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一炊の夢          ――隠れ里伝説の謎――

作者: 堀本 廣






       一炊の夢


 ――“季泌、枕中記”唐の盧生という青年が趙の都の邯鄲で道士の枕を借りて寝たところ、人生一代の栄華を夢見たが、覚めてみれば、焚きかけの栗がまだ煮えきらないくらいの短い時間であったという故事――


 3年前のことでしたねえ、

 男は私の顔をじっと見ながら嬉しそうに話し出す。その表情は生き生きとしている。紅顔の美少年といっても、あながち無理ではない。

 年の頃は16~7――、私は値踏みする。その割には年配者のような落ち着きがある。若者特有の激情的な口調はない。生き生きとはしているが、顔の色からは褪めた雰囲気が漂ってくる。


 ――おかしな奴がいるよ――

知人からの紹介で、私はこの男を尋ねたのである。

「キ印かもしれんよ」知人は自分の頭のてっぺんをを、指でくるくる回しながら忠告してくれた。会って話を聞くだけ無駄かもしれんという意味である。

 おかしな――というのは、当の本人は70歳と主張する。話の内容も夢物語で現実味が薄いという。

 ただしね――。知人はいぶかしげな顔つきで付け加える。

この男――。名前は関根洋二、住所は半田市烏根町、3年前に行方不明になっている。

 関根洋二の親戚や知人、友人から詳しい情報と当の本人と名乗る男の言っていることがピタリと符合する。


 私は知人を通じて、関根洋二と名乗る男に面会を求めた。彼は自分自身が“時の人”になっていることを知ってか知らずか、淡々と話をする。

 彼は生涯独身、40歳の時に親が亡くなり、財産分けしてもらって、烏根町の丘陵地帯に25坪の平屋を建てる。以来30年間ずっとそこで生計を立てている。

 彼は無類の酒好きだ。と言っても羽目を外すような飲み方はしない。頑丈な体が自慢で日雇いの仕事で日々の糧を得ている。欲得がないのか、働いて得た代償については一切口に出さない。支給された給料を黙って手にする。言われた仕事も黙々とこなす。手元にいくらお金があるか頓着しない。

 酒以外は口が奢っていない。友人と飲み歩く事もしない。兄弟親戚が多いので、お米や野菜などを分けてもらっている。衣服も作業服1枚で10年は持つ。

 烏根町は半田市内でも常滑寄りの山の上である。

交通も不便なので、軽四の中古車を持っている。暇なときは図書館で本を借りてきて読む。酒と同様それが唯一の趣味である。つまるところ、金のかからぬ人物である。

 そんな彼が65歳になってから、仕事から身を引いて、一ヵ月に一回、一泊旅行を楽しむようになる。


 ――3年前になあ・・・――懐かしむように言う。世にも奇怪な事件に巻き込まれた。平成12年の春の事だった。


 私、体だけは丈夫でしてねえ・・・。

 関根洋二と名乗る男は艶のある髪の毛をかきむしる。まだ童顔の残った表情からは、心の中に憂いが支配しているようには見えない。眼が大きく澄んでいる。眉毛が薄い。頬の肉好きが良い。若い女のような色気さえ見える。中肉中背、小さいころから体を動かすのが好きで、筋肉質の逞しい体をしている。


 平成12年、67歳、彼の朱に染まった様な唇から漏れると違和感を感じてしまう。そんな私の心の内を無視して、若者特有の澄んだ声が流れる。


 関根洋二、当時67歳、年金がもらえるし、親からの遺産もある。無駄使いはしないので、支出よりも収入の方が多い。仕事から手を引いて久しい。本は相変わらず読んでいる。図書館の常連である。

 5年位前から1ヵ月に1回位は一泊の温泉旅行を決め込んでいる。軽四で一泊できる範囲は限られている。

 図書館で温泉の本を借りてきて、行く先を決める。

 丁度このころ、ラジュウム温泉の事が週刊誌などで話題になる。いくら頑強とはいえ,寄る歳の波にはかなわない。体に良いことに注意が向くようになっている。知人に勧められて,白米食から玄米食に切り替えて久しい。肉食も出来るだけ控えて野菜や果物を多く摂るようにしている。温泉も健康管理のためである。

 ラジュウム温泉が良いと聞くと行ってみたくなる。全国の温泉地案内の本で調べてみると意外に沢山ある。ここ、知多半島に近いところという事で探してみると、岐阜県に2ヵ所ある。その中でローソク温泉というのに目が留まる。正式名は湯ノ島ラジュウム鉱泉保養所。

 ローソク温泉、こんな名前の温泉は日本全国どこを探してもないはずだ。印象深い名前だ。

 彼は全国の道路地図を開く。中央自動車道、恵那インターを降りて北へ約10キロ先にローソク温泉がある。その5キロ先に岩寿温泉がある。ところがこの温泉、図書館で借りてきた全国温泉マップには載っていないのである。平成10年の発行だからまだ情報としては新しい。しかも全国の温泉が網羅されているから、地図の方が細かく詳しい。

 この本に載っていないという事は、岩寿温泉は今は存在しないという事なのだ。

 ローソク温泉、岩寿温泉、恵那峡渓谷、

 そういえば、、、。関根は必死になって記憶の糸を手繰り寄せる。

 彼は押し入れの奥から古びた封筒を引っ張り出す。

 彼の家は25坪の平屋。南向き玄関を挟んで西側には4尺幅の広縁と8帖2間の和室。東側が16帖の応接室兼台所、それのトイレ,風呂、洗面室がある。押し入れは和室にあるのみ。1人暮らしで必要でない物は購入しない。家の中は広々としている。

