01 金持ち学校は昼食代も高かった
お金持ち貴族や商人の子どもたちだけが通う、煌びやかな学園の校舎の片隅にある小さなベンチに、黒い綿が三つ並んでいた。その綿は『ミー、ミー』と楽しそう鳴きながら、小さな足を動かして右へ左へ転がりながら移動している。姿が黒い綿でなければ、小さな子供たちがコロコロと転がって遊んでいるように見えただろう。
しかし、通路から見える位置でそんなことが起きていても、誰もベンチの上の綿を気にしない。視界にすら入っていなかった。一般人に彼らは見えないからだ。
――そんなベンチの前に一人の少年が立つ。
「どいて。黒モフ」
小柄な少年が、小さくそう言いながら黒い綿を手で祓おうとすると、彼らは『ミミミー!』と悲鳴とも歓声とも言えない声を上げて逃げ出していった。ベンチの上は一気に静かになる。
邪魔な存在がいなくなりベンチに座った少年は、眩しいくらいの晴天を見上げて深くため息をついた。
(……はぁ。遊んでいるところで悪かったけど、今はちょっとあいつら見てる気分じゃないな)
灰色の髪に猫の目のような黒い瞳の少年――グレン。
彼は少々幼い顔立ちしているにも関わらず、その表情はとても複雑でギャップを感じさせた。幼くして将来を憂いているのか、一生を決めるような大きな悩みを抱えているのか――そんな風に見えてしまう。
だがしかし――。
「…………腹減った」
グレンの“深刻な悩み”は、なり続ける腹の虫と、空腹でグラグラと揺れる頭だった。
時刻はあと少しで午後からの授業が始まるころ。普通の生徒なら学園の上品な食堂で、上流階級御用達の一流のシェフが作った昼食を食べて満足している頃だった。
けれど、彼にはそうできない理由があった。
「なんで寮費に、昼食代が入ってないんだよ……!」
グレンは入学二日目にして生活に困っていた。
“上流階級であっても金銭感覚を学ぶ必要がある”という良くわからない学園の方針により、この学園――ガルディウス魔術学園では昼食は提供式ではなく、個人で購入して取る形式をとっていた。そのため昼食代は自腹である。食堂よりも安価な購買も併設されているので、そこで軽食を買うというのも手ではあるが、一番安いサンドウィッチでも三千Rする。ちなみに、朝食と夕食は学生寮で提供されるため問題なかった。
グレンは自分の薄っぺらい財布(巾着)を開いた。中に入っているのは九千二百R。彼のなけなしのお小遣いだが、サンドウィッチ三つ分である。小柄な割によく食べる彼には一食分にもならない。九千二百Rというと一般庶民なら、贅沢をしなければこれで一カ月間昼食をどうにかできるくらいの金額だ。
「あのおっさん……なんで昼食のこと言わなかったんだよ……! 言っててくれれば対応策を考えておいたのに」
グレンは髭面の男を思い出した。本来なら『おっさん』や『髭面の男』などと口が裂けても言えない相手だが、今は誰もいないので自由だ。思う存分に悪態がつける。だが散々文句を言ってから気づいた。
「……まあ、そもそも『昼食が高くて食べられない』って発想自体がないかもな……一応ウチも貴族の端くれだし」
髭面の男なら昼食代に困る貴族が存在すること自体理解できないだろう。けれど実際グレンの家は貴族ではあるものの、父親が男爵の爵位を持っているだけだ。またとある事情から一般庶民とさして変わらない金銭感覚と生活水準である。爵位をもつ貴族視線でいえば、貧乏貴族といわれても反論できない。とはいえそのことについて怒りや悲しみを覚えたことはない。
そもそも本来なら入学金も授業料もバカ高いガルディウス魔術学園になんてグレンが入れるわけがなかった。
彼がこの学園に来たのは、その髭面の男から依頼を受けて、ある人物に近づくためだった。
「仕方ない、あいつらのためにも頑張るか!」
グレンは可愛い弟妹を思い浮かべて、今は空腹に目を瞑った。いずれはどうにかしなくてはいけないが、今は午後の授業で腹がならないように注意することへ集中すべきだ。
「さてと、もどるか……って、ん? ……黒モフが集まってる」
グレンがベンチから立ち上がって教室に戻ろうとすると、黒い綿――通称『黒モフ』が宙を舞いながら校舎の一角へ集まっているのが見えた。行先を見れば黒モフ同士がくっつきかなり大きな塊が出来上がっているのが分かった。
「……なんか量が多いな……一応見ておくか」
授業開始の時間が迫っているため多少悩んだものの、グレンは黒モフの集まっている場所へ近づいた。彼が集合地点に近づくと近寄っていた黒モフたちは、『ミーミー』と鳴きながらサーっと引いて行く。手を振ってそれをもっと他所へやりながら目的の場所に近づくと、予想通り人がいた。
