15.ローレンツの精霊術
赤レンガ造りの教師寮は、事前に聞いていた通りかなり年季の入った建物だった。
樹木はまるで教師寮に覆いかぶさるようにうっそうと繁り、夕暮れ時も相まっておどろおどろしい気配を感じる。私は束の間中に入るのをためらった。
「行こう。……うん、聞きしに勝るボロさだな」
ローレンツが率先して前に立ってくれて、私も我に返って彼の背中を追った。
玄関はほこりっぽく、真っ黒な土で汚れていた。恐る恐る上がり込み、「失礼いたします」と声を張り上げる。
はあい、とすぐに元気な声が返ってきて、ぱたぱたと小走りにヒルダが現れた。
「いらっしゃ〜い、ティア先――ってはああッ!? なんっでストー」
「わああっヒルダ先生!」
私は大慌てでヒルダの口をふさいだ。
さすがに面と向かって「ストーカー王子」呼ばわりはよろしくない。いや、おそらくローレンツは気にしないとは思うのだけど。
「お邪魔する。この寮はまるで管理がなっていないな。これからは俺が毎日通って掃除をしよう」
さっさと奥に進むローレンツの姿を追って、ヒルダの目がぐぐっと吊り上がる。
「お言葉ですけど、うちにはベテランの管理人さんがいらっしゃいますので!……まあ、腰が直角に曲がったおじいさんで、最近はほとんど寝てばっかだけど」
「駄目じゃないですか」
私は頭を抱え込んでしまう。
高級宿と教師寮、思っていた以上に落差が激しすぎる。もう少しいい塩梅というか、中間はないものなのか……。
敵意を飛ばすヒルダを気にするでもなく、ローレンツは至極興味深そうに寮の中を見回している。
「とりあえず姫君の部屋を確認しようか。鍵は各部屋についているんだろうな? まさか男も住んでいるのか?」
「一階は食堂などの共用部分、二階が男性寮で三階があたしたちの女性寮! ちなみに部外者は一切立ち入り禁止です、わかったならすぐにお引き取りください!」
「そうか。ならば俺もすぐに入寮の手続きをしよう」
「アンタ教師じゃないでしょーがっ!?」
頭痛がしてきた。
セオドアといいヒルダといい、どうしてローレンツ相手だと毛を逆立てた猫のようになるのだろう。相手は一応王族なのだから、見ているこちらの方がハラハラしてしまう。
「ふっ。申し遅れたな。俺は今日から学院の掃除夫にして」
「ヒルダ先生、とりあえず話はまた後で。私の部屋に案内していただけますか?」
偉そうに胸を張るエプロンローレンツを押しのけて、私はヒルダと共に階段を登る。ローレンツもすぐに後をついてきた。
(ね、どういうこと?)
腕に抱き着いてささやくヒルダに、私もそっと顔を寄せて小声で返す。
(とりあえずお友達から、という結論に達した……のでしょうか?)
(いや知らんし)
ヒルダがあきれたように天を仰ぐ。
だって、私にも全然わからない。しょんぼりと視線を落とした。
「はい、ここよ。ちなみにあたしの部屋は右隣ね」
真鍮の鍵を渡してくれたので、私は気持ちを切り替えて鍵を差し込む。
大きく扉を開け放てば、むわっとカビ臭い空気が流れてきた。
「うわあ、まずは窓を開けて窓っ!」
「扉も開いたままがいいな。風を通そう」
「けほっ、けほっ」
咳き込みながら、私は【止まり木】に手を当てる。精霊術で風を起こそうと思ったのだが、私よりも先にローレンツが動いた。
エプロンの前ポケットから取り出した、大きなハンカチをはらりと広げる。
(あ……っ!)
これがローレンツの【止まり木】なのか。
コケケダマと瓜二つの、深緑色の精霊たちがぽわぽわと後から後から飛び出してくる。ハンカチはきちんと折りたたまれていたから、きっと今の今まで【止まり木】に溶け込んで眠っていたのだろう。
「風よ。光よ。この汚部屋を姫君に相応しき住まいへと変えるのだ」
「汚部屋で悪かったわね!?」
ヒルダの頬が引きつって、私はまあまあと彼女をなだめた。
私の目はローレンツと精霊たちに釘付けだ。精霊術師はとても数が少なく、祖母以外の精霊術を見るのは実はこれが初めてだった。
まるでお日様の下にいるような、さわやかで温かな風が吹き抜ける。
風は家具の隅々まで丁寧に部屋の中を巡って、ちりやほこりを巻き込んだ。渦を巻いて滞留し、ややあって開け放った窓から一気に外へ流れて消えていく。
「うわ、めっちゃ綺麗になってるし!」
「次は床を磨き上げるか。水よ。光よ」
ローレンツの呼びかけに従って、今度は水が部屋の中央で踊り出す。私とヒルダは慌てて扉の外へ退避した。
ローレンツは丸テーブルの上に腰掛けて、まるで指揮者のように指をひらめかせる。
水は太く長く、まるでヘビのように形を変えて満遍なく床をすべっていく。濡れた床はすぐに部屋の中に満ちた光で乾き、きらきらと輝き出した。
「す、すごすぎ……。あたしの部屋も、いや何でもないです」
ヒルダが己の口をふさぎ、悔しげに地団駄を踏む。
私はローレンツの鮮やかな手並みに魅力されていた。複数の要素を使い分けるなど、その発想は私にはないものだった。
ローレンツは狭い部屋を鋭く見渡し、ややあって満足気に深く頷く。
「まあ、こんなものだろう。ところでベッドはあるが、寝具はまだ運び込まれていないようだな。ついでだから俺のと一緒に最高級のものを手配しよう」
「いやアンタは住まわせないからね!? ティア先生も何とか言ってよ!」
「はい。ローレンツ殿下、素晴らしい精霊術をありがとうございました。眼福でした」
「そうじゃないっ!」
夢見心地のまま答えれば、なぜかヒルダからこっぴどく叱られた。