 押し入れの奥から取り出した封筒は茶褐色に変色している。封筒の中から取り出したのは、10ペーシ余りのわら半紙にガリ版刷りしたパンフレットである。

 表紙には、中部地方における隠里伝説異説とある。発行は名古屋歴史同好会、昭和25年の時。

これを手にしたのは、関根が17歳の時。

 名古屋栄の繁華街、松坂屋百貨店の向かい側に、松本という古本屋があった。そこで購入した日本の歴史という本の中に挿入してあった。

 当時関根は名古屋の高校に通っていた。本を読むことが好きで、小銭をためては古本を買うのを楽しみにしていた。

 平家の落ち武者伝説は関根は知っていた。だが隠里伝説という名は初めて目にした。興味があって読んだ記憶がある。

 今、50年ぶりに読み返してみた。

 隠里の定義として、

1,世の中のわずらわしさを避け、世間を離れて隠れ住む。特に貴人が山奥に隠れ住んで作った部落。

2,山中や地下にあるといわれる人に知られぬ別世界。

  多くは椀貸し伝説に結び付く。

  ・・・椀貸し伝説・・・

   山陰の洞窟などで、頼めば椀を貸してくれたが、ある時、借りた人の不心得で貸してくれなくなった。

 この粗末なパンフレットは隠里についてはこれ以上の記述はない

 関根の注意を引いたのは、隠里伝説が、岩寿温泉付近に残されているという記述である。

 その他、隠里は九州から東北まで広く分布しているという事実の記述に終始している。


 保養を目的として、温泉につかり、隠里伝説を探るのも一興だと考えた。

 平成12年の4月、

 まず、湯ノ島ラジュウム鉱泉保養所ことローソク温泉に予約を入れる。折り返し、中央道恵那インターからの案内図とローソク温泉の案内のパンフレットが郵送されてくる。

 ちなみに、ローソク温泉は昭和20年に開業。俗化させないために昭和58年秋までローソクの灯をともしていたので“ローソク温泉”の由来とある。

 4月15日出発。

 三好インターより名神高速に乗る。中央自動車道に入る。恵那インターまで途中の休憩時間を入れても2時間半。

 ローソク温泉には、昼の1時ごろに入ると伝えてある。途中恵那峡ランドを横手に見ながら博石館に立ち寄る。ここは岩風呂があったり、エジプトのクス王のピラミッドの10分の1の大きさの、御影石を利用したピラミッドがある。地ビールがあり、水晶を中心とした石の販売も行われている。見るところが沢山あって、時間つぶしにもってこいである。

 博石館からローソク温泉まで20分くらいしかかからない。

 ここ、岐阜県恵那峡蛭川村は石の産地である。至る所に採石場がある。良質な御影石が道路の端に山積にされている。

 国道257号線は北上すると下呂温泉に抜ける。途中から間道に入る。ローソク温泉の看板が要所に出ているのでスムーズにアクセルが踏める。

 日本の道路はどんな山奥に入ってもアスファルト舗装されている。山の中、周囲に人家はない。

 大丈夫かしら、初めて通る道だ。雑木林以外何の風景もないと不安が先に立つ。と思う間もなく、雑木林の一部が切れる。広場のような場所に出る。2階建ての建物が忽然と現れる。門がある。ローソク温泉の文字が安心感を呼ぶ。門の近くの駐車場に車を置く。

 2階建ての建物はまだ新しい。その向かい側に、これも新築して間もない平屋の建物が目に付く。この2つの建物の間には古い建物が6棟ばかり林立している。

 2階建の入り口には、事務室の矢印が書いてある。入口のガラス戸を開ける。左手がカウンターになっている。右手は喫茶室や休憩用のテーブルが配置してある。 

 カウンター越しから声をかける。すぐにも中年の背の低い女性が現れる。割烹着姿である。

 予約してあることを告げる。宿帳が出される。住所や氏名を記入し終わるころ、温泉宿の主人が現れる。

 医学博士の肩書を持つという。ローソク温泉への注意を促す。

ーーここは保養所であって、行楽気分の温泉宿では無い。よって部屋にはテレビ以外何も置いてない。体に病気を持つ人が保養のために利用する温泉である。温泉は30分から1時間おきに1回5分から10分ぐらいまで入ることーー

 長々と注意書きを述べる。ラジュウム温泉がいかに素晴らしいか、医者から見放されたガン患者がこの温泉に一ヶ月間浸かっただけで完治したと、自慢げに話す。

 案内された部屋は一番北にあるこじんまりとした一棟建ての家。3軒長屋の内の1つ。6帖一間に洗面室とくみ取り式のトイレのみ。4月とはいえここはまだ肌寒い。コタツが入れてある。布団などは自分で敷くようにとの指示がある。

 湯殿は3階建ての大きな建物である。天井が高い。脱衣場で裸になり湯殿に浸かる。ラジュウム温泉とはいえ格別な感じはしない。湯殿には石鹸やシャンプーはない。タオルを湯殿に入れるなとの注意書きがある。

 こうして夕食の6時まで、4回ばかり湯に浸かる。浸かっては部屋でごろ寝である。実際テレビ以外何もない。持参した本を読む。


 夕食の時、宿の主人に、岩寿温泉と隠里伝説のことを尋ねる。

 以下主人の話。

 岩寿温泉は平成元年まで営業していたが、当主が死亡したことと、バブル崩壊後の営業不振から店をたたんでいる。現在は未亡人が1人でいるとのうわさである。

 隠里伝説については、自分の小さいころには、そんな話があると聞いている。ただそんな話があるといった印象しかない。


 翌朝8時に湯に入る。朝食を摂り、とにかく岩寿温泉?まで行ってみることにする。

 ローソク温泉の前の道を1キロほど行くと、道は2手に分かれる。真直ぐ行くと下呂温泉へ出る。右手に入ると道が細くなる。道は蛇行しながらそのまま岩寿温泉に出る。

温泉、といってもすでに温泉宿の面影はない。2階建ての古びた家と、その奥に湯殿らしき建物などが点在しているのみ。2階建ての家の前に車を入れる。

 家の造りは大きい。1階は食堂や事務室になっていたようだ。今はガラス戸が閉まっている。人気がない。裏手に回ると勝手口がある。ドアのノブを回すとドアが開く。声をかける。

 関根は67歳だが、声に張りがある。大柄で髪の毛は7~8分ほど白くなっている。肉体労働で鍛えた体を作業服で包んでいる。体のわりに表情は柔和である。人に対する思いやりがある。読書が何よりの楽しみというだけあって、知的な面影が顔に出ている。それ相応の身なりをすれば“紳士”に見えなくもない。

