころ病床の母を見舞うたび、母に習いながら一緒に作ったものなんだ」
(あ……)
照れくさそうに笑うローレンツを見て、私の胸がかすかに痛んだ。
ローレンツの母親――この国の王妃様は、もう十年以上前に亡くなっている。
つらいことを言わせてしまったと顔を曇らせる私に、ローレンツは優しい眼差しを向けた。
「母が逝ったのは十二年前、俺が七つの時の話だ。母は美しく、そして温かなひとだった。遺してくれたこの【止まり木】は、今日までずっと俺の生きる支えであり続けた」
「殿下……」
私はうつむき、もう一度虹のハンカチに目を落とす。
小さなローレンツが、ベッドの王妃様に見守られつつ、たどたどしく針を使う。そんな優しい光景が目に浮かんで、この【止まり木】をとても愛おしく感じた。
(……ん?)
ふとあることに気がついて、顔を上げる。
じっとローレンツを見つめれば、ローレンツも瞬きして私を見返した。
「……ローレンツ殿下」
――十二年前に七歳、ということは。
「今さらですが、ローレンツ殿下のご年齢は」
「俺か? なぜか老けて見られることが多いが、十九歳だ。あなたの二つ年下だな」