(制服からして、男……男子生徒か? あーなんか悩みか、ヤバいこと考えてるな……)
グレンの位置からは男子生徒はベンチに座って伏せているので何をしているかは分からない。けれど彼にはその男子生徒の心理状態があまりよくない状況にあることが察せられた。何故なら彼の頭や顔に黒モフがびっしりくっ付いているからである。
黒モフはグレンから見て『ミーミー』と鳴く可愛らしい存在に見える。――だが、一般人が黒モフを沢山つけている場合、精神的にひどく追い詰められているか、他人を陥れようと悪だくみをしているか、この二択にほぼ限られる。どちらかは人によりけりだ。
そして一度人に貼りついた黒モフは簡単には離れない。貼りつかれた本人にもどうにかするのはとても難しい。見えないから当然だろう。またグレンも近づいたくらいでは、どうにもできない。
(…………まあ、こんなところですごい悪いこと考えているとは思えないし、とりあえず様子を伺ってみるか)
グレンはわざと足元にあった枝を蹴り飛ばした。
「だれ、だ?」
男子生徒は足音に気づいて振り向いた――が、表情は黒モフに覆われてグレンには全く分からなかった。一体誰なのかさえも理解できない状態である。けれど向こうはこちらが直ぐにわかったらしい。
「……カ、カースティン、くん……なんでこんなところに?」
『カースティン』という名に一瞬固まってしまったが、すぐに「あ、オレのことだ」と気づいてグレンは笑顔を浮かべた。カースティン伯爵家の息子――それがいまグレンの肩書だ。
「え、あー背中が見えたから? 授業はじまるのにな、って思ってさ」
有名人でもない一般生徒であるグレンの苗字を知っていることを考えると、男子生徒は同じクラスなのかもしれない。だが、入学して数日しか経っていないので声では判断できないし、そもそも顔が見えないので適当に話を合わせるしかなかった。
「……入学したばかりだっていうのに、気に掛けてくれるなんて君はやさしいんだね」
黒モフのせいで表情はみえなかったものの、何故か変に聖人扱いされてしまったことに気づいて、グレンはわざとらしく苦笑いを浮かべた。
「悪い。いや~どっちかって言うと、オレの方が助かったんだよ。……実は、教室がどこにあるか分からなくなってさ、ありがとうな」
「……あはは。そういうことか。でも気に掛けてもらえてうれしいよ」
男子生徒は納得がいったかのように笑い声を上げながら立ち上がった。
身長は高い。グレンが小柄だというのもあるが、すこし見上げる必要があるので高い方だろう。制服を気崩していないせいか顔が黒モフで埋まっていても品があるのが分かるし、かなりいいところのご子息様に違いない。同じ貴族だというのに自分とは大違いだなとグレンは思う。
(話してみても、悪いことを考えているような奴には思えないな。……何かの縁だ。ちょっと多いし、お金にはならないけど祓ってやるか)
腕を伸ばして声をかける。
「あ、後ろに葉っぱついてるぞ」
グレンはタイミングをみはかり、わざとらしく声を上げて男子生徒の上の方の背中――黒モフがギリギリ触れる位置を叩いた。
ぶふぉああああ~!
まるで布団から埃が舞い上がるように、男子生徒の顔にへばりついていた黒モフが一斉に跳ねると消えていく。近づいても絶対に離れまい、とよりくっつきを強固にしていた黒モフたちだったが、グレンが少しでも触れた瞬間、連鎖しながらシュワっと空気に溶けていった。
(よしよし、……じゃあな)
グレンは少し寂しく思いながら、空気に消えていく黒モフを見送る。
黒モフはグレンにから逃げていく、当然近寄っても来ない、そしてグレンが触れると消えていく――これが彼が知っている黒モフの生態系である。他は『ミー』と鳴くだとか、動きは小動物のようで可愛いらしいとか、ある程度の知能しかもっていないとか、それ以外はよくわかっていない。
そして同時に――。
「え、本当? ありがとう」
再び男子生徒が振り返った。
今度は赤茶の髪色と、黒縁の眼鏡がはっきりと見える。
「どういたしまして」
――黒モフはグレン以外には見えない。そんな存在があることすら誰も知らない。
彼らはグレンしか感知できないのだ。そのくせ人の心理状態に敏感に反応して集まり、同時に集まったことで影響を与える。心を病んだ者をより病ませて身体にまで影響を及ぼし、悪意のある者の思考をより凶悪にする。見た目とは大違いの影響を与える。
「……ええと、ソーンダイクだったよな?」
「え、うん、そうだけど……」