 勝手口のガラス戸を開けて誰何する。

 すぐにも間の抜けたような返事が返ってくる。勝手口の中は調理場である。往時には多くの客人の料理を作っていたと想像する。今は寂れて寒々しい。

「どなた?」

 綿入れを着込んだ老婆が乱れた白髪をかきあげて調理場に姿を現す。声が若い。目が大きく、ふくよかな表情をしている。

「すみません、旅の途中ですが、ちょっと休ませてほしいですが・・・」

 関根は努めて腰を低くする。初対面でしかも山の中の1軒屋である。へんに警戒されたくない。

 老婆は屈託がない。

「ああ、どうぞ、入ってください。お茶ぐらいだしますから」

長年温泉宿で客商売をやってきたのだろうか、客あしらいが身についているようだ。関根はバッタのように何度も頭を下げながら、調理室のテーブルに腰を下ろす。

 ステンレス製の調理器具が所狭しと並んでいる。往時はフル活動していたのだろう。掃除だけは行き届いている。いつでも使用できる状態にある。

 老婆がお茶を持って入ってくる。

「ここで1人でお住まいなんですか?」関根は物腰柔らかく尋ねる。

 以下老婆の答え。

 平成元年に主人がなくなる。平成5年くらいまでは何とか1人で切り盛りしてきたが、バブル崩壊後の不景気で経営が立ちいかなくなった。

 息子がいるが、この商売が性に合わないといって役所に勤めている。今は嫁と3人の子供と一緒に恵那市内に住んでいる。1週間に一回は来てくれる。

 自分はここで生まれ育ち、ここで主人と一緒になった。自分で動ける間はここで過ごしたい。昔のなじみ客が時々来てくれるので、寂しいと思ったことはない。

 老婆は遠くに視線を泳がす。昔を懐かしんでいる。

「温泉はまだ出るんですか?」と関根。

「でるよ。わし1人が楽しんでいる。よかったら入るかな」

 関根はにこりと笑って首を振る。

「ところで・・・」話題を変える。

 この地域に隠里伝説があると聞いてやってきた。そんな話を聞いていないか、真直ぐに老婆を見ながら訪ねる。

「あるよ」老婆はお茶をすすりながら言う。

関根の顔を穴のあくほど見つめてから、ゆっくりと喋る。

 岩寿温泉の北,約3キロ先に、岩山という小高い山がある。その麓に隠里があると、昔から言い伝えられていた。もっとも今の若いもんは関心がないのか聞こうともしない。

 この話を知るものは、今はもうわし1人くらいだ。

 隠里といっても平家の落ち武者伝説ではない。それよりももっと古い、いやこの日本ができる前からあるのかもしれん。その辺のことはわしにもようわからん。

 若いもんがどうして関心を持たないのか、その理由はたった1つ。岩山の麓に行っても人が住んでいる気配さえない。何もない。だから信じろというほうが無理だ。


 関根は失望する。単なる伝説に過ぎないのか。

 老婆はそんな関根の表情を見逃さない。

「わしは小さいころ、隠里に入ったことがあるんだわ」

「えっ!」関根は目を見張る。

「どんな世界?」

 関根は喉に痰を詰まらせたように、後をせっつく。

「どんなって・・・」老婆は戸惑いの表情を見せる。

 隠里はいわば自分の心の奥にある夢の世界だというのである。

 老婆の小さい頃は大正の時代。この蛭川村一帯は、山また山の中で、ほとんどが自給自足である。山中には茸、山菜、栗などが豊富に採れる。川にはマスや鯉などに恵まれていた。

 老婆は幼いころ、祖母から岩山の麓に隠里という部落があるが、そこに住むのは神様だから行かないようにと諭されていた。神様の世界だから、当然人の目には見えない。

 神様と聞いて、少女は好奇心も手伝って山深く入ることにした。

 岩山は標高932メートル。こんもりとした小山である。道なき道を麓まで歩く。突然背の高い樹木が途切れて平原が広がる。小川がせせらぎの音を立てている。

 平原の端にはゴツゴツとした岩肌が見える。丁度平原と岩肌の間には人1人が入れるほどの祠がある。

・・・こんなところに家がある・・・子供ながらも気丈夫な老婆も少し怖くなった。神様どころか鬼でもいるんではないか。足がすくみそうになるが、好奇心が勝っているので、恐る恐る祠の前まで歩く。

