1.真昼の求婚劇
「結婚してくれ」
「えっ嫌ですけど」
見知らぬ相手から、脈絡もない突然の求婚。
考える間もなく、私は間髪入れずにそれを拒絶していた。
完全なる反射行動。少しばかり遅れて胸がどきどきと高鳴り始めたが、当然ながらときめいているわけじゃない。驚きと動揺のせいで、である。
(……なんなの、この男)
遅れて怒りまで込み上げてくる。
が、私はそれを素直に顔に出すほど愚かではなかった。
貴族の女がたった一人で生きていくためには、周りの人間はすべて敵と見なすべきだから。
鉄壁の無表情は軽々しく本心を覗かせないための、外敵から身を守る大切な手段なのだ。
――王立魔術学院、昼下がりの食堂での一幕である。
幸いなことに、突然の求婚劇の目撃者はそう多くなかった。
学生たちがどっと押し寄せる午前の授業終わりの時間帯からは外れていて、この場にいるのは午後一番の授業のない教職員のみだった。
けれど不運な目撃者たちの動揺は相当なもので、「嘘だろ……」「あのローレンツ殿下が?」などという押し殺したささやき声が耳に入ってくる。……ローレンツ、殿下?
私はじっと眉根を寄せる。
(確か、第三王子がローレンツという名だったはず。神職として王家に仕えるため、王位継承権を放棄した王子……)
ゆくゆくは臣籍降下して、公爵位を賜る予定だとか。
貴族社会から距離を置いて久しいとはいえ、さすがにそのくらいの情報なら私も知っていた。
「――名を」
「……え?」
物思いから覚め、はっとして男を見上げる。
彼――ローレンツもまた、私に負けず劣らず無表情だった。けれど深い藍の瞳だけは熱を宿して潤んでいて、私は知らず知らず息を呑む。まるで絡め取られたように、彼の美しい瞳から目が逸らせなくなる。
永遠にも思える時間が過ぎたあと、彼は艶めく黒髪を揺らして膝を折った。
食堂の椅子に掛けたままの私の手を取り、真摯な眼差しで私を見つめる。
「――どうか、名を教えていただけないだろうか。美しいひと」
「…………」
こめかみがピキッと鳴った気がした。
異変を感じだったのだろう、腰まで届くほど長い私の薄紅色の髪がふるふると波打ち始める。
別に私が怒りで震えているわけじゃない。髪の中で居眠りしていた、コケケダマが目を覚ましたのだ。
「――お断りいたします」
平坦な声が喉からすべり出る。
私は男の手を払って立ち上がり、自身の薄紅色の髪を押さえた。
「……?」
「ああ、今のは二重の意味でのお断りです。ひとつ、あなたと結婚はいたしません。ひとつ、名も知らぬ女にいきなり求婚するような軽薄な殿方に、わたくしの名を教えるつもりもございません」
冷ややかに吐き捨て、踵を返す。
テーブルの上には食後のミルクティーと、読みかけの教科書が伏せてあった。
ミルクティーはまだ半分以上残っていたが、泣く泣くあきらめることにする。教科書だけを乱暴につかみ、先程までとは打って変わって静まり返った食堂を出た。
男は私を引き止めなかった。
内心はむらむらと腹が立っていたが、表面上はしとやかに廊下を歩く。
午後の授業はとうに始まっていて、廊下には人っ子ひとりいなかった。
「――ティア! ティア・イーリック先生っ!」
背後から弾んだ声で呼び止められ、私は詰めていた息を吐く。唇を噛んで気合いを入れ直し、平静を装って振り返った。
そこには予想通り、髪がピンピンと跳ねた小柄な女性の姿があった。魔術師の黒ローブはほつれてボロボロで、年季の入った太い樫の木の杖を握り締めている。
彼女は頬を上気させ、小走りに私の隣に並んだ。
「ヒルダ先生。廊下ではお静かに。生徒は授業中なのですから」
「あらやだ、ごめんなさぁい。ティア先生の着任二日目にして、先輩後輩の立場が逆転しちゃったみた〜い」
すごいすごい、とヒルダは屈託なく手を叩く。
私はもう一度ため息をつき、自身の白のローブから櫛を取り出した。お節介かと思いつつ、彼女の寝癖頭を丁寧に整える。
ヒルダは嫌がるどころか、気持ちよさそうに目を細めた。
「ありがと〜、面倒かけてごめんね? 本当はあたしのほうがティア先生のお世話係で、しかも年上のお姉さんなのに」
「年齢なら二つしか違いませんのでお気になさらず。……お世話係なのはまあ、その通りですけど」
そう。彼女はここ魔術学院での私の教育係、兼お世話係である。
弱冠二十三歳にしてかなり腕の立つ魔術師だと聞いているが、外見からは全くそうは見えない。もう少し深く知り合えば印象も変わってくるのかもしれないが、いかんせん私たちはまだ出会って二日目だ。
「午前の授業はうまくいったのかなって聞きたくて、ティア先生のこと探してたのよ。あたしってばついつい熱が入って午前の魔術実地訓練を大幅超過しちゃってねぇ、お昼ごはんも食べ損ねちゃったの!」
「では、も、もしやこれから昼食を……? い、いいい今は、食堂にはいい行かれないほうがよろしいかと」
「えっなんで?」
「……全商品売り切れだそうですので」
私は真顔で苦しい嘘をつく。
しかしヒルダは疑うことなく、「じゃあ仕方ないね。パパッと外出して食べ物仕入れてくるかなぁ」とすんなり信じてくれた。素直な彼女に若干心が痛む。
(……でも、今戻ったら大騒ぎになってるかもしれないし)
私は落ち込みながらもヒルダの髪を梳かし続ける。
無意識に白のローブから香油の小瓶を取り出し、手のひらに馴染ませてから彼女の紫髪に塗り込めた。少しだけ顔を傾けて薄紅色の髪を揺らし、心の中でコケケダマに『お願い』をする。
ふわ、と温かな風がヒルダの髪をなぶる。
髪がつやつやと輝き出し、暴れ放題だった寝癖も綺麗に収まった。我ながらなかなかの出来栄えで、私は大満足の息を吐く。
「わわ、すっご〜い! ティア先生ってば、いつもそんなお手入れグッズ持ち歩いてるの!?」
手鏡を渡せば、ヒルダも大きな目を丸くして喜んでくれた。
私は香油と櫛を片付けながら小さく頷く。
「ええ。髪のお手入れは、私にとって欠かすことのできない日課ですから」
話しながら、ゆるくウェーブした自身の髪を撫でる。
コケケダマがほよんと揺れて笑う気配がした。あくまで気配だけ。だって、コケケダマはしゃべれないから。
「この髪は、精霊術師である私にとっては必要不可欠な媒体。精霊たちと私を橋渡ししてくれる、大切な【止まり木】なのですから――……」