ようやく顔が見えたことで男子生徒――伯爵家の次男レナード・ソーンダイクの顔がはっきりと見えた。眼鏡が目を引くが、顔立ちがはっきりとしていて女子生徒にモテそうな、クラスの同級生――学級委員長である。
(昨日、学校案内してもらったんだよな)
彼のことはグレンも既に認識していた。なにせ初対面の時から黒モフを大量に付けていたからだ。その時は顔の認識をするために祓ったのだが、結局翌朝(今日)になったらまた付けていたのでほっといた。そして結局今また祓ってしまったのだが。
「ん? なんだよ、意外な顔をして」
「いや、カースティンくんが僕の名前を憶えているとは思わなかったから、昨日の校舎案内も途中で帰ってしまうくらいだし……」
「あ~悪い! 寮の部屋が全然片付いてなかったからさ」
初日は彼の本性がいまいちわからなかったのでちょっと距離を取っていた。案内も途中で切り上げて、さっさと帰ったのだ。悪だくみしている奴だったら、あまり関わり合いになりたくなかったからだ。
(でもこうやって話してみると、いい奴っぽいし。悪いことをしたな)
黒モフでは人を判断してはいけないな、と改めて肝に銘じた。分かっていたことのはずなのに、この学園の浮遊黒モフの多さに警戒しすぎていたのだろう。
「あーっていうか、その「カースティンくん」やめてくれない?」
「え?」
「なんかこう、堅苦しいし。名前で呼んでくれよ「グレン」でいいから」
『カースティン』では反応できないから、という本音はとりあえず隠しておく。その苗字はグレンのモノではなく、この学園へスムーズに入るための借り物だ。
それに学級委員長が名前で呼ぶなら、他のクラスメイトも名前で呼んでくれる確率が上がるだろう。これで呼ばれて気づかないという問題からは回避できる。という打算もグレンにはあった。
「あ……うん。わかった……っと、じゃ僕もレナードでいいよ」
「いいのか? 助かる。ソーンダイクって言いにくくてな」
「……言いにくいかな?」
「ああ、すごく。名前呼ぶのを躊躇うくらい」
「そんなに?」
本気で驚いているらしいソーンダイク――レナードにグレンはニヤリと笑った。その顔を見てからかわれたと分かったのが、少しだけ彼はムスッとした。
察しがいいのは助かるな、と思いつつ「うそうそ、悪い」と宥めておく。
一緒に教室へ向かっていると、レナードが首を傾げていた。
「どうした?」
「いや……さっきまでちょっと胃が痛かったんだけど、今はとてもすっきりした気分になってる気がする……なんでだろう?」
「へえ~不思議だな~」
グレンは「黒モフを祓ったからだな」と思いつつも適当に相槌をうつ。そんな彼の視界の端では廊下に蔓延る黒モフたちが、通る道を空けるように『ミーミー』と鳴きながらサーっと避けていく。
(人が集まるところには黒モフは発生しやすいけど、この学園は特に多すぎるな……どうなってるんだよ)
黒モフが集まるから人がおかしくなるのか、おかしくなるから黒モフが集まるのか、どちらなのかは分かっていない。ただ分かっているのは、グレンが心を病んでいる人の黒モフを祓うと、祓われた人間は気持ちが安定して心が落ち着くということだ。また、身体の不調も治るという。
つまり黒モフが大量発生しているのは、人にとって心身ともに良くないということである。
(オレの目的の人物もどうなっていることやら……)
グレンは勉学に励むためこの学園に入学したわけではない。この、自分にしか見えない黒モフを祓うために、とある人物の依頼によりこの学園にやってきたのだった。ちなみにその依頼者も黒モフの存在自体は知らなかったりする。――否、グレンは自分以外がこの存在を認識しているのを見たことがない。
「……どうなるかな?」
「なにが?」
「あ、いや。午後の授業がさ、どうなるかな~と思って」
「そういえば、この学園での薬草学は初めてだったよね。よかったらノートを貸そうか?」
「え、いや、悪いからいいよ」
「そんなことはないよ。二年生からの入学なんてついて行くのが大変だろうし、頼ってくれて全然かまわないから」
レナードはそう言いながら、笑みを浮かべる。その表情には邪気はないように思えた。
(……こいつあんな風になっていたけど、やっぱり普通にいい奴だな)
二日連続で黒モフを沢山つけていたのを見た時は、どんな風にヤバい奴なのか気になったが、話してみれば普通に気さくなタイプだった。
この学園には依頼で来たし、長居するつもりはなかったので、友人を作らない予定だったが、一人ぐらいなら気安く話せる相手がいた方がいいかもしれないなとグレンは思った。
「じゃあレナード、さっそく頼みがあるんだけどさ」
「何?」
さっそくグレンは新しい友人候補にお菓子を持ってないか尋ねることにした。