 祠の屋根は茅葺、大きさは1坪ほど。近づくと、中でごとごと音がする。怖くなって身震いしたが、

「誰!」と声を出してみる。

 観音開きの板戸が開く。中から自分と同じ年くらいの男の子が出てくる。

 少女が岩山の麓に行ったのは秋の気配も濃くなるころ。冬が近くまで来ているので、少女は赤い木綿の着物の上にちゃんちゃんこを着込んでいる。

 男の子も青い木綿絣にちゃんちゃんこ姿だ。ひょっとしたら蛭川村のどこぞの子供かもしれないと考えた。

「誰?」もう1度尋ねてみる。

 男の子はじっと少女を見たまま「お前こそ誰だ」と居丈高に言う。その声に圧倒されて、少女はここまで来た訳を話す。

「お前は正直でよい」男の子は子供らしからぬ表情でにこりと笑う。

 次にぬっと手を突き出す。いつの間にか木の椀が握られている。

「川に行って、水を汲んで来い」横柄な言い方だが、少女は恭しく椀を押し頂くと、小川まで走って水を汲んでくる。

 いつの間にか、祠の前に石を積み上げただけの炉が出来上がっている。その上に土鍋がかかっている。

「水を入れろ」男の子の命令に、少女は椀の水を入れる。椀の大きさは茶碗ぐらい。土鍋はその数倍の大きさ。土鍋の中には豆が6分ほどはいっている。

 少女は命ぜられたまま水をいれる。驚いたことに椀の中の水はなかなか減らない。土鍋の中には8分ほど水が入っている。

 不思議だと思っていると、火を点けもしないのに、炉の中に木の枝が入って,威勢よく火が燃えだす。

・・・岩山の神様かも知れない・・・少女は敬虔な気持ちで男の子を見る。

「疲れたろう、椀の水を飲んで、祠の中で休め」

 少女は言われるままに水を飲み、祠に入ると、深い眠りに落ちる。


・・・あれは夢だったのかなあ・・・とてつもなく長い人生を送っていったのだわ。夢のようで夢でないような・・・。

 ハッとして値が覚めると、相変わらず祠の中で寝ていた。

岩山の麓に着いたのは、まだお日様が天の真ん中に登りきってはいなかったころだった。

 目が覚めて外に出ると,おひさまは相変わらず天の真ん中にあった。

 土鍋は蓋がない。豆がぐつぐつ煮えて湯気がたっている。目の前に椀がそのまま置いてある。そばに木の杓がある。

・・・豆を食え・・・

 どこからか男の子の声がする。姿は見えない。

 少女は祠を出ると、豆を食う。土鍋の中の豆は5~6人分の量があるはずなのに、椀の中に入れると空になってしまった。同時に炉の火も消えてしまった。

 木の枝を折って箸にして豆を食べる。食べ終わると少女は小川に行って、椀と杓をきれいに洗って祠の前に置く。

 帰ろうかどうかと戸惑っていると、

・・・もう帰れ、俺に会ったことは人に話してもよい。だが夢の中のことは誰にも喋るな・・・

 少女は祠に向かって深々と一礼する。頭を上げると、置いたはずの椀と杓が消えている。

 その場を立ち去ろうとしたとき、

「お前の望みを1つだけ叶えてやろう」

・・・体を丈夫にしてほしい・・・少女は心の中で叫ぶ。


 老婆は述懐する。

彼女は小さいころから体が弱くて寝込んだりして、家族を困らせていた。

「あれ以来、わしは一度も寝込んだことはない」

 今はもう90に手が届こうしている。元気かくしゃくとはわしのことをいうのだろう。子供たちの世話にもならず、こうした1人で生きていける。有難い事だで・・・。

「で、寝たときに見た夢はどんな・・・」

 関根はせき込んで聞く。

 老婆は天井に目を泳がせる。白い髪をかきなぜる。目尻の皺が深い。

隠里・・・と言っておこうかな。あとは言えん。岩山の神様との約束だからな。


 関根は岩寿温泉の元“おかみ”に一礼をしてその場を去る。岩山の麓まで行ってみたいがと打ち明けて道順を聞いている。老婆は快く教えてくれた。車を広場に置いて歩くことにする。腕時計を見ると午前11時頃。岩山の麓まで約3キロ。徒歩で1持間とみる。

 道らしき道は岩寿温泉跡までで、岩山までの道はない。灌木の中を、枝をかき分けて歩く。関根は長い間肉体労働に従事してきている。老いたとはいえ、体力には自信がある。

 老婆の話が作り話だったとしても後悔はしない。

隠里がないと考えるのが普通である。要は老婆の話の舞台に行ってみたい。ただそれだけである。

 彼は読書を唯一の楽しみとしている。好きな酒を飲みながら活字を追う。小説になった舞台を見聞してみよう。仕事から離れた今、それが楽しみとなっている。

 道なき道を歩く。小一時間もあれば到着すると考えていたが、腕時計はもうすく正午を指そうとしている。木の枝が低くて歩きにくい。足元はゴツゴツした岩肌に、絨毯のような草木が生い茂っている。

 樹木がまばらになってきた。前のほうが少し明るくなってきた。小川のせせらぎの音が聞こえる。

…もうすぐだ…と思う間もなく、灌木の林から抜け出た。小川が白い泡を立てて流れている。遥か前方にこんもりとした山が見える。

・・・あれが岩山・・・

 その麓と思しき場所に、大小さまざまな岩が露出している。

 祠はあるのかな。期待しつつ歩くものの、それらしきものは見当たらない。失望するが、そんなもの期待するほうがおかしいと思いなおす。

 露出した岩々は、岩山に入るのを阻止してるかのように見える。


 4月というのに、この辺りは、まだ肌寒い。1時間ばかりの歩行に体中がホカホカしている。空気は冷たいがうまい。

 来てよかった。岩寿温泉の老婆の話も、舞台となった場所に実際に来てみると、想像力が現実味を帯びてくる。岩山、それは神々が住まう神籬ひもろぎなのだ。

 関根は敬虔な気持ちにうたれる。深々と頭を下げる。柏手を打つ。もう1度頭を下げる。

 顔を上げて関根は声ならぬ声を上げて身震いする。目の前に祠が出現していたのだ。これこそ神の御業。

 関根はおそれかしこみ、膝をつく。拝跪して改めて拝む。

 祠は老婆の言葉通り、1坪ほどの粗末な板造りである。屋根は茅葺で神々しさはどこにもない。それでも神の社と見た関根は合掌して瞑目する。

 とみると祠の観音開きの入り口が開く。その中から1人の男の子が現れる。老婆の話した明治、大正時代の着物とは違う。紺のズボンに白のカラーの長袖シャツ。いかにも現在風で、髪も3分刈りである。運動靴を履いている。どこから見ても“今”の子供である。

 子供は、しかし子供らしからぬ鋭い視線を関根に投げかけている。

「お前は誰だ!」

子供とは思えぬ横柄な態度だ。

 関根は正座したまま、自分は何者で、ここに来た理由を素直に述べる。

「お前は正直でよい」子供はにこりと笑う。いつの間にか手には木の椀が握られている。

「川へ行って、水を汲んで来い」椀を関根に渡す。

 関根は恭しく押し頂くと小走りでかけだす。

 椀は欅か白樺らしい。かなり固い。鋭い刃物で外側を椀の形に削り落としている。内側は機械で削ったようにすべすべして丸みを帯びている。大きさは茶碗程度。

 関根は小川で椀に水を汲み、こぼれないように祠の前まで持ち帰る。

 祠の前には石を積み上げただけの炉と、その上に土鍋が載っている。すべて老婆の話通りだ。

「土鍋の中に水を入れろ」子供の声。

 土鍋の中には豆が入っている。5~6人分の量がある。土鍋の中にたっぷりと水を入れる。不思議なことに椀の中の水は少しも減らない。

 土鍋に水を入れたとたん、火を点けたわけでもないのに、炉の中の薪が、パチパチと音を立てて燃え上がる。

「疲れたろう。椀の水を飲んで祠の中で休め」

 関根は言われるままに、祠の前でスニーカーを脱いで祠の中に入る。椀の水をぐいっと飲み干す。甘い香りが口いっぱいに広がる。

 急に体中の力が抜ける。立っていることができない。その場にへたり込む。

 観音開きの戸がパタンと閉じる。急に室内が明るくなる。1坪の程の広さの粗末な部屋がぐんぐんと広がっていく。狭いと思った部屋の空間が無限に広がっていくのだ。灯りもないのに、まばゆいばかりに輝いていく。目を開けておれない。関根はその場に伸びるように横になる。


 瞼の裏が真っ白だ。体が軽い。宙に吸い上げられていくようだ。細胞1つ1つが分解していくようで、自分の意識が消えていく。


 「あなた、もうすぐサービスエリアですよ。起きて」肩をゆすられて、ハッとして目を覚ます。

「俺はずっと寝ていたのか」

「いえ、ほんの30分くらいですわ」妻の花江がハンドルを操りながら答える。

・・・たった30分か・・・

 長い夢を見ていたような気がする。知多半島の半田の地に生まれて、両親の死後、烏根の地に家を建てて、肉体労働で日々の糧を得て過ごして、人生の半生を送った。

 気の遠くなるような長い人生だった。ただの夢ではない。暑さ、寒さ、ひもじさ、苦しさなどが身に染みて五感に伝わってくる。今でもはっきりと思い出す。

・・・そうか、夢だったのか・・・

 関根洋二は助手席で背伸びする。

 関根夫妻の乗った白のクラウンは中央自動車の駒ヶ岳サービスエリアに入ろうとしている。関根洋二35歳、妻花江30歳。

 2人の住まいは恵那市、関根は東京の大学を卒業後、生まれ故郷の恵那市に戻り、物流センターの会社に就職している。この会社には父の縁故で入っている。妻とは熱烈な恋愛の末、駆け落ち同様で夫婦生活に入っている。

 今日は妻の実家の長野県岡谷市に行く予定である。岡谷市は東に諏訪湖に接している。


 駒ヶ岳サービスエリアの食堂でコーヒータイムを摂る。妻の実家まで車で飛ばせば40分くらい。中央自動車道が開通する前までは車で2時間くらいかかった。

 関根は不思議そうな顔で妻を見ている。丸顔で取り立てて美人というほどではない。笑うと愛嬌がある。包容力があり、仕事の悩みなどを真剣に聞いてくれる。物の考え方が前向きだ明るい。

 一方の関根はというと、父の縁故で就職したとは言うものの、残業が多くて帰宅時間が遅い。まじめでコツコツ仕上げていくタイプだ。派手さはない。グレーの背広にノーネクタイ。妻は短い髪にベージュのジャケットを着込んでいる。

「ねえ、どうしたの?」コーヒーカップを手にしながら、妻は怪訝そうな顔をする。

「お前の父さんの話、またいつものだろうな」

 関根はガラス窓超しから外の景色を見る。

・・・今の会社を辞めて、うちの後を継がないか・・・というものだ。


 関根が勤務している会社は運送会社である。彼の仕事は注文を受けた配達を手配する配送の連絡と事務処理。

 恵那市では中堅だが、全国規模の大手から見れば中小クラスの運送屋にしか過ぎない。人手不足と人件費節約のために、夜9時、10時までの仕事は日常茶飯事。

 1年前に過労で倒れて1週間の入院生活を送っている。原因不明の高熱が続いた。病院の担当医が匙を投げる程の難病だった。妻が死を覚悟したほどだった。

 以上のこともあって、妻の実家からこっちへ来いと誘いを受けている。

 関根は次男なので、父の仕事は長男が後を継いでいる。入り婿ようになるが、岡谷市に行ってもよいとの両親の了解も受けている。

 妻の花江も関根を連れて連れて実家に乗り込む。事あるごとに夫を口説いてきている。

 結婚して5年目になるが、子供はまだいない。

「あなたが忙しすぎるからよ」妻は子供のいない理由を仕事の所為にしている。関根は反論しない。

 仕事が終わって家に帰ったときはぐったりしている。風呂や食事もそこそこにベッドに潜って寝てしまう。そんな毎日が続いている。


 「ねえ、あなた、今日の話、いいわね」

関根より年下なのに姉さん女房気取りだ。家庭では関根をリードしている。関根は黙ってうなずく。コーヒーをぐっと喉に押し込む。


 妻の実家は岡谷市でも素封家と知られている。江戸時代の中期から続く造り酒屋である。昨今の地酒ブームで着実に売り上げを伸ばしている。岡谷市、諏訪市、伊那市に料理店を経営し、着実な発展を見込んでいる。

 妻の花江は1人娘である。入り婿をの望んでいたが、関根と熱烈な恋愛に陥り、家を飛び出して、関根のもとに転がり込んで、そのまま夫婦生活を送ってしまった。

 結婚生活も5年もすると、ものの考え方が現実的になる。妻の実家から帰ってこいとの矢の催促である。

1週間に一度は妻の母が訪ねてくる。夫の関根の給料だけでは生活は楽ではない。それに関根は仕事に追われて、妻と2人で過ごす時間はほとんどない。過労で体力の消耗が激しい。

 問題なのは関根が造り酒屋のことは何も知らないことだ。

 花江の父、岡島家の当主は現場の仕事を覚える必要はない。将来は経営者になって岡島家の当主として腕を振るってほしいといわれている。

・・・自分にそんなことができるだろうか・・・関根には不安があったが、妻のたっての願いに引き受けることにした。

 それから2年がたつ。2人の間には待望の子宝にも恵まれた。関根の経理の腕を買われて、岡島家の酒屋や料理店は順調な伸びを見せた。

 関根も岡島家の当主も驚いたのは、花江の働きぶりだった。子供を抱えながら、実父について、経営者としての頭角を現し始めた。血筋というものもあろうか、経営者の才能に恵まれ、岡島家になくてはならぬ人材となる。


 関根洋二が死んだのは平成10年の春のことだ。岡島家に来て6年目のこと。このわずかな間に、岡島家は得難い宝を2つ得ている。1つは関根夫妻の間にできた子供、もう1つは妻の花江が、実父を上回るほどの経営者としての才覚に恵まれていたことだ。


 「私は死ぬとき、妻から不思議な話を聞かされていました」


 関根洋二は当時を思い出すように、ゆっくりと喋っている。

 平成3年の春に、関根は死ぬほどの大病をしている。この時、妻の花江は岩寿温泉の奥にある岩山までおもむき、岩山に向かって願かけをしている。

・・・夫を助けてくれたら、私の命を捧げてもよい・・・


 岩山は隠里伝説で知られている。隠里とは当然この世のことではない。あの世の神々の住まう世界である。岩山という、一見変哲もないところだが、ここは神々の住まう世界というのだ。

 しかも、花江の実家、岡島家が造り酒屋を始めるきっかけとなったのは、ご先祖様がこの地で、神様から煮豆をふるまわれて、酒を造れよとの神託を得ていたからだ。

 爾来、岡島家は年の末に岩山にお参りに来て、お酒を大地にそそぐのを習わしにしてきている。


・・・花江の言うには・・・関根は童顔らしからぬ大人びた口調で語っている。

 岩山の麓で祈っていると、急に祠と子供が現れた。椀を出して、川から水を汲んで来いという。いわれたまま水を汲んでくると、マッチもないのに土鍋を載せた炉の中で、炎が赤々と燃えている。

 祠の中で休めというので、椀の水を飲んで横になると、神様の声がする。お前の夫を7年生きながらさせてやろう。子供も恵んでやろうという。

 それから夢を見た。私とあなたが岡島の家に帰り、子供ができる。岡島の家が繁盛する。あなたが死ぬ。

 はっと目が覚めると、まだ豆がぐつぐつ煮えている最中。今見た夢はお前の夫の死の間際に話せ。他の者には話すな。

 これは正夢に違いない・・・ありがたさに涙がこぼれた。


 私は花江から話を聞いたとき、ぱっと目が覚めた。6年間という長いようで短い夢でした。

 でも、岩寿温泉のおばあちゃんや、花江が言うように、豆がぐつぐつ煮えている短い時間です。

 私が岩山に来て、夢から覚めるまで1時間もかかっていません。

 私が夢から覚めると同時に、夢の中のもう1人の私は死んだのです。不思議な話です。

 私はしばらくの間、祠の中で呆然としていました。夢とはいえ余りにも生々しいのです。夢の中の世界が現実で、今の自分が夢の中にいるのではないかと、錯覚しそうでした。

 夢を見る前の自分と、見た後に自分が別人のような感じなのです。夢の中のもう1人の私の霊が憑依しているような、なんとも生々しいい感覚が、私の全身にあふれているのです。


 関根洋二は気を取り直して祠を出る。67歳という歳である。頑強な体とはいえ、老齢の域に入っている。体が鉛のように重い。よろけるように祠の外に出る。

「豆を食え」子供の声がする。姿は見えない。

 土鍋の中から杓ですくって椀に豆を入れる。食べると甘い香りがする。体中に精気がみなぎってくる。体から重しが取れたように軽い。

 いつの間にか、土鍋や炉が消えている。杓もない。椀だけが手にある。これは祠の中に返しておくべきものだった。

・・・夢の中のこと、他言は無用の声が響く。

 関根の心に邪念が生じる。この椀は不思議な力を持っている。宝物として貰っておこう。関根は後ろめたさに背後に聳える岩山を見ずに、一目散に岩寿温泉の駐車場まで駆ける。老婆に会っていこうと思ったが、椀を手にしている。もし見られたらまずいと考えた。何も考えずに岩寿温泉を後にする。


 恵那インターまで来たとき、夢の中のもう1人の自分の生家や、彼が勤務していた会社も見たくなった。

夢といっても、ただの夢ではない。生家も勤務先も細部に至るまで脳裏に焼き付いている。

 関根の生家は恵那市の郊外。中央自動車道、恵那峡サービスエリアの下にある。タオル製造と卸を業としている。ここ岐阜と長野、山梨方面は温泉場が多い。温泉場には入浴客の利便のために、温泉場のネーム入りのタオルを無償配布している。その製造を引き受けて,おろしていたのである。

 業としては利幅が薄いので、朝7時から夕方6時まで家族総出で精を出す。季節によっては多忙になる。その時は近所の主婦をパートとして使う。今は両親と兄の3人で精を出している。

 家は郊外の高台にある。関根タオル工場は恵那峡サービスエリアからも見える。3百坪の敷地にスレートの50坪の工場と40坪の自宅がある。

 関根は関根タオル工場の駐車場に車を止める。懐かしさに涙がこぼれる。この感情に湧き方は夢の中のもう1人の関根である。家族の顔が見たいと思って自宅の玄関のチャイムを押す。反応がない。

 仕方なく関根タオル工場の下にある民家の玄関を開ける。昔から顔なじみだった。

「今日は皆さん、岡谷市に葬式に行ってますよ。弟さんの洋二さんが亡くなられたので」という返事だった。

 関根はハッとする。

・・・そうか、今日は葬式だったのか・・・

 夢ではない。すべて現実なのだ。また寄ることもあろう。関根は心惹かれる思いで関根タオル工場を後にする。

 次に行くところは恵那物流センター。数年前まで関根が働いていた会社だ。関根タオルは商品の配送をここに依頼している。この関係で関根が就職している。 

 関根洋二は22歳で大学を卒業後、そのまま東京の商社で働く。職場で妻の花江と知り合う。花江の両親の猛反対を押し切り、駆け落ち同然の姿で中津川に引っ越す。関根は父の縁故を得て、物流センターで働く。

 恵那物流センターは恵那市の中津川の丁度中間に位置する。、大型トラック10台、市内配送用の小型貨物20台を有する、この地方では中堅にクラスの会社である。

 千坪ほどの敷地に配送用の倉庫、それに敷地の片隅に2階建ての事務所がある。1階は受付、2階が事務室である。関根は受付に入る。

「いらっしゃいませ」若い女性が元気な声をかける。

「あの・・・」関根は口ごもる・・・本田君・・・思わず声をかけるところだった。

 受付の奥に等身大の鏡がある。社長の業務命令で、配送の運転手は、服装をきちんとしていることと、常に言われている。配送に出かける前に、鏡の前で自らの服装をチェックする。

 その鏡に関根の姿が映っている。大柄で作業服を着た白髪で大きな目の男だ。

「ご用は何でしょう」受付の女性はにこやかに対応する。

「いや、実は道に迷ったもんだから・・・」とっさの作り話でその場を切り抜ける。


 車に乗り、また恵那市に戻る。喫茶店でコーヒーを飲む。腕時計を見ると午後2時半である。

 自分の心の中にもう1人の関根が住み着いている。彼から見れば生家も元勤務先も懐かしい。だが本来の関根から見れば、彼はただの赤の他人に過ぎない。

・・・どうしょうか、このまま半田の家に帰ろうか・・・逡巡するが、もう1人の関根は妻に会いたいと訴えている。

・・・あったところで、本人とは名乗れんぞ・・・

 一目見るだけでいい、それで満足だ、是非会いたい。


 関根洋二は車を恵那インターから中央自動車道の北に入れる。一路岡谷市をひた走る。

 岡谷インターで降りる。岡谷市内の西のはずれ横河川沿いに岡島家はある。百メートルほど離れたところに酒造りの工場がある。工場とは言うものの、築百年は経つ酒蔵が幾層も並んでいる。

 この一帯は酒造りに適した水が湧き出している。

 岡島家は20年前に建て替えしている。2百坪の邸宅である。道路の反対側に駐車場がある。市街地の中とはいえ、この一帯は岡島家の所有地である。

 邸宅の周囲は黒塀が延々と続いている。正面は冠木門となっている。忌中のの張り紙が出されて、扉があけ放しになっている。三々五々、弔問客が訪れている。

 忌中の紙には、通夜は翌日の夕方6時から、告別式はその翌日の午前11時からとなっている。

 関根は作業服のまま、弔問客に交じって冠木門をくぐる。町内の人々が主のようである。玄関まで約10メートル、石畳の歩道を進む。黒塀と屋敷の間は庭となっている。大小さまざまな庭石や池がある。

 玄関は3畳の広さがある。靴を脱いで上がり框を上がる。家の南側は2間幅の広縁となっている。広縁の奥は8帖と10帖の和室が8部屋ある。一番西の8帖と10帖の和室に通される。そこは書院造りの部屋で、床の間や仏間、神棚が並んでいる。北の奥の8帖の間に寝具に包まれた“ほとけさま”が置かれている。北枕にはお線香の煙が立ち上っている。

 弔問客の1人1人がほとけさまの顔を拝みながら両手を合わせる。関根の番となる。どのような服装であろうとも、見知らぬ者であろうとも誰も怪しまない。

 ほとけさまの死に化粧は、夢の中の関根洋二である。一方の両手を合わせる関根の肉体の中にもう1人の関根の霊魂が宿っている。今、彼の感情は激しく揺れている。

“自分の亡骸”と対面して、感極まって涙を流している。

 枕元には妻の花江が4歳になる“自分の息子”を膝に抱いている。

“花江”と思わず叫ぶところだった。その気持ちをぐっと抑える。

“ほとけさま”への焼香が終わる。

 関根は花江のほうに向きなおる。

「この度はご愁傷様で・・・」型通りの挨拶をする。

「自分は亡き洋二氏と浅からぬ縁があって・・・」と花江の顔を見る。ついては、洋二さんのことについて一言申し上げたいことがあるので、別の場所をお借りして、お話申し上げたいが・・・、と丁寧な口調で申し入れする。

 花江の表情には不審の念はない。夫の事で話をしたいと言われて、関心のある目つきで関根を見る。

「どうぞ、こちらへ」

 花江は子供を立たせて、和室の北の襖を開ける。関根を手で招くと襖を閉める。そこは幅1間の廊下で、西の奥に20帖の洋室がある。関根と花江の夫婦の部屋だった、ダブルベッドがある。鏡台やテレビ、ソファがある。

「どうぞ」花江は関根にソファに腰を下ろすように促す。花江は一方にソファな子供とともに腰下ろす。

 愁眉を開いた花江の丸い顔はつやがない。黒いブラウスがわびしさ鵜を際立たせている。関根を直視して、背骨をピンと伸ばしている。

 関根は大きな目で花江を眺めている。

「主人のことで何か・・・」花江が口を切る。

「花江・・・」関根の口から声が漏れる。

 花江は目を大きく見開き、瞬きもせずに、化石になったように関根を見ている。

「僕だよ。洋二だよ」関根は身を乗り出して懐かしげに言う。

 しばらく沈黙の後。

・・・あなた・・・花江の口から、わずかな呟きが漏れる。

・・・そんなバカなことが・・・。花江の表情には戸惑いが見える。

 関根はここぞとばかりに、堰を切ったように喋りだす。

 岩山の事、祠の中で夢を見たこと。夢の中の出来事を事細かに述べていく。彼の眼は花江にもたれ掛かっている、おかっぱ頭の子供にもそそがれる。

・・・研一・・・抱きしめたい気持ちを抑えている。

はじめ、子供はおびえた顔で関根を見ていたが、関根の話が一段落すると、炯々とした目つきに変わる。燃えるような視線を関根に送る。

・・・夢の事、他言無用・・・

 子供は憤怒の表情をあらわにしている。口は一文字の閉じたままだ。声だけが関根の脳内に響いてくる。

「あっ!」関根が叫ぶ。

 その瞬間、目の前が暗くなる。肉体のすべての感覚が消えていく。意識だけが鮮明だ。

 関根洋二という2人の人生が走馬灯のように色鮮やかに表れては消えていく。

 やがて意識も遠のいて、深い眠りに落ちていく。


 北の方にこんもりとした山が聳え立つ。岩山だ。その麓には露出した岩肌が群れをなしている。

 目の前に祠がある。石を積み上げただけの炉の上に、土鍋がかかっている。その中に豆がぐつぐつと煮えている。

 関根は草むらの中に、どっしりと胡坐をかいている。手にしているのは白樺の丸太を輪切りにした木材だ。彼の目の前には木の椀がある。祠から失敬したものだ。それを見ながら木片を椀に仕上げていく。

 彼が手にしているのは鋭い切り口を持つ黒い石、黒曜石だ。この石は鋭利な刃物だが、白樺は固い木だ。木片を椀の形に削る作業は鉄の刃物のようにはいかない。

 黒曜石は鋭利だがもろい。少し削るだけで随分と手間ひまがかかる。

・・・慌てることはない。じっくりやれ・・・

 どこからか声がする。手を休めてあたりを見る。光景は以前見たのとほぼ同じ。違うところは岩山の麓の広大な野原のあちこちに、茅葺屋根が点在していることだ。家といっても掘っ建て小屋だ。粗末な造りだ。煙がたなびいている。

季節は春のようだ。野原のあちこちに花が咲いている。人の姿が見える。大人は髭を伸ばし放題。髪も後ろで束ねている。着ているものといえば麻で作った貫頭衣で、藁の帯で腰を縛っている。

 子供がやってくる。裸足で貫頭衣は膝までしかない。

「疲れたか、豆を食え」横柄な態度は以前会ったそのままだ。服装が違うだけだ。

 関根は言われるままに、目の前の椀に豆を入れて食べる。改めて子供の顔を見る。

 目は炯々として光輝いている。

「お前は罪を犯した。その償いをせねばならない」

 その罪とは、無断で椀を持ち出したこと、夢の中の出来事を人に話したこと。

 相手は子供とはいえ、圧倒するような迫力がある。関根は拝跪して拝聴するのみ。


 「この時、私は隠里伝説の謂れを初めて知りました」関根の童顔から涙があふれる。

 彼は妻花江に夢の中の出来事を語った。他言無用という神々との約束を破った。その罰として、隠里で、彼は黒曜石で椀を仕上げねばならない。黒曜石の刃はボロボロと欠けやすい。

 隠里は空の上にあるのではない。現実の岩山の麓、そこにそのままの姿で存在していた。隠里の住人=神々からは現実の関根たちの世界はよく見える。関根の眼には何も見えない。彼らは彼らが過ごした時代の服装や風俗そのままの姿で暮らしている。

 彼らは物は作らない。欲しければ想像するだけで出現する。彼らの世界が出現するのは、岩山の麓の彼らの移住する場所のみである。そこが彼らの世界のすべてである。


 現界・・・人間の世界では悪事を働いても逃げ隠れすることができますが、神々の世界では絶対にできません。罪の報いは必ずやらねばなりません。でもそれは神々の慈愛なのです。罪を償うことで、身の汚れをはらいます。


 関根は来る日も来る日も椀造りに励むのである。黒曜石の産地として諏訪大社の北奥に位置する和田村付近が有名である。だがここは隠里=神々の国である。必要とあれば、鉄であろうと鋳物であろうと、思うだけで出現する。それをあえて黒曜石にこだわるのは、1つのことに打ち込む大切さを関根に教えているのである。

 関根は頑丈な体で肉体労働で過ごしてきている。1つのことに打ち込むのに慣れている。ただしそれは道路工事や運搬仕事などの、体全部を使う仕事である。

 今、関根は両手にすっぽりと収まるほどの大きさの椀造りに打ち込んでいる。ほとんど手先だけの作業だ。前かがみで作業するので背中が痛くなる。肩が凝る。

 それでも関根は懸命だ。椀を盗んだという罪悪感から解消されたい。その気持ちでいっぱいなのだ。 

 黒曜石はもろい。作業は遅々として進まない。白樺の木は堅い。1週間、2週間と経つうちに、なんとなく椀の形になる。

「目の前に置いてある椀と同じ形にするために、3か月くらいかかったでしょうか」

 とうとうある日、盗んだ椀と寸分たがわぬ形になった。

・・・やった!・・・全身の力が抜けるのを感じる。

 小さいものだが、丹精込めて作り上げた。昔,仏師は仏像を一刀彫る度に合掌してお経を唱えたという。

それだけの気持ちを込めてこそ、完成した物に魂が宿る。

 しばらくの間関根は、椀を抱きしめて黙想する。

 ふと、目を開ける。目も前に置いてあった椀が消えている。両手に握りしめている椀をじっと見つめてみる。自分が丹精込めて作り上げたものではない。消えたはずの椀が手の中にあるのだ。

・・・俺が作った椀は・・・慌てて周りを見回す。

 その瞬間関根は雷に打たれたような衝撃を受ける。気を失いその場に倒れる。


 関根が正気に戻ったのは彼の車の中である。運転席のシートにもたれたまま、彼は深い眠りから覚める。ぐっすりと眠っていたせいか気分はさわやかである。 

・・・ここは?・・・身を起こして辺りを見る。

 岩寿温泉の駐車場にいた。秋の気配が濃いのか、周りの山の樹木が紅葉に色づいている。

風が吹くたびに枯れ葉が舞う。アスファルトの駐車場も枯れ葉が積もっている。車のフロントガラスにも枯れ葉がこびりついている。

 一見して荒れ果てた景色だ。

 関根は慌てて車から降りる。道路から車輪の跡が消えて久しいことがわかる。草木が我が物顔に支配しようとしている。

 岩寿温泉の中に入ってみる。2階建ての家や湯殿の壁につる草が張っている。2階建ての建物の裏手に回る。勝手口は開け放しのままだ。中を覗くと枯れ葉や草が一杯で、荒れ放題に荒れている。

 関根は呆然と突っ立つままだ。思い直して腕時計を見る。彼の時計は電池時計だ。5年は持つ。デジタル式で年月日も出る。

・・・平成15年11月8日、午後4時5分・・・

 関根は愕然とする。ここに来たのは平成12年の春だ。岩山の麓に行き、椀を作ったのは大体3か月。

 なのに3年が経っている。

 関根は慌てて車に戻る。とにかくここを出よう。エンジンをかけるがウンともスンともいわない。バックミラー見て、2度愕然とする。

 そこに写っていたのは、まだ16~7の子供の顔であった。両手で顔を覆う。

「外見だけが若くなりました。でも中身は70歳の老人です」

 関根は車を捨てて,博石館まで歩く。体は飛ぶように軽い。速足で歩いても息も切れない。

 博石館で食事をとる。幸い車で来ていた観光客の中に、名古屋からの人もいた。車が故障している事情を話して、名古屋インターまで乗せてもらう事が出来た。

 名古屋インターで降ろしてもらい、インター近くの地下鉄上社駅から名鉄名古屋駅に向かう。

自宅に到着したのは夜中だった。3年間留守にしていたが,玄関のカギは身に着けている。家の中で盗まれるものは何もない。


 「しかし、それからが大変でしたね・・・」

 関根洋二の家に見知らぬ男が入り込んでいる。警察に事情聴収されるやら、家を追いだされるやらで手ひどい目にあった。

 だが、どうせ空き家だからということで、関根洋二の兄から,当分の間居座ることが許された。


 関根は童顔を綻ばせていう。その仕草はどう見ても70過ぎの年寄りだ。

「これからどうするのか」

 私の質問に、

「いつまでもここに居られまい。そろそろ帰ろうかとおもいます」

「帰るってどこへ・・・」

「岩山です。岩寿温泉で余生を過ごそうかと思っています」


 話を聞き終わって、私が帰ろうと玄関口を開けると、

「そうそう、岩寿温泉のおばあちゃんね、10年前に亡くなっていたそうです。温泉もそれ以来店を閉じたままだそうです」

「えっ!」私が振り返ると、関根はにやりと笑い、玄関引き戸をバタンと閉めた。


                               ーー 完 ーー


  お願い・・・この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織は現実の個人、団体、組識等と一切関係ありません。

 なおこの小説に登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の情景ではありません。